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日本の女性テレビプロデューサー、演出家 (1926-) ウィキペディアから
石井 ふく子(いしい ふくこ、1926年〈大正15年〉9月1日 - )は、日本のテレビプロデューサー、舞台演出家。東京府東京市下谷区[1]池の端[3](現・東京都台東区下谷池之端)出身。元TBSテレビプロデューサー。
伊志井寛の長女にあたる。新東宝の女優活動から出発し、ラジオ東京(現・TBS)に入社。その後は、テレビドラマのプロデューサーとして、橋田壽賀子や平岩弓枝らとタッグを組み、多くのヒットドラマを世に送った。退職後、フリーとなった後は舞台演出なども手掛けている。
また、橋田文化財団にも協力している。
父は、劇団新派の俳優伊志井寛(ただし、戸籍と血縁ともに関係がない)。母は分川本の君鶴と呼ばれた芸者で、小唄の家元になった三升延である(両親について詳しくは後述「人物」の欄)。
文化学院に入学した後、東京女子経済専門学校(または女子経済専門学校附属高等女学校[4])に転校し、卒業後は新東宝の女優となった。女優業を辞めて1950年に日本電建へ入社して宣伝部に務め、1961年にTBSへ入社。
ほどなくして出会った橋田壽賀子、平岩弓枝などの脚本家たちとタッグを組んでTBSでドラマ制作に携わる。以降プロデューサーとして、『肝っ玉かあさん』『ありがとう』を筆頭に、『女と味噌汁』「カミさんと私」「おんなの家」「ぼくの妹に」「はじめまして」「家族」「道」「愛」「心」「出逢い」など、数々のホームドラマをヒットさせる。
数々のヒット作に携わったことから、一部のメディアから「作品選定の確かさと配役の妙を以て大ヒットドラマを生んだ」と評されるようになる[5]。
1974年にTBSを退社後、「TBS専属のフリーランスプロデューサー」の立場[6][注釈 1]だったが、2000年代以降は「想いでかくれんぼ」(2000年)、「夫婦」(2006年)、「結婚」(2009年)など、橋田壽賀子脚本・渡哲也主演のスペシャルドラマをテレビ朝日で手掛けている。ただし現在(2022年)は再びTBSと専属契約しており(何年頃専属に戻ったかは不明)、名刺もTBSのものを携帯している[5]。
義父・伊志井寛の勧めで1968年11月の新派公演「なつかしい顔」(新橋演舞場)から舞台の演出を手掛けるようになり、以来足掛け40年に渡り386作品を演出。近年は舞台作品の演出が活動の中心になっている。伊志井寛との関係から劇団新派との関わりが深く、京塚昌子を筆頭に新派出身の役者を多く自身のドラマや舞台に起用した。劇場は、名鉄ホール・芸術座・新橋演舞場・明治座・帝国劇場・飛天・近鉄劇場・松竹座・博多座・御園座・中日劇場・日生劇場・ル テアトル銀座・大阪新歌舞伎座・京都南座・新宿コマ劇場・三越劇場などで演出実績がある。
1996年1月24日、東京国税局から石井が社長の番組制作会社邑が、架空の経費計上して3年間で約6億3700万円の所得隠しを行い、約1億5600万円を脱税したとして法人税法違反(脱税)で東京地検特捜部に告発された。1997年6月30日、東京地方裁判所での初公判で石井は起訴内容を認め、検察側は懲役1年6月、邑に罰金5000万円を求刑して即日結審。1997年7月14日、東京地裁は懲役1年6月執行猶予3年の有罪判決、邑に罰金5000万円を言い渡した。判決ではこの事件で石井が邑の代表取締役及び取締役を退任、テレビドラマの仕事を降板したことが斟酌すべき事情に挙げられている[7][8]。1989年春の褒章で紫綬褒章を受章しているが、判決から3年後の2000年7月18日付で返上[9]。
長年の活動により、過去に3度ギネス世界記録に認定されている[2](1985年に「テレビ番組最多プロデュース」(1,007本)、2014年に87歳342日の「世界最高齢の現役テレビプロデューサー」、2015年に舞台初演作演出本数183作品)。
2014年4月より淑徳大学人文学部表現学科客員教授に就任。
本人によると9月半ばに生まれる予定だったが、ある時母が“9月1日に生まれた子は人に恵まれて育つ”という話を聞いた。生まれくる我が子の幸せのため母は9月1日に生むことを決め、危険な帝王切開を受けて石井を出産した[10]。
芸者だった母の影響で、3歳頃から習い始めた踊りに夢中になるが、小学校入学後は勉強嫌いのいたずらっ子となった。13歳の時にかっけを患ったため、踊りの道に進むのを断念した[10]。
