林葉直子
日本の女性将棋棋士、作家 ウィキペディアから
林葉 直子(はやしば なおこ、1968年〈昭和43年〉1月24日[1] - )は、将棋の元女流棋士、小説家、エッセイスト、漫画原作者、占い師。福岡県福岡市出身。福岡第一高等学校卒業、第一薬科大学薬学部中退。漫画原作者としてのペンネームに「かとりまさる」がある。アルコールの依存症による闘病生活でも知られている[2]。
略歴
要約
視点
女流棋士として
5歳の時に父親から将棋を教わり、女流アマ名人戦に小学6年生で優勝[3]するなど「福岡の天才少女」と騒がれていた[4]。
1979年11月、奨励会に6級で入会、蛸島彰子についで2人目の女性奨励会員となる。同時に小学校在学中に上京して米長邦雄宅に住み込みの内弟子として師事するようになる。同じ内弟子には弟弟子の先崎学らがいた[注 3][5]。奨励会には1984年まで在籍し、一時は4級まで上がるが最終的には6級で退会した。
1980年4月、女流棋戦主催者の強い要望を受けて、米長邦雄門下で女流2級でプロ入り[6]。女流棋士番号は16だった。早くも頭角を現し翌年の第4期女流王将戦リーグで勝ち抜き、1982年4月にタイトルに挑戦。同月27日に史上最年少の14歳3か月で初タイトルである女流王将を蛸島彰子から奪取。
その後、続けてデビューしてきた同世代の中井広恵・清水市代とともに1980年代半ばから1990年代半ばにかけて、女流三強時代を築き、三人の中のいずれかが女流タイトル戦に登場した。林葉はさらに女流の枠を超えて王座戦の予選でも対局した[注 4][7]。
女流王将戦においては第4期(1981年度・1982年4月)から第13期(1990年度・1991年4月)まで10連覇を達成(同一タイトル10連覇)。その功績が認められ、女流棋士初のクイーン称号「クイーン王将」を、9連覇後の1990年11月の「将棋の日」に贈られた[8][9][注 5]。
1995年2月1日、都内某ホテルにて林葉五段と日本将棋連盟から二段の認定を受けたSFC版『早指し二段 森田将棋』の対面を行った。待ち時間は10分に設定され、五番勝負としての対決を行った。開始から26分後、93手目に林葉五段の勝利で幕は下りた。艶やかな笑みをたたえ「コンピューターは定跡には対応できるけど、取るべき相手の駒を取らなかったり、相手の真意が読めなくなると混乱するようですね」とコメントしている[10]。
実力があるだけでなく、ルックスの良さもあいまって、テレビのドラマやCMなどにも出演。将棋の女流棋士の存在を世間に広めることに大きく貢献した。
作家として
1980年代から1990年代にかけて「とんでもポリス」シリーズや「キスだけじゃイヤ」シリーズなどのティーンズノベルやエッセイを執筆。同時期に『近代将棋』(ナイタイ出版)でも「直子の将棋エアロビクス」などの連載を持っていた[6]。
失踪騒動と将棋連盟退会
1994年5月29日に林葉は「心身ともに疲労を感じ極限状態にあるのですべての活動を停止ししばらく休養したい、保持していた倉敷藤花のタイトルも返上した上で、棋士としての処遇は理事会の決定に従う」という旨の休養願いを、理事の勝浦修を通じて日本将棋連盟理事会に提出し、姿を消した[6]。
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6月1日、理事会は林葉の功績を考慮し特例としてこれを受理。しかし、既にスケジューリングされている対局の扱いについて林葉と話し合う必要があるにもかかわらず、林葉との連絡が取れなかったため、行方不明として中途半端な状態が続いた。6月9日・10日の対局に林葉が現われなかったことで、6月11日に新聞・雑誌・テレビのワイドショーなどで林葉が失踪したと一斉に報じられた。実際にはこの時に林葉はロンドンへ行っていたのだが、様々なボタンの掛け違いで、海外での休養が失踪騒動として独り歩きしてしまった。河内家菊水丸が「ドバイの空港で見かけた」とラジオで発言したり[注 6][11][12][13][14]、中にはサティヤ・サイ・ババに会いにインドへ行っているというデマまで流れた[6]。
6月下旬、アイルランドに滞在していた林葉は国際電話で連絡を受け日本で騒動になっていることを初めて知り、急遽理事会の担当者に連絡し、詫び状を提出し早期復帰を約束した。しかし、月刊誌『マルコポーロ』(文藝春秋)が7月上旬にアイルランドで林葉に接触し、連盟の頭越しに林葉の独占手記を掲載したことで、理事会が態度を硬化させた。理事の中には強硬に林葉の除名を主張する者もいたという[6]。
その後、7月18日にイギリスから帰国。将棋連盟から3か月間の出場停止(7つの対局すべて不戦敗)、その期間の公的活動の停止と約150万円の損害金の支払いなどの処分を受けた。そして7月20日、釈明の記者会見を行った。
11月からの第2期倉敷藤花の番勝負で復帰するものの、精彩を欠き挑戦者の清水市代に連敗してタイトルを失った。
