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日本のテレビクイズ番組(1976-1992) ウィキペディアから
『クイズダービー』(英称:Quiz Derby)は、1976年 (昭和51年) 1月3日から1992年 (平成4年) 12月19日までの17年間にわたってTBS系列(テレビ山口を除く)で毎週土曜日の19:30 - 20:00 (JST) に放送されていたクイズ&ゲーム番組である。ロート製薬の一社提供。全862回。
テレビ番組・中継内での各種情報(終了した番組・中継を含みます)は、DVDやBlu-rayなどでの販売や公式なネット配信、または信頼できる紙媒体またはウェブ媒体が紹介するまで、出典として用いないで下さい。 |
出場者が解答者の中からクイズに正解すると思う1人に自分の持ち点を賭け、得点を増やしていく競馬方式の番組。
元々この枠では大橋巨泉の司会で同じくロート製薬の一社提供番組だった『お笑い頭の体操』が1968年2月3日から放送されていたが、視聴率が低迷してきたことを受けてスタッフやスポンサー等から持ちかけられた番組のてこ入れを巨泉が拒否し1975年12月27日放送分での終了が決定する。
その際「こういう新番組をやりたい」と競馬好きの巨泉がかつてカナダで見たクイズ解答者を馬に見立て賭けを行い高得点を競う競馬形式のクイズ番組『セレブリティ・ステークス(英語版)』を模倣した企画を自ら立案し、翌年から番組がスタートすることになった。その本家の『セレブリティ・ステークス』について巨泉は「非常に短命で、1年も続かなかった」と語っていたが、『クイズダービー』はルールはもとより、司会者と解答者とのやりとり、ギャンブルのスリルを味わえることがうけて人気番組になった[注釈 2]。その本家では問題は解答者にあらかじめ伝えられていたが、『クイズダービー』では司会の巨泉も問題を見るのは収録の直前で、解答者には事前に教えていなかったという[1][2]。
最高視聴率は1979年6月30日放送分(第180回)に記録した40.8%(関東地区)で、ビデオリサーチ調べのクイズ・ゲーム部門ではNHK総合テレビ『クイズ面白ゼミナール』が記録した42.2%に次ぐ記録である。これは民放に限れば第1位の視聴率であり、クイズ番組としては初めて視聴率40%台を記録した番組であった[3]。番組の最盛期は上記最高視聴率を記録した1979年から1981年にかけてで、この3年間は年間平均視聴率がおよそ30%にも達し、年間視聴率ベスト20にも記録されている[4]。
CMなどを除いた番組放送時間は24分であったが、収録は25分までで、「撮って出し」の手法が使われた[5]。巨泉から2代目司会者を引き継いだ徳光和夫によれば、「巨泉さんは番組収録を毎回35分程度で終えていた」とのことであり、逆に徳光は就任後最初の収録で倍の1時間弱も費やし、スタッフを疲れさせてしまったという[6]。収録は隔週月曜日に現在のTBS社屋の近くにあったTBSホールで行われていた。
出場にあたってはハガキではなく、封書に2人の写真と簡単な自己紹介文を添えてTBSテレビ宛[注釈 3]に応募することが条件で、番組初期のエンディングでその旨を記した記述が静止画で表示されていたほか、1問目あるいは6問目(音楽問題)のシンキングタイムBGMを流している最中にその旨がテロップで表示されていた。
クイズ番組としては珍しく、TBSの音声多重放送開始当初である1978年11月25日放送分(第149回)よりステレオ放送となった。また、1990年以降はクリアビジョン放送もされていた。
※太字の名前は10万点達成者。
年月日 | 記念事 | ゲスト解答者 | 出場者 |
---|---|---|---|
1976年 | 1月 3日第1回 | 植木等 | 井上順 酒井和歌子 西城秀樹 桜田淳子 |
1976年12月11日 | 第50回[9] | うつみ宮土理 | ? |
1977年 | 1月 1日第53回 1周年[10] | ? | 堀内恒夫、新浦寿夫、坂口良子、秋野暢子 |
1977年12月 | 3日100回[11] | 市川海老蔵 | ? |
1978年 | 1月 7日第104回 2周年[12] | 古谷一行 | ? |
1978年12月 | 2日150回[13] | ? | 黒鉄ヒロシ、沢たまき |
1979年 | 1月 6日第155回 3周年[14] | ? | 池上季実子、中田喜子、秦豊 |
1979年11月24日 | 第200回[15] | ? | 三波春夫、研ナオコ、近江俊郎、五十嵐喜芳 |
1980年 | 1月 5日第206回 4周年[16] | ? | 青島幸男、三遊亭金馬 |
1980年11月 | 8日第250回 | 黒沢久雄 | 赤チーム(中島梓・楳図かずお) 黄チーム(赤塚不二夫・タモリ) 緑チーム(小川知子・宮尾すすむ) |
1981年 | 1月 3日第258回 5周年[17] | ? | 石坂浩二、星野知子 |
1981年10月24日 | 第300回[18] | 渡辺美佐子 | ? |
1982年 | 1月 2日第310回 6周年[19] | 江守徹 | 赤チーム(十朱幸代・浜畑賢吉) 黄チーム(長谷川一夫・淡島千景) 緑チーム(園佳也子・真木洋子) |
1982年10月 | 9日第350回[20] | ? | 松田聖子、松本伊代、松崎しげる、森昌子 |
1983年 | 1月 8日第362回 7周年[21] | 江本孟紀 | ? |
1983年 | 9月24日第400回[22] | 松崎しげる 五月みどり 黒鉄ヒロシ 紺野美沙子 市毛良枝 | 赤:宮崎美子 黄:はらたいら 緑:竹下景子 |
1984年 | 1月 7日第414回 8周年[23] | 紺野美沙子 | ? |
1984年 | 9月22日第450回[24] | イルカ | ? |
1985年 | 1月 5日第465回 9周年[25] | ? | 西村晃、淡島千景、新珠三千代、中村児太郎 |
1985年 | 8月24日第500回[26] | ? | ? |
1986年 | 1月 4日第519回 10周年[27] | ? | 落合博満、加藤茶、秋吉久美子、中野浩一 |
1986年 | 8月 9日第550回[28] | 高田みどり | ? |
1987年[注釈 6] | 1月 3日第571回 11周年[29] | ? | 山本富士子、山口崇 |
1987年 | 8月 1日第600回[30] | 三波春夫 | 赤チーム(来生えつこ・来生たかお姉弟) 黄チーム(野坂昭如・亜未父娘) 緑チーム(清水哲太郎・森下洋子夫妻) |
1988年 | 1月 9日第622回 12周年[31] | 冴木杏奈 | スキーインストラクターと生徒ペア |
1988年 | 7月23日第650回[32] | 陣内孝則 | 赤チーム(渡辺プロダクション:小柳ルミ子・ゆうゆ) 黄チーム(芸映:角川博・石川秀美) 緑チーム(ホリプロ:吉村明宏・杉浦幸) |
1989年 | 1月 14日第673回 元号が平成になって最初の放送 13周年[33] | 藤吉久美子 | 巫女さんペア |