文化学院に入学したが自由な校風があまり合わず、その後家を引っ越したのを機に転校。戦争が始まる前後に母が伊志井寛と親しくなるが、戦況の悪化により3人で山形県に疎開した[10]。
1945年19歳の頃に終戦を迎え[10]、東京に戻ると自宅は空襲で焼かれた後だったため、両親と3人で知人の家を泊まり歩いた。後日新宿駅で父の知り合いである長谷川一夫と偶然再会し、彼の厚意で親子で自宅の離れで暮らし始める[5]。当時長谷川家には彼の姪・長谷川裕見子[注釈 2]も暮らしており、石井は彼女と年が近い(裕見子の方が2歳年上)ことから親しくなった[注釈 3]。
長谷川一家と親しくなったことから、彼の紹介で新東宝のニューフェイスとして女優デビュー[5]。デビュー作は、『大江戸の鬼』という時代劇で、高峰秀子の友人役だった[10]。その後も端役で映画に出演したが、元々地味なことが好きで「女優のような派手なことは自分に向かない」と感じたため、デビューから3年で女優業に見切りをつけた[10][5]。
新聞の求人で見つけた住宅メーカーの日本電建に就職し、銀座の本社宣伝部で働き始める[注釈 4]。宣伝部は発足したばかりで何をどう宣伝するかも決まっていない状態で、同部社員も部長と課長と石井の3人だけだった。しかし、このおかげで新人の石井も気軽に意見を述べたり、行動を起こしやすいことから水が合った[5]。
当時はテレビよりラジオ優位の時代だったことから、石井は会社の宣伝のためラジオ番組のスポンサーになることを提案。これが通ってラジオ東京(後のTBS)と手を組み、新派の役者だった父のつてで若い俳優をどんどんキャスティングして朗読劇を放送してもらった[5]。その後とある作品で役者の人手が足りなくなった[注釈 5]のをきっかけに、映画俳優の貸し出しを頼むため配給会社にも訪れるようになる[注釈 6]。日本電建の社員ながらいつしかTBSのスタジオに入り浸り、徐々に行動力・交渉力などが評価され始める[5]。
1955年のTBSのテレビ開局直後、「『東芝日曜劇場』のプロデューサーになってほしい」と声がかかった[10]。当初日本電建の社員ということを理由に断るが、TBSの編成局長が日本電建の社長に直接掛け合ったことで、日本電建社員兼TBSの嘱託社員となることが決まる[注釈 7]。以後3年間は、「平日は日本電建の仕事、土日はTBSの仕事」と休日返上で働いた[10]。
その後TBSの上司から本格的に制作スタッフとしてドラマに携わるよう指示を受け、キュー出し[注釈 8]から仕事を学び始めた。いくつかの現場の仕事を経験した後、1958年にテレビドラマ『橋づくし』(原作・三島由紀夫)で初めて制作を手掛けた。それ以降プロデューサーとして原作者のドラマ化の許可などを交渉したり、キャスティングに奔走するようになる[5]。日本電建退社を機に、それまでTBS嘱託社員だったのが正式に社員になった[10]。
ちなみに原作者などの交渉でOKをもらうコツとして、「交渉は、とにかく一生懸命やること。『私はこの企画をやりたい。そのためにはあなたのOKが必要なんです』と素直な気持ちを相手に伝えるしかない」と語っている。また交渉には、必ず一人で行くことにしている。本人曰く「もし複数でお願いにあがっても全員が同じ気持ちとは限らないし、本当の熱意が伝わりにくい」とのこと[5]。
橋田壽賀子とは、1964年の「日曜劇場 愛と死をみつめて」で組んだことから親しくなった。それ以降橋田の作品に大きく影響するほどの親交があり、「石井ファミリー」(下記参照)「石井組」などと巷伝される役者たちは、橋田ドラマの常連俳優と事実上同じである。
池内淳子、吉永小百合、佐久間良子、若尾文子、三田佳子、淡島千景、京マチ子、中田喜子、坂口良子、山田五十鈴、森光子、いしだあゆみ、小川知子、松坂慶子、一路真輝、長山藍子、泉ピン子、竹下景子、野村真美、藤田朋子、赤木春恵、乙羽信子、杉村春子、山岡久乃、奈良岡朋子、京塚昌子、大原麗子、香川京子、草笛光子、河内桃子、山村聡、藤岡琢也、宇津井健、大空眞弓、石坂浩二、佐良直美、波乃久里子、井上順、前田吟、角野卓造、沢田雅美、三田村邦彦、船越英一郎、徳重聡、植草克秀、東山紀之、錦織一清、高島礼子、音無美紀子、熊谷真実、東てる美、岡本信人、松村雄基、渋谷飛鳥、清水由紀などを起用した。また、坂上忍、伊藤淳史、えなりかずきらは、子役当時より着目していた。
プライベートでは、橋田と元TBSテレビプロデューサー岩崎嘉一の交際を取り持ち、結婚にも携わり(結婚式の仲人も石井が務めた[11]。)その後1988年9月24日に橋田が翌年(1989年)の元日から始まるNHKの大河ドラマ「春日局」の準備をしていた頃、岩崎の肺腺がんの宣告を受けた。橋田は当初、岩崎の看病をしながら1年続くドラマの脚本を書き上げる自信はなかった。このことを相談された石井は、「いま番組から降りたら嘉一ちゃんは、自分ががんだって気づくかもしれないよ」と首を横に振り、橋田を励まして奮い立たせた[11]。
