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日本の女性漫才師 (1929-2024) ウィキペディアから
正司 歌江(しょうじ うたえ、本名:平井歌江、1929年〈昭和4年〉8月13日 - 2024年〈令和6年〉1月19日)は、日本の漫才師であり、漫才トリオかしまし娘の長女である。
旅役者だった両親の巡業先・北海道歌志内市で生まれ[2]と多くの出版物などに記載されているが、正司が2003年(平成15年)6月18日に北海道天塩郡遠別町で行われた、遠別町民大学第1講座で講演した際の広報えんべつ平成15年7月号の記事には遠別町字歌越生まれと記載されている。本人もこのことは知らなったらしく地元住民からこのことを告げられた。3歳で初舞台を踏む。1941年(昭和16年)頃、妹の正司照枝と組んだ姉妹コンビは天才少女漫才と喝采をあびた。1948年(昭和23年)にヒロポン中毒の男と駆け落ちし、照枝との姉妹コンビを解消。父親からも勘当される。その後、長野に逃げたものの再び連れ戻され、名古屋に転居。興行師の手引きで大阪に戻り、一時、難波のキャバレー「パラマウント」に勤めていたが、その興行師の紹介で富山で約10年間芸者として働く[3]。1956年(昭和31年)、姉妹の元に戻り、かしまし娘を結成。三味線を担当。1981年にかしまし娘の活動を休止した後は、女優としてテレビドラマやトーク番組、舞台演劇、映画、講演などで活躍している。
かしまし娘休止後は他のプロダクションに所属していたが、2007年(平成19年)に当時の所属事務所のアクターズプロモーションが倒産し、同年6月に松竹社長との会談で21年ぶりに松竹芸能に復帰したが、2009年(平成21年)3月に契約終了。2007年(平成19年)に客演したWAHAHA本舗に、2009年(平成21年)5月1日より正式入団。2009年(平成21年)4月18日、WAHAHAの公演ポスター撮影中に転倒して腰椎を骨折。4月19日から入院し、5月6日に退院。かしまし娘と磯野貴理子らと出演する舞台「やかましい人々」で復帰した。
自身の少女期についてヒロポン中毒のすさんだ生活を回顧しているが[4]、戦後の芸能界ではヒロポンが蔓延しており、ヒロポンを打たなければ芸人ではないというほどだった(1951年以前は使用も販売も合法だった)という。また、そうしたなかで暁伸・ミスハワイ、ミス・ワカサらはどれだけ勧められても敢然と拒否していたと振り返っていた。
なお、鈴鹿8耐に出場経験のある元オートバイレーサーで『欽ちゃんの仮装大賞』などを手がけるプロデューサーの平井秀和は歌江の息子である。
2024年1月19日、老衰のため大阪府の自宅で死去[5][6]。94歳没。最晩年は体調不良となり、約2年前から寝たきりで療養していたという[6]。
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