1989年 | 7月29日第700回[34] | ジェームス三木[35] | 赤チーム(ホリプロ:和田アキ子・山瀬まみ) 黄チーム(オスカープロモーション:後藤久美子・菊池健一郎) 緑チーム(オフィス・タッチ:山城新伍・花園ひろみ) |
1990年 | 1月 6日第722回 14周年[36] | 和田アキ子 | JNN系列の女性アナウンサー |
1990年 | 3月31日第734回 巨泉司会最終回[37] | 篠沢秀夫 | 赤チーム(ガッツ石松、萩尾みどり) 黄チーム(斉藤慶子、山崎浩子) 緑チーム(黒鉄ヒロシ、長山藍子) |
1990年 | 4月14日第735回 徳光司会初回[38] | 草野仁 | 赤チーム(モーニングEye:山本文郎、長峰由紀) 黄チーム(筑紫哲也 NEWS23:筑紫哲也、浜尾朱美) 緑チーム(JNNスポーツチャンネル:定岡正二、木場弘子) |
1990年 | 7月28日第750回[39] | ジェームス三木 | 赤チーム(日本社会党:土井たか子、仙谷由人) 黄チーム(日本共産党:不破哲三、高崎裕子) 緑チーム(民社党:大内啓伍、柳田稔) |
1991年 | 1月 5日第769回 15周年[40] | 橋田壽賀子 | 赤チーム(石原伸晃、田村英里子) 黄チーム(与田剛、小川範子) 緑チーム(大鶴義丹、川越美和) |
1991年 | 8月17日第800回[41] | 松田聖子 | 赤チーム(三宅裕司、小倉久寛) 黄チーム(コロッケ、稲川淳二) 緑チーム(所ジョージ、森末慎二) |
1992年 | 1月11日第818回 16周年[42] | 北野大 | ? |
1992年12月19日 | 第862回 最終回(大橋巨泉が司会復帰)[43] | 徳光和夫 | 赤チーム(五月みどり、黒鉄ヒロシ、ガッツ石松) 黄チーム(うつみ宮土理、長山藍子、小沢昭一) 緑チーム(山崎浩子、植草克秀、松崎しげる) |
本放送終了後、以下のように復活版は5回行われた。詳細は後述。
2005年1月3日からCS放送のTBSチャンネルで再放送されている。本放送と同じく音多ステレオで放送されている。また、ロート製薬の初代オープニングキャッチも併せて放送されている。
2005年1月はランダムで放送されたが、2月以降は第589回(1987年5月9日放送分)から順番に放送。2010年2月22日まで第831回(1992年4月25日放送分)まで放送されていたが、同年3月1日よりひかりTVでもTBSチャンネルの配信が始まった関係で第784回(1991年4月27日放送分)から再度放送される。その後同年5月31日に第842回(1992年7月11日放送分)から再びランダムで放送されている。2010年8月2日の第860回(最終回の2回前。1992年12月5日放送分)を以って再放送は終了し、翌週8月9日の第310回(1982年1月2日放送分)から事実上2巡目の再放送が行われている。2012年10月27日より「TBSチャンネル2」にて地上波の本放送と同じ時間帯である毎週土曜19時30分から放送されていたが、数か月後に昼12時30分に変更。2013年7月6日に第734回(巨泉勇退)放送後、翌週より第685回(1989年4月15日放送分)を再度放送している。2019年7月20日に第734回を再放送したが、翌週から第310回を放送。
ロート製薬のオープニングキャッチで番組が開始し、2本程度のCMを経て、解答者の上のクイズダービーの看板をバックに巨泉の顔が映し出されて「巨泉の、クイズダービー!」(司会者交代後は「徳さんの、クイズダービー!」)の掛け声の後、発馬機のゲートが開く音と同時に、解答席上部の「クイズダービー」の看板の電飾が点滅し、オープニングのファンファーレが流れる。その際、5人の解答席の倍率表示盤に「10」が表示される。
毎回3チーム(6枠制時代は4人の個人戦、第28回(1976年7月10日放送分)から第39回(1976年9月25日放送分)までは3人の個人戦[注釈 7])の出場者と、5人(初期は6人)の解答者が出演した。出場者チームは番組に応募して採用された一般視聴者(内容によって芸能人や各界の有名人が出演する場合もある)2人組で、「新婚カップル」「おじいちゃんと孫娘」「○○店員とその常連さん」など週替わりのテーマが決められていた。チームは原則的に2人だが、ごく稀に3人や個人[注釈 8]でのチーム編成で挑むことがあった。
出場者チームは各問題に対して正答しそうな解答者を1人指名し、持ち点(当初は2,000点、のちに3,000点からスタート。巨泉はこのスタート時点の持ち点を「原点」と呼んでいた)の範囲内から100点単位で賭けていく。解答者には問題の解答力に応じた倍率が設定されており、正解が見込まれるほど低い倍率、正解できなさそうと見込まれると高い倍率がつけられる。指名した解答者が正解した場合には賭け点と解答者の倍率を掛けた得点が加算され、不正解だと賭け点分のみ減算される。ただし、解答者が全員不正解の場合には、その問題での賭け点は全て返される。
実際の競馬でいうと、出場者は「賭け手」、解答者は「競走馬あるいは騎手」、出場者の持ち点は「馬券」、解答者の倍率は「オッズ」、解答者のシンキングタイムは「競走」、解答者の正解は「一着ゴールイン」、出場者の得点獲得は「的中」、全員不正解は「競走不成立による全返還」に見立てたものである。
通常は8問(第1回は8問で、2回目以降の初期は11問⇒10問:6人制・9問:5人制)出題され、1・3・5・8問目が一般問題、2・4・7問目が3択問題、6問目は音楽問題(巨泉は「作詞の問題」と呼んでいた。まれに歌詞当てではなく、流れた音楽に因んだ問題が出題されたこともある)というのが基本である(まれに1問目で音楽問題や3択、2問目で一般問題が出題された)。最終問題の直前になるとチャイムが鳴らされる。
問題表示は出題者が読み上げの最中にテレビ画面の下半分で水色のボードに手書きの黒い文字で表示されていたが、末期の解答者変動制になってからはテロップ表示となった(2回の復刻版では水色ボードの黒い文字の手書き)。
出題は一般常識や時事関連、著名人のエピソード・名言、時代を反映したエピソード、事件簿、アンケートによる結果、アメリカンジョーク、駄洒落などの珍問・奇問が中心で、知識より勘やユーモアを問う問題が比較的多かった。出場者のテーマに沿った問題が出題されることも多い。著名人のエピソードや海外のジョークなどの問題は、司会者が予め「意味が合っていれば正解にします」と発言し、裁量で正解か否かを判定していたが、音楽問題で歌詞当ての場合は「歌詞通りでなければ正解とは致しません」と発言していた。
初期の頃は「アダムとイブの住んでいる所は何の園?」(答え:エデンの園)や「山口百恵、森昌子、桜田淳子の中で、一番お姉さんなのは?」(答え:桜田淳子)など、知識系の問題がほとんどだった。ただし、中期以降も有名人の顔のホクロの位置の問題や、「五円玉に描かれている稲穂以外の物は?」(答え:歯車)や、「(この漢字の)『鬚』は顔のどの部分に生えるヒゲ?」(答え:あごの下)など、まれに知識系が出る場合もあった。中には出場者のタレントに関するエピソード問題や、普通の辞書には載っていないユニークな漢字の出題もあった。出場者に関係する問題については、解答に入る前に司会者から出場者に対して「○○さん(みなさん)は黙っていてくださいね!」と注意があった。
