Loading AI tools
日本の俳優 (1937-2008) ウィキペディアから
緒形 拳(おがた けん、1937年〈昭和12年〉7月20日 - 2008年〈平成20年〉10月5日[1])は、日本の俳優。旧芸名および本名は緒形 明伸(おがた あきのぶ)。血液型はB型。趣味は絵手紙と水墨画。
おがた けん 緒形 拳 | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
集英社『週刊明星』1月17日号(1965年)より | |||||||||||||||
本名 | 緒形 明伸(おがた あきのぶ) | ||||||||||||||
生年月日 | 1937年7月20日 | ||||||||||||||
没年月日 | 2008年10月5日(71歳没) | ||||||||||||||
出生地 |
日本・東京府東京市牛込区 (現・東京都新宿区) | ||||||||||||||
死没地 | 日本・栃木県下都賀郡壬生町(獨協医科大学病院)[1] | ||||||||||||||
身長 | 173 cm | ||||||||||||||
血液型 | B型 | ||||||||||||||
職業 | 俳優 | ||||||||||||||
ジャンル | 演劇・映画・テレビドラマ・ナレーター | ||||||||||||||
活動期間 | 1958年 - 2008年 | ||||||||||||||
活動内容 |
1958年:新国劇入団 1960年:『遠いひとつの道』でデビュー 1965年:『太閤記』 1968年:新国劇退団 1972年:『必殺仕掛人』 1975年:『必殺必中仕事屋稼業』 1976年:『風と雲と虹と』 1978年:『鬼畜』 1979年:『復讐するは我にあり』 1981年:『北斎漫画』 1982年:『峠の群像』 1983年:『楢山節考』 1985年:『櫂』 1986年:『火宅の人』 1989年:『社葬』 1992年:『おろしや国酔夢譚』 1993年:『ポケベルが鳴らなくて』 1997年:『毛利元就』 2000年:紫綬褒章 2004年:『ミラーを拭く男』 2004年:『隠し剣鬼の爪』 2006年:『長い散歩』 2008年:旭日小綬章 | ||||||||||||||
配偶者 | 高倉典江(1966年 - 2008年) | ||||||||||||||
著名な家族 |
緒形幹太(長男) 緒形直人(次男) 緒形敦(孫) 緒形龍(孫) | ||||||||||||||
事務所 | 鈍牛倶楽部(最終所属) | ||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||
映画 『八甲田山』/『鬼畜』 『復讐するは我にあり』/『ええじゃないか』 『魔界転生』/『北斎漫画』/『楢山節考』 『陽暉楼』/『魚影の群れ』/『櫂』 『薄化粧』/『火宅の人』/『女衒 ZEGEN』 『将軍家光の乱心 激突』/『社葬』 『大誘拐 RAINBOW KIDS』 『おろしや国酔夢譚』 『ミラーを拭く男』/『長い散歩』 海外映画 『ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ』 テレビドラマ 『太閤記』/『必殺仕掛人』 『必殺必中仕事屋稼業』/『風と雲と虹と』 『タクシー・サンバ』/『峠の群像』 『名無しの探偵』シリーズ/『破獄』 『愛はどうだ』/『ポケベルが鳴らなくて』 『ナニワ金融道』シリーズ/『毛利元就』 『帽子』/『風のガーデン』 | |||||||||||||||
|
東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区)出身、千葉県千葉市育ち。長男は緒形幹太、次男は緒形直人で共に俳優[2]。義理の娘(直人の妻)に女優の仙道敦子、孫に緒形敦(直人の息子)がいる。