翌1995年8月24日、突如として日本将棋連盟理事会に退会届を提出、これが受理され将棋界を去ることとなった[6][15]。段位は女流五段で、最後の対局は8月8日の第22期女流名人位戦B級5回戦の山田久美戦であった。退会理由は「将棋が嫌いになったわけではないが、情熱が冷めた」ためとしている[15]。退会記者会見をしたその夜、林葉は新宿の料理店で行われていた羽生善治六冠と畠田理恵の婚約祝いの席へ駆けつけた[15][16]。
引退後しばらく林葉は「千駄ヶ谷近辺には行きたくない」と語り、将棋の盤駒や新聞の将棋欄などは見ないようにしていたという[16]。
女流棋士引退後
1995年、将棋連盟退会と同時期に写真集『CONFESSION 告白』にてヘアヌードを発表。さらに1998年には1992年から続いていた中原誠との不倫を告白し、再びワイドショーの話題となる[17]。この当時、これらの一連の出来事で良くも悪くも女流棋士の知名度を大いに高め、他の女流棋士は自らの職業を名乗ると「あの林葉直子の」と反応されることが多く、非常に困ったという[18]。
2004年、ペンネーム「かとりまさる」名義で、『月刊アフタヌーン』(講談社)で将棋をテーマとした漫画『しおんの王』の連載の原作者として執筆活動を行った。小説のつもりで原稿を編集者に見せたら、面白いので漫画の原作にしようということになり、2008年まで4年間続いた。かとりまさる=林葉直子であることは1年以上極秘とされていた。『しおんの王』はテレビアニメとして放送され、DVD化やゲームソフト化もされるなどヒットした[16]。
2004年、六本木で「Woo Curry」というインド料理店を経営する。店名は「うー、辛え」から。内装はミニクラブの居抜きで、インド人シェフによる本格的インドカレーの店だったが、経営は苦しく1年余りで閉店。店には将棋盤と駒が置かれていたり、林葉と同年代のプロ棋士や後輩の女流棋士が彼女の人柄を慕って店に通っていたり将棋関係者と交流が続いていたという[16]。
同年に飲酒の影響で肝硬変を発症。さらに父の借金が発覚したことで2006年には自己破産した[19][20][21]。
2008年、『しおんの王』の原稿を書き終えた後にも体調を崩して、半年ほど入院をしていた。退院後は福岡へ戻り、静養したり将棋好きな寺の住職と将棋を指したりの日々が続いた[16]。その後はタロット占い師として活動。
日本将棋連盟とは退会前後の騒動の影響で疎遠になったものの、2010年5月に将棋ペンクラブの交流会にゲストとして15年ぶりに将棋会館に足を運び、斎田晴子らと同席し[16]、2010年7月28日、親友である中井広恵の誘いを受け、日本女子プロ将棋協会 (LPSA) の公認棋戦である日レスインビテーションカップに主催者の日本レストランシステム特別推薦で約15年ぶりにプロ棋戦に登場(中倉彰子女流初段と対局して74手で敗北)[16]するなど、何度か将棋関連の活動を行なっている。また元師匠である米長邦雄が死去した際に、関係者として2013年3月号の『将棋世界』(日本将棋連盟出版部)で見開き2ページの破格の扱いで追悼文を寄せている。
病状の悪化は続き一時は体重が38kgにまで減少、余命1年を宣告される状況であったが一命を取り留め、その後は自身のブログなどを通じて近況報告を行なっている[22][20]。
人物
- 大山康晴十五世名人の大ファン。本人曰く「女流プロになりたての頃は、大山先生の魅力に気付かなかった私だが、今は、大山将棋の懐の深さと大山康晴に惚れてしまったのである」とのことで、2010年のLPSAでの復帰戦でも大山が揮毫した扇子を持って対局に挑んだほどである[23]。
- 中井広恵とは女流棋士時代からの親友で、退会後しばらくたった後も中井が福岡まで見舞いに訪れるなど交流を続けている[24]。
- 藤井聡太のファンであり、公式ブログでも度々藤井の話題を取り上げている。棋士引退後は長らく将棋から遠ざかり、その後の闘病生活の影響から生きる希望を失っていた時期もあったが、藤井の対局を見て再び将棋を指したいと思うようになり、生活習慣を見直して持病をコントロールするようになったと語っている。
- 私生活ではウロコインコを飼っており、テリー伊藤のYouTubeチャンネルに出演した際、このインコとの結婚式も挙げた。
- 食生活では激辛料理好き。前述の通りインド料理店を開店したものも辛い料理、特にカレーライス好きが昂じてのものだった[25]。大山康晴とは激辛好き同士ということで意気投合する仲だったという[26]。
主な成績
要約
視点
獲得タイトル
棋戦優勝
- レディースオープントーナメント - 優勝 1回(第3回 = 1989年度)
将棋大賞
- 第10回(1983年) - 女流棋士賞★
- 第11回(1984年) - 女流棋士賞★
- 第12回(1985年) - 女流棋士賞★
- 第14回(1987年) - 女流棋士賞★
- 第17回(1990年) - 女流棋士賞★
- 第18回(1991年) - 女流棋士賞★
★印は、女流の最高賞(1998年度までは「女流棋士賞」、1999年度から「最優秀女流棋士賞」が最高賞)。
昇段・昇級履歴