基本的な倍率の付け方は、通常問題は1倍から10倍まで。3択問題は1倍から7倍まで(初期は1倍から5倍までだった。難易度によっては4倍が最高になる場合や、全員に3倍が付けられる場合もあった)。最後の問題では、設定された倍率がさらに2倍になる。
番組の初期は、司会の巨泉、レギュラーオッズマンの藤村俊二と、ゲストオッズマン(ゲスト解答者と親しい人。例として、ゲスト解答者が植木等である第1回時のゲストオッズマンはハナ肇だった)の3人で解答者の倍率を決めていた。これは、解答者の正解不正解を、競馬の予想マーク(◎○△×)で予想するもので、3人全員がマークを付けない状態では「10倍」であり、マークの種類と個数に応じて倍率が下がる。ただし、どのマークでどれだけ下がるかの規則性は、番組内では明らかにされなかった。競馬の予想マークは倍率の下に表示していた。解答者が6人から5人に減らされた際に予想マークや倍率を下げるルールが廃止されて司会者が単独で倍率を決める方法に改められたが、「最高倍率は10倍(最終問題は20倍)」というルールはそのまま継続された。巨泉はこのリニューアルについてのちに「複雑すぎて視聴者に受け入れられず、視聴率が取れなかった。それなら思いっきり単純にしようと思って、オッズマン制をやめた」と語っている。
オッズマン制を導入していた初期は、巨泉の「では一斉に賭けてください」との合図で、出場者は正解すると思う解答者の番号(枠番)のスイッチと、その賭け点(100点単位)を参加者自身が入力する方式だったが、のちに司会者が「○○さんチーム、どこに何点(を賭けますか)?」と各出場者に振り、出場者は解答者の名前の書かれたプラカードを差し込みながら、「××さんに500点」(この宣言の際「堅実に」などと頭に理由やその解答者を持ち上げる発言をすることもよくあった)などを宣言する方式になった。解答者のテーブルには賭けられた出場者のチーム名が書かれたプラカードが上がる。
倍率は、概ね1枠・2枠・5枠には5〜10倍、3択問題では最大7倍[注釈 9]、3枠と4枠には2・3・4倍(いずれも最終問題はさらに2倍)がつけられることが多いが、まれに1倍がついたこともある。1倍の設定は正解率の高いはらたいらが多かったが[注釈 10]、その他の解答者でも専門・得意分野にちなんだ問題では1倍が設定されたことがあった。また番組初期から中期にかけてはごくまれに、はらに5倍、竹下にも5〜10倍(例:竹下が誕生する以前の時代での問題が出題された場合など)という高倍率が設定され、最終問題で彼らに10倍が出たこともある。
徳光への司会交代後の中期からは倍率が毎週ほぼ固定になり、問題内容に応じた個々の倍率判断が全くなされなくなった(例えば、第809回(1991年10月26日放送分)の1問目の主婦向けの問題に普段通りはらに2倍、竹下に3倍が付いたり、第791回(1991年6月15日放送分)で山田邦子の「邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド編)」の歌詞問題に井森に9倍が付くなど)。また時々つけられていた1倍という倍率もつけられることが少なくなっていった。
倍率発表の際の司会者の決まり文句としては、以下のものがあった。
本番組での的中時の配当とオッズの記述は、配当が先に決まっているブックメーカー方式にて行われている(逆に、締め切り後に掛け金をプールして最終的な配当を定めるのがパリミュチュエル方式で、中央競馬、競輪、オートレースなど日本における公営競技で採用されている)。
オッズの数字はブックメーカー方式での2対1等の表記を2倍などという数値で表現している(この場合、パリミュチュエル方式ではオッズ3倍という表記である)。このため、持ち点を賭けた時点では持ち点が減らないルールになっている。例えば3,000点を持っているチームが、3倍の解答者に500点を賭けて正解した場合の持ち点は「3,000+500×3=3,000+1,500=4,500」点となる。不正解の場合は「3,000-500=2,500」点(倍率は関係ない)となる。前述した1倍という倍率が存在したのはこのためである(1倍でも正解すれば点数が入る)。
「全員不正解」という事態は番組当初においては想定されておらず、初めて生じたときには通常通り「不正解者に賭けた」こととして減点されたが、その翌週より「そもそも誰が正解しているかを当てるゲームであり、全員不正解というのは根本的にゲームが成立していない状態である」という見解(実際の競馬でいうところの「競走不成立」となった状態と同じ)に統一され、「全員不正解の場合、賭け点はすべて返す」というルールが追加された。誰にも賭けられていない解答者が単独で正解した際(全チーム掛け点没収となる)に、巨泉がその解答者に「余計なことをしないで下さい!」などとこぼすのがお約束となっていた(特に高倍率傾向にあった1・2・5枠解答者に対して)。
解答者の解答中(シンキングタイム)には、スティーブン・フォスターの「草競馬」をヘ長調にアレンジした曲が流された。番組当初はなかったが、リニューアル後からBGMが流れるようになった。最初はエレクトーン演奏だったが、81年ごろにテーマ曲等のアレンジが一新された際、フルート演奏のものに変わり、最終回まで継承された。
クイズの解答はテーブルに設置されているロールペーパー式の解答用紙にマジックペンで書き、それを天井のカメラで撮ってモニターに映しており、文字は白抜きで表示される。また新しい紙は、解答者から見て左側にあるボタンを押すと出て来る。モニターが開いている時、解答用紙の所に手を置いたり顔が入ったりするとモニターに手や後頭部が映ったり、書いた解答が横にスクロールする所が見られることもあった。
「草競馬」のBGMが流れる時に巨泉が出題内容を復唱するが、それから数秒の間は解答の修正も認められている。最初の解答を消し答えを変更したり、複数の解答を羅列した後に最終的な答えを○で囲んだりすることが可能。特に2枠レギュラー解答者だった山崎浩子は時間ギリギリまで解答を悩むことが多く、巨泉に「浩子!早く一つだけにしなさい!」と注意されることが度々あった。
番組開始当初は、3択を含むすべての問題について、賭けられた解答者の解答のみを巨泉が「ハイ、開けてください!」などと言い開けるが、正解であってもファンファーレはなかった。その後賭けられなかった解答者全員の解答を一斉に開けて確認する。全員一斉に解答を開けたこともあった。
その後は司会者の「せーの、ドン!」[注釈 11](「○○さん、ドン!」などもあった)の掛け声とともに、解答者の頭上にあるモニターに解答が表示されるようになる。正解の場合は、正解した解答者のモニターの背景色が青から赤に変わり、倍率表示周りのランプが点灯回転する。さらに賭けられた解答者が正解ならファンファーレ(これも先の「草競馬」と同じく一度リニューアルされている)が鳴らされ、的中した出場者の得点表示周りのランプも点灯回転する。3組のいずれからも賭けられなかった解答者が正解の場合、ファンファーレはなく、観客の拍手のみ。不正解の場合は、モニターの背景色は青のまま。
