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女優 (1924-2012) ウィキペディアから
淡島 千景(あわしま ちかげ、1924年〈大正13年〉2月24日 - 2012年〈平成24年〉2月16日[1])は、日本の女優。本名:中川 慶子(なかがわ けいこ)。愛称は「おけいちゃん」「けいちゃん」(本名の慶子から)。
あわしま ちかげ 淡島 千景 | |||||||||||
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『サンケイグラフ』1954年10月3日号 | |||||||||||
本名 | 中川 慶子(なかがわ けいこ) | ||||||||||
生年月日 | 1924年2月24日 | ||||||||||
没年月日 | 2012年2月16日(87歳没) | ||||||||||
出生地 | 日本・東京府東京市(現在の東京都)[1] | ||||||||||
死没地 | 日本・東京都 | ||||||||||
職業 | 女優 | ||||||||||
ジャンル | 歌劇、演劇、劇映画(時代劇・現代劇、トーキー)、テレビドラマ | ||||||||||
活動期間 | 1939年 - 2012年 | ||||||||||
配偶者 | 独身 | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
映画 『麦秋』[1](1951年 小津安二郎) 『にごりえ』(1953年 今井正) 『夫婦善哉』[1](1955年 豊田四郎) 『日本橋』(1956年 市川崑) 『螢火』(1958年 五所平之助) 『鰯雲』[1](1958年 成瀬巳喜男) 『この子を残して』(1983年 木下惠介) 『夏の庭 The Friends』(1994年 相米慎二) 『春との旅』(2010年 小林政広) | |||||||||||
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宝塚歌劇団出身で在籍時は娘役スターとして活躍した[1]。宝塚歌劇団29期生。芸名は百人一首の源兼昌の「淡路島 かよふ千鳥の なく声に いく夜ね覚めぬ 須磨の関守」から。
弟はSteve Nakagawa名義でアメリカのハンナ・バーベラ・プロダクションやランキン・バス・プロダクションで活躍したアニメーターの中川雄策[2][3]。
東京府出身。実家はラシャを扱うお店で日本橋に出店、自宅は大森にあった。自宅近くには蒲田撮影所があった。1930年、池上尋常小学校入学。卒業の少し前に一家が武蔵野町吉祥寺へ転居したため、武蔵野第一小学校へ転校。1936年、成蹊高等女学校(現・成蹊中学校)へ進学。
成蹊高等女学校卒業[1]後、1939年(昭和14年)に宝塚音楽舞踊学校に入学。その後、1941年(昭和16年)から1950年(昭和25年)まで宝塚歌劇団に所属。百人一首の『淡路島通ふ千鳥の鳴く声に 幾夜寝ざめぬ 須磨の関守』(源兼昌)から、『淡路千鳥』と名付けられるが、同じような芸名の団員がいたことから、『淡島千景』と芸名を変える[4]。
在団中は優れた美貌の主演娘役として戦時中・戦後と宝塚歌劇団を支えて、久慈あさみ、南悠子と共に『東京の三羽烏』と呼ばれた[5]。2人の男役から愛される娘役スターとして人気を得る。(淡島千景の大ファンであった手塚治虫本人が生前に(TBS「テレビ探偵団」第47回、1988年1月10日放送)のなかで語ったことによれば、手塚治虫の漫画『リボンの騎士』のサファイア王女は、もともと娘役である淡島が宝塚歌劇団在団中に数回男役を演じており(これは1948年1月の月組公演『ヴェネチヤ物語』の男装をするポーシャ姫の役を指すと推定されている)、淡島が劇中で何度か娘役と男役に入れ変わったことをモデルにしたのであるということである。戦争中に歌舞音曲停止令が発令されたとき、上京中で舞台稽古の真っ最中であったが、その日のうちに寄宿舎に帰され、宝塚に残るか挺身隊に入るかの二者択一を迫られたが、母親の助言もあって宝塚に残る決断をし、慰問の仕事に従事したという。
