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日本の小説家 ウィキペディアから
渡辺 淳一(わたなべ じゅんいち、1933年(昭和8年)10月24日 - 2014年(平成26年)4月30日)は、日本の作家。北海道空知郡上砂川町[1]朝陽台出身。1958年札幌医科大学医学部卒業[1]。同講師。医学博士。初め医療現場を舞台とした社会派小説や伝記小説、恋愛小説を数多く手がけて人気を博した。その後、『化身』『うたかた』『失楽園』『愛の流刑地』など濃密な性描写の恋愛小説で、1980年代から90年代にかけて耳目を集めた。エッセイも多く『鈍感力』が流行語になった。
誕生 |
1933年10月24日 日本・北海道空知郡砂川町 (現・上砂川町) |
---|---|
死没 |
2014年4月30日(80歳没) 日本・東京都 |
職業 |
作家 整形外科医 |
国籍 | 日本 |
活動期間 | 1965年 - 2014年 |
ジャンル | 小説 |
代表作 |
『光と影』(1970年) 『花埋み』(1970年) 『遠き落日』(1979年) 『ひとひらの雪』(1983年) 『化身』(1984年) 『失楽園』(1997年) |
主な受賞歴 |
新潮同人雑誌賞 (1965年) 直木三十五賞(1970年) 吉川英治文学賞(1980年) 文藝春秋読者賞(1986年・2011年) 紫綬褒章(2003年) 菊池寛賞(2003年) |
デビュー作 | 「死化粧」(1965年) |
ウィキポータル 文学 |
父の鉄次郎(1907年生)は数学教諭で、母のミドリ(1907年生)は歌志内市最大の商家渡辺家の末娘である。渡辺は母方の姓で、父が札幌工業高等学校教諭となったことをきっかけに札幌市に定住した。本籍地を札幌市中央区南7条西22丁目に置いた。
札幌第一中学校在学中の1947年に、国語教諭の中山周三の影響で文学に関心を持ち始める。在学中に学制改革により旧制中学が廃止され、新制札幌南高校へ移行する。札幌高等女学校から転入した加清純子[2]と同級生となる[1]。札幌南高校卒業後、北海道大学理類[1]で学び教養課程修了後に札幌医科大学医学部[1]へ進む。河邨文一郎が部長を務める医大文芸部に所属する。
1957年より同人誌「凍檣」[3]に参加[1]。他の同人に高橋揆一郎や寺久保友哉など。1959年の「くりま」第6号に発表した『境界』が北海道新聞社「道内文芸同人誌優秀作」に選ばれ[1]、荒正人に評価される。「テレビ・ドラマ」誌脚本募集に『人工心肺』で入選し[1]、NHK、北海道放送、札幌テレビ等に脚本を書く。
1964年札幌医科大学助手、1966年同大医学部整形外科教室講師。医業と並行して、「くりま」に執筆を続ける。1965年「死化粧」で新潮同人雑誌賞を受賞[1]。同作は芥川賞候補にもなり[1]、文名を知られる。1967年『霙』が第57回直木賞候補[1]、1968年に『訪れ』が第58回芥川賞候補となる[1]。札幌医科大学の和田寿郎教授による和田心臓移植事件を題材にした『小説・心臓移植』(1969年3月。後に『白い宴』と改題、角川文庫)を発表し、札幌医科大学講師を辞職する[1]。
1970年に37歳で総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞し[1]、本格的に作家活動を開始した。1980年『遠き落日』『長崎ロシア遊女館』で第14回吉川英治文学賞[1]、1986年『静寂の声ー乃木希典夫妻の生涯』で文藝春秋読者賞[1]、第51回菊池寛賞[1]、それぞれを授賞する。直木賞、吉川英治文学賞、中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞選考委員などを歴任した。2003年に紫綬褒章[4]、を授章する。
2014年4月30日午後11時42分に前立腺癌のため東京都内の自宅で死去[5]する。没年齢は80歳で法名は「愛楽院釋淳信」、墓所は杉並区の築地本願寺和田堀廟所である。
