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韓国の第14代大統領(1927-2015) ウィキペディアから
金 泳三(キム・ヨンサム、日本語読み:きん えいさん、朝鮮語:김영삼、1927年12月20日[3][4]または1929年1月14日〈陰暦1928年12月4日〉[1][5] - 2015年11月22日[6])は、韓国の政治家。第14代大統領(在任1993年 - 1998年[7])。本貫は金寧金氏。号は「巨山」(コサン、거산、それぞれ巨済島と釜山から来ている[8])。略称はYS。実家は網元。日本統治時代における創氏改名時の日本名(1945年まで)は金村康右(かねむら こうすけ)[9]。早稲田大学特命教授。称号は名誉法学博士(早稲田大学)。
김영삼 | |
任期 | 1993年2月25日 – 1998年2月24日 |
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首相 | 黄寅性(1993年) 李会昌(1993年~1994年) 李栄徳(1994年) 李洪九(1994年~1995年) 李寿成(1995年~1997年) 高建(1997年~1998年) |
任期 | 1954年5月31日 - 1958年5月30日 1960年7月29日 - 1979年10月4日 1988年5月30日 – 1992年10月13日 |
出生 | 1929年1月14日[1] 日本統治下朝鮮 慶尚南道統営郡長木面外浦里(巨済島) (現・慶尚南道巨済市長木面外浦里) |
死去 | 2015年11月22日(86歳没)[2] 韓国 ソウル特別市 |
政党 | (自由党→) (民主党→) (民衆党→) (新民党→) (新韓民主党→) (統一民主党→) (民主自由党(→新韓国党)→) ハンナラ党 |
出身校 | ソウル大学校哲学科 |
配偶者 | 孫命順 |
署名 |
「両金」のもう一方の金大中と共に韓国の民主化の歴史で大きな役割を果たした。独裁政治時代は民主化を求める野党で活躍したが、金大中と決別後に保守政党と合意した後、軍部勢力を粛清したため、長い軍事政権の後の初の文民政権である金泳三政権は「文民政権」と呼ばれることになった。
保守政党内の穏健改革派の始まりとしても取り上げられ、大物政治家として評価される。ただし後述のIMF経済危機への対応の失敗や家族の不正問題により、大統領任期中に国民の支持を失ってしまった不運の政治家でもある。死後には再評価の動きがある。
慶尚南道の巨済島(現在の巨済市)の出身。ソウル大学哲学科を卒業、1952年に張沢相国務総理(当時)の秘書官に就いたのを経て、1954年第3代国会議員選挙で自由党候補として巨済にて立候補して、26歳で当時の最年少国会議員として当選し[10]、政界入りする。後に、自分のもとを訪れた日本の大学生達に「反日の話を相当しないと、当選できないような時代だった」と述懐したことがある[要出典]。
議員となって以後、長らくは野党の立場で活動し朴正煕政権~全斗煥政権期の軍事政権時代には、1969年に暴漢に硝酸を浴びせられたり(金泳三硝酸テロ事件。中央情報部による犯行と推定されている)、『ニューヨーク・タイムズ』記者とのインタビュー記事等をめぐり国会議員除名(金泳三総裁議員職除名波動)となったり(1979年)、自宅軟禁を受けたりといった弾圧を受けたりもした。
1970年代から1980年代にかけて、金大中と伴に代表的な野党政治家・民主化運動家の一人であった。1985年3月6日に、全斗煥大統領により政治活動を解禁される[11]。
1987年に全斗煥の退任に伴って行われた第13代大統領選挙にて金泳三と金大中が共に盧泰愚に敗北した後、1990年に、盧泰愚、金鍾泌と手を握り、三党合同に参加することとなる(盧泰愚の民主正義党、金鍾泌の新民主共和党、金泳三の統一民主党が合同し、巨大与党である民主自由党が誕生した)。この後、民主自由党の大統領候補となり1992年の第14代大統領選挙にて大統領に当選した。
