西区 (大阪市)
大阪府大阪市の行政区 ウィキペディアから
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西区(にしく)は、大阪市を構成する24行政区のうちの一つ。市の都心中西部に位置している。日本最古の行政区であり、大阪都心6区の一角を成す。
市制施行以前にさかのぼる郡区町村編制法施行により発足し、以来統廃合されていない区の一つで、当区のほかに京都市上京区・下京区も該当するが、大阪府が京都府より2か月早く施行しているため、当区が日本最古の区となっている。また、同法施行により発足した大阪4区(東区・南区・西区・北区)のうち唯一統廃合されていない、大阪市最古の区でもあり、日本の政令指定都市で西区と称する行政区のうち最古の区でもある。
都心回帰の傾向が強まるなか、職住近接に適した有数の良質なマンションや集合住宅が立ち並ぶ高層住宅地として再開発が進んでおり、特に区南東部の新町・北堀江・南堀江では小学校の教室が不足するなど、人口が急増している。同じ大阪市の中央区や北区と同様に人口の自然増も大きく、2021年5月現在では日本の政令指定都市の行政区の中で最も人口密度が高くなっている[1]。
区域は東を西横堀川(埋立。阪神高速1号環状線北行き)、南を道頓堀川・岩崎運河、西を境川運河(埋立)、北を安治川・土佐堀川に囲まれた矩形をしている。おおむね中央を南流する木津川を境に、東西に大別される。
江戸時代から全域が市街化していた東部は、江戸堀川・京町堀川・海部堀川・阿波堀川・薩摩堀川・立売堀川・長堀川・堀江川・百間堀川といった堀川が巡らされた水運主体の街だったが、これらの堀川は戦後に全て埋め立てられた。
寺島の木津川沿いや、富島・古川・安治川新地など江戸時代から市街化していた地域もあるが、大半を旧・西成郡九条村が占めていた西部は明治以降に市街化された地域が多い。
西区(に相当する地域)の人口の推移 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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総務省統計局 国勢調査より |
上町台地から西部に位置し1869年、近世以来の大坂三郷を再編して発足した四大組の一つである西大組の流れを汲む。1875年の大区小区制施行により西大組は第3大区となり、1879年の郡区町村編制法施行により第3大区が西区となった(ただし、のちの西浜町域を除く)。1889年の市制施行により区域と名称はそのまま大阪市の行政区へ移行した。
1897年に西成郡九条村・川南村の木津川以西・川北村の伝法川以南を編入。1925年に港区と此花区を分区。この際、川口・本田地区を除く旧九条村は一旦港区となり、それまで北区だった富島・古川・安治川地区も港区となった。1943年より現在の区域となる。区役所は当初、阿波堀通1丁目に設置されたが、1880年に薩摩堀北之町へ、1893年に江之子島東之町へ、1934年に西長堀北通4丁目(現在地)へ移転された。
木津川および百間堀川より東の下船場・堀江は、近世以来多くの堀川が整備され、雑喉場魚市場、海産物などの問屋街、土佐藩・薩摩藩・徳山藩などの蔵屋敷が立地して栄え、船運が発達した地域であった。また、新町遊廓や堀江新地など遊興の場も作られた。木津川より西の九条は淀川河口の中洲だったが、近世初期に農地として開発され「衢壌(くじょう)島」と名づけられ、後に九条と改められた。安治川と木津川の分流点である九条北端の川口には大坂船手の船番所や組屋敷などが置かれた。
明治時代には大坂船手跡地に川口外国人居留地が設置(1868年 - 1899年)され、大阪における文明開化の象徴の地となった。川口の木津川対岸に位置する江之子島には大阪府庁舎・大阪市庁舎が建設されるなど、大正時代まで大阪府の行政の中心地であった。川口居留地は川底が浅く大型商船が入らないため、外国商人は間もなく神戸に移っていったが、代わって中国商人が入り、日中戦争の激化までは中華街が存在した。一方、江之子島の南、尻無川(埋立部分)と木津川に挟まれた寺島には明治以降新町遊郭から遊廓が移転し松島遊廓となり、堀江新地も引き続き遊興地として繁栄した。松島に近い九条新道(九条商店街)は「西の心斎橋」と呼ばれた事もあった。