2015年に集英社が文学賞「渡辺淳一文学賞」を創設し、第1回の表彰が2016年3月に行われた[6][7]。
妻は元陸軍軍医の堀内利圀の娘[要出典]である。
主題は、評伝の『花埋み』『女優』『遠き落日』など、医療の『白い宴』『無影燈』『麻酔』など、恋愛の『化身』『失楽園』『愛の流刑地』など三つに大別されるが、各ジャンルを融合したものもある。初期は医療をテーマとした社会派的な作品が多い。伝記は時期を問わず書き続け、医療、身体、恋愛論、身辺雑記など広くエッセイも多く手がける。経済記事が主体の 日本経済新聞の朝刊に連載された『化身』『失楽園』『愛の流刑地』の三作は大胆な性的なシーンも多く話題となり、映画やテレビドラマなど展開された。1997年の「新語・流行語大賞」に『失楽園』が選出されている[1]。[注釈 1]
2013年1月に日本経済新聞の文化面で私の履歴書を著し、この連載や「告白的恋愛論」などで自身の経歴や恋愛遍歴を大胆に綴り、小説のモデルについて遠慮がちに触れている。
『失楽園』の読売テレビ・日本テレビ系ドラマ版で主題歌を歌ったZARD『永遠』のシングルCDジャケットの題字は、渡辺が毛筆による直筆で記した[要出典]。
デビュー以来40年以上第一線で執筆を続け、ミリオン・セラーも複数ある。作品がベストセラーになっていることをして、日本人の堕落・退潮とみなす者もいる[8]。
近年の中国で「言情大師(叙情の巨匠)」として知られる人気作家である[9]。王海藍らの調査によれば、1990年代末以降に中国で最も翻訳されている日本の作家は、村上春樹と渡辺である。中国の女流人気作家で恋愛・結婚生活を描いた小説で話題を呼んでいる王海鴒など、渡辺の恋愛小説の影響を強く受けた作家も登場しているが、都市化による家族の紐帯の希薄化により、精神的支柱としての家庭が崩壊しつつあることが背景にあると言われる[10]。著作6冊を無断で出版された著作権侵害により2008年夏に渡辺は中国の出版社を相手取り上海市人民法院に提訴したが、2009年12月に両者の和解が成立した[11]。
1976年刊行の『四月の風見鶏』には、整形外科医師として在籍していた医科大で行われた日本初の心臓移植手術に対し、学内にありながら疑義を呈したため、大学を去ることとなり、筆一本で生きていくことになったことが書いてある。直木賞、吉川英治文学賞はじめ多くの文学賞の選考委員を務める。
「鈍感力」(どんかんりょく)は、2007年に発売したエッセイ集の題名である。内閣総理大臣の小泉純一郎は2月20日に国会内で幹事長中川秀直と内閣官房長官塩崎恭久らに「目先のことに鈍感になれ。『鈍感力』が大事だ。支持率は上がったり下がったりするもの。いちいち気にするな」と『鈍感力』を引用した。同書は同年夏までに100万部を売り、2007年の流行語大賞トップテンに挙げられた[1]。
選択的夫婦別姓制度導入に賛同する。「現実に困惑している人たちのために、別姓を認めるよう動くべきである。夫婦別姓が認められない最大の理由は、自民党のおじさんたちが反対しているからである。理由はこれを認めると、日本古来の家族制度がこわれて、妻の不倫が増えるから、と。自分は浮気をしても、妻だけはさせたくないということで夫婦別姓反対、というのでは、あまりに情け無くて、せこい話ではないか。」と述べるなど[12][13]、選択的夫婦別姓制度導入反対論者を批判している。
主な趣味として将棋とゴルフが知られる。将棋は、渡辺やカメラマンの弦巻勝を中心にサークル「トン死の会」を月1回程度催して仲間内の対局を渡辺の自宅で行った。過去に週刊誌の企画で米長邦雄九段と飛車落ちで対局して勝利し[14]、『オール讀物』の連載企画でアマチュア五段の免状を贈られた[15]。ゴルフはプロゴルファーの金井清一らと交友があり、金井と共著でゴルフレッスン書を出版した。日本アイスランド友好協会会長を務めた[要出典]。学生時代はスキーに熱中して国体を目指した[要出典]。
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