『点と線 』(てんとせん)は、松本清張 の長編推理小説 。雑誌『旅 』に連載され(1957年 2月号 - 1958年 1月号、連載時の挿絵は佐藤泰治)、加筆訂正の上、1958年2月に光文社 から単行本が刊行された。
福岡市 香椎 の海岸 で発見された男女の情死体に疑問を持った2人の刑事 の事件捜査を活写し、F・W・クロフツ らによって確立されたアリバイ 崩しのスタイルを継承したミステリー長編[注釈 1] 。著者の最初の長編推理小説であり、松本清張ブームを巻き起こした作品である[注釈 2] 。
1958年に東映 系で映画化、また2007年にテレビドラマ化されている。
料亭「小雪」の女中2人と、東京駅 の13番線プラットフォームで見送られていた機械工具商会を経営する安田辰郎 。この3人は、向かいの15番線プラットフォームに、同じく「小雪」で働くお時 が男性と夜行 特急列車 「あさかぜ 」に乗り込むところを見つける。だが数日後、お時とその男・佐山 は、香椎 の海岸で情死体 となって発見された。
一見ありふれた情死に見えたが、博多 のベテラン刑事・鳥飼重太郎 は、佐山が持っていた車内食堂 の伝票 から事件の裏の真相を探るため、1人、捜査をすることにする。
一方、佐山は現在社会をにぎわしている産業建設省の汚職事件の関係者であった。この事件を追っていた本庁の刑事・三原紀一 は、心中事件を追って九州へ向かい、鳥飼と出会う。
捜査の結果、2人は、東京駅で13番線プラットフォームから15番線プラットフォームが見えるのは、1日の中で17時57分から18時01分のわずか4分間しかないことを突き止め、安田を容疑者として追及しようとする。だが、安田には完璧なアリバイがあった。
鳥飼重太郎
福岡署 の古参刑事。常にくたびれた服装をしている。
三原紀一
警視庁 捜査二課 [注釈 3] の警部補。銀座にある行きつけの喫茶店でコーヒーを飲むのが趣味。
安田辰郎
機械工具商・安田商会の経営者。
佐山憲一
××省の課長補佐。
お時
赤坂の割烹料亭「小雪」の女中で安田の係。本名は桑山秀子。
安田亮子
安田の妻。肺結核 を患い鎌倉・極楽寺 近辺で療養している。
石田芳男
××省の部長。
佐々木喜太郎
××省の事務官。
作品が書かれた当時はまだ新幹線 が開業しておらず、飛行機の利用も一般的ではなかったため、日本国内の旅行・移動には、相当遠距離でも鉄道(主に急行列車 )が用いられていたこと等、当時の社会状況が反映された内容になっている[1] 。
また本作を推理小説として見た場合、古くからいくつかの問題点を指摘する見解も出されている[注釈 4] 。
なお、清張が1961年に発表した作品である『時間の習俗 』には、本作と同じく三原警部補と鳥飼刑事を再登場させている。
当時の経緯
東京駅での寝台特急「あさかぜ」 (写真は国鉄20系客車 だが、本作は同列車への20系導入前年に連載された)
雑誌『旅 』(当時は日本交通公社 刊)の編集者であった岡田喜秋 は、著者が『別冊文藝春秋』に書いた随筆「ひとり旅」を読み、ぜひ『旅』にも原稿をと、1954年の秋に、著者の勤務していた朝日新聞社を訪れている。著者が時刻表好き、旅好きであることを知った岡田は、同誌1956年3月号までに3本の原稿をもらった[注釈 5] 。他方、同誌の編集長を務めていた戸塚文子 は、欧米の推理小説を原文で読む推理小説ファンであり、同誌にはすでに高木彬光 や島田一男 が登場していた。原稿料を安く抑えるため清張に白羽の矢が立ち[注釈 6] 、同年の晩夏に編集会議が開かれたが、戸塚は会議での反対意見を鎮めるため「内容は鉄道のダイヤが絡んだものか、列車内の密室殺人に類するもの」という条件を提示し、連載はその条件のもとでなされることになった[注釈 7] 。
