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大韓民国の情報機関 ウィキペディアから
大韓民国中央情報部(だいかんみんこくちゅうおうじょうほうぶ、略称KCIA)は、韓国にかつて存在した情報機関。大韓民国国家情報院の前身。1961年5月の軍事クーデター直後の同年6月10日に設立された。初代部長の金鍾泌は統一教会(現・世界平和統一家庭連合)を韓国の政治的目的のために再組織した[1][2][3]。KCIAは1968年に反共産主義をスローガンとした国際勝共連合を文鮮明に命じて作らせ[4][5][6][7]、1970年代には、朴東宣、統一教会と共謀した対米工作「コリアゲート事件」を主導した[5]。
1961年5月16日、朴正煕による軍事クーデターが発生。それから約1ヵ月後の6月10日、大韓民国国軍の諜報機関である対敵諜報部隊(Counter Intelligence Corps、CIC。アメリカ陸軍にも同名部隊がある)のメンバーを中心として正式に発足した[8]。組織・職員・予算は非公開とされ、職員は公募でなく生え抜きの軍人から約10万人が選抜され、主要な任務は北朝鮮に対する諜報活動及び工作員の摘発であったが、軍政時代は反政府運動の取締りにも辣腕を発揮した。根拠法は国家保安法と社会安全法(現:保安観察法)。
本部の所在地名から、「南山(ナムサン)」と通称され、国民生活の隅々まで監視し、朴の独裁に反対する国民を摘発し、職務として「西氷庫」などで連行した被疑者に対する拷問を行い、殺害することもあったため、国民から恐れられた。
初代部長の金鍾泌は1963年1月までの在任中に、統一教会を韓国の政治的目的のために再組織し、国内外で政治工作を行った[1][2][3][9][10]。
1973年8月8日、東京都千代田区のホテルで金大中を暗殺目的で拉致し、船で連れ去った。この事件では、日本の東声会や山口組系暴力団、児玉誉士夫らがKCIAに協力した(金大中事件)。
アジア放送研究会の山下透 (放送研究者)の調べによると、地下放送であった希望のこだま放送は、KCIAが行っていたとされる。これについては軍政時代から「(放送は)韓国の特殊機関が行っている」と韓国放送公社(KBS)の関係者も認めていた。
1979年10月26日、KCIA部長の金載圭が朴正煕大統領と車智澈大統領府警護室長を射殺(朴正煕暗殺事件)。この後、大統領になった全斗煥によって、1981年4月8日に「国家安全企画部」に改組された。
金大中政権以降は1999年1月に国家情報院に改組され、政治犯罪のみならず経済犯罪も扱い、また職員の公募も始まるなど、次第にその秘匿性を減らしていった。
推定も含む。
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