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日本の女優、歌手 (1961-) ウィキペディアから
石野 真子 (いしの まこ、1961年〈昭和36年〉1月31日 - ) は、日本の女優、歌手。別名、石野 眞子[1]。
いしの まこ 石野 真子 | |||||
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本名 | 石野 真子 | ||||
別名義 | 石野 眞子 | ||||
生年月日 | 1961年1月31日(63歳) | ||||
出生地 | 日本・兵庫県神崎郡神崎町(現:神河町) | ||||
出身地 | 日本・兵庫県芦屋市伊勢町 | ||||
身長 | 156 cm | ||||
血液型 | A型 | ||||
職業 | 女優、歌手 | ||||
ジャンル | テレビドラマ、舞台、映画、歌謡曲、ポップ | ||||
活動期間 |
1978年 - 1981年 1983年 - | ||||
活動内容 |
1977年: 『スター誕生!』決戦大会合格 1978年: 「狼なんか怖くない」で歌手デビュー 同年: 「九月の空」で映画デビュー 1979年: 『熱愛一家・LOVE』でドラマデビュー 同年: 「ジュリーがライバル」でNHK紅白歌合戦初出場 1980年: 『なさけ坂旅館』(ドラマ) 同年: 「ハートで勝負」でNHK紅白歌合戦2回目出場 1981年:芸能界を一時引退、長渕剛と結婚 1983年:長渕との離婚により芸能界へ復帰 1986年: 『いのち』 1990年: 広岡瞬と再婚、芸能活動は続行 1996年: 広岡と2度目の離婚 | ||||
配偶者 |
長渕剛(1981年 - 1983年) 広岡瞬(1990年 - 1996年) | ||||
著名な家族 | 妹 (いしのようこ、宝乃純) | ||||
事務所 | フロム・ファーストプロダクション | ||||
公式サイト | プロフィール | ||||
主な作品 | |||||
テレビドラマ 『いのち』 『君の瞳をタイホする!』 『特捜戦隊デカレンジャー』 『花より男子』シリーズ 『いい女』 『光る君へ』 映画 『九月の空』 『特捜戦隊デカレンジャー THE MOVIE フルブラスト・アクション』 『花より男子F ファイナル』 | |||||
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備考 | |||||
靴のサイズ23cm、みずがめ座 |
兵庫県神崎郡神崎町(現:神河町)生まれ、同県芦屋市伊勢町出身。フロム・ファーストプロダクション所属。日本テレビ『スター誕生!』出身。第20回日本レコード大賞新人賞受賞、NHK紅白歌合戦出場歴2回。実妹に女優のいしのようこ (旧表記・石野陽子)と宝乃純[2]。
みずがめ座のA型 (アイドル時期のファンクラブ会報にはO型との表記がある。編集段階でのミスか、幼少時の検査結果によるものかは不明) 。両親と妹2人の5人家族。父親はビーズ製のハンドバッグ製造会社の経営をしていた。石野が幼いころの実家では大型犬のセント・バーナード (名前は「バズ」) を飼っていて可愛がっていた」[3][4]。物心ついたときから歌が好きで、このころはまだ何となくではあったが自然と「テレビの中の世界で歌いたい」と思うようになった[5]。
4月、尼崎市のカトリック系女子校の私立百合学院中学校に進学。父親は非常に躾が厳しく、中学・高校時代の門限は16時30分で、1分でも遅刻すると「どこへ行ってたんや」と父親が玄関で待ち構えていた[4]。帰宅後は、実家で製品確認などの家業手伝いをしていた[6]。
中学1年のころ、日曜日の午前11時に放映されていた日本テレビ系列のオーディション番組『スター誕生!』をよく見ていた。同番組から歌手デビューした白いエンジェル・ハットの桜田淳子の活躍を見て「私もあんなふうにテレビに出たい」と密かに決意する。
中学時代に自宅でよく歌っていたのがアグネス・チャンの「ひなげしの花」。初めて買ったレコードが荒井由実の「あの日にかえりたい」だった。
中学3年後期、躾に厳しかった父親も習い事には理解を示し、歌が好きだった石野は「歌のレッスンを受けたい」と相談すると、「きちんとしたところに通うんやったら、ええやろう」と許可された。母からは「あなたは歌手に向いていると思う」と応援してくれた[5]。平尾昌晃歌謡学院大阪校 (現在の平尾昌晃ミュージックスクール大阪校)のオーディションを受けて合格、同校のレッスン生となり通うことになった。入学審査オーディションで石野が歌ったのは、アグネス・チャンの「冬の日の帰り道」。
このころにデビュー前の川崎麻世と文通をしていた[7]。この時期二人は、共に平尾昌晃歌謡学院大阪校へ通う生徒だった。
4月、百合学院高等学校に進学(同高校には2年生の2学期までの在籍。歌手デビューのため上京した2年生3学期からは都内の堀越高等学校へ転校)。この年の秋、平尾昌晃歌謡学院の講師から「本気で歌手になる気があるならオーディションを受けてみないか、君の実力ならきっと受かると思う」と勧められる。これがきっかけで日本テレビ系のオーディション番組『スター誕生!』に応募ハガキを出す。父親に「オーディションを受けてもいいかな?」と訊ねると、「どうせ落ちるやろから、まあええよ」と反対されなかった[4]。
1月26日、『スター誕生!』の予備審査と予選会を勝ち進み、本選の大阪大会(豊中市民会館、テレビ放送日1977年2月13日)に出場。ダニエル・ビダルの「天使のらくがき」を歌った。本人によると歌唱審査でこの曲を選んだ理由は、「それまでの『スタ誕』では多くの出場者が日本の歌謡曲を歌っていたので、少しでも印象づけるためフレンチ・ポップスのこの曲を選んだ」としている[5]。審査発表では会場の一般審査員からの得点だけで合格点を超えてしまい、阿久悠ら専門審査員を驚かせる[注 1][注 2]。合格ラインは250点((5人出場時の大会では300点)で、この日の石野の最終得点は530点になり1,000点の過半数を独占した結果になった[4]。しかし、最終目標は後日合格者が集まって開催される「決戦大会」に出場して芸能事務所からのスカウトを受けることであり、ここでスカウトされなければ「歌が上手な一般人」で終わる[8]。なお、この大阪大会に出場した際、バーニングプロダクションのスカウト担当者から「もし決戦大会でダメでもうちに来ませんか、責任を持って歌手に育てますから」と声をかけられていた[4]。