やがて著者の構想がまとまり、当初は同誌1957年1月号からの連載開始を予定していたが、実際には1カ月遅れて2月号からの連載開始となった。国鉄のダイヤ改正 が行われ、東京~博多間を結ぶ寝台特急「あさかぜ」が登場したが、トラベルライターの松本典久 によれば、同列車誕生時の東京駅の発着番線は15番線ではなく、14番線に止まっており、この時点では13番線から15番線を見渡すことはできなかった。1956年12月初旬以降(正確な日付は不明)に、同列車の発車番線が変更され、この番線変更が本作の執筆に大きく影響したのではないかと松本典久は推定している[注釈 8] 。ここでいわゆる空白の4分間がプロットに組み込まれることとなり[注釈 9] 、13番線ホームから15番線ホームが見通せるか著者から尋ねられた岡田喜秋は、正確を期すため、13番線ホーム中央にあったアナウンス室の職員に尋ねたが、すぐにはわからず、翌日再訪したところ、空白の4分間の存在を確認できたと述べている[注釈 10] 。
本作のタイトルに関して著者は、当初『縄』としたいと語っていたが、岡田喜秋が「全然意味がわからない」と言ったところ、著者は連載開始前の最後の段階で現在のタイトルを提案し、決定した。ちなみに当時の清張の作品には、『顔』や『蓆』など、一文字の題名を自作につけるケースがあった。また、清張は岡田に折々電話で相談し、ストーリーのリアリティを高めるために調べごとを頼んでいた[注釈 11] 。
原稿は毎月難航した。『旅』の他の記事が全て校了を終えた状態となっても『点と線』の部分だけが空白、という状態になり、編集者側で遅筆の清張に対する「清張待ち」という言葉が生まれた[注釈 12] 。同じ時期に週刊誌に連載していた『眼の壁 』に比べて『点と線』の反響は少なく[注釈 13] 、「病気のため休載にしてくれまいか」との申し出が清張から続いたが、戸塚は「『点と線』を休載するなら『週刊読売 』の『眼の壁』など、他の全ての連載を休載にしてもらう」と迫った。結局休載することなく連載は続けられた[注釈 14] 。
ある時、締め切り日直前に担当者が『点と線』の原稿を取りに行くと、清張は「失踪」していた。戸塚は羽田空港 に電話し乗客名簿を調べさせ、松本清張の名を発見した。そこで飛び立つ寸前の搭乗機にストップをかけ「原稿をいただかないことには飛ばせない、降りていただきたい」と交渉したが、清張は「博多で書いて渡す」と言い、その場を「逃走」した。これで「蒸発」できると清張は考えていた(1957年当時、日本国内の長距離直通電話は警察関係と国鉄 関係機関にのみ設置され、一般的ではなかった)が、しかし交通公社はその立場上国鉄電話を使う術があった。戸塚は直通電話で、博多の交通公社 支社長に「松本清張先生を板付空港 で「逮捕」」するよう手配、清張は板付空港で「御用」となった。「乗り物に関しては、交通公社に関するかぎり逃れられない。新聞社よりもすごい」と、清張は言ったという[注釈 15] 。
光文社 の編集者であった松本恭子(のちに推理作家の結城昌治 と結婚)は、木々高太郎 を「先生」と呼び、ハヤカワ・ポケット・ミステリ を玄関脇の部屋に沢山並べていた清張に注目しており、『点と線』の連載開始もキャッチしていた。『点と線』第1回を光文社の神吉晴夫 に読ませたところ、神吉は感心し、出版交渉に乗り出し[注釈 16] 、『点と線』、『眼の壁』の単行本は光文社から出版されることになった[注釈 17] 。
単行本の刊行年に行われた徳川夢声 との対談で、夢声から「これは、ほうぼうから指摘されたでしょうが、「点と線」を読んでると、急行で博多を出発したとしても、あの時間に犯人が札幌にあらわれるはずがないということを、刑事がしきりにふしぎがってる。「おや、旅客機のまだなかった時代かな」と思ってると、そうじゃあない」と言われた清張は「あれは、だれからもいわれたんです。大失敗でした(笑)」と応じ、まず真っ先に飛行機の乗客名簿を調べ、次に汽車を調べて駄目だったということにすれば良かったと述べている[注釈 18] 。