宝塚退団後は映画界に転向したが、その背景には、先輩であった月丘夢路の影響があったという。1950年(昭和25年)に宝塚歌劇団に辞表を出すが、トップスターであったため強く引き止められた。しかし決意を変えなかったために、劇団の怒りをかい、自主的退団ではなく解雇処分にされた。ただしのちにその処分の撤回を申し入れて受け入れられている[4]。
松竹に入社し、『てんやわんや』でデビュー[1]。第1回ブルーリボン賞演技賞を受賞。以降、『麦秋』、『本日休診』、『君の名は』などに出演し、松竹の看板女優として活躍。アメリカナイズされた戦後派の女性を演じ、銀幕のアプレガール(戦後派女性)第一号と称される。『自由学校』では、"とんでもハップン"という流行語を生んだ[6]。1955年には東宝に招かれ『夫婦善哉』(第6回ブルーリボン賞主演女優賞)にぐうたらな男を母性的に見つめる女で共演した森繁久彌との名コンビをみせ、コメディエンヌの魅力も開花させた。戦後日本映画の全盛期を支えた銀幕スターの一人である。
1956年にフリーとなり、以降、各社の映画に出演[7]。特に東宝では『駅前シリーズ』、『妻として女として』、『白と黒』などに出演し、東宝の看板女優として活躍する。
1964年東京オリンピックでの新聞社主催の観戦を機に、東洋の魔女と知り合う。彼女らのために「富士クラブ(フジクラブ)」を作り、淡島がオーナーに就く。監督は淡島のマネージャーである垣内たづ(垣内田鶴)[8]が務めた。チームは1965年の第20回国民体育大会バレーボール競技で優勝を果たした[9]。のちに、メンバーの一人である谷田絹子を、淡島の事務所の社員として雇った[10][11]。
1955年(昭和30年)に菊池寛賞、1988年(昭和63年)に紫綬褒章、1995年(平成7年)に勲四等宝冠章、2004年(平成16年)に牧野省三賞、2005年(平成17年)にNHK放送文化賞に輝いた。
宝塚の後輩である扇千景の芸名は淡島千景にあやかってつけた名前である。また淡島千景の大ファンでプライベートでも実妹のように可愛がられていた淡路恵子も淡島の淡の一字をもらって芸名をつけている。
87歳まで現役で、舞台を中心に旺盛な活動を続けた。また、日本俳優連合名誉副会長(2007年まで副理事長)として、長年俳優の権利向上などにも力を尽くした。
亡くなる前年の2011年春、70年以上にも及んだ淡島の女優人生にとって遺作となったTBSドラマ『渡る世間は鬼ばかり』への出演依頼を快諾。淡島の品が光る旅館の大女将役での出演であったが、夏の収録中に体調を崩し病院で検査を受けた結果、膵臓癌が見つかった。発見時にはステージ4まで進行していたが、淡島本人には告知をせず、淡島は病院から撮影現場へ向かっていたという。淡島が最後に出演した回は、2011年8月11日放送の最終シリーズ第41話であった。
その年を越すことができた淡島は、翌2012年正月ごろまでは親族と過ごしていた。その後病状が悪化し、東京都目黒区内の病院に入院した。
古巣の宝塚歌劇団が100周年を2年後に控えた2012年(平成24年)の2月16日午前9時40分、膵臓がんにより東京都目黒区内の病院で87歳で死去。[12][13]。生涯独身であった。戒名は「華優院慈篤慶純大姉」。
葬儀の参列者は司葉子、淡路恵子、八千草薫、鳳蘭、朝丘雪路、宇津井健、小山明子、高橋英樹、西郷輝彦、水谷八重子、沢田雅美、西川ヘレン、熊谷真実、藤田朋子、小林綾子、浅香光代、林与一、山田吾一、花柳壽輔、石井ふく子ら。
淡島の死後、借金騒動が起こった。内容としては、淡島は浪費家であり、稼いだギャラでさえ残していなかったというものであった。しかし、生前の淡路恵子は、この借金が取り巻きによって作られたものであり、淡島自身は仕事に懸命でそんなことは無縁であったと証言していた。ただし、淡島の名誉もあり、淡路は「天国で、私がお姉ちゃまに誰と誰がやったかを話す。」と、それ以上は語らなかった。
死後2年経った2014年、古巣・宝塚歌劇団100周年記念で創設された「宝塚歌劇の殿堂」最初の100人のひとりとして殿堂入りを果たしている[15][16]。
宝塚公演
宝塚退団後
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