3月23日、『スター誕生!』第20回決戦大会に出場(会場:東京・後楽園ホール、放送日: 1977年4月3日)。母に付き添われて上京すると、石野にとって初めての東京は「まるで外国に来たような感覚だった」という[5]。父親から「これに落ちたら、もうオーディション番組を受けたいなんて気持ちを起こすんじゃないぞ」と念を押されて挑戦した。再びダニエル・ビダルの「天使のらくがき」を歌う。「11番、石野真子、一所懸命頑張りました、どうぞよろしくお願いします!」と挨拶した石野に対し、スカウト意向の芸能事務所プラカードが16社挙がる。スカウト希望した事務所には、ビクター音楽産業、バーニングプロダクション、田辺エージェンシー、第一プロダクション、キングレコード、徳間音楽工業、ワーナーパイオニア、日本コロムビア、長良音楽事務所(名称は放送当時)などがあった。なお、同決戦大会の合格者には石野の他、翌1978年の同期歌手デビューの渋谷哲平がいた[4][9][注 3]。
石野本人の『スター誕生!』審査時の書類が残されている。そこには「テレビに出演するにあたってのあなたの抱負は?」との質問があり、「新人賞をとりたい、誰からも愛されたい」との回答が記されている[9]。
『スター誕生!』決戦大会の勝因について尋ねられた石野は、「選曲が自分に合っていたことと、自分で勝手に考えた振り付けが歌に合っていたことが良かった(のではないか)」と後にコメントしている[4]。
デビュー前からファンが付いていたと言われているが、実際に『スター誕生!』第20回決戦大会(1977年4月3日)のスカウト発表場面のDVD映像によると、素人の石野に対して早くも会場の男性ファンから「真子ちゃーん」との声援が飛んでいることが確認できる。
デビュー後はゲストとして何度も出演し、後年「『スター誕生!』は私にとっては家族的な雰囲気の番組でした。スタッフが皆優しくて、特にチーフ・プロデューサーの池田文雄さんにはその後も色々と気にかけてもらったり、奥様が私のステージを観に来て下さったこともありました」と語っている[5]。
『スター誕生!』の合格を経て、石野の所属事務所はバーニングプロダクションに決まる。事務所選定時のエピソードについて後の取材で石野は、「何かホントに素人判断なのですが、バーニングには先輩に郷ひろみさんがいらっしゃるから大丈夫じゃないか、と思ったんです。もちろん両親や周りのスタッフの方とも相談して決めましたが、当時の事務所の専務さんから「当社はあなたを将来こういうふうにしたい」という温かいお手紙をいただき、ここだったら安心、みたいな気がしました」(2009年4月、YOMIURI ONLINE)
その後、約1年間をかけてデビューへの準備を行う。父親の希望もあってデビュー曲が出来上がるまでは芦屋の実家で歌のレッスンに励み、高校2年の夏休み1ヶ月間は東京へ出向いて日本テレビ音楽学院に通った[4]。デビュー曲の作曲を担当する吉田拓郎と東京・六本木のバーで初対面する。この時の「石野真子」の印象を、吉田は後の著書の中で「本当にこの人デビューするんですか?と思うほど太っていたが、不思議な芸能界は3ヶ月後(レコーディングの時)には見違えるほど変身させて連れて来た」[10]、と記している。
所属事務所からデビュー曲が決定したとの知らせが届き、レコーディング準備に入るため、1月7日、上京することになった。電話の受話器越しに作曲者の吉田拓郎が歌う「狼なんか怖くない」のデモテープを初めて聴き感激したという。レコーディングに関しては「狼なんか怖くない」の「レコーディング」の項を参照。
3月25日、デビュー・シングル「狼なんか怖くない」(作詞: 阿久悠/作曲: 吉田拓郎/ジャケット撮影: 篠山紀信)がビクターから発売。アイドル歌手として芸能界にデビューした。当時のアイドルには必ずと言っていいほどキャッチフレーズが付けられており、石野に付けられたものは「100万ドルの微笑」。ファースト・アルバム『微笑(ほほえみ)』の帯にもその記述が見られる。また、八重歯と垂れ目であることをチャームポイントにしていた[11]。「狼なんか怖くない」を観客の前で初披露したのは、TBSテレビの『笑って!笑って!!60分』。後日感想を訊かれて「私の歌をあんなに喜んでくださるなんてもう最高!、すごく嬉しかった!」とコメント[4]。
3月27日、デビュー2日目にフジテレビ系列の音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演。「狼なんか怖くない」を歌い終えた石野に対し、司会者の芳村真理は「いやー真子ちゃん、デビューして2日目!ご苦労様でした!」と声をかけている[注 4]。
デビューからしばらくの間、石野が仕事の移動で使っていた車はマネージャーの井上が運転する「フォルクスワーゲンの真っ赤なビートル」。これは所属事務所の1年先輩の高田みづえが使用していた車を譲り受けたもの[4]。また、当時は極度の男性恐怖症があり、男性マネージャーと2人で車に乗っている時はいつでも車から飛び降りられるように助手席のドアノブを握っていた。
6月25日、シングル2作目「わたしの首領」(わたしのドン)発売(作詞担当の阿久悠は、当時広島で起きていた暴力団抗争からヒントを得て、「首領」を「ドン」と読ませた)。
8月、デビューシングルと2作目を作曲した吉田拓郎がパーソナリティーを務めるラジオ番組『セイ!ヤング』にゲスト出演。本番中のCM開けのジングル「♪セ〜イ!ヤ〜ング♪」を口ずさんだ石野は吉田から「そうやって、いつも歌ってるわけ?」と尋ねられ、「子供のころからいつも歌っています」と告白。また、自分を動物に例えると何?とのリスナーの質問に、石野が「タヌキ…じゃないですか?」と答えると、吉田は「僕は自分をカモシカだと思ってますけどね」と応じて石野を笑わせた。また吉田は番組内で石野について「あなたは頭が良い」「あなたはラジオよりテレビのほうが面白い!」と称賛した。