作品の周辺
直筆の初回原稿は、長い間行方不明となっていたが、1998年12月に、JTBの倉庫から発見され、現在は北九州市立松本清張記念館 に所蔵されている。なお、連載時は「年が明けた」の一文から始められたが、単行本化の際に削除されている[注釈 19] 。
東京駅丸の内駅舎に併設されている東京ステーションホテル の2033号室前には、現在、本作を記念し、連載第一回の冒頭部分(「年が明けた」で始まる)や、「あさかぜ」を含む当時の東京・九州間の時刻表が飾られている。著者は九州から上京後、練馬区関町の借家住まいをしていた際、作品の執筆に同ホテルを利用していた。現在の2033号室は、著者の滞在当時は209号室であり、ダブルベッドの部屋であった。同ホテルの客室支配人を務めていた小藤章の回顧によれば、著者は「このホテルにはエレベーターがないからね。階段を上がって、すぐの部屋が楽でいい」と、案内のベルボーイに漏らし、にやりとするなど、気さくであったが、大変なヘビースモーカーで、いつも吸いがらが二つの灰皿いっぱいに、てんこ盛りになっていたという[注釈 20] 。なお、東京駅の中央線ホームが高架化された現在では、2033号室から東京駅のホームや列車を望むことはできなくなっている。
小説家・評論家の笠井潔 は、安田辰郎の妻亮子の背後には、清張の初期短編『或る「小倉日記」伝 』『菊枕 』『断碑 』等と共通する主題が隠されており「この主題を、戦後探偵小説の問題圏に方法的に導入した瞬間、清張の独創性は他に類例を見ないものとして華々しく開花したというべきだろう」と評している[注釈 21] 。
本作に登場する「レバンテ」は有楽町にあった1947年創業のビアレストラン[2] 。2003年、東京国際フォーラム に移転。2020年3月に新型コロナウイルス感染症 拡大の影響により閉店した[2] 。
男子バレーボール日本代表チーム(1964年東京オリンピック で銅メダル、ミュンヘンオリンピック で金メダルなど獲得)の監督を務めた松平康隆 は、本作のプロットからヒントを得て、おとり選手のジャンプで、敵のタイミングを外し、障害物の無い時間と空間を作り出そうと考え、「時間差攻撃」を思いついたとされている[注釈 22] 。
本作を記念した、
西鉄香椎駅 前の清張桜。小説連載当時から駅前に生えていた桜であり、同駅高架化に伴う区画整理を受け、
2008年 に現在地に移植された。改札西側にある。
西鉄香椎駅高架下の
九州産業大学 芸術学部による展示の一つが、本作を記念した展示となっている。改札東側にある。
小説連載当時の西鉄香椎駅旧駅舎。開業時からの駅舎が残っていたが、
2006年 に高架化された。
現在のJR九州
香椎駅 。小説中では、国鉄香椎駅と西鉄香椎駅間の距離は500メートルほどと説明されている。
西鉄香椎駅から被害者が歩いたとされる道路の現在。道路を挟み左側が福岡市
東区 御島崎1丁目、右側が御島崎2丁目。本作連載当時、左側の御島崎1丁目は海であり、小説中で「荒涼とした、堅い岩肌の、絶対に痕跡を残しそうにない場所」と描写されている香椎潟の海岸となる。
現在の香椎浜。御島崎1丁目にあたる当時の香椎潟は埋め立てられ、ここから西鉄香椎駅方面へ50mほど内陸に位置する。
小説連載当時「あさかぜ」に連結されていた
食堂車 (
オシ17形 )の車内。
復原工事前の東京駅丸の内駅舎と東京ステーションホテル。著者の滞在した209号室(現:2033号室)は、2階の丸の内中央口側から5番目の階段脇、線路側に位置。
本作の連載開始号となる『旅』1957年2月号。表紙に「新連載小説 松本清張」の記載がある。
小説連載当時の東京・大阪・九州間列車時刻表(日本交通公社版)
