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日本の女優 (1933-2010) ウィキペディアから
池内 淳子[1](いけうち じゅんこ、1933年(昭和8年)11月4日 - 2010年(平成22年)9月26日)は、日本の女優[1]。
いけうち じゅんこ 池内 淳子 | |
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本名 | 中澤 純子(なかざわ すみこ) |
生年月日 | 1933年11月4日 |
没年月日 | 2010年9月26日(76歳没) |
出生地 | 日本・東京府東京市本所区東両国(現:東京都墨田区)[1] |
死没地 | 日本・東京都 |
血液型 | O型 |
職業 | 女優 |
ジャンル |
舞台 テレビドラマ 映画 |
活動期間 |
1955年 - 1957年 1958年 - 2010年 |
配偶者 | 柳澤愼一(1957年 - 1958年) |
主な作品 | |
テレビドラマ 『日日の背信』[1] 『女と味噌汁』シリーズ 『釜めし夫婦』 『甘柿しぶ柿つるし柿』 『国盗り物語』 『夏の影』 『幸福のとき』 『一人来い二人来いみんな来い』 『出逢い』 『出逢い・めぐり逢い』 『はまなすの花が咲いたら』 『天うらら』 『薔薇のない花屋』 『温泉へGo!』 『Wの悲劇』 映画 『新妻鏡』[1] 『花嫁吸血魔』 『けものみち』[1] 『男はつらいよ 寅次郎恋歌』 舞台 『三婆』 |
東京市本所区東両国(現:東京都墨田区両国)の塩物問屋の長女として生まれる。幼稚園はトモエ学園に通う。
1952年(昭和27年)、十文字高等学校卒業後、日本橋三越への入社試験に受かるも親の反対に遭う。しかし祖父の許しを得て無事に入社[1][2]、配属された呉服売り場に後の女優・前田通子もおり、そこで2人の美貌が評判となる。1年余り勤めたのちに退社し、花嫁修業のため和裁と料理の学校(日本女子割烹専修学校(現:池袋調理師専門学校))へ通った。
1954年(昭和29年)、週刊芸能誌『サンケイグラフ』の第2回「カバーガール」に応募。同年9月10日に新東宝本社で開かれた選考委員会で1位に輝く。『サンケイグラフ』は新東宝撮影所へ池内を推薦[3]。関係者の目にも留まり、同社へ入社した。偶然にも前田と再会した。
1955年(昭和30年)、『皇太子の花嫁』で映画デビュー。続く清水宏監督の『次郎物語』で姉役を演じ注目される。以来池部良、宇津井健の相手役として多くの作品に出演する。
1956年(昭和31年)、『新妻鏡』で初主演。久保菜穂子、三ツ矢歌子と共に「新東宝現代劇の女優三羽烏」として脚光を浴びる。その間、俳優の柳沢真一と結婚[1]。
1960年(昭和35年)、『花嫁吸血魔』(並木鏡太郎監督)で映画界復帰[1]。
映画出演と平行してTVドラマ『今日を生きる』、『日日の背信』(丹羽文雄原作、共演:原保美)などに主演(後者は昼ドラマにもかかわらず驚異的な高視聴率を記録、人気女優として名を轟かす)。
1961年(昭和36年)8月末日、新東宝は負債総額7億8千万円(当時)を抱えて倒産。東京映画へ移籍。『社長シリーズ』、『駅前』シリーズ、『花影』、『けものみち』などに出演。
1962年(昭和37年)、「よろめきドラマ」(現在の不倫ドラマ)には欠かせない存在として人気を集め、「日本放送作家協会女性演技者賞」を受賞。お嫁さんにしたい女優でも上位にランクインし、人気・演技力ともテレビ女優ナンバー1の地位を確立した。中でも『女と味噌汁』シリーズは毎回高視聴率を誇り、代表作となった[1]。
1966年(昭和41年)3月、「第8回マルデルプラタ映画祭」出席のため、南米アルゼンチンを訪問。
1974年(昭和49年)、日本テレビとテレビドラマ出演のための専属契約を結ぶ(特例条件としてTBS『東芝日曜劇場』と映画の出演は可)。この契約は1980年(昭和55年)まで続いた。