当時披露した物まね芸に、アメリカ人美女プロゴルファー「ローラ・ボー」(1978年8月、文化放送『吉田拓郎のセイ!ヤング』で披露。当時流行した日清製油 (現・日清オイリオグループ)のテレビCMに出演した)の歌真似と、「アグネス・チャン」(1979年7月20日、日本テレビ『カックラキン大放送!!』で披露)[9] などがあった。
8月27日、いわゆる「西武園1万人コンサート」開催。この年8月最後の日曜日に、自身初となるコンサートを西武園(埼玉県所沢市)で行う。ファンの集いを兼ねたこのコンサートは「石野真子のドンとやってみよう、宿題なんか怖くない、1万人大集会」というタイトルで中高生をターゲットに開催したもので、石野の歌を楽しむ一方、大学教授を招き夏休みの宿題対策を冗談を交えて行う企画だった。集まったファンへのプレゼントとして夏休み期間のお天気情報(天候、気温、湿度)が配られた[4]。
10月5日、シングル3作目「失恋記念日」発売。
10月22日、初めて出演する映画『九月の空』が松竹大船撮影所にて撮影開始。高橋三千綱の芥川賞受賞作品『九月の空』を映画化したもので、山根成之監督作品。主人公の高校生・小林勇(坂東正之助)に淡い憧れを抱く初々しい女子高生の松山小夜子役。また、石野の所属事務所先輩の郷ひろみが、ライバル高校の剣道部員役で友情出演している。この映画には主演の坂東正之助とのキスシーンがあったが、元来恋愛に奥手でプライベートですらキスの経験がなかった石野は撮影当日、相当緊張した。キスシーンの撮影自体は1度でOKを出せたものの、本番後の石野は大粒の涙を流した[13]。
11月18日、マスコミ関係者を招き東京プリンスホテルにて「早く来い来い、クリスマス・ホームパーティ」を開催。これは石野サイドが普段お世話になっているマスコミ関係者とその家族に感謝の意を表して企画した“ちびっ子サービスを交えたアットホームな歌のショー”である[注 5]。
12月2日、映画『九月の空』が松竹系映画館で公開。同時上映は『博多っ子純情』。
12月31日、「失恋記念日」が第20回日本レコード大賞新人賞を受賞[注 6]。「『失恋記念日』は賞を頂けたということで、いつも唄う時には1曲につき2着の衣装があったんですけど、3着・4着と増えたっていうのがすごく嬉しかった」[14]。その後、ビクターレコードの先輩歌手で、かつ石野と同じ『スター誕生!』の出身者でも有る、日本テレビ系列特別番組『ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!』へ、ゲスト生出演した。
1月11日、イタリア・サンレモ音楽祭に出演(新宿音楽祭金賞受賞者が派遣されていた)。
1月25日、シングル4作目「日曜日はストレンジャー」発売。バーニングプロダクションの当時のプロデューサー小口が企画段階から「次のシングルは徹底的に明るい歌にする」としていた作品[13]。
1月31日、TBSの連続テレビドラマ、水曜劇場『熱愛一家・LOVE』に出演が決まり、撮影初日。石野がスタジオに姿を現すと、照明が消えてハッピー・バースデーの曲が流れ、バースデー・ケーキにロウソクが灯り共演者や撮影スタッフから拍手が沸き起こる。18回目の誕生日をサプライズ企画で祝ってもらい感激したという[3]。
2月14日、TBS水曜劇場『熱愛一家・LOVE』放映開始。石本家の末娘、高校生のみどり役で出演[注 7]。
ドラマデビューとなった『熱愛一家・LOVE』出演について後年の取材コメントで、「当時は“女優”とか“演じる”とかの意識はほとんどなかったのですが、現場がものすごく楽しかったのはよく覚えています。森光子さんや泉ピン子さん、西田敏行さんとか、素晴らしい俳優さんたちに囲まれて、私は能天気に本当に自由に伸び伸びとやらせていただいたので、NG出したらどうしようかとか先輩が怖いとか、そういうのは全くありませんでした」(2009年4月、YOMIURI ONLINE)
4月5日、シングル5作目「プリティー・プリティー」発売。
6月25日、水着姿で出演した日本テレビ系『紅白歌のベストテン』の中で、「(自分は)スタイルが悪いので水着を選ぶのに苦労する」とコメント[9][15]。
7月5日、シングル6作目「ワンダー・ブギ」発売。
7月16日、野球チーム「PRETTIES」結成[9]。このチームのユニフォーム姿でフジテレビ系『夜のヒットスタジオ』に出演して「ワンダー・ブギ」を歌ったことがある。
8月23日、「第5回日本テレビ音楽祭」開催。デビュー2年目の歌手の中で最も活躍した歌手に与えられる「金の鳩賞」を受賞する。石野は前年の新人賞に続いての受賞。「ワンダー・ブギ」を披露[3]。
8月、週刊TVガイドのチャリティーオークションに出品したペンケースとボールペンが140,851円で落札される。
9月25日、シングル7作目「ジュリーがライバル」発売。この曲のレコーディングで「石野は感情の入れ方が上手くなった」と周囲のスタッフが感じ始める[3]。
10月27日、TBSラジオ『真子のワンダーランド』出演(毎週土曜17時30分〜、〜1981年4月4日)[3]
12月、仕事で札幌に行った時に偶然ペットショップで黒いプードルの子犬を見かける。「黒いフサフサの毛が、可愛くって可愛くって堪らなかった」ので、石野はマネージャーに相談し購入を決定(年明け1980年1月にその子犬をマネージャーの婚約者が東京まで運び、石野の元に届けられる)。子犬は「ツン」と名付けられた(名前の由来は二説あり、(1)初め呼んでもツンとしていたから[3]、(2)歩くと足の爪が「ツンツン」と音を立てるから)。
12月31日、「第30回NHK紅白歌合戦」に『ジュリーがライバル』で初出場。石野は紅組のトップバッターとなり、この年の紅白歌合戦1曲目を歌った。
