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原爆の子の像のモデルとなった、広島への原爆投下による白血病で12歳で死去した佐々木禎子を描いた作品。手島悠介原作の児童文学『飛べ!千羽づる ヒロシマの少女 佐々木禎子さんの記録』(講談社・1982年刊)の映画化。神山征二郎監督。神山プロダクション第一回作品[1]。
昭和29年4月、広島。理髪店を営む佐々木健造・重子夫妻の娘で小学6年生竹組の禎子は活発で心優しくて友達も多く、楽しく暮らしていた。禎子は、山本明子たち学友と修学旅行、潮干狩り、林間学校と色々な行事を経験しながら季節は秋へと移り変わる。運動会で活躍する禎子だったが後日かかった風邪をこじらせ、リンパ腺が腫れてなかなか治らないため、重子に付き添われて近所の医者にかかる。
医者から原爆傷害調査委員会(ABCC)で検査を受けるよう勧められ、その結果禎子は白血病と判明し、余命数か月から1年と診断される。実は禎子は2歳の時の昭和20年8月6日、原爆投下の際に爆心地から2キロ離れた所で黒い雨を浴びていたのだった。医者から禎子の白血病との診断結果を知らされた重子と健造はショックを受けるが禎子には病名を告知せず、娘にできるだけのことをしようと決める。
両親から“リンパの病気”とだけ知らされた禎子は、廣島赤十字病院(日赤病院)の大部屋に入院して治療を受けることに。小学校の竹組では担任から禎子の入院が告げられ、明子たちは時々病院に見舞いに訪れて禎子との交流を続けていく。昭和30年4月、禎子は中学に上がるのを期に2人部屋に移り、年上の雨宮由紀子という少女と同部屋になる。由紀子から「千羽鶴を折れば病気が治る」と教えられた禎子は、回復を信じて毎日一生懸命に鶴を折り始める。
夏に千羽鶴を完成させた禎子は医者の許可を得て一時帰宅し、原爆投下からちょうど10年となる8月6日に健造、重子たちと原爆ドームに訪れて黙祷を捧げる。後日、退院する由紀子を見送る禎子だったが、直後に右足に痛みを感じると白血病によるあざができていた。その後も禎子は辛い病状にもめげずに2つ目の千羽鶴の完成を目指してさらに鶴を折り続けるが、病は徐々に彼女の体を蝕んでいく。
10月下旬、禎子の病室に泊まった重子は禎子と懐かしそうに思い出話をして過ごすが、翌朝娘は危篤状態となる。病室に健造や明子たち元学友が駆けつけた後、禎子は静かに息を引き取る。皆がその死を悲しむ中、重子は禎子が折った千羽鶴の一つの糸から数羽を外し、娘の形見として明子たち友達に渡していく。後日明子たちは、禎子を含めた原爆で亡くなった全ての子供たちの慰霊碑製作のための募金活動を街頭で行い、その後「原爆の子の像」が建立されるのだった。
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