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朴正煕政権以来32年間続いていた軍事政権は消滅し、金泳三政権は文民政権と呼ばれることになった。金泳三は軍部政権の残滓を徹底して排除するため、前任者の全斗煥や盧泰愚が創設し、軍内で主要な地位を占めていた秘密組織「ハナフェ(ハナ会)」を解体し、会員を退役させるなど、大韓民国国軍の改革を進めた[12]。また、野党政治家や政治運動家などを積極的に登用し、国家安全企画部長、外務大臣、統一院長官などに大学の教授を迎えた。さらには、高級官僚の不正の追及にも乗り出し、大法院院長や検事総長、警察庁長官などが辞任することになった。
政治と経済の癒着を嫌悪し、「任期中はいかなる献金も受け取らない」と宣言、質素さをアピールするため、「青瓦台での昼食はカルグクスにする」と明言した[13]。また、歴代大統領が議員に配っていた「モチ代」の制度も無くすなど、政治の無駄の部分を排除していった。経済面でも、不正の温床となっている仮名口座での金融取引をなくすため、「金融実名制」を実施した。おかげで執権初年度には支持率が80%を超えた。
しかし当時20代だった次男の金賢哲が小統領と呼ばれるほど権威を振り回し、1997年に斡旋収賄などの容疑で拘束された[14]。後日、金賢哲は最も重要な斡旋収賄容疑が無罪と宣告されたが、残りの有罪を受けた部分は本人の立場では悔しい部分が多いと主張した。
金泳三政権は「歴史の立て直し」を主張し、行動した。まず、対北朝鮮の懸案となっていた非転向長期囚李仁模を1993年3月19日に北朝鮮に送還した。次いで、1993年8月には旧朝鮮総督府庁舎の解体を決定。1995年8月15日には解体が行われた。
1993年3月13日、これ以上日本に金銭的補償を要求せず、韓国政府が被害者に支援をすると宣言して、500万ウォンの一時金と生活補助金、医療支援、永久賃貸住宅などの支援を実施した。
「政府が自ら乗り出して正面から向き合い、民族のプライド(自尊心)を傷つけずに人道的な配慮も並行して支援しようとする最初の試みという点で、少なからぬ意味を持つ。この処置は、日本政府に相当な心理的圧迫を与える外交的効果を狙っている」と評価した(ハンギョレ新聞1993年3月30日)。
と当時は韓国内でも受け入れられた。韓国の独自支援措置の流れから、同年8月に日本から河野談話が出された[15][リンク切れ]。
同年3月19日に北朝鮮が核拡散防止条約から脱退し、朝鮮半島全土に核危機が訪れアメリカのビル・クリントン政権が北朝鮮の核施設への爆撃を計画した際にはソウルへの被害の懸念からこれを引き止めて後の回想で後悔している[16][17]。1994年7月8日に金日成が死去すると、金泳三政権は哀悼の意も表明せずに全軍に厳戒態勢を指示し、弔問のため訪朝しようとした勢力を弾圧。朝鮮半島情勢が一時期悪化した。1996年9月18日に発覚した江陵浸透事件に際しては、翌月の1996年10月1日の「建軍四八周年祝賀演説」にて、金泳三は対北朝鮮政策の軍事的見直しを発表している[18]。
任期終盤の1997年、東アジアや東南アジア各国を襲った経済危機(アジア通貨危機)にて、金一家と親しくしていた韓宝グループ傘下の韓宝鉄鋼が最初に不渡りを出して破綻し韓国のIMF危機のきっかけになった[19][20]。さらに起亜自動車の倒産を皮切りに経済状態が悪化し、国際通貨基金(IMF)の援助を要請する事態となったことは韓国国民からは恥辱的とも受け取られ、そのまま任期で大統領を退任した。
IMFの指導を受け入れる前、日本から単独金融支援を獲得して事態を彌縫しようとつとめたが、これは拒絶された。1997年に「O157」を理由に米国産牛肉輸入禁止を一方的に発表した韓国に対して外交儀礼に反するとして反発した米国は、韓国への支援を取りやめ、日本にも支援拒否を要請し、日本はIMFを通じての支援に留まった[21]。
このような経済政策の失敗から、1999年6月3日午前には日本に向けて出発しようと金浦空港に着いて沿道の人々と握手をしていた時、71歳の男がペンキ入りの卵を金泳三の顔に炸裂させるという事件が起きた[22][23][24]。彼の顔とスーツが真っ赤に染まった姿は世界中に配信され、男は「金融危機を招き、国を危機に陥れた罪を償い、深く反省しなければならない」と叫びながら、「IMF事態にまで国を滅ぼした金泳三は、国民に対して謝罪しなければならない」という内容のビラをばら撒いていた。