1937年7月20日(火曜日)、東京府東京市牛込区で生まれる。太平洋戦争中、空襲で牛込の家が焼かれたため、小学校2年生の時に千葉県千葉市登戸町(現・中央区登戸)に一家で疎開したという[3]。中学まで千葉で過ごし、その後東京へ戻った。
1957年に東京都立竹早高等学校を卒業。憧れていた新国劇の二大看板俳優の1人、辰巳柳太郎の弟子になるべく、翌1958年に新国劇に入団し、辰巳の付き人となる。1960年、新国劇のもう1人の看板俳優、島田正吾に見出され、『遠い一つの道』で主人公のボクサー役に抜擢された。作品は映画化され、映画デビューも果たす。
1965年、NHKのディレクター吉田直哉により[4]大河ドラマ『太閤記』の主役に抜擢され、新国劇の活動も兼務して1年活動した。引き続き1966年の大河ドラマ『源義経』に武蔵坊弁慶役で出演し、2年続けて大河に出演する稀有な活動をし、その後も数々の大河ドラマに出演し、常連俳優の1人として活躍した。同年、新国劇所属の女優・高倉典江と結婚。1968年、新国劇を退団。映画・テレビドラマに活躍の場を移した。テレビ時代劇『必殺仕掛人』の藤枝梅安を演じて多くのファンを得て[4]映画化もされ、『必殺必中仕事屋稼業』『必殺からくり人』にも出演した。
1978年に公開された映画『鬼畜』に主演し、数々の男優賞を受賞する。その後も1979年に『復讐するは我にあり』、1983年に『楢山節考』に主演した。合間に出演した1981年の映画『魔界転生』では、宮本武蔵に扮して柳生十兵衛(千葉真一)と激闘を演じ、新国劇で培った殺陣を披露している。1999年、池端俊策監督の『あつもの』で「フランス・ベノデ映画祭グランプリ」を受ける。
2000年、紫綬褒章を受章[5]。同年に山﨑努も受章している。
2008年10月4日、自宅で体調が急変。栃木県下都賀郡壬生町の獨協医科大学病院に運ばれて肝臓破裂の緊急手術を受けるが、翌10月5日の午後11時53分、肝癌により死去した[1]。緒形の最期は家族と長年の友人であった津川雅彦が看取った。緒形は津川に「お前、身体大事にしろよ!良い映画沢山創ってくれよな!治ったら、鰻食いに行こうな!白焼きをな!」と冗談を交えつつ医者に危篤を宣言されている患者とは思えないような明るい口調で語ったという。しかしそれが緒形が残した最期の言葉となり、4時間後に帰らぬ人となった。津川はブログで「最期は歌舞伎役者のように虚空を睨み付けるように静かに静かに息を引き取った!苦しむ様子も無く名優らしくカッコいい!立派な最後だった!俺もあんな死に方したいと本気で思えた!」と綴っている[6]。71歳没。葬儀・告別式は10月7日に新宿区の大日本獅子吼会本堂で営まれた。戒名は天照院普遍日拳居士[1]。
最後の出演作は、ドラマ『風のガーデン』(フジテレビ系テレビドラマ)となり、死去5日前の9月30日には作品の制作発表にも出席していた。また、最後の出演CMとなったエプソン「カラリオ」シリーズの放映が10月1日から開始されたが、死去にともない休止された(その後、エプソンの公式サイトにて期間限定公開された。後述)。劇場映画で遺作となったのは、妖怪総大将ぬらりひょんを演じた2008年7月公開の『ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌』である。
息子の緒形幹太・直人兄弟が葬儀の後プレスインタビューに応え、緒形は2000年頃から慢性肝炎を患い、肝硬変を経て2003年から2004年頃に肝癌に至り、適切な内科的手術を受け投薬治療や食事療法を受けながら、病を隠して俳優活動を続けていたこと、また2007年暮れには腰椎圧迫骨折の大怪我を負っていたことなどが明かされた。
1937年に男ばかりの5人兄弟の四男として生まれる。終戦後緒形の父は定職につかずブラブラしていたため、母が一家を支えていたが兄弟が多いこともあり緒形家の生活は貧しかった[4]。その後三男が俳優を志して俳優座養成所の研究生として演技を学んでいたが、緒形が15歳の頃にプールで心臓麻痺を起こして急逝。緒形はこの三男の死をきっかけに役者の道を意識するようになったとのこと[注釈 1]。
