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日本の元プロボクサー、タレント ウィキペディアから
輪島 功一(わじま こういち、1943年4月21日 - )は、日本の元プロボクサー。元WBA・WBC世界スーパーウェルター級王者。
現在はタレント[2]、輪島功一スポーツジム名誉会長[3]。団子屋の経営も行っていた[4]。樺太豊原市(現・ユジノサハリンスク)出身、北海道士別市育ち。血液型はB型。
世界スーパーウェルター級王座を3度獲得(1度目と2度目はWBA・WBC統一王座で、日本人初の公式な(WBA・WBC分立後)統一世界王者でもある。3度目はWBAのみ)。"炎の男"の異名を持ち、"かえる跳び"等で知られる変則右ボクサーであった。具志堅用高、ガッツ石松、輪島の三人でボクシング界の重鎮として共演することが多い。
妻は現在ジムのマネージャーを務めている。元プロボクサーで現在はジム会長の輪島大千は次男、元ジャニーズJr.の輪島大生は孫(長男の息子)、元プロボクサーで現在はジムのトレーナーである磯谷和広は娘婿(長女の夫)、所属プロボクサーの磯谷大心は孫(長女の長男)にあたる[5]。
輪島の生まれ故郷の樺太が3歳の時(1946年)ソ連に占拠され、北海道に移住した。士別開拓作業に輪島の両親は苦労した。過酷な労働を強いられるも暮らしは楽にならず、幼少期は日々の食事にも困るばかりか冬になると自宅でも凍死の危険性に晒されながら夜を過ごしたという。一時期久遠村(のちの大成町、現在は合併によりせたな町)に養子に出された。
養父母に養われていた中学時代は夕方から明け方までイカ釣り漁の仕事(本人曰く、アルバイトではなく家族で生計を立てるためのもの)もした。大人たちは明け方から寝るが、輪島は学校へ行く時間。寝る時間は授業中しかない生活(本人談)が続く。
放課後、漁に出るまでの時間、友達と野球をして楽しむ。その当時から輪島は超人的なスタミナや並外れたど根性が培われた。
いつもはケンカなどはしない輪島だったが、友達をいじめたり暴れたりする上級生がいれば「許さん!」と立ち上がり、1対1でバスケットボールのゾーンで殴りあい、相手を負かして「正義の味方」と呼ばれた。決して乱暴者や不良ではなく、腕白だが友達思いの優しい少年であった。
のちに所属する三迫ボクシングジムの会長・三迫仁志は「輪島のすごいところは苦労人に在りがちな暗い表情が全く無く底抜けに明るくてひょうきんなところだ。たくさんの友人がいて、みんなが楽しそうにしてるのを見たら輪島の人柄がわかるでしょう」と輪島を評している。
漁では船酔いがひどく(体力は充分だったが三半規管が人より敏感で、6年もの間船酔いには慣れなかったという)士別高校を中退し上京。トラックの運転手などいくつかの仕事を経たのち、住み込みの土木作業員として働いていた。輪島本人が後年語ったところによれば、当時は若く体力が有り余っており、一日中過酷な肉体労働をしても疲労を感じないことに奇妙なストレスを感じていたという。そしてある日、作業現場からの帰り道にあったことから頻繁に練習風景を眺めていた三迫ボクシングジムに入門。この時のことを輪島は「一所懸命稼いだ金を、酒や博打のような下らないことに使いたくなかった。道場に通えば、疲れてくたくたになるまで思う存分ボクシングに没頭できる。毎日見ていて面白そうだったし、丁度いいじゃないかと思った」と述懐している。
その後も輪島はジム通いを続け、半年後にはプロライセンスを取得するまでに腕を上げる。そしてボクシングを始めて約1年後にあたる1968年6月15日、プロボクサーとしては当時極めて遅い25歳でデビューしその後7連続KO勝ちを収めた。試合のオファーはかませ犬役として多く、二つ返事で試合を受けたため、試合間隔が3週間弱の時もあった。
翌1969年には全日本ウェルター級新人王となった。なおこの時期輪島は勤務していた建設会社の社長からボクシングでの活躍を認められ、正社員に昇格。社員として身分を保証すると共に、プロボクサー活動に専念することを許された。
1969年9月4日、日本スーパーウェルター級王座獲得。10月には12戦全勝 (11KO) の勢いに乗って2階級下の世界王者ペドロ・アディグとノンタイトルマッチで対戦したが初回KOで敗れ、東京慈恵会医科大学附属病院に運び込まれた。輪島陣営はスーパーウェルター級で世界王者になるのは難しいと考え、アディグに勝てばスーパーライト級で世界王座に挑戦させようとしていたため、輪島は厳しい減量をして臨んでいた。アディグ戦から4か月後、輪島は日本王座をジョージ・カーターに奪われるが、2か月後の再戦で王座に復帰した[文献 1]。