解答の開け方には、順番に開ける場合と一斉に開ける場合とがあり、順番も以下に示すように、場合によってまちまちだった。
CMは1問目と5問目の解答発表の後に挿入されており、CMに入る際には「その前にこちらを」(徳光が司会となってからは「それではちょっとここでコマーシャルに入ります」)というCM予告が入れられた。
最終的に獲得した点数がそのまま1点=1円で賞金となる。最終問題までに持ち点が10万点に達するか超過した場合、または0点になると終了となり、次の問題以降は参加できなくなる。1987年に河出書房新社から刊行された番組本『クイズダービーベスト500』では、10万点という点数を『クイズダービー』の合格点と定義している。
持ち点が10万点に達するか、10万点を超えた場合、賞金は10万円となり、10万円を超えた分は、番組開始当初は身体障碍者の福祉支援団体「身障友の会」[注釈 12]、後に「TBSカンガルー募金」(現・「TBS未来への生命募金」[注釈 13])に寄付される。これは製薬会社団体の紳士協定により、懸賞賞金が10万円までと定められているため。1チームでも10万点獲得チームが現れると、エンディング曲のコーダ部がファンファーレとして鳴るとともに、出場者席の背後にある電飾および得点表周りの電飾が点灯し、紙吹雪と極細の紙テープの固まり2束が降り注ぐ中、男性には白、女性には赤のダービーハットがアシスタントから渡されてかぶる。
10万点獲得は最終問題で「最後の賭け」の結果達成するパターンが大半だったが、まれに最終問題に至る前に10万点獲得に至ったチームも現れた。番組後期では1987年11月7日放送分(第614回、JNN系列局内定者大会)で7問目でMBSチーム(加藤康裕・岩城潤子。共に当時大学生)、1988年4月9日放送分(第635回、TBS新番組対抗大会)では6問目で「海岸物語 昔みたいに…」チーム(奥田瑛二・麻生祐未)、1989年6月17日放送分(第694回、マンガ家とアシスタント大会)では7問目で中尊寺ゆつこチームがそれぞれ10万点を取っている。また、第7問目までに全チームがあわや10万点獲得に至るまでなろうとしていたことがあった。巨泉は最終問題前で10万点に到達するチームを「あがり」と言っていた。レギュラー回での最高点は1987年6月6日放送分(第593回)の安売り店の店員大会で、古物商チームが記録した819,000点であった。
大抵の回は10万点に達するチームあるいは0点になるチームが出たが、全チーム0点または逆に全チーム10万点となったケースもあった。また、全チーム10万点達成の時は「パーフェクト」と言っていた。最終問題であっても、確実に賞金を持ち帰るために、正解率の高い解答者に賭けて10万点に達しなかったチームもあれば、正解率の低い解答者に全額を賭けずに少し点数を残したチーム、または正解率の高い解答者に全額を賭けずに少し点数を残したチームもあった。
最終問題の解答が発表されると、エンディング曲が流れる中で司会者が解答者を巡り、次いで賭け手3組に簡単な感想を聞き、巨泉が「また来週」(徳光が司会となってからは「じゃあ今週はこの辺で失礼致します。どうもさようなら」)と締めの挨拶をして本編は終了する[注釈 14][注釈 15]。その際、5人の解答席の後部の解答表示のモニターが赤バックのクイズダービー表示、倍率表示盤に「20」が表示される。最終回のエンディングでは巨泉と徳光がスタジオ中央に並んで立ち、巨泉が「またこういう機会がありましたらお目にかかります」と言って締めていた。ちなみに、2015年の『中居正広の金曜日のスマたちへ』における復活版でも巨泉は「また来週」と言って締めたが、その後慌てて「あっ、また来週じゃないや、もうやんないよ〜ん!」と言っていた[注釈 16]。
この後はCM2本程度が流れてから、次回の大会内容とゲスト解答者[注釈 17] が予告された後に「クイズダービー おわり」の画面が表示され、「提供は、ロート製薬でございました」とのアナウンスとともにロート製薬の提供クレジットがなされ、番組が終了した(ここまでずっと番組テーマ曲がBGMとして流れている)。1986年10月4日放送分(第558回)より次番組予告が放送されていた期間は、ロート製薬の提供クレジット[注釈 18]が表示された後に、「クイズダービー おわり」の画面が表示され、放送終了のジングルが流れた後に次番組予告が流れて番組が終了した。
司会者席の上には、解答者全員の成績が「本日のレース結果」[注釈 19]として表示される。正解の際は当該箇所の赤いランプ(●印)が点灯する。表示は開始当初が15問目まで対応していたが、出題数が減っていくにつれ10問目までの対応となり、9問目以降は特番を除き使用されなくなった。5問目終了後のCM明けにこのボードで解答者の成績を確認していた。
番組初期は4つに席が分かれており、左からゲストオッズマン、レギュラーオッズマンの藤村俊二、司会者の巨泉、出題者の丹羽の順に座っていた。オッズマン制廃止後はオッズマンの位置に出題者が座るようになる。また、解答成績は司会者席と6枠解答者席の間にボード形式で立てていた。
司会者席にも解答をチェックするモニターが横に1列並んで設置されており(解答者席のものと同様に画面が青・赤バック表示のもの)、視聴者にも解答の模様を公開するための黒バックのモニター(「ただいま解答中!」)が上3つ・下2つに並んで設置されていた。
解答者席は実際の競馬で言うスタート地点(いわゆる「ゲート」)に見立てたものである。解答者の後方には解答モニター(通常は「クイズダービー」のタイトルロゴが表示されるが、番組改編期の特番では「春(秋)の豪華版スペシャルクイズまるごと大集合」と出ていた)が設けてあり、通常時は青バック、正解の場合はそれが赤バックとなり、不正解の場合は青バックのまま。当初は解答モニターを棚に飾る状態でのせていたが、解答席が6席から5席に変更された際、番組セットの壁でモニター画面の部分以外をすべてふさいだ。
解答者席の正面には倍率(オッズ)が電光表示され、賭けられた解答者の席では、賭けたチーム名が書かれたポールが自動的に立つ。正解すると電飾が点滅する。
解答者席の両側にはコンパニオンの出入口が配されており、出場者の10万点獲得時と、問題に関係した図表や物品を解答者に見せる際に使われる[注釈 20]。コンパニオンはエンドクレジットにアシスタントとして名前が出るが、どちらのケースもない場合は姿を見せなかった。
名札の字体は司会者変更直後までは全て手書きで、それ以降は5枠のゲストのみ定型丸文字に変更されていたが、1991年7月20日放送分(第796回)での1枠解答者交代に合わせてレギュラー解答者の分も変更された。
出場者席のテーブルにはパネル形式で、上にその問題の賭け点、下に現在の獲得点数がそれぞれ表示される。得点表示はソラリー式(反転フラップ式で、俗に言う「パタパタ」)で、賭けた解答者が不正解の際には動作音が響いていた。1988年1月2日放送の新春特番『豪華版お正月だョ!クイズダービー』にて優勝チームがトータル100万点を超過し表示不可能になり、巨泉がADの記したカンペを持参しての結果発表となって以来、特番のセットでは得点盤が6桁から7桁表示になっている。