1月1日、シングル8作目「春ラ!ラ!ラ!」発売。この曲は自己最大のヒットとなる。
1月13日、ニッポン放送『真子と水島裕のスマッシュ・ルンルン』出演(毎週日曜17時〜、〜1980年10月5日)[3]。
3月3日、堀越高等学校を卒業。デビュー直後から多忙になり、単位不足で1年留年した後の卒業であった[4]。留年後の同期卒業生には、渋谷哲平、岩崎良美、レコードデビュー直前の松田聖子(NHKレッツゴーヤングのサンデーズで活躍中)がいた[3]。
3月10日、芦屋市の実家が失火で全焼する。出火当時、石野は静岡県内で開催された千昌夫ショーにゲスト出演していて、終了後にスタッフから「家が全焼した」と連絡を受け、涙ぐんだという。
3月21日、テレビ朝日系列の連続ドラマ『なさけ坂旅館 一日三食人情つき』放送開始(金曜21時〜、〜9月26日(全26回))。東京神楽坂にある旅館「丸川」を舞台に三代の女系家族が織り成す人情ドラマ。主演は山田五十鈴、共演者には市原悦子、林隆三らが揃っており、前年出演のドラマ『熱愛一家・LOVE』に続いて共演者に恵まれた[3]。
4月5日、シングル9作目「ハートで勝負」発売。オリコン週間ランキングは自己最高の15位に上昇した。
4月13日、NHK『レッツゴーヤング』(毎週日曜18時〜)の新司会(榊原郁恵の後任)を太川陽介と共に務めた(〜1981年3月7日)。
5月25日、東芝日曜劇場「およめちゃん」に初出演。「熱愛一家・LOVE」のディレクター・鴨下信一が、石井ふく子プロデューサーに紹介し、出演が実現した。「およめちゃん」は好評のため、その3まで製作された(共演:山村聰・おりも政夫・織本順吉、脚本:折戸伸弘、演出:鴨下信一、プロデューサー:石井ふく子)。
7月5日、シングル10作目「めまい」発売。
8月28日、日本テレビ系列『日本テレビ音楽祭』のトップ・アイドル賞を受賞。昨年まで女性部門は山口百恵が連続受賞していた。“普通の女の子が歌をうたっているだけ”と日頃から思っていた石野にとって思いがけない受賞で、「ありがとうございます、ホントにありがとう、こんな私がトップ・アイドル賞をいただけるなんて」と笑顔でコメントしていた[16]。
8月30日 - 31日、日本テレビ系の24時間テレビ 愛は地球を救う3でメインパーソナリティーを務める。
9月21日、シングル11作目「彼が初恋」発売。
11月21日、自身初となる両A面のシングル12作目「フォギー・レイン/恋のハッピー・デート」発売。なお「恋のハッピー・デート」は、当時の流行グループ歌手だったノーランズのカバー曲で、元のタイトルは「Gotta Pull Myself Together」。歌番組での石野は「恋のハッピーデート」を披露することが多かった。
12月31日、「第31回NHK紅白歌合戦」に2年連続2度目の出場を果たし、青いレオタード衣装で「ハートで勝負」を披露。また同じNHKの『レッツゴーヤング』でバックダンサーを務める「サンデーズ」の面々も駆け付けた。なお現時点で石野のNHK紅白歌合戦は、同回が最後の出演となっている。
2月5日、1981年で最初となる13作目のシングル「思いっきりサンバ」をリリース。
4月12日、日本テレビ系『スター誕生!』の新司会を坂本九と共に務める。4月21日、14作目のシングル「彩りの季節」をリリース。
6月、シンガーソングライター・フォーク(当時)歌手の長渕剛と婚約・結婚を前提に交際宣言を発表。その際石野は同年8月末をもって、歌手活動を含めた芸能界からの引退を表明する[17]。
6月21日、2ヶ月連続リリースの第1弾としてシングル・15作目の「恋のサマー・ダンス」を発売。
それから1か月後の7月21日、2ヶ月連続リリースの第2弾シングル・16作目「バーニング・ラブ」発売。これが石野のアイドル時代で最後に発売したシングルとなった。
7月26日、金沢市観光会館を皮切りに「Bye-Bye MAKO グッドラック・コンサート」が全国18ヵ所で公演。8月30日、「Bye-Bye MAKO グッドラック・コンサート」最終日(渋谷公会堂)。日本テレビ「日曜スペシャル・いよいよ引退!石野真子ラストコンサート」でその様子がテレビ生中継された[9]。当時、女性アイドル歌手(デュオ・グループを除く)の「引退コンサート」としてテレビで生中継されたのは、山口百恵と石野の2人だけだった。
9月6日、日本テレビの『スター誕生!』最後の司会を務める回の放送日(録画)。この回の収録では番組サイドが石野の引退に配慮して、「石野真子ヒット・メドレー」のコーナーを番組内に組んでいる。「わたしの首領」「プリティー・プリティー」、「彩りの季節」の3作をメドレーで歌い、最後に「バーニング・ラブ」を披露した[9]。ちなみに『スタ誕』の進行の役目は石野にとっては気苦労が多く[注 8]、坂本九がリードしてくれたのが支えだったという。後年「今の私があるのは『スター誕生!』のおかげ、デビューできたことに加え、番組終了後もいろんなところで気にかけていただき、関係者の皆様にお世話になっていました。今でも感謝しかありません」と述べている[5]。
芸能活動引退直後の1981年9月、長渕剛との婚約記者会見を行う。石野は幼いころから、幸せな結婚をして家庭に入ることが夢のひとつであった。また、長渕から「家庭に入って欲しい」と望まれたこともあり、結婚出来るのであれば喜んで芸能界を未練なく去る気持ちだったという。
長渕剛との出会いは、シングル「順子/涙のセレナーデ」が大ヒット中だった1980年、ニッポン放送『長渕剛のオールナイトニッポン』でパーソナリティを務めていた長渕の希望を受けて、番組の構成作家だった秋元康が石野のゲスト出演をセッティングしたことがきっかけ。番組内で二人が意気投合したことから、後に交際に発展した[18]。また、長渕は石野との関係を自身のシングル8作目「二人歩記(ふたりあるき)」という歌に残している。