橋田からは「ふーちゃん」と呼ばれていた[5]。1994年10月から始まったNHK連続テレビ小説『春よ、来い』では、石井をモデルにした人物として花井涼子役が描かれた。
熱海(静岡県)にある橋田の自宅には、石井曰く「生涯で500回」ほど訪れた。また橋田は石井プロデュースの作品では、脚本を仕上げると必ず本人に渡したがり、たまに石井の都合がつかず代理の者がもらいに行っても渡してくれなかったという[5]。
ラジオドラマで山本周五郎の小説『こんち午(うま)の日』の使用許可をもらうため、当時横浜にあった山本の仕事場へ向かった。その時は「帰れ」と一喝されて門すら開けてもらえなかったが、めげずにその後4回ほど訪ねた。熱意を見せて頼み込むと、最後は根負けした山本から「いいよ」と許可をもらえた[5]。これを機に山本に気に入られて、以後彼の原作のドラマを何本も制作させてもらった。一時は山本の運転手代わりによく呼び出されるようになり、銀座でベロベロに酔った彼を車に乗せて横浜まで送ることも何度もあった[5]。
小説家だった平岩弓枝がシナリオの執筆をするきっかけを作ったのは、石井である。当初平岩にとある原作の使用許可をもらいに何度か伺い、やり取りする内にシナリオを書く才能を見抜き、口説き落としたのがその発端[注釈 9]。同じ執筆作業でも小説と脚本は違うため、平岩は初めて脚本を執筆する際石井と二人三脚で念入りに打ち合わせをして、シナリオを完成させた[5]。
高峰秀子は石井の生い立ちをもとに高峰唯一の脚本『忍ばずの女』を執筆、1994年には石井本人のプロデュースによりTBS系でテレビドラマ化された。主演の大原麗子が母親の芸者・君鶴を演じ、置屋の女将で君鶴の養母であり福子を育てた祖母を森光子、実父を渡部篤郎、義父の役者を風間杜夫、福子は子役3人が演じた。
もともと石井は、母の三升延が前夫の間に儲けたが、実祖母の子として届けた連れ子である。三升は周囲から反対された上で未婚の母として石井を出産し、女手一つで祖母との暮らしを支えた[10]。
その後三升と伊志井寛との結婚の際、彼が石井の入籍を拒否したため、のちに三升が養子として迎えた。石井は後に「戸籍上“伊志井は三升の夫”であって、私の父では無い[6]」と、著書「想い出かくれんぼ」で記している。
両親と一緒に暮らしたのは32歳になってからで、翌年結婚するまでのわずか9か月間だけだった[12]。
伊志井の没後、遺産の分配を求めて彼が認知した実子と騒動するも、継子であるふく子に相続権は存在せずに和解。のちに「20年以上経過してもなお、母と共に受けた屈辱として、その騒動のことを忘れていない[6]」と前著書で記している。
文化学院時代、国語で教鞭をとっていた与謝野晶子の授業を受けている[5]。
父が俳優、母が花柳界だったことから、戦後の自宅にはたくさんの芸能人が遊びに来るようになった。一例として父は江利チエミや美空ひばりから慕われ、母は高峰秀子や越路吹雪から慕われたとのこと[10]。
原節子のファンで、女優活動をしていた時に新東宝のプロデューサーに頼んで『女医の診察室』や『かけ出し時代』などの映画で共演させてもらった[5][10]。
香川京子とは新東宝時代からの長年の親友で、プライベートではよく2人で旅行もした[10]。また、石井がプロデューサーとして初めて制作したドラマ『橋づくし』で香川に出演を依頼した際、五社協定がある中彼女は所属先の映画会社と喧嘩してまで同作に出てくれたという[5]。
女優時代に映画『女医の診察室』の撮影期間中、憧れの原節子からチョコレートをもらったことがある。本人によると「あの時の味を忘れたくない」との思いから、現在(2024年)に至るまでチョコレートは一度も食べていないという[5]。
酒が飲めない体質である[5]。
現在(2022年)期待している俳優として、自身がプロデュースしたドラマ『あにいもうと』に出演した仲野太賀を挙げている[5]。
ドラマ『ありがとう』の主人公で水前寺清子に出演を依頼する際、「あなたは美人じゃない所が良い」と7回ほど連呼して説得した。これに対し水前寺は、「面白いことを言う方だな」と思い、出演を決めたという[10]。
※ 特記がない限り、プロデューサーを担当。
※ 放送局はすべて東京放送→TBSテレビ。
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