解答者指名の際には、手元にある解答者名が書かれたネームプレートをポールに差し込む(初期は丸いプレートに電光表示で解答者の枠番を表示させていた)。番組開始当初は出場者が賭け点入力もしていたが、のちにスタッフに一任された。賭けた解答者が正解すると、出場者席のテーブルの電飾が点滅する(後方の電飾は点滅しない)。ネームプレートの字体は手書きだったが、第711回(1989年10月14日放送分)以降定型丸文字に変更されている。
1976年1月3日(第1回)の番組開始から1987年9月19日(第607回)放送分まで使われていた後方の電飾は、競馬場に採用されている競走馬の蹄をイメージしたゴール板を模したものである。出場者席の配色は左から赤・黄・緑。ただし番組開始当初は色分けされておらず、後方の電飾はすべて黄色。また上記のとおり、最初はだれが正解するかを予想するためのボタンとその電光掲示板があり、賭け点の入力も出場者自身で行っていた。
中期の新春特番や『クイズまるごと大集合』では、赤・黄・緑のほかにもう1つ青枠が登場した[注釈 21]。解答者席にある賭けたチーム名のポールは自動的に立つのが3チーム分(赤・黄・緑)しかないため、青枠分は出場チーム名が書かれたネームプレートを賭けられた解答者自らが答えを記入する前に手動で差し込んでいた。
1992年1月3日放送の新春特番『決定版!お正月だよクイズダービー』では出場者席が6枠あり、上下に3枠ずつ配置していた。フリップに解答者名と賭け点を記入して徳光の「ホールドアップ」という掛け声に合わせてフリップをホルダーに差し込んでいた。なお、解答者席のポールはすべて自動的に立てられた。
出場者席の上にはロート製薬の当時の主力製品(パンシロンG、キャシロン、新パンシロン、ロートAZ胃腸薬、パンシロン新胃腸薬、V・ロートクール、なみだロート、新V・ロート、新V・ロートプラス、ロートZi:、メンソレータムなど)の看板が掲げられていた。これらの製品名看板は、TBSチャンネルでの再放送でもそのまま表示[注釈 22]されており、番組冒頭にはその旨の断りのテロップが出る。
問題の読み上げ及び問題の正解である道具や正解の人物等が写ったパネルを出す役を担当。問題の読み上げ以外でコメントすることはほとんどなかった。
出題者名 | 出演期間 | 備考 | |||
---|---|---|---|---|---|
丹羽節子 | 1976年1月3日 | 第1回 | 1980年3月29日 | 第218回 | |
保田裕子 | 1980年4月5日 | 第219回 | 1984年3月31日 | 第427回 | |
きゃんひとみ | 1984年4月7日 | 第428回 | 1985年3月30日 | 第479回 | 当時琉球放送アナウンサー(出向で担当) |
小池達子 | 1985年4月6日 | 第480回 | 1991年3月30日 | 第781回 | 2000年と2004年の過去2回の復活特番も担当 |
渡辺真理 | 1991年4月13日 | 第782回 | 1992年12月19日 | 第862回 | 当時TBSアナウンサー。 司会が徳光に交代した後に就任したため、巨泉&渡辺という組み合わせは最終回の一度だけであった。 また、1991年10月頃から次回予告のナレーションを担当していた。 |
男性一発逆転枠。2枠よりは正解率は高め。徳光時代初期までは主に作家・大学教授等の文化人が入る枠であった。徳光時代の中期から後期はタレントが座り、末期では女性陣が座ることもあった。
解答者名 | 出演期間 | 成績 | 備考 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
鈴木武樹 | 1976年 | 2月14日第7回 | 1977年 | 6月11日第75回 | 289 | 399 | .411 | 公式な1枠初代レギュラー。 第11回参議院議員通常選挙への立候補(革新自由連合から出馬)により降板。 レギュラー着任前の1976年1月24日放送分で出場者として出演経験あり。 |
和久峻三 | 1977年 | 7月 2日第78回 | 1977年10月 | 1日第90回 | 19 | 52 | .269 | 2代目レギュラー。本業との兼ね合いにより短期間で降板。 |
篠沢秀夫 | 1977年10月 | 8日第91回 | 1988年 | 7月30日第651回 | 1423 | 2953 | .327 | 3代目レギュラー。1983年9月24日放送分は企画構成の都合上欠席。 レギュラー着任前の1977年1月29日放送分で出場者として出演経験あり。 レギュラー降板後も数回[注釈 26]ゲスト解答者として出演。 |
北野大 | 1988年 | 8月 6日第652回 | 1991年 | 7月13日第795回 | 318 | 842 | .276 | 4代目レギュラー。レギュラー着任前の1988年2月6日放送分にゲスト解答者として出演。 レギュラー降板後も数回[注釈 27]ゲスト解答者として出演。 |
植草克秀 | 1991年 | 7月20日第796回 | 1992年12月12日 | 第861回 | 129 | 329 | .284 | 5代目レギュラー。1992年7月4日 - 12月12日放送分は不定期出演。 レギュラー着任前に出場者・ゲスト解答者として出演経験あり。 1992年12月19日は出場者として参加。 |
女性大穴枠。長山藍子まではベテラン女優枠であったが、宮崎美子から若手女優・タレント枠に転向。不定期時は田中義剛などの男性陣が座ることもあった。
解答者名 | 出演期間 | 成績 | 備考 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
五月みどり | 1976年 1月 3日 | 第1回 | 1977年 1月29日 | 第56回 | 220 | 250 | .468 | レギュラー降板後も数回ゲスト解答者[注釈 28]、出場者[注釈 29]として出演。 1980年12月6日放送分は長山藍子の代役で2枠解答者として出演。 1992年1月3日放送の新春特番『決定版!お正月だよクイズダービー』では中盤戦のみ1枠で参加。 |
沢たまき | 1977年 | 2月 5日第57回 | 1977年10月 | 1日第94回 | 107 | 193 | .356 | レギュラー降板後の1978年12月2日放送分は出場者として出演。 |
うつみ宮土理 | 1977年10月 | 8日第95回 | 1978年 8月19日 | 第135回 | 183 | 201 | .476 | レギュラー着任前の1976年4月3日放送分に出場者、12月11日放送分にゲスト解答者として出演。病気療養により降板。 レギュラー降板後も1982年11月20日放送分にゲスト解答者、1992年12月19日放送分に出場者として出演。 1979年12月1日は長山藍子の代役で2枠解答者として出演。 |
