前田吟

日本の俳優 (1944-) ウィキペディアから

前田吟

前田 吟(まえだ ぎん、1944年昭和19年)2月21日 - )は、日本俳優。本名及び旧芸名は前田 信明(まえだ のぶあき)[3](出生時の姓は不明。詳しくは後述)。ティー・アーティスト所属。次男(前妻の連れ子)は俳優の前田淳[2]、四男は競技ダンス選手の前田亨。

概要 まえだ ぎん 前田 吟, 本名 ...
まえだ ぎん
前田 吟
前田 吟
本名 前田 信明
生年月日 (1944-02-21) 1944年2月21日(81歳)
出生地 日本山口県防府市
身長 170 cm
血液型 A型
職業 俳優司会歌手
ジャンル 映画テレビドラマ舞台など
活動期間 1964年 -
配偶者 元妻(1964年 - 1968年[1]
前妻(1971年 - 2021年、死別[2]
箱崎幸子(2022年 - )
著名な家族 前田淳(次男)
主な作品
テレビドラマ
家に五女あり
映画
男はつらいよ』シリーズ
八甲田山
真夏の方程式
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略歴

1963年4月、劇団俳優座養成所15期生となる[4][5][6]。同期に地井武男原田芳雄[注 1]夏八木勲小野武彦村井国夫林隆三高橋長英秋野太作浜畑賢吉竜崎勝栗原小巻太地喜和子赤座美代子三田和代ら、錚々たるメンバーが並ぶ、花の15期の一人であった[4][5]

1964年、『判決』第1シリーズ・第105話「沖縄の子」(NET)で、本名の前田信明で芸能活動を始めた[3]1965年、『純愛物語』(朝日放送)に主役として出演する。同年の小林正樹監督の『怪談』の端役で映画初出演[3]1967年より現在の芸名へ改名[3]

1969年、山田監督の映画『男はつらいよ』に寅次郎の妹さくらに惚れる印刷工・諏訪博役として出演[3]。この役柄に前田の人柄がベストマッチし、さくらと結婚した博として以後シリーズ50作全てに出演した。

1970年代から橋田壽賀子石井ふく子関連作品には多数出演しており、1976年の橋田ドラマ『となりの芝生』(NHK)ではマザコン&モラハラ夫を怪演[3]。特に1980年放送の『』(TBS系)での宮寺順一役は前田の代表作になった。

大映ドラマへの起用も多く、しぶとい悪役を演じた。特に1976年のドラマ『赤い運命』(TBS系列)では、強烈な悪役でお茶の間にインパクトを与えた[3]

1977年には、森谷司郎監督の映画『八甲田山』で斉藤伍長を演じた。

2002年4月1日から同年9月27日までの半年間、テレビ朝日系の『スーパーモーニング』の司会を務めた[7]。また、歌手としてもシングルレコード3枚、シングルCD1枚をリリースしている。

近年はテレビ・ラジオのバラエティ番組やトーク番組、新聞・雑誌等のインタビューへの出演も多い。2020年3月まで放送のテレビ東京系[注 2] のクイズ番組『二代目 和風総本家』の2代目司会を2019年5月16日から務めていた[注 3]

エピソード

要約
視点

生い立ち

山口県防府市生まれ[4][5]。父親は同盟通信(現在の共同通信)山口支局に勤務する記者[5]、母親はタイピストだった[5]。父親は1945年8月6日広島市への原爆投下の日広島市にいて消息を絶つ[5]。母は乳呑み児だった信明を抱えて路頭に迷い、親戚筋の子どものいない老夫婦に謝礼をつけて[5]、生後100日で前田家の養子に入れた[4][5]

物心がつき始めたとき、“親が年寄りなのはおかしいな”と薄々感じ始めた[5]。4歳の時に養母を亡くし[4][5][8]、12歳の時に養父を亡くした[4][5][8]。その後はふたたび親戚をたらいまわしにされ[4][5]、前田家を出てから4か月間は養父の親戚が暮らす電気も通っていない村で、ランプで生活した[5][8][3]。その村を出たあと防府天満宮近くにあった母の親類の家で暮らし、子供の頃は野球や剣道をして過ごしていた[3]。小学6年生の学芸会の『西遊記』で沙悟浄役を演じ、担任から褒められたことで役者という仕事に興味を持ち始めた[3]

中学は地元の進学校に進学して[3]実母がお金を出してくれて[5]、中学卒業後の1959年に山口県立防府高等学校に進学するが[8]、実母の再婚で送金が止まり[5]、1年で中退する[4][8]

大阪時代

15歳で高校中退後は「有名になってやろう」と大阪に出て、ボクサー歌手俳優を目指す[5]。ひとまず大阪市西区家具屋に丁稚(住み込み)して[5]、組立・販売・リヤカーでの配達業務をこなした[3]黒澤明監督の『野良犬』や『七人の侍』を見て感動したことにより本格的に役者を志し、演劇研究所「シャトル・アントンス」に通う[5]。同研究所に願書を送った際、「願書を受理した」との折り返しのハガキが届いたことで家具屋をクビになった[注 4]