石野と長渕の結婚式は当初ロサンゼルスにあるガラスの教会として有名な「ウェイフェラーズチャペル」」で1982年1月15日に行われる予定だった。しかし長渕の母の体調が悪くなったため延期となった。石野には「二十歳の花嫁」に強く憧れがあったため、21歳の誕生日(1月31日)よりも前に挙式したいと希望した。その希望を叶えるべく、1982年1月22日の挙式となった。結婚式の仲人を務めたのは長渕の師匠である吉田拓郎と浅田美代子夫妻(当時、のちに離婚)[19]。吉田は石野のデビュー当時の楽曲提供者であり、石野にとっての恩師でもあった。
挙式直後、当時のワイドショーテレビ番組「3時のあなた」の記者のインタビューでは、長渕は「やっと自分のものになった。うちはもう亭主関白でいきます!」とコメントした。仲人の吉田拓郎は「どんな結婚式に映りましたか?」との質問に対し、「やっぱり僕の知っている長渕剛からいくと見たことのない長渕剛でした。非常に傲慢さのないですね、非常に硬くなっている印象で、初めて見ました」と発言。
しかし結婚後の二人は、様々な見解の相違を表面化させていく。長渕剛からの度重なる家庭内暴力や長渕の母との確執などが原因で、週刊誌でも大きく取り沙汰されるようになり、結局二人の結婚生活は僅か2年持たずにピリオドが打たれた[20]。1983年3月、既に長渕と別居していた石野は、同年5月に長渕との離婚を決意、結果として石野の“芸能界引退”は一時的なものとなった。
なお石野の芸能活動引退時、1981年12月に「私のしあわせ PARTII」、1982年9月には“引退1周年記念盤”と題して「明日になれば」と、各シングルをリリースしている。
1983年5月、離婚と同時に芸能界へ復帰の記者会見を開き、本格的な芸能活動の再開を発表する。主に女優として活動し、所属事務所はデビュー時のバーニングプロダクションと同じグループ会社のフロム・ファーストプロダクションへ移籍。会見には「およめちゃん」のプロデューサーでもある石井ふく子が同席し、時折涙を見せた石野にハンカチを差し出した。復帰作品は、石井ふく子プロデュースの東芝日曜劇場「ねえちゃんの夏」 。
9月25日、『スター誕生!』の最終回に他の卒業生らと出演。
10月スタートのTBSテレビドラマ『胸さわぐ苺たち』に三姉妹の次女役で出演、小林麻美や根津甚八らと共演、女優としても人気を博す。
11月14日、フジテレビ系列『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングのコーナーに、鶴見辰吾からの紹介で初出演。司会のタモリからは、「太った?」「目が腫れてる?」「相変わらず歯があっちこっちだね」「手が大きいね」「爪も大きい、アサリ貝みたいだね」などといじられた。自分の手は指が短く形が悪いので、洗剤の宣伝など手が映る仕事は絶対に出来ない手だと思う、などと話した。仕事の宣伝としては、初めての舞台芝居となる「おしん」のポスターを持参した。翌火曜日へのお友達紹介では、1980年にテレビドラマで共演した林隆三の自宅へ石野自身が直接ダイヤルしてバトンタッチした。
歌手活動を本格的に再開する。10月30日、フジテレビ系列の音楽番組『夜のヒットスタジオDELUXE』放送。1981年8月31日放送の“さよなら引退”以来の4年ぶり出演で、シングル「めぐり逢い」(リリースは6月21日)を披露。この日、石野は黒いドレス姿で登場したが、歌の最中にこのドレスの肩の部分がズリ落ちてしまうハプニングに見舞われて必死に耐えながら歌った。
1月5日、NHKの大河ドラマ『いのち』放送開始(1月5日 - 12月14日、日曜20時〜)。高原佐智(サチ)役を石野が演じて好評を得る。後年、中南米の国キューバでも『いのち』がテレビ放映され視聴率が80%を記録。「イシノマコ」は同国で知名度の高い日本人の一人になった。「みんなが一所懸命に頑張っていこうとする姿に(我々)キューバ人は皆が泣いたのだ」とのこと。キューバでのテレビ放送から10年経って石野が同国を訪れた際に、国賓級で招待され、国営テレビ局が取材に訪れ、ニュースとして扱った[21][22]。
4月7日、日本テレビ『歌のトップテン』の初代司会者を、徳光和夫と共に約1年間担当(翌1987年3月30日まで)。なお9月1日、元夫の長渕剛が「注目曲コーナー」で同番組に生出演。長渕が直接「元気?」と尋ねると石野は「元気」と頷きながら答え、長渕が「SUPER STAR」を歌唱する直前、石野は「頑張って!」と励ましの声を掛けていた。
7月21日に2年ぶりとなる「ガラスの観覧車」、3か月後の10月21日「空にカンバス」と各シングルをリリース。それ以降歌手活動は暫く休養し、女優業に専念する。
1990年、舞台共演がきっかけで親しくなった広岡瞬と2度目の結婚をしたものの1996年に離婚(石野にとって2度目の結婚と離婚)。
1990年代の女優時代には、刑事ドラマに出演する際に犯人役で登場することが多かった[1](「石野真子がまた犯人役で出ていて、結末のわかる配役に疑問」といった投書が新聞に掲載されたことがある)。
元極真空手全日本チャンピオンでその後は不動産会社や警備会社を経営し、岸和田市議、新進党大阪府第18総支部会長、新進党大阪府連常任幹事を務めていた大西靖人と石野は愛人関係になった。やがて大西が2003年(平成15年)1月22日に肝炎から進行した肝臓ガンで死去すると葬儀の会場には“未亡人と共に臨終を看取った”石野の姿もあった[23]。
2003年後半以降、16年ぶりに歌手活動を本格的に再始動。同年末の12月30日、「ザ・ベストテン復刻版スペシャル2003」に出演。同期(1978年度)デビューの渡辺真知子と共に登場し、「春ラ!ラ!ラ!」を歌唱披露した。
2003年の歌手活動本格再開以降、2010年までにアルバム6枚、シングル4枚(2004年のクリスマスライブ限定シングルを含む)をリリース。コンサート活動は「キリスト品川教会グローリア・チャペル」でのクリスマスコンサートが毎年恒例となる。
2004年、テレビ朝日系列の特撮テレビドラマ『特捜戦隊デカレンジャー』に、白鳥スワン役でレギュラー出演。サウンドトラック収録曲「MOTHER UNIVERSE」を、歌:白鳥スワン名義で歌っている。また、劇中では得意の算盤を披露していた。