南田洋子 | 1978年 | 9月 9日第138回 | 1979年 9月29日 | 第192回 | 99 | 358 | .217 | レギュラー降板後も数回[注釈 30]ゲスト解答者として出演[45]。 1992年1月3日放送の新春特番『決定版!お正月だよクイズダービー』では中盤戦のみ2枠で参加。 |
長山藍子 | 1979年10月 | 6日第193回 | 1981年 9月19日 | 第295回 | 237 | 555 | .299 | レギュラー着任前の1979年1月20日放送分にゲスト解答者として出演。 1979年12月1日、8日、1980年12月6日放送分はスケジュールの都合で休演。 レギュラー降板後も数回ゲスト解答者[注釈 31]、出場者[注釈 32]として出演。 1992年1月3日放送の新春特番『決定版!お正月だよクイズダービー』では中盤戦のみ3枠で参加。 |
宮崎美子 | 1981年 | 9月26日第296回 | 1983年 9月17日 | 第399回 | 341 | 511 | .400 | レギュラー着任前の1980年10月4日放送分にゲスト解答者として出演。 レギュラー降板回の1983年9月24日放送分は出場者として赤席で参加。 1986年3月22日、29日放送分は産休中だった竹下景子の代役として4枠で出演。 |
斉藤慶子 | 1983年10月 | 1日第401回 | 1985年 3月30日 | 第479回 | 174 | 461 | .274 | レギュラー降板後も1986年10月18日放送分にゲスト解答者、1990年3月31日放送分に出場者として出演。 1987年9月29日放送の『クイズまるごと大集合』内のコーナーでは山崎浩子の代役で2枠解答者として出演。 1992年1月3日放送の新春特番『決定版!お正月だよクイズダービー』では中盤戦のみ4枠で参加。 |
山崎浩子 | 1985年 | 4月 6日第480回 | 1988年 2月13日 | 第627回 | 330 | 862 | .276 | 1987年9月29日放送の『クイズまるごと大集合』内のコーナーでは休演。 レギュラー降板後も数回ゲスト解答者[注釈 33]、出場者[注釈 32]として出演。 |
井森美幸 | 1988年 | 2月20日第628回 | 1992年12月19日 | 第862回 | 375 | 1438 | .207 | レギュラー着任前に出場者として1回[注釈 34]、ゲスト解答者として3回[注釈 35]出演。 1992年1月3日放送の新春特番『決定版!お正月だよクイズダービー』では中盤戦のみ5枠にスライド。 1992年7月4日 - 12月12日放送分は不定期出演。 |
男性本命枠。漫画家枠だが、レギュラーで座ったのは黒鉄ヒロシとはらたいらの二人だけだった。週替わり制になってからもはらは最終回も含め不定期で出演している。但し不定期時ははらの欠席時、本来4枠レギュラーの竹下景子や秋山豊寛が座ることもあった。
解答者名 | 出演期間 | 成績 | 備考 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
黒鉄ヒロシ | 1976年 1月 3日 | 第1回 | 1977年 1月15日 | 第54回 | 312 | 159 | .662 | 本業との兼合いにより降板[注釈 36]。 レギュラー降板後も数回ゲスト解答者[注釈 37]、出場者[注釈 32]として出演。 |
はらたいら | 1977年 | 1月22日第55回 | 1992年12月19日 | 第862回 | 4842 | 1632 | .747 | レギュラー着任前の1976年8月7日放送分に出場者として出演経験あり。 1983年9月24日放送分は出場者として黄席で参加。 1981年4月25日放送分はスケジュールの都合で休演(この回は代役で福地泡介が出演)。 1992年7月4日 - 12月12日放送分は不定期出演。 |
女性対抗枠。当初は女子大生枠だったと巨泉は回顧しているものの、初期では代役として佐良直美が座っていたことがあった。不定期時は男性陣やベテラン女性芸能人が4枠に座った。
解答者名 | 出演期間 | 成績 | 備考 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
萩尾みどり | 1976年 | 1月 3日第1回 | 1976年 | 5月29日第22回 | 45 | 62 | .420 | 当時千葉大学在学中。 レギュラー降板後の1990年3月31日放送分は出場者として出演。 |
岸じゅんこ | 1976年 | 6月 5日第23回 | 1976年10月 | 9日第41回 | 114 | 91 | .556 | 当時國學院大学在学中。 |
竹下景子 | 1976年10月16日 | 第42回 | 1992年12月19日 | 第862回 | 4172 | 2418 | .633 | レギュラー着任前の1976年4月10日放送分で出場者として出演経験あり。加入当時は東京女子大学在学中。 1983年9月24日放送分は出場者として緑席で参加。 長男の産休代役で宮崎美子(元2枠レギュラー・1986年3月22日、29日放送分)と市毛良枝(1986年4月5日、12日放送分)が出演。次男の産休代役で原日出子(1988年10月15日、22日放送分)が出演。 『クイズまるごと大集合』内のコーナーでは秋吉久美子(1988年10月4日放送分)と市毛(1991年3月26日放送分)が代理出演。 1992年7月4日 - 12月12日放送分は不定期出演。 |
初期の解答者枠は6つあり、6枠がゲスト枠だった。ガッツの降板後に整理されて1枠減り、ゲスト枠が5枠に改められた。
※レギュラー放送全862回分、放送回として含まれていない1988年・1989年・1992年の新春特番にゲスト解答者として出演した著名人対象。レギュラー解答者経験者は除外。
それぞれ、最高記録のみ。
出演期間 | 司会者 | オッズマン | 出題者 | 解答者 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1枠 | 2枠 | 3枠 | 4枠 | 5枠 | |||||
1976.1.3 (第1回) |
大橋巨泉 | 藤村俊二 | 丹羽節子 | 畑正憲 | 五月みどり | 黒鉄ヒロシ | 萩尾みどり | ガッツ石松 | |
1976.1.10 (第2回) | 1976.2.7 (第6回) |
白石浩一 | |||||||
1976.2.14 (第7回) | 1976.5.29 (第22回) |
鈴木武樹 | |||||||
1976.6.5 (第23回) | 1976.7.3 (第27回) |
岸じゅんこ | |||||||
1976.7.10 (第28回) | 1976.10.9 (第41回) |
大橋巨泉 | (ゲスト) | ||||||
1976.10.16 (第42回) | 1977.1.15 (第54回) |
竹下景子 | |||||||
1977.1.22 (第55回) | 1977.1.29 (第56回) |
はらたいら | |||||||
1977.2.5 (第57回) | 1977.6.11 (第75回) |
沢たまき | |||||||