高校時代に新国劇の舞台に惚れ込むと仲間内で戯曲『王将』(新国劇の当時の人気演目の1つ)を行い、緒形は大阪の名棋士・坂田三吉を演じた。新国劇で同役を演じた辰巳柳太郎への弟子入りを目指したところ、三男と『王将』を書いた劇作家・北条秀司の娘がたまたま同級生だったことが分かり、そのつてで新国劇に入団することができたという[4]。
芸名の「緒形拳」は恩師である劇作家の北条秀司の夫人によってつけられたもので、元々は「おがた こぶし」という読みであった[7]。
当初は本名の緒形明伸で活動していたが怪我が多いのを心配した北条夫人から改名を提案され、芸名の候補として「緒形 寅蔵(おがた とらぞう)」が挙がったが即答はできず、「あなたの気にするところは?」と聞かれて、咄嗟に「手が大きい」と答えると「緒形 掌(おがた てのひら)」と言われるも変な名前だと首肯せず続いて、「緒形 握り拳(おがた にぎりこぶし)」は名前が長いとしてこれまたしっくりこなかったが、最終的に「緒形 拳(おがた こぶし)」と決定するも周囲の誰からも「こぶし」と読まれず、「ケンさん」と呼ばれ続けたために意に反してそちらが定着してしまった[7]。本人の中では読み方は「こぶし」であるとしていた[7]。
改名後は何の因果か映画『遠い一つの道』のボクサーの役が回ってくるという効果があった[8]。
新国劇入団後、二大看板役者だった辰巳柳太郎と島田正吾に目をかけられた緒形は、演技指導を受けて劇団のホープとして頭角を現すようになった。しかし先述の大河ドラマでの好演によりテレビ業界からオファーが舞い込むようになり、舞台とテレビがそれぞれ拘束時間が長いことから両立が難しくなった。どちらかを選ぶことになった結果、辰巳と島田の両師匠を裏切る形[4]で新国劇を退団することとなる。
ただしその後も緒形は「自分は舞台役者」と語っており、新国劇を離れた後も島田と辰巳という二人の師匠に対する思いは終生変わらなかった。後年、二人の師匠と和解した[4]緒形は、新国劇が70年の幕を下ろす1987年の最終公演で、辰巳の当たり役で知られた戯曲『王将』の坂田三吉を演じ、「辰巳先生に見てもらいたい」という思いで取り組んだ。
また、島田が新国劇の開祖である澤田正二郎から受け継ぎ、取り組んでいたひとり芝居『白野 シラノ』を島田の三回忌追善興行として緒形自らが受け継ぎ、2006年にシアターコクーンで演じ、結果としてこれが舞台としての最後の作品となった。
長年親交があった映画評論家の垣井道弘は、「新国劇時代に豪快な演技が魅力の辰巳と、繊細な演技が得意な島田というタイプの違う二人の師匠を持ったことで、緒形さんは演技の幅の広い役者になった」と評している[4]。また、「緒形さんは『自分は演技をすることで生きているんだ』というはっきりした考えを持った人でした。“役作り”という言葉が嫌いで、台本のセリフが自分の言葉になるまで何度も何度も読み込むのです。役を作るのではなく、役が自分に憑依するまで突き詰めていました[注釈 2]。
緒形は“日常の全てが仕事(=演技)に通じている”と考え、高みにたどり着くための努力を怠らない“仕事の鬼”だった。垣井によると映画『魚影の群れ』で漁師役を演じることになった緒形は、ロケの1か月前から青森県大間町に住み込み、現地の漁師と一緒に漁をして役に備えた。その後の撮影時の緒形は衣装部が用意した服ではなく、先の漁師の一人が着用していた赤いセーター[注釈 3]を借りて出演した[4]。
長男・緒形幹太は、「父が新国劇を辞めた後少しはプライベートの時間に余裕ができるのかと思ったが、結局映画やテレビの撮影ばかりでほとんど家にいない状態になった。たまに家にいても父は常に台本とにらめっこ。毎年盆暮れ正月だけは家族水入らずの時間を作ってくれたが、その日も時間を見つけては台本に書き込みをしていた。仕事を全身全霊でやり遂げる父は、言わば“全身俳優”でした」と後年語っている[4]。