2008年3月25日、デビュー30周年記念コンサート「昨日・今日・明日」を開催(原宿クエストホール)。当日は「狼なんか怖くない」発売満30年目の記念日であった。コンサート会場には遠方各地から大勢のファンが足を運んだ。中には“特攻服に緑色の鉢巻き姿”のかつての親衛隊も復活していた。また、実際に石野の親衛隊をしていた俳優の嶋大輔も観客席に姿を現していた。日本テレビの取材に対して石野は、「応援していただいて嬉しい。(30年間は)本当にあっという間のような気もしますが…、あの日に今日の日が来るなんて想像もしていなかった」とコメントを寄せた[24]。
2008年3月26日、前日の記念コンサートに続き、石野のデビュー30周年記念CD BOX『Mako Pack -Premium-』が発売(CD7枚+DVD2枚組の完全限定生産盤。製作・発売元はビクターエンタテインメント)。このCD BOXのジャケット写真は、1980年発売のシングル8作目「春ラ!ラ!ラ!」のジャケット撮影時の別ショットを使用している。
2008年12月23日、「東京タワー開業50周年記念のイベント」に出演、「東京タワー開業50周年 公式応援ソング」を披露する。2008年12月24日、「東京タワー開業50周年 公式応援ソング」が発売される。
『Newsweek』(ニューズウィーク日本版、2009年7月8日)の特集「世界が尊敬する日本人100人」に選ばれた。これはNHK大河ドラマ『いのち』がキューバで視聴率80%を記録するなど、キューバで人気が高いことから選出されたもの。
8月7日、歌と舞台の融合ライブ『Singact 2009 Pan Dora 〜真子の反抗期〜』を東京青山の草月ホールで上演、のちにDVDとしてリリース。
1月、国内の女性ボーカリストによるカーペンターズのカバー曲集「カーペンターズ フォーエバー」に参加、同名イベントコンサートにも出演。
4月、『Singact 2009 Pan Dora 〜真子の反抗期〜』DVD発売記念として渋谷でライブを開催。当初予定日のライブチケットが完売となったため、翌日の追加公演が決定した。このライブで、夏に29年振りのライブツアー開催を告知。
7月、札幌を皮切りに全国9カ所のライブツアーを実施。6月には、このライブの告知と同月発売のシングル発売を記念して、全国のレコード店やイベントスペースでインストアイベントとしてミニライブとサイン会&握手会開催。シングルは、オリコンのインディーズチャートにおいてチャートインも果たした。また、ライブツアー終了後もアルバム発売イベントという形で10月まで各地でキャンペーンを実施。9月には、このライブツアーを追ったドキュメント番組が、BSフジにて放送された。
12月、毎年恒例となっている品川グローリアチャペルでのクリスマスコンサートが、会場をサントリーホール「ブルーローズ」に変更して開催された。
2月、ミュージカル『ヒロイン 〜女たちよ タフであれ!〜』に榊原郁恵、早見優、松本伊代とともに出演(元アイドルグループ「ミューズ」が25年振りに再結成するというストーリーのミュージカル)。アイドルグループ解散後、番組レポーターなどを経て、メイド喫茶のオーナーとなった「ピーチ」役
8月、日本で人気の特撮番組スーパー戦隊シリーズを米国でリメイクしたテレビ番組シリーズである「Power Rangers」シリーズ、『Power Rangers: S.P.D』のナレーターを担当。
9月、大阪・心斎橋で、『FATHER MUSIC!! Presents!!“まいにちうたがうたえたら”』にゲスト出演。
12月、『石野真子 Christmas Concert 2011』が浜離宮朝日ホールで開催された。
2012年2月、岐阜県の長良川温泉「ホテルパーク」にてディナーショーを開催(2回公演)同月、ミュージカル『ヒロイン 〜女たちよ タフであれ!〜』が『Newヒロイン』として上演。再演ではなく新ストーリーでの公演。東京、熊本、山口、大阪、名古屋の5会場で公演。
5月、佐藤健、石原さとみ主演の舞台「ロミオ&ジュリエット」にキャピュレット夫人役で出演。
8月2日、浜離宮朝日ホールで毎年開催される『Premium meets Premium 2012』でライブ開催。12月27日、浜離宮朝日ホールにて、『石野真子Concert2012』を開催する。
最初の夫である長渕剛がデビュー後間もない1978年当時、福岡県北九州市のライブハウスに飛び入りで現れた際、MCで「俺は将来、石野真子を嫁さんにする。」と発言している。
バーニングプロダクション、ビクター音楽産業 の後輩である小泉今日子は、デビュー当時のプロフィールにおいて石野が憧れだと公表していた。日本テレビ『スター誕生!』に挑戦した小泉は、決戦大会で石野の「彼が初恋」を歌った。元アイドルの堀ちえみ(2003.12.31 テレビ朝日『鶴瓶とロンブーの年越しイベント』)や芳本美代子(2007.7.14 テレビ東京『夏の北海道期間限定列車で行く旅』)も、「石野真子さんに大変憧れて芸能界へ入った」と語っている。
ダウンタウンの浜田雅功(2007年6月21日、NTV『ダウンタウンDX』)は、石野の熱狂的なファンであると公言し、頻繁にメールのやり取りをする間柄であることを浜田の番組『ごぶごぶ』に石野が電話出演した際に明かしている。
元歌手で俳優の嶋大輔は、アイドル時代の石野の親衛隊をしていたと語っている(2006年5月18日、NHK『きよしとこの夜』)。また、新米の親衛隊員だったころに大磯ロングビーチで行われたショーの場所取りで熱中症にかかり救急車で搬送されたことがある、と石野のデビュー30周年記念CD BOX『Mako Pack -Premium-』のブックレットに寄稿した中に記している。
爆笑問題の太田光は、「石野真子の所属事務所にファンレターを送り、返信の葉書を本人から頂いた」と証言(2002年4月、フジ ザ・ジャッジ! 〜得する法律ファイル『コレって罪じゃないの!?』)。