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- 1979年11月 - 関東奨励会 入会(6級、史上2人目の女性奨励会員)[27]
- 1980年[28] 9月 - 関東奨励会 5級
- 1983年[29] 1月 - 関東奨励会 4級
- 1983年[30] 6月 - 関西奨励会に移籍(4級)
- 1983年11月 - 関東奨励会に移籍(4級)[31]
- 1984年[32] 4月 - 関東奨励会 退会(6級、最高位 4級)
- 女流棋士
女流記録
アマ棋戦成績
- 1979年度 第11期女流アマ名人戦 優勝
年表 (女流棋士時代)
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年度 | 女流タイトル | その他 優勝 |
将棋大賞 | 備考 | ||||||
女流王将 4月 |
女流王位 4-6月 |
倉敷藤花 11月 |
女流名人 1-2月 | |||||||
1980年度 | - | - | - | 〈第7期〉 予備リーグ 昇級 |
1980年 女流2級 | |||||
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1981年度 | - | - | - | 〈第8期〉 挑決リーグ残留 |
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1982年度 | 蛸島彰子【奪取】 〈第4期〉oo- (1983年4-5月・1981年度) |
- | - |
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1983年度 |
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- | - |
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★女流棋士賞 |
女流名人 2連覇 | ||||
1984年度 |
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- | - |
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★女流棋士賞 |
女流名人 3連覇 | ||||
1985年度 |
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- | - | 挑/中井広恵【失冠】 〈第12期〉xxox- |
★女流棋士賞 |
女流名人失冠(全冠終了) | ||||
1986年度 | 挑/中井広恵 〈第8期〉xoo (1986年4-5月・1985年度) |
- | - | 中井広恵【敗退】 〈第13期〉xooxx |
女流王将 5連覇 | |||||
1987年度 | 挑/関根紀代子 〈第9期〉oo- (1987年3-4月・1986年度) |
- | - | 〈第14期〉 挑決リーグ残留 |
★女流棋士賞 | 女流王将 6連覇 | ||||
1988年度 | 挑/中井広恵 〈第10期〉xoo (1988年3-4月・1987年度) |
- | - | 〈第15期〉 挑決リーグ残留 |
女流王将 7連覇 | |||||
1989年度 | 挑/中井広恵 〈第11期〉xoo (1989年3-4月・1988年度) |
- | - | 〈第16期〉 挑決リーグ残留 |
第3回 レディースOP |
女流王将 8連覇 | ||||
1990年度 | Q 挑/山田久美〈第12期〉oo- (1990年4月・1989年度) |
挑/中井広恵【敗退】 〈第1期〉xxx-- |
- | 清水市代【奪取】 〈第17期〉oxxoo |
★女流棋士賞 | 女流王将 9連覇 11月「クイーン王将」 | ||||
1991年度 | 挑/斎田晴子 〈第13期〉oo- (1991年3-4月・1990年度) |
〈第2期〉 リーグ残留 |
- | 挑/中井広恵【失冠】 〈第18期〉xxox- |
★女流棋士賞 | 女流王将 10連覇 | ||||
1992年度 | 挑/清水市代【失冠】 〈第14期〉xox (1992年3月・1991年度) |
中井広恵【敗退】 〈第3期〉xxx-- |
- | 〈第19期〉 挑決リーグ残留 |
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1993年度 | 清水市代【敗退】 〈第15期〉xx- (1993年4月) |
〈第4期〉 リーグ残留 |
挑/斎田晴子【獲得】 〈第1期〉o |
〈第20期〉 挑決リーグ残留 |
||||||
1994年度 | 〈第16期〉 リーグ残留 |
〈第5期〉 リーグ残留 |
挑/清水市代【失冠】 〈第2期〉xx- |
〈第21期〉 挑決リーグ陥落▼ |
出場停止処分(3ヶ月間) | |||||
1995年度 | 〈第17期〉 リーグ残留/引退 |