金泳三は直情径行の面があり、退任後の行動などでも韓国国民の不評を買う場面もあり、現在の韓国内の評価は高くないともいわれる。ただし再評価の動きもあるのに、実際IMF以前のハナフェ解体や金融実名制などの治績は歴代級と評する人々も多い。「新韓国」を作るという就任の初めに、彼がこのような改革と粛清作業をしたため、以後金大中、盧武鉉、李明博につながるIMF克服と韓流、IT、BT産業育成などの業績が可能だったという。[要出典]
経済危機も以前の政権で積み重ねてきた積弊がこの時起きただけという擁護論もある。実際のIMF経済危機以前までの経済実績は順遂な方であった。[要出典]
2002年より早稲田大学の特命教授に就任した。公共経営研究科への特別講義や大学全体への公開講演会の開催など年に約2回の訪日時には、「もう大分忘れてしまった」と謙遜気味に語ってはいたものの、流暢な日本語での講義を受け持ち、テレビ出演もしていた。
民主化後初の文民大統領であった金泳三は日本に対して、日本側の歴史認識を問題にしてきており、常に攻撃的な反日姿勢を顕著にしていた。そのため、経済政策よりは、民主化の深化・軍部の政治からの一掃・反日ポピュリズムへの便乗と過激化にばかり重点が偏ってしまっていた[31][32]。村山内閣の江藤隆美総務庁長官が「村山発言は誤りだ」「日韓併合条約は、法的に有効だった」「植民地時代、日本はいいこともした」(「日本はいいことをした」とよく誤認知されているが、誤りである)との発言に反発し、1995年11月14日に当時の中国の江沢民国家主席との会談の中で、「日本の悪い癖(朝鮮語:ポルジャンモリ、日本語で「バカたれ」などに相当する、上の立場の者が下の者を叱る朝鮮語の俗語)を叩き直してやる!」などと強気の発言をした[33][34]。
また現在まで続く両国の領土問題である竹島問題についても、任期中の1995年に大韓民国政府として船の接岸施設など初めて施設を建設するなどの強硬態度を打って出た。この際、韓国政府は「日本をしつけ直す」と、自らの立場が上であるとの自負のもとに大々的にキャンペーンを行い、韓国国内では歓喜をもって迎えられた。同年11月にも「今回こそ、日本のその無礼を必ず直さなければなりません」と発言し反日世論を形成した。就任前後に、日本で高まった「統一教会による誘拐事件」への対応では、非協力的で日本側に不興の声も上がった。また、いわゆる韓国の独立記念「光復」50周年を記念して行われた歴史立て直し事業では、上述の旧朝鮮総督府解体のほか、風水に基づく全国規模での測量用鉄杭除去など反日政策を積極的に進めた[6]。
日本統治下の1943年から1945年まで統営市にあった統営中学校に通った[35][36]。統営は戦前、小いわし漁で栄え、広島県出身者が多く移住していたが、統営中学の教頭が広島高等師範学校出身の渡辺巽で、渡辺は韓国人と日本人学生を絶対に区別せず、金は敬慕の念は抱いた[35][36]。まだ日韓間に国交はなく、反日感情も厳しかった1954年、金が国会議員に初当選した後、渡辺夫妻を韓国に招いている。大統領就任後も渡辺の遺族を官邸に招待した。金は「私の一生を通じても強く印象に残る」「両国にとっても先生のような方がいてくれてよかった」と述べている[35][36]。
対日穏健派と評価されている後任の金大中が公式な場は勿論、私的にもあまり日本語で話さないことにしていたのに対して(非公式な場での日本人記者からの取材には日本語で応じていた)、上記の早稲田大学での講義や日本人ジャーナリストとのインタビュー等では、基本的に日本語で対応していた。
小泉純一郎元総理の靖国神社参拝には反対姿勢を表明し、「戦犯をリストから除名」すれば「問題ない」と意見を述べている。長年ソウル特派員をしてきた産経新聞の黒田勝弘は金泳三を『韓国社会の“独島愛国主義”を拡大・「歴史の正しい立て直し」として、博物館としていた旧朝鮮総督府ビルを独立50周年記念で爆破解体・慰安婦問題では、河野談話やアジア女性基金による解決策を軽視で問題の長期化させるなど、反日愛国大衆迎合主義の大統領だったと、日本には苦い思いが残る人』と論評している[37]。
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