堅物で生真面目な性格であった。ある時、親友の津川雅彦から若い女性との合コンに誘われた際、参加するかしないかを真剣に悩み迷った末に「雅彦、オレやっぱりどうしても行くことができない」と思いつめたような声で断りの連絡をしたという。それを聞いた津川からは、「お前がそのことで悩んだのは大きな進歩だ」(=参加しないと思っていたが、悩んでくれただけでも大したものだ)と言われるほどであった。
また緒形に憧れた俳優の1人である奥田瑛二は、「緒形さんがスクリーン上でも私生活でもカッコつけた姿を見たことがなく、極めて自然体だったがものすごく説得力があり、その姿がかっこよく映った」と評している[4]。
競馬にも造詣があり、2000年にJRAのCMキャラクター就任時のインタビューで、緒形はかつて福永洋一とも飲み仲間だったと述懐している。
毎年のように作家・池波正太郎に風呂の手桶を贈っていた。池波は著書の中で「緒形拳が風呂の手桶を贈ってくれるんだよね、毎年、ぼくのところに。あれも考えるんだね(笑)…(中略)…風呂の手桶って年中使っているものだから、一年ぐらいたつとタガがはずれたり、腐ってきたり、変になってくるわけだ。それで緒形も風呂桶がいいと思うんでしょう」と述べている[11]。
またドラえもんの大ファンで[7]、ドラえもんファン向けの専門誌『ぼく、ドラえもん』12号でインタビューにも答えている[12]。きっかけは映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観に行った際に上映まで時間があったため、街をぶらぶらしていたときにゲームセンターにあったUFOキャッチャーにドラえもんのぬいぐるみがあり、可愛かったので試しにやってみると、意外と簡単に取れたことからドラえもんが好きになった[7]。しかし、ドラえもんの他にのび太は知っているが、それ以外のキャラクターやドラえもんがかつて黄色い姿をしていたなどのようなストーリーや設定は知らなかった。2006年3月1日放送の『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』で取り上げられた際に教えられ、同番組ではドラミを「(ドラえもんの)お母さん?」と思ったり、可愛いとは思わず、渡されたドラミのぬいぐるみを床に放り捨てていた[7]。
劇団員時代、朝丘雪路(のちの津川雅彦の妻)と付き合っていた。朝丘が父・伊東深水に会わせようと待ち合わせた日は雨で、金の無い緒形の靴は爪先の靴底が剥がれていて、靴下が濡れたまま深水に会った。緒形は自分の道を頑張るようにと励まされ、朝丘との交際は終わったとトーク番組[どれ?]で朝丘が話している。
還暦を迎える頃になると舞台に出ることが多くなり、メジャーな映画に出演することが少なくなった。この状況を知った俳優の奥田瑛二は、「緒形さんは役者として円熟味を増しているのに主演映画がないのはあまりに惜しい」と感じていた。その後、偶然2002年のCM撮影で共演した奥田は、緒形の表情を見ている内に「この人で映画を撮らないとダメだ![注釈 4]」との強い思いにかられた[4]。
そうして生まれたのが映画『長い散歩』[注釈 5]だった。皆で試写を見終えた直後、席に座っていたはずの緒形の姿がなく、奥田は「出来が気に入らなくて出ていったのかな」と不安になった。しかし数分後緒形が奥田の前に現れると「いや、恥ずかしくてさ、顔を洗っていた」と言われ、緒形が感動して涙したことに奥田は「あれは嬉しかった」と語っている[4]。
奥田によると同作の後もう1本緒形の主演映画として『必殺仕掛人』の藤枝梅安のその後を描いた時代劇を撮る予定だった。スタッフもキャストも撮影日も決まっていたが、撮影前に緒形から「実は体調が優れなくて殺陣は無理だ」と告げられ、結局全てキャンセルになり叶わなかったとのこと[4]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.