しかし、下船場の市場の機能はより大きな市場に集約されてゆく。雑喉場魚市場と靱の海産物問屋街は1931年に開設した大阪市中央卸売市場に移転統合され、問屋街の跡地は大阪大空襲で壊滅のうえ占領軍の飛行場にされ(現在の靱公園)、松島新地や堀江新地は戦後廃止された。また、御堂筋の開通により、梅田と難波を初めて結んだ四つ橋筋は相対的に地位が低下した。材木商、陶器商、機械金属商なども高度成長期以降、都心の渋滞を避けて郊外に移転し、流通の簡素化で問屋業が衰退するなど、かつてほどの活気はなくなった。
しかし、近年の都心回帰により、堂島や中之島などの都心ビジネス街に隣接した住宅エリアとしての利便性が見直され、高層マンションの相次ぐ建設などで人口が急増すると共に、堀江・新町・靱公園周辺などがカフェ・レストラン・服飾店・インテリアショップ・雑貨店などファッショナブルな店舗の新しい集積地となった。また、江戸堀・京町堀・新町に数多く残る、大正~昭和初期築の近代建築や雑居ビルがギャラリーなど文化情報発信の拠点として活用され続けているなど、街への魅力から近年訪れたり店を開く若者が増加している。
2005年に実施された国勢調査において、人口増加率が隣接する中央区に次いで高い14.5%増を記録した。これは政令指定都市の行政区の中では大阪市中央区、横浜市都筑区に次いで3番目に高い数値である。1889年の市制施行時の東南西北4区のうち、東区と南区は合併して中央区になり、北区は北隣の大淀区と合併して新たな北区となったため、市制施行時から単独で存在する区としては西区が最古ということになるが、現在の西区は都心回帰による再開発によって関西の文化・流行の最先端を進む区に変貌しつつあり、進取の気風を重んじる大阪らしさを象徴する地域となっている。
かつて西区を経由する鉄道路線は大阪市営地下鉄(現:大阪市高速電気軌道)のみだったが、2009年3月20日開業の阪神なんば線がこの区で初めての民営路線による駅の開設となった。
その他、西日本旅客鉄道(JR西日本)大阪環状線が大正駅 - 弁天町駅間でごく僅かながら西区(千代崎三丁目・境川一丁目)を通過しており、車内から京セラドーム大阪が俯瞰できる。なお、計画中の仮称なにわ筋線では、区内にJR西日本と南海電気鉄道の共同使用駅となる西本町駅が開業する予定となっている。開業すれば阪神に次いで、2・3社目(JR西日本・南海)となる民営路線による駅が新たに設置されることとなる。
1997年に近鉄バファローズのホームスタジアムとして大阪ドーム(2006年・命名権取得のため「京セラドーム大阪」に改称)が完成すると、球場の最寄の商店街の一つである当区のナインモール九条商店街もバファローズのお膝元として地域に密着したチーム作りを応援する体制を整えるようになった。これをきっかけに「バファロード」なる愛称も付いた。
しかし、2004年シーズン中にオリックス・ブルーウェーブとの合併計画が発覚したことをきっかけに、同商店街では合併の撤回運動を展開したが、合併決定は覆らなかった。だが2005年度以後もチーム名にバファローズが残ること、大阪ドーム(京セラドーム大阪)を本拠(専用球場、2006年のみ神戸スカイマークスタジアム(当時)に変更)とすることから今後も同商店街はバファローズのお膝元の商店街と位置づけて様々な応援キャンペーンを続けている。
大阪発祥の企業である朝日新聞社・サントリー・大阪ガス・象印マホービン・タイガー魔法瓶・コクヨはこの西区が発祥地であるが、大阪ガスの方は、現在大阪ドームの近接地に「ドームシティーガスビル」という大阪ガス所有のビジネスビルがある。
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