フジテレビ系列の音楽番組『夜のヒットスタジオ』の司会者だった芳村真理は石野が憧れた先輩の一人で親交も深い。石野は芸能界デビュー後たった2日目の1978年3月27日に『夜のヒットスタジオ』に出演をしている。同番組の最終回に出演した際には「他の番組ではアイドル歌手としてしか扱ってくれなかった中で、真理さんだけは一人の大人、一人の女性として接してくれたことがとても嬉しかった」と芳村へ敬意を込めたコメントを残した。
沢村一樹は、「スター誕生」でデビューした沢山のアイドルの中で、石野真子さんが一番大好きでした。と語っている(日本テレビ「スター誕生の★瞬間」2012年2月28日)。
アイドル歌手“石野真子”が、デビューした時のキャッチフレーズは「百万ドルの微笑」で、トレードマークは、タレ目と見事な2本の八重歯だった。所属事務所のバーニングプロダクションは、石野をそのまま八重歯のアイドルとして売り出した。色紙にサインを書く時などは、自身に見立てた“タレ目で八重歯”の女の子のイラストを書き添えることがあった。また、そのイラストを基にしたステッカーやワッペンなどの石野グッズも販売されていた。1979年7月に結成した石野真子の野球チーム「PRETTIES」のユニフォームのワッペンにも、このイラストが使用された。20世紀の八重歯タレントとしては、小柳ルミ子、梓みちよ、国広富之、河合奈保子、芳本美代子、坂上香織、古くは美空ひばり、石原裕次郎なども挙げられる。“タレ目で八重歯のタレント”といえば石野を指した。
当時、八重歯が相当な牙(キバ)だったことを示す本人のコメント。「薄ーいコップって有りますよねぇ。それでお水を飲もうと思って半分まで飲んだんです。底にちょっとしか残ってなかったんで、一気にクイっと飲もうと思ったんですよ。それが八重歯の間にちょうどコップの飲み口がカチッと挟まったまま、手だけ上にクッと上げたから、テコの要領でガラスが口の中で割れちゃったんです。バリッという感じで、お水がバッ!と弾けましてね、ビックリしました」。
デビュー2年目に出演したTBSの連続ドラマ『熱愛一家・LOVE』のワンシーンには、結婚式を控えた石本みどり(石野の役)が夢の中で鏡に向ってマジマジと自分の顔を見つめる場面の台詞に、「タレ目がこう上がって、ダンゴ鼻がとんがって、この牙を抜いて、これだけ整形したら美人になれるかなー?…この牙!どうにかならないかなぁ」と呟くシーンがある。
八重歯タレントの多くは歯列矯正して八重歯を卒業してしまうケースが多く、石野も例外ではない。トレードマークだった2本の八重歯は1985年に矯正、美しい歯並びに直した。1985年10月30日、フジテレビの『夜のヒットスタジオDELUXE』に出演して新曲『めぐり逢い』を披露した際に、司会の芳村真理・古舘伊知郎から「八重歯はどうしたの?」と訊かれると、「そう、削っちゃったの」と軽く口元を見せ、歯列矯正した事を認めている。
石野が歌手デビューした1978年当時、日本の音楽界はニューミュージックやテクノポップの拡大時期で、正統派アイドル歌手にとっては“冬の時代”だった。同年暮れ、第20回日本レコード大賞の新人賞受賞曲は石野の『失恋記念日』のほか、渋谷哲平の『Deep』、中原理恵の『東京ららばい』、さとう宗幸の『青葉城恋唄』がノミネートされたが、最優秀新人賞に輝いたのは、シンガーソングライター・渡辺真知子の『かもめが翔んだ日』だった。また石野自身、デビュー後のレコードセールスではオリコンチャートにベスト10入りしたことは一度も無かった(オリコン週間最高位は「ハートで勝負」の15位)。
それでも、当時日本の女性アイドルとしての人気はトップクラスで、テレビ出演は音楽番組の他、ドラマやバラエティ番組やCMも含めて出演頻度が多かった。NHK『レッツゴーヤング』の司会、日本テレビ系列の24時間テレビ 愛は地球を救う3のメインパーソナリティも担った。また、ラジオ番組のパーソナリティも務めていた。人気アイドル投票などでは1位を獲得し、明星や平凡をはじめとする、各種雑誌のピンナップや付録ポスターにも頻繁に登場した。1980年8月放映の『日本テレビ音楽祭』では「トップ・アイドル賞」を受賞している。
20歳になった1981年に長渕剛との結婚が決まった。「家庭に入って欲しい」という長渕の希望と、「家庭に納まって平穏な日々を送ること」の自身の夢が合致したこともあり、迷うことなく芸能界を引退を決意。デビュー以来3年半という短いアイドル歌手時代に幕を引いた。
結婚引退直前には、セミヌードグラビアが雑誌「GORO」に掲載された。「週刊プレイボーイ」では乳首が透けた水着姿のグラビア写真も公開された。
「GORO」セミヌードグラビアは、アイドル引退前年の秋(19歳時)に、山中湖で篠山紀信によって撮影された。従来の正統派アイドルのイメージを覆すアダルトな世界を模索し、背中を大きく露出したり、バストトップを見せるなどの大胆なショットになった。1981年8月に公開されたヌードグラビアについては、グラビア掲載後に出演したラジオ番組の中で「まさか(バストトップが)写っていたとは思わなかった」と釈明すると共に、本人に承諾なく掲載されたことに憤りを感じていると語り、ファンに対して涙声で謝罪した。
# | 発売日 | A/B面 | タイトル | 作詞 | 作曲 | 編曲 | 最高順位 | 規格品番 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ビクター | ||||||||
1 | 1978年 3月25日 | A面 | 狼なんか怖くない | 阿久悠 | 吉田拓郎 | 鈴木茂 | 17位 | SV-6380 |
B面 | ひとり娘 | 馬飼野康二 | ||||||
2 | 1978年 6月25日 | A面 | わたしの首領 | 26位 | SV-6433 | |||
B面 | いたずら | |||||||
3 | 1978年 10月5日 | A面 | 失恋記念日 | 穂口雄右 | 24位 | SV-6478 | ||
B面 | 決定的瞬間 | |||||||
4 | 1979年 1月25日 | A面 | 日曜日はストレンジャー | 筒美京平 | 19位 | SV-6537 | ||
B面 | 悲しきエンゼルス | |||||||