〈第6期〉 リーグ残留/引退 |
〈第3期〉 敗退/引退 |
〈第22期〉 B級リーグ残留/引退 |
1995年8月24日 引退・退会 | |||||
年度 | 女流タイトル | その他 優勝 |
将棋大賞 | 備考 | ||||||
女流王将 4月 |
女流王位 4-6月 |
倉敷藤花 11月 |
女流名人 1-2月 | |||||||
合計 | 登場12回 獲得10期 |
登場 |
2回登場 獲得 1期 |
2回登場 獲得 4期 |
7回棋戦優勝 1回 |
女流棋士賞 6回 |
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タイトル獲得 合計15期 / タイトル戦登場 合計23回 |
著書
エッセイ
小説
- 講談社X文庫ティーンズハート 「とんでもポリス」シリーズ
- とんでもポリスは恋泥棒 (1987年)
- ラブコールはSOS とんでもポリス (1988年)
- ウワキなあいつを指名手配 とんでもポリス3 (1988年)
- 恋のアリバイをくずせ! 新とんポリ (1989年)
- キス100回の刑に処す! 新とんポリ (1989年)
- 吸血鬼は無実の罪 新とんポリ (1989年)
- 真犯人は恋わずらい 新とんポリ (1989年)
- 恋人捜査本部! 新とんポリ (1990年)
- 愛する心に手錠して 新とんポリ (1990年)
- 恋の現場に踏みこまないで 新とんポリ (1990年)
- 恋の証拠を捜しだせ! 新とんポリ (1990年)
- 恋の取調べは一晩中 新とんポリ (1991年)
- くちびるの罠に気をつけて 新とんポリ (1991年)
- 恋の病に110番 新とんポリ (1992年)
- 君を永久に逮捕する 新とんポリ (1993年)
- ベビー・とんポリ (1994年)
- 誘拐犯には赤いキス ベビー・とんポリ (1995年)
- ババサンの贈り物 ベビー・とんポリ (1995年)
- 追いかけて恋 (講談社X文庫 Teen's heart 1990年)
- 恋の方程式教えて (角川文庫 1991年)
- Help! 香織と達平のエイティーン・ラブ (講談社X文庫 Teen's heart 1991年)
- 講談社X文庫ティーンズハート「キスだけじゃイヤ」上・下巻 (1991年)
- キスだけじゃイヤ 2 あいつとアイツの巻 (1992年)
- キスだけじゃイヤ 3 ハネムーンは危険がいっぱい (1992年)
- キスだけじゃイヤ 4 とらぶるバレンタイン (1993年)
- キスだけじゃイヤ 5 恋のライバルを消せ! (1993年)
- キスだけじゃイヤ 6 青い瞳にダマされないで (1993年)
- キスだけじゃイヤ 7 ナイショで抱きしめて (1994年)
- キスだけじゃイヤ 8 危ないドクター (1994年)
- キスだけじゃイヤ 9 ウエディングベルが待てないの (1994年)
- キスだけじゃイヤ 10 秘密のタイムテーブル (1996年)
- キスだけじゃイヤ 11 ハートじかけの女神サマ (1997年)
- CD、ティーンズハート・シリーズ Vol.1「恋愛時間」(1992年4月22日、東芝EMI、TOCT-6446)
- キッスは死の香り (集英社、1992年)
- 気まぐれ天使は夜空がお好き! 恋の事件簿 (学習研究社、1992年)
- アブナイあぶないドミトリー! (集英社コバルト文庫、1992年)
- 恋は3段活用 スキ・ドキ・キス (角川文庫、1992年)
- あいつは恋のマジシャン!! (学研レモン文庫、1993年)
- Hッ!! (学研レモン文庫、1994年)
- 二人だけの秘密 (小学館パレット文庫、1995年)
- ナイショで魔法のkissをして! (小学館パレット文庫、1995年)
- 私の星の王子サマ (講談社X文庫 Teen's heart、1996年)
- 殺したい女 (ジャパン・ミックス、1995年)
- アバンチュール (書き下ろし短篇集 竹書房、1996年)
- 不倫旅行 夏 (山岸伸撮影 テイアイエス、1998年)
漫画
入門書
- 将棋ってなあに 親子で入門 (毎日コミュニケーションズ、1988年)
写真集
- CONFESSION 告白(竹書房、1995年)ISBN 4-8124-0005-8
- SCANDAL(テイアイエス、1998年)ISBN 4-88618-181-3
- 罰 NAOKO HAYASHIBA(モッツ出版、2001年)ISBN 4-944214-20-0
- 罪と罰(展望社、2014年)ISBN 4-88546-280-0
ディスコグラフィー
ドラマ出演
吹き替え
出演CM
ゲーム監修
ラジオ
- ときめきサンデー(KBCラジオ)[1]
占いコンテンツ
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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