1977.6.18 (第76回) | 1977.6.25 (第77回) |
ハンス・エーリク・プリングスハイム | |||||||
1977.7.2 (第78回) | 1977.10.1 (第90回) |
和久峻三 | |||||||
1977.10.8 (第91回) | 1977.10.29 (第94回) |
篠沢秀夫 | |||||||
1977.11.5 (第95回) | 1978.8.19 (第135回) |
うつみ宮土理 | |||||||
1978.8.26 (第136回) | 1978.9.2 (第137回) |
高峰三枝子 | |||||||
1978.9.9 (第138回) | 1979.9.29 (第192回) |
南田洋子 | |||||||
1979.10.6 (第193回) | 1980.3.29 (第218回) |
長山藍子 | |||||||
1980.4.5 (第219回) | 1981.9.19 (第295回) |
保田裕子 | |||||||
1981.9.26 (第296回 | 1983.9.17 (第399回) |
宮崎美子 | |||||||
1983.9.24 (第400回) |
松崎しげる | 五月みどり | 黒鉄ヒロシ | 紺野美紗子 | 市毛良枝 | ||||
1983.10.1 (第401回) | 1984.3.31 (第427回) |
篠沢秀夫 | 斉藤慶子 | はらたいら | 竹下景子 | (ゲスト) | |||
1984.4.7 (第428回) | 1985.3.30 (第479回) |
きゃんひとみ | |||||||
1985.4.6 (第480回) | 1986.3.15 (第529回) |
小池達子 | 山崎浩子 | ||||||
1986.3.22 (第530回) | 1986.3.29 (第531回) |
宮崎美子 | |||||||
1986.4.5 (第532回) | 1986.4.12 (第533回) |
市毛良枝 | |||||||
1986.4.19 (534回) | 1988.2.13 (第627回) |
竹下景子 | |||||||
1988.2.20 (第628回) | 1988.7.30 (第651回) |
井森美幸 | |||||||
1988.8.6 (第652回) | 1988.10.8 (第661回) |
北野大 | |||||||
1988.10.15 (第662回) | 1988.10.22 (第663回) |
原日出子 | |||||||
1988.10.29 (第664回) | 1990.3.31 (第734回) |
竹下景子 | |||||||
1990.4.14 (第735回) | 1991.3.30 (第781回) |
徳光和夫 | |||||||
1991.4.13 (第782回) | 1991.7.13 (第795回) |
渡辺真理 | |||||||
1991.7.20 (第796回) | 1992.6.27 (第840回) |
植草克秀 | |||||||
1992.7.4 (第841回) |
早坂好恵 | 秋山豊寛 | 河内家菊水丸 | ||||||
1992.7.11 (第842回) |
加賀まりこ | 小川知子 | 竹下景子 | 和田アキ子 | 瀬川瑛子 | ||||
1992.7.18 (第843回) |
植草克秀 | 円広志 | はらたいら | 和田アキ子 | 福留功男 | ||||
1992.7.25 (第844回) |
|||||||||
1992.8.1 (第845回) |
井森美幸 | 田中義剛 | 竹下景子 | ジェームス三木 | 寺田理恵子 | ||||
1992.8.8 (第846回) |
稲川淳二 | 早坂好恵 | はらたいら | 小川知子 | 矢追純一 | ||||
1992.8.15 (第847回) |
植草克秀 | 井森美幸 | 竹下景子 | 円広志 | 春風亭小朝 | ||||
1992.8.22 (第848回) |
山崎浩子 | はらたいら | 久本雅美 | 大島智子 | |||||
1992.8.29 (第849回) |
? | ? | 秋山豊寛 | ? | ガッツ石松 | ||||
1992.9.5 (第850回) |
? | ? | |||||||
1992.9.12 (第851回) |
北野大 | 井森美幸 | 竹下景子 | 田中義剛 | 赤井英和 | ||||
1992.9.19 (第852回) |
坂本冬美 | 河内家菊水丸 | 池畑慎之介 | ||||||
1992.9.26 (第853回) |
植草克秀 | ? | はらたいら | ? | 笑福亭笑瓶 | ||||
1992.10.17 (第854回) |
円広志 | 高橋由美子 | 竹下景子 | そのまんま東 | 長与千種 | ||||
1992.10.24 (第855回) |
植草克秀 | 細川ふみえ | はらたいら | 寺田理恵子 | 神田正輝 | ||||
1992.10.31 (第856回) |
島崎俊郎 | 井森美幸 | 竹下景子 | 安部譲二 | 小池百合子 | ||||
1992.11.7 (第857回) |
植草克秀 | 早坂好恵 | はらたいら | ? | 中野浩一 | ||||
1992.11.21 (第858回) |
植草克秀 | 井森美幸 | 竹下景子 | 村野武憲 | 宝田明 | ||||
1992.11.28 (第859回) |
山口美江 | 井上晴美 | はらたいら | 小川知子 | 山咲千里 | ||||
1992.12.5 (第860回) |
蛭子能収 | 井森美幸 | 竹下景子 | 田中義剛 | 畠田理恵 | ||||
1992.12.12 (第861回) |
植草克秀 | 早坂好恵 | はらたいら | 円広志 | 錦織一清 | ||||
1992.12.19 (最終回) |
大橋巨泉 | 北野大 | 井森美幸 | 竹下景子 | 徳光和夫 | ||||
※レギュラー放送全862回分に出場者として出演した著名人。レギュラー解答者経験者は除外。
本放送時は通常は30分の放送だったが、『お正月だョ!クイズダービー』(1988年と翌年は『豪華版お正月だョ!クイズダービー』、1992年は『決定版!お正月だよクイズダービー』)と題した1時間のスペシャル[注釈 47]が新春特番として不定期ながら別枠で放送された。
放送日 | 放送時間 | 5枠ゲスト | 出場者 | ルール・概要 |
---|---|---|---|---|
1978年1月2日 (月曜) | 14:00 - 15:00(60分) | 青島幸男 | ? | 2日前の1977年12月31日に『第19回日本レコード大賞』が編成されたため、この日に差し替え放送。 全国年男年女大会と銘打ち、1978年に年男・年女を迎える出場者を招いた。 |
1983年1月1日 (土曜) | 18:30 - 19:30(60分) | ビートたけし | 美人女優チーム(夏目雅子、山田邦子) 美人歌手チーム(桜田淳子、高田みづえ) 人気力士チーム(若島津、大寿山) | 土曜放送だが、19:30 - 20:54に『8時だョ!全員集合』元日特番『お正月だョ!全員集合』が編成のため30分繰り上げ。 |