5 | 1979年 4月5日 | A面 | プリティー・プリティー | 筒美京平 | 船山基紀 | 26位 | SV-6559 | |
B面 | ハイスクール・クィーン | |||||||
6 | 1979年 7月5日 | A面 | ワンダー・ブギ | 馬飼野康二 | 22位 | SV-6606 | ||
B面 | 空とぶお嬢さん | |||||||
7 | 1979年 9月25日 | A面 | ジュリーがライバル | 松本礼児 | 幸耕平 | 萩田光雄 | 24位 | SV-6635 |
B面 | 白いオルゴール | 福井峻 | ||||||
8 | 1980年 1月1日 | A面 | 春ラ!ラ!ラ! | 伊藤アキラ | 森田公一 | 竜崎孝路 | 16位 | SV-6675 |
B面 | 恋のジョギング | 松本礼児 | 幸耕平 | 船山基紀 | ||||
9 | 1980年 4月5日 | A面 | ハートで勝負 | 馬飼野康二 | 15位 | SV-6718 | ||
B面 | お嫁にもらって下さいませんか | 泉朱子 島エリナ | 岩久茂 | 船山基紀 | ||||
10 | 1980年 7月5日 | A面 | めまい | 有馬三恵子 | 川口真 | 24位 | SV-7020 | |
B面 | VIVA! サンシャイン | 伊藤アキラ | 林哲司 | |||||
11 | 1980年 9月21日 | A面 | 彼が初恋[注 9] | 有馬三恵子 | 筒美京平 | 矢野立美 | 22位 | SV-7047 |
B面 | 私のしあわせ | 石野真子 荒木とよひさ | 三木たかし | 船山基紀 | ||||
12 | 1980年 11月21日 |
両 A面 | フォギー・レイン | 三浦徳子 | 馬飼野康二 | 27位 | SV-7066 | |
恋のハッピー・デート[注 10] | 森雪之丞 | B.Findon M.Myers B.Puzey | 矢野立美 | |||||
13 | 1981年 2月5日 | A面 | 思いっきりサンバ | 有馬三恵子 | 筒美京平 | 大村雅朗 | 42位 | SV-7085 |
B面 | 雨の日のジュテーム | 橋本淳 | 筒美京平 | |||||
14 | 1981年 4月21日 | A面 | 彩りの季節 | 有馬三恵子 | 川口真 | 船山基紀 | 35位 | SV-7106 |
B面 | 初夏が一番! | 伊藤アキラ | 森田公一 | 大村雅朗 | ||||
15 | 1981年 6月21日 | A面 | 恋のサマー・ダンス | 森雪之丞 | 鈴木キサブロー | 萩田光雄 | 41位 | SV-7125 |
B面 | 恋はおしゃれに | 真樹のり子 | 林哲司 | |||||
16 | 1981年 7月21日 | A面 | バーニング・ラブ | 松本礼児 | 幸耕平 | 萩田光雄 | 38位 | SV-7144 |
B面 | ボンボン・ブーケ | イルカ | 大村雅朗 | |||||
17 | 1981年 12月20日 | A面 | 私のしあわせ PARTII | 石野真子 | 矢野立美 | 56位 | SV-7188 | |
B面 | GOOD-BYEは出発 | 岡田冨美子 | 土持城夫 | |||||
18 | 1982年 9月21日 | A面 | 明日になれば | 伊藤アキラ | 穂口雄右 | 船山基紀 | 52位 | SV-7252 |
B面 | マコ・パック[注 11] | - | ||||||
19 | 1985年 6月21日 | A面 | めぐり逢い | 松本隆 | 上田知華 | 井上鑑 | - | SV-9063 |
B面 | ミモザの季節 | 安井かずみ | 加藤和彦 | |||||
20 | 1987年 7月21日 | A面 | ガラスの観覧車[注 12] | 売野雅勇 | 林哲司 | 新川博 | SV-9267 | |
B面 | 海色のパセティック | 原真弓 | ||||||
21 | 1987年 10月21日 | A面 | 空にカンバス | 川村真澄 | 渡辺博也 | SV-9287 | ||
B面 | 雨垂れはイヤリング | |||||||
2000年代以降 | ||||||||
22 | 2001年 6月12日 | 01 | Kira kira ∞ | P.You | TAMAKICHI | - | MEG-0106 | |
02 | 逢いたい… | |||||||
23 | 2004年 12月17日 | 01 | Eve[注 13] | 山梨鐐平 | H.Conischi | CTR-04011 | ||
24 | 2007年 3月15日 | 01 | こっちを向いて | 松宮恭子 | 菅井えり | CTR-07022 | ||
02 | 猫は見ていた(Brand-new Vocal Version) | 荒木真樹彦 | ||||||
25 | 2008年 12月17日 | 01 | 東京タワー | 326 | 岡田実音 | 高島智明 | VICL-36483 | |
02 | Eve | 山梨鐐平 | H.Conischi | |||||
03 | 太陽は夜も燃える | 山梨鐐平 | ||||||
26 | 2010年 6月2日 | 01 | My Friend! 〜旅に出よう〜 | 田村キョウコ | 御供信弘 | CTR-10040 | ||
27 | 2013年 6月26日 | 01 | 生まれる前から恋してた | 及川眠子 | 小坂明子 | DDCZ-1884 | ||
02 | 碧の奇跡 | 鈴木雄大 | 坂本洋 | |||||
28 | 2015年 8月19日 | 01 | へっちゃら平気の平八郎 | 箭内道彦 | 山梨鐐平 | 高島智明 | CTR-15081 | |
02 | 笑顔の花 | ma-saya | 武藤良明 | |||||
03 | 金木犀の香る頃 | 小林和子 | 漆戸啓 | 鈴木ヤスヨシ |
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