Points and Lines , (英語 、講談社インターナショナル )
1970年に初翻訳。1986年にペーパーバック版が発売されたが、『ニューヨーク・タイムズ 』紙上で、「伝統的なものではあるが、息もつかせぬ探偵小説」として紹介された。
Le rapide de Tokyo (フランス語 、1982年、Masque)
Tōkyō express (フランス語 、1989年、Philippe Picquier)
Spiel mit dem Fahrplan (ドイツ語 、Verlag Volk und Welt、Fischer-Taschenbuch-Verl)
La morte e in orario (イタリア語 、Il Giallo Mondadori)
El Expreso De Tokio (スペイン語 、2014年、Libros del Asteroide)
Τόκιο εξπρές (ギリシア語 、Άγρα )
Body a přímka (チェコ語 、Mladá Fronta)
Junaongelma (フィンランド語 、Werner Soderstrom)
Mäng sõiduplaaniga (エストニア語 、Eesti Raamat)
点与线 (中国語 、南海出版公司など)
점과 선 (韓国語 、모비딕 )
その他少なくとも、ロシア語 、ブルガリア語 、アルメニア語 に翻訳されている[注釈 23] 。
1958年 11月11日 公開。製作は東映東京 、配給は東映 。DVD 化されている。原作小説ではタッチの差で安田夫妻が心中してしまい逮捕出来なかったことを三原が後日になって手紙で鳥飼に報告するという結末だが、映画化された本作では安田夫妻の心中現場に鳥飼も居合わせており、三原と鳥飼、二人の苦々しい表情で唐突に終わるという結末になっている。
スタッフ
監督:小林恒夫
企画:根津昇
脚色:井手雅人
撮影:藤井静
美術:田辺達
照明:川崎保之丞
音楽:木下忠司
録音:大谷政信
編集:祖田富美夫
エピソード
安田亮子を演じた高峰三枝子は、1956年頃から声帯が凹む病気に罹り、一時女優としての仕事を中断し、緊急入院の生活を送っていた。女優業を再開した後も、大きな声を出すことができなかったので、小声で喋ればいい映画を選び、本映画に出演した。加藤千代(加藤嘉 の娘)は、高峰の演技に関して、「沈んだか細い(印象の)声となったが、逆に妙に役柄とマッチし、的確な演技と高く評価された」と述べている[注釈 24] 。
ネット配信
東映シアターオンライン(YouTube ):2023年12月29日21:00 - 2024年1月12日20:59
『松本清張 点と線 』(まつもとせいちょう てんとせん)の題名で、テレビ朝日 の開局50周年記念番組として、2007年 11月24日 と25日 に、同局系列 (フルネット24局)で二夜連続で放送した。視聴率 (関東地区)は第1夜が23.8%、第2夜が23.7%であった。ホームページの「おさらい」では物語の結末を明かしている。2009年 11月8日 には「松本清張生誕100年記念特別バージョン」として前後編を再編集し、全国ネットでの再放送を行った(視聴率14.3%)。
2007年の文化庁 主催の芸術祭 テレビ部門参加作品ともなり、審査員からは「推理ドラマの枠組みをはるかに超えた人間ドラマで、見るものを圧倒した」と評価され、ドラマとしては4年ぶりとなる大賞を受賞。日本民間放送連盟賞 のテレビドラマ番組において優秀賞を受賞した[3] 。また2008年に民放連とNHKなどで作る「国際ドラマフェスティバル in TOKYO 実行委員会」が選ぶ「第1回東京ドラマアウォード」のグランプリおよび特別賞も受賞している(特別賞は美術スタッフに対して)。