1971年10月31日、東京・両国の日大講堂で世界初挑戦。WBA・WBC世界スーパーウェルター級王者カルメロ・ボッシ(イタリア)に挑む。素早いダッキングで相手の視界から消え、次の瞬間跳ね上がるようにしながらパンチを繰り出す「かえる跳び」で一躍有名になる。試合は15回判定勝ちを収め、世界王座を獲得した[文献 2]。この頃から三迫会長の実兄の長男将弘が輪島の付け人やスパーリングパートナーを務めていた。しかし、当の試合は郡司信夫に「あんなのはボクシングではない」と酷評されてしまった。
翌1972年5月7日、福岡スポーツセンターでの初防衛戦ではドメニコ・チベリア(イタリア)に開始1分49秒でKO勝ち[文献 3]、その後はマット・ドノバン(トリニダード・トバゴ)[文献 4]、龍反町(野口ボクシングジム)[文献 5]、地元・北海道でシルバノ・ベルチニ(イタリア)[文献 6]を退け、また2度に亘ってミゲル・デ・オリベイラ(ブラジル)から王座を防衛し[文献 7][文献 8]、世界王座通算6度の防衛に成功。
1974年6月4日、7度目の防衛戦でオスカー・"ショットガン"・アルバラード(アメリカ合衆国)と対戦し、最終15回KO負けを喫し、王座から陥落した[文献 9]。この試合で輪島が負ったダメージは大きく、試合後病院に直行しそのまま入院するほどだった。一時は医師から引退を勧められるも、退院後間もなく再起に向けトレーニングを再開。この頃輪島はアルバラード戦で得た教訓から、現在でいうインターバルトレーニングを導入している。
そして王座陥落から7か月後の1975年1月21日、アルバラードと再戦。15回判定勝ちで雪辱し、WBA・WBC王座返り咲きに成功[文献 10]。しかし輪島陣営が次期挑戦者を当時WBA世界ランキング1位の柳済斗(韓国)と発表したのに対し、WBCコミッション側は同団体世界ランキング1位だったミゲル・デ・オリベイラ(ブラジル)との対戦を要求。両者話し合いを行うも解決を得ず、輪島は王座獲得から2か月後の3月22日にオリベイラとの指名試合回避を理由にWBC王座を剥奪された。
同年6月7日、初防衛戦で柳済斗と対戦し、7回KO負けを喫しWBA王座から陥落した[文献 11]。だが、翌1976年2月17日、柳と再戦し15回KO勝ち。2度目の世界王座返り咲きを果たした[文献 12]。この翌日、東京・新宿区で起きた銀行強盗事件で犯人が立てこもった時[6][7][8]、警察官は「自首をして、あの輪島の根性を見習って人生をやり直してみろ」と言って説得している[6]。当時、テレビのボクシング中継が衰退する一方で、まだゴールデンタイムで日本タイトルマッチが放映されることもあり、輪島は日本人の持つ浪花節的な感覚を刺激して全国区の人気を博していた[文献 13]。しかしながら、5月18日の初防衛戦でホセ・デュラン(スペイン)に14回KO負けを喫し、三たび世界王座から陥落した[文献 14]。
1977年6月7日、3度目の世界王座返り咲きを懸け、WBA王者のエディ・ガソに挑むも、11回KO負けを喫した[文献 15]。結局この試合を最後に引退し、翌1978年春、後楽園ホールにて引退セレモニーを行った。
引退後は東京・西荻窪で『輪島功一スポーツジム』を運営。後進の指導に当たる一方、だんご店『だんごの輪島』経営、『東日本ボクシング協会』元会長、さらには芸能界でのタレント活動と幅広く活躍中。
2006年11月、元世界王者の渡嘉敷勝男、玉熊幸人、飯田覚士、戸高秀樹らとともに、袴田事件の再審を求める要請書を、最高裁判所に提出。元ボクサー袴田巌の無罪獲得のため活動を続けている。
輪島のボクシングスタイルは非常に変則的なもので、両腕を回すように動かしつつ不規則なウィービングで上体を振るファイティングポーズが最大の特徴である。この独特のリズムで相手を幻惑し、突如繰り出す強烈な左右のストレートで顔面を狙い打つという展開を好んだ。自身の代名詞ともいえる「かえる跳び」などのトリッキーな技の数々に埋もれがちだが、全盛期に見せた瞬時の突進力とピンポイントを打ち抜く正確な強打は特筆に価する。また、軽中量級の選手としては比較的ジャブを多用しない部類に入る。
輪島は試合の中で既存のボクシングの常識ではありえない変則的なテクニックをみせている。
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