1984年1月1日 (日曜) | 18:00 - 18:54(54分) | 女優チーム(小柳ルミ子、叶和貴子) 歌手チーム(所ジョージ、井上順) タレントチーム(山田邦子、斉藤ゆう子) | 前日の1983年12月31日に『第25回日本レコード大賞』が編成されたため、この日に差し替え。 | |
1988年1月2日 (土曜) | 18:00 - 19:00(60分) | 西村晃 | キャスターチーム(森本毅郎、草野仁) アイドルチーム(杉浦幸、島田奈美) コメディアンチーム(小野ヤスシ、加藤茶) 女優チーム(上村香子、秋吉満ちる) 作家チーム(田中小実昌、安部譲二) 女子プロレスチーム(長与千種、ライオネス飛鳥) 宝塚OGチーム(汀夏子、松あきら) 男優チーム(三田村邦彦、滝田栄) 漫画家チーム(黒鉄ヒロシ、里中満智子) | 3チームを1ブロックとしてそれぞれ予選を行う。 クイズ終了の時点で持ち点の一番多かったチームが決勝へ駒を進める。 最終的に決勝で一番多く得点を取ったチームが優勝だった(持ち点はその時点から決勝へ引き継がれた)。 優勝、2位、3位のチームにはそれぞれ競馬に関する賞品が贈呈された。 また、解答者の中で珍解答を見せた1人に珍答賞が贈られた。 |
1989年1月1日 (日曜) | 和田アキ子 | アイドルチーム(酒井法子、相川恵里) 解説者チーム(田淵幸一、衣笠祥雄) 宝塚OGチーム(安奈淳、黒木瞳) 演芸チーム(海老一染之助、海老一染太郎) 演歌チーム(大月みやこ、牧村三枝子) プロ野球チーム(石毛宏典、工藤公康) 作曲家チーム(すぎやまこういち、猪俣公章) 女子プロレスチーム(長与千種、ライオネス飛鳥) コントチーム(ウッチャンナンチャン) | ||
1992年1月3日 (金曜) | 14:00 - 15:00(60分) | 加山雄三 | 女子ゴルフチーム(錦織一清、中島千尋、山崎千佳代) サッカーチーム(栗山英樹、ラモス瑠偉、武田修宏) 競馬チーム(富田靖子、松永幹夫、藤原英幸) カーレースチーム(柳沢慎吾、中谷明彦、服部尚貴) ボクシングチーム(渡辺満里奈、鬼塚勝也、竹原慎二) 女子テニスチーム(稲川淳二、伊達公子、宮城ナナ) | 徳光時代&平成では唯一の特番。 全13問出題が終わった時点で最高得点のチームが優勝。 10万点による上りはなし。 解答者指名は、解答者の名前と賭け点をフリップに書いて表示した。 中盤戦では当時のレギュラーである井森美幸を含めた歴代2枠解答者5名が問題に挑む形式のコーナーが行われた。 |
ダービー種別 | 1枠 | 2枠 | 3枠 | 4枠 | 5枠 |
---|---|---|---|---|---|
レギュラーダービー | 茂木健一郎 | ローラ | 東国原英夫 | 宮崎美子◎ | ガッツ石松◎ |
成績(倍率) | 2勝2敗(5,3,5,6) | 1勝3敗(8,5,7,20) | 1勝3敗(3,2,2,6) | 4勝0敗(2,3,3,8) | 0勝4敗(7,7,6,18) |
子役ダービー | 本田望結 | 秋元黎 | 相澤侑我 | 信太真妃 | 石井萌々果 |
成績(倍率) | 0勝2敗(3,3) | 0勝2敗(4,4) | 1勝1敗(2,2) | 1勝1敗(3,3) | 2勝0敗(2,2) |
女芸人ダービー | 黒沢かずこ(森三中) | 大島美幸(森三中) | 柳原可奈子 | いとうあさこ | 虻川美穂子(北陽) |
成績(倍率) | 0勝2敗(5,5) | 1勝1敗(5,6) | 1勝1敗(3,4) | 1勝1敗(3,3) | 0勝2敗(4,7) |
大御所ダービー | 丸山和也 | 斉藤慶子◎ | 渡辺正行 | うつみ宮土理◎ | 錦野旦 |
成績(倍率) | 1勝1敗(7,7) | 1勝1敗(4,4) | 1勝1敗(2,3) | 0勝2敗(5,6) | 0勝2敗(8,9) |
タカラ(現・タカラトミー)により当番組のボードゲーム化やパソコンゲーム化が行われている。
※系列は放送当時のもの。
放送対象地域 | 放送局 | 系列 | ネット形態 | 備考 |
---|---|---|---|---|
関東広域圏 | 東京放送 | TBS系列 | 制作局 | 現・TBSテレビ |
北海道 | 北海道放送 | 同時ネット | ||
青森県 | 青森テレビ | |||
岩手県 | 岩手放送 | 現・IBC岩手放送 | ||
宮城県 | 東北放送 | |||
山形県 | テレビユー山形 | 1989年10月の開局時から | ||
福島県 | 福島テレビ | フジテレビ系列 | 1983年9月24日打ち切り 1983年3月まではTBS系列とのクロスネット局[注釈 53] | |
テレビユー福島 | TBS系列 | 1983年12月10日から(厳密には11月26日の試験放送より) | ||
新潟県 | 新潟放送 | |||
長野県 | 信越放送 | |||
山梨県 | テレビ山梨 | |||
静岡県 | 静岡放送 | |||
富山県 | チューリップテレビ | 旧・テレビユー富山 1990年10月の開局時から | ||
石川県 | 北陸放送 | |||
中京広域圏 | 中部日本放送 | 現・CBCテレビ | ||
近畿広域圏 | 毎日放送 | |||
鳥取県 島根県 | 山陰放送 | |||
岡山県 →岡山県 香川県 | 山陽放送 | 1983年3月までの放送エリアは岡山県のみ 1983年4月の電波相互乗り入れに伴い香川県でも放送 | ||
広島県 | 中国放送 | |||
愛媛県 | 伊予テレビ | 現・あいテレビ 1992年10月の開局時から | ||
高知県 | テレビ高知 | |||
福岡県 | RKB毎日放送 | |||
長崎県 | 長崎放送 | 同時ネット →遅れネット →同時ネット | 1976年1月から3月までと1984年4月以降は同時ネットだったのに対し、1976年4月から1984年3月までの間は金曜19:00からの遅れネットで、期間中の当該枠は日本テレビ系列番組の同時ネット放送枠だった | |
熊本県 | 熊本放送 | 同時ネット | ||
大分県 | 大分放送 | |||
宮崎県 | 宮崎放送 | |||
鹿児島県 | 南日本放送 | |||
沖縄県 | 琉球放送 |
テレビ山口は1978年のクロスネット解消後も土曜19時台をフジテレビ系列の遅れネット枠に充てており(「オレたちひょうきん族」などを放送、2009年まで)、本番組は最終回まで未放送だった(19時からの「まんが日本昔ばなし」は遅れネット)。
以下の放送回は放送ライブラリーで視聴可能である。
放送日 | 放送回 | ゲスト解答者 | 放送ライブラリーによる解説ページへのリンク |
---|---|---|---|
1987年12月19日 | #620 | 井森美幸 | クイズダービー〔620〕 |
1989年1月28日 | #675 | 椎名桜子 | クイズダービー〔675〕 |
1991年1月5日 | #769 | 橋田壽賀子 | クイズダービー〔769〕 15周年記念 |
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