都島区桜ノ宮で新聞配達の住み込みバイトを始め、昼間働きながら夜は研究所でレッスンを受けた[3]。同研究所の同期には、後にコメディNo.1を結成する前田五郎がいた[5]。後日疲れで寝坊してバイトをクビになった後、研究所近くにある四畳半の貸間に引っ越して活版印刷のバイトを始めた[3]。その約1ヶ月後に研究所が金の持ち逃げの被害に遭ったことにより、この演劇学校は潰れた[3]

ただし以後も稽古場は使える状態だったため仲間と演技の稽古を続けていたところ、講師をしていた倉橋仙太郎(新国劇の創始者)に身の上話をしたことで俳優教室に入る[5]。それと並行して高校卒業の資格を取るために通信教育の高校に入学[3]。また、倉橋の紹介で天王寺の結婚式場・天王殿の住み込みのバイト[3]や、天王寺公園ポン引きなどをして食い繋ぐ[5]

役者を目指して上京

1962年、通信教育による高校卒業資格取得後、本格的に役者を目指して上京する[3]。1963年4月、劇団俳優座養成所15期生となる[4][5][9]。同期に地井武男原田芳雄[注 5]夏八木勲小野武彦村井国夫林隆三高橋長英秋野太作浜畑賢吉竜崎勝栗原小巻太地喜和子赤座美代子三田和代ら、錚々たるメンバーが並ぶ、花の15期の一人であった[4][5]新宿歌声喫茶「灯(ともしび)」でボーイ[5]、工事現場、印刷工、サンドイッチマンなどの労働に励みながら役者になるチャンスをうかがった。 ほどなくしてオーディションを受け、東京芸術座研究所の第1期生となった[3]

若手時代の1968年、全国の労組の協賛で巡回上映された山本薩夫監督の映画『ドレイ工場』で、準主役である誠実な工員役を演じた[3]。この試写会にたまたま山田洋次監督が訪れ、「行員の演技が面白い」と山田の目にとまったことが、映画『男はつらいよ』シリーズへの出演に繋がった[3]

人物

俳優仲間からは「吟ちゃん」、後輩の役者達やタレント陣からは「吟さん」の愛称で呼ばれる。

家具屋時代に、当時大阪市淀川区十三で新婚生活を送っていた大村崑兵庫県尼崎への引っ越しを手伝ったことがある[3]

俳優座養成所のある公演で同期の原田芳雄とダブルキャストで演じることになった[3]。その稽古中、原田から「その訛りだと役者業をするのは厳しいぞ。矯正した方がいい」と助言され、その時初めて長州訛りでセリフを言っていることに気付かされ、毎晩標準語でセリフを言う練習に付き添ってくれたという[3]

私生活では、デビュー前の時点で既に結婚(1964年に2学年上の女性と結婚したとされる)していたが、当時の所属事務所から妻子の存在を公表しないよう厳命されていた[3]。このため表向きは都内のワンルームで一人暮らししており、妻子とは離れて生活していた(今で言う別居婚)[3]。最初の妻と離婚し、27歳で再婚したのを機に世田谷区の建売の家を購入して暮らし始めた[3]。2021年に2番目の妻をすい臓がんで亡くし、2022年に歌手の箱崎幸子(箱崎晋一朗の未亡人)と出会って数カ月で再々婚した[2]。世田谷区内に5DKの家を建てて暮らした後、2023年に自宅を売却して別の場所に引っ越した[3]

出演

要約
視点

テレビドラマ

※2017年9月18日に放送した渡る世間は鬼ばかり 史上初3時間スペシャルに出演

映画

舞台

ネットドラマ

バラエティ

情報番組

さらに見る 期間, 番組名 ...
期間番組名役職
2002年4月2002年9月 スーパーモーニング(テレビ朝日)総合司会
出演日時不明 はなまるマーケット(TBS)『はなまるカフェ』ゲスト出演
スタジオパークからこんにちは(NHK総合)ゲスト出演
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ラジオ番組

CM

歌手活動

シングルレコード

『ささやかな人生』は、主演映画『看護婦のオヤジがんばる』(原作:藤田健次)の主題歌。
『あゝ単身赴任〜昭和ひとり旅〜』は、同じく俳優の安井昌二ビクターエンタテインメント)・蟹江敬三日本クラウン)との競作。
武田薬品工業「タケダ胃腸薬21」CMソング。前田は滝里美とのデュエット。芦川よしみ矢崎滋(日本クラウン)・日野美歌葵司朗徳間ジャパン)らとの競作。

シングルCD

2曲ともに、三笠優子とのデュエット。

脚注

参考文献

外部リンク

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