2007年(平成19年)4月、舞台『三婆(さんばば)』の地方公演中に胸の違和感を訴えて検査入院した処、間質性肺炎、胸水貯留、肺腫瘍の診断が下され、約3か月の安静加療が必要となった。そのため、同年5月25日から予定されていた『怪談牡丹燈籠』の全国公演の降板を発表(代役は水谷八重子)。同年6月に一旦退院、8月中旬からは民放の単発ドラマで仕事復帰していた[4]。
2008年(平成20年)4月、春の叙勲での旭日小綬章授与が日本政府より伝達された[5]。2009年11月、天皇陛下御在位二十年記念式典に出席した。同式典において、明仁天皇(当時)と美智子皇后(当時)が関心を持つ分野の代表者の一人として、池内が紹介された[6]。
2010年(平成22年)5月16日まで、名古屋の中日劇場で舞台『三婆』に出演していた[5]が、その後再入院。約4ヶ月後の同年9月26日午後4時21分、肺腺癌のため東京都内の病院で死去。76歳没。テレビドラマの遺作は、同年1月11日にTBSテレビで放送された『Wの悲劇』。
和服の似合う上品な美貌の持ち主として、1960年代から1980年代まで「テレビドラマの女王」として君臨[1]。血液型はO型。日本舞踊水木流家元栗島すみ子の弟子であり、名取「水木紅澄」でもある。
テレビドラマで毎作20%以上の視聴率を獲るために「20%女優」と言われ、花柳界を生きる芸者、愛人、妾、未亡人、認知症の女性などアンニュイな役から、白割烹着が似合う健気で爽やかなお母さん役まで自在に演じた。
また、橋田壽賀子・石井ふく子両氏の関連作品には、主演・助演関わらず多く出演していた。
2010年(平成22年)の池内の逝去時には、その報を受け、大空眞弓は「お別れが早すぎます」と哀悼の辞を述べ、黒柳徹子は「山岡久乃さん(1999年死去)と3人で一緒に老人ホームに入ろうね、って約束してたのに」とコメント[7]。池内の誕生日でもあった同年11月4日、芸能界仲間が多数参列の「お別れの会」が行われ、プライベートでも『お姉ちゃん』と呼び慕い、実の姉妹の様に仲が良く池内の親族と共に臨終も看取った長山藍子が世話人を務めたほか、友人代表として挨拶も行っている。「お別れの会」には佐久間良子、八千草薫、三田佳子、司葉子、淡島千景、水谷八重子、坂口良子、賀来千香子、石田ひかり、菅野美穂、宇津井健、中田喜子、野村真美、藤田朋子、小林綾子、沢田雅美、赤木春恵、前田吟、井上順、田中健、水野哲、森宮隆、徳重聡、松村雄基、石倉三郎、江原真二郎、中原ひとみ、朝丘雪路、三浦友和、高橋英樹、石井君子、清水曙美、鴨下信一、石井ふく子らが参列した。
プロ野球東京讀賣巨人軍のファンであることでも知られ、『ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗』(東宝映画)では川上哲治、長嶋茂雄、王貞治ら当時の巨人軍のスター選手と共演したこともある[8]。旧後楽園球場、東京ドームの年間ボックスシートを購入していたほどのファンだった[9]。生前は大の愛煙家でもあった。
1965年(昭和35年)の女優復帰作『花嫁吸血魔』で、毛むくじゃらの怪物に変身する悲劇の美女を変身後の姿まで演じた。この作品は、1980年代に名画座で度々上映され、ファンの間では、「結婚に反対した新東宝社長の大蔵貢から冷遇され、復帰後は不本意な役も泣く泣く引き受けなければならなかった」などとまことしやかな噂が立ったが、小林悟監督によるとこのような役回りは当時の新東宝の「エログロ路線」的には特別なことではなく、池内に限ったことではなかった。石川義寛監督は、「本当に嫌がらせをするなら映画に出さない」としてこの噂を否定している。同じ新東宝の俳優だった高橋勝二によると、当時池内はあまり目立った娘ではなく、高橋はそのような嫌がらせはなかったと証言している。池内の新東宝復帰は近江俊郎の口添えを基に大蔵社長の許可を得て成ったものであり、池内は1978年(昭和53年)の大蔵社長死去時には葬儀に参列している[10]。
※著作者表記別 NHK
日本テレビ系列
テレビ朝日系列
TBS系列
テレビ東京系列
フジテレビ系列
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