1957年 の東京駅 のホームや、福岡・東京の町並みを細部まで再現したオープンセット、さらには日本各地で昭和30年代の列車を再現してのロケーションが行われた。東京駅のプラットフォームのセットは、JR西日本の協力のもとに宮原総合運転所 の敷地内に作られた。スタッフやキャストですら完成度に驚いたという。新宿行きの路面電車 のシーンは昭和28年製の車両(元東武日光軌道線100形電車 )が現存する、岡山で撮影された[注釈 25] 。
また、同局の『土曜ワイド劇場 』の主役級である、小林稔侍(『炎の警備隊長五十嵐杜夫 』)、橋爪功(『新・赤かぶ検事奮戦記 』)、市原悦子(『家政婦は見た! 』、同シリーズの第1作は清張原作の『熱い空気 』を『松本清張の熱い空気』のタイトルでドラマ化したもの)をはじめとした、多数のキャスト布陣も話題になった。鳥飼を演じたビートたけしは、「50年前に映画化されて以来、はじめてドラマ化されただけに、えらい気合が入って、すごく面白かったよ。2007年の主な仕事はドラマ『点と線』だと言えるくらい、時間をかけて演じた」とコメントしている[注釈 26] 。
鳥飼が独断で東京に行き捜査すること、鳥飼や安田の太平洋戦争中のエピソードなど、テレビドラマ版独自の設定が追加されている。また、事件後は三原が報告に博多を訪れたのを最後に鳥飼と三原は会うことはなかったとしており、『時間の習俗 』への連続性はなくなっている。
なお、再編集版の最後では鳥飼と三原が再び出会うシーンはカットされ、ナレーションならびに解説の石坂浩二が「鳥飼と三原がその後会ったかどうかさだかではなく、作品にも出会ったかどうかの記述はない」と述べた。
2019年 8月4日 には『テレビ朝日開局60周年 夏の傑作選』の第1弾として、『日曜プライム 』枠で1本に再編集して放送された[4] 。
点と線 / 国鉄黄金期「点と線」のころ
本作のアニメーション動画ドラマ。2002年制作。原画・作画監修は風間完 。アニメーションの声を西田敏行 ・緒形直人 が担当。
注釈
ミステリー史上における本作の位置づけについて、平野謙 は、アリバイ崩しそれ自体は、日本でも蒼井雄 や鮎川哲也 らが早くから手がけているが、本作はリアリティの点で卓越していると評価し、また、クロフツをアリバイ破りの完成者のひとりと位置づけながら、犯行動機をもっぱら個人悪に求めたクロフツに対して、本作では個人悪と組織悪の混合に求めている点が新しく、そこに清張のオリジナリティがあると分析している。『松本清張全集 第1巻』(1971年4月、文藝春秋 )巻末の平野による解説を参照。
このため、現在でもしばしば清張の代表作とみなされている。もっとも、著者自身は、光文社の単行本の「あとがき」において、「この小説では、いわゆる謎解きのほうにウエイトを置いて、動機の部分は狭くした」ため少々不満の残る旨を述べている。また江戸川乱歩 に対して、『点と線』(と『眼の壁』)は習作的な作品にすぎないという発言もしている。「これからの探偵小説」(『宝石 』1958年7月号掲載、『江戸川乱歩と13の宝石 第2集』(2007年、光文社文庫 )等に収録)参照。ただし、『文藝年鑑 』に提出する葉書の「代表作」欄には毎年「点と線」と書き続けており(藤井康栄 『松本清張の残像』(2002年、文春新書 )88-89頁参照)、清張が少なくとも建前上は本書を代表作としていたことは確かである。また、日本のミステリーの歴史において、この作品を、いわゆる社会派推理小説 の発火点と位置づけることもあるが、社会派推理小説の呼称が喧伝されるようになるのは本作発売後しばらく後のことであり、本作の発売に相伴ってこのキャッチコピーが使われたわけではない。清張自身は、この呼称に距離を置き、また適当ではないと明言している。エッセイ集『随筆 黒い手帖 』(1961年)、エッセイ『グルノーブルの吹奏』(1988年)など参照。
本作の4年後に刊行された『時間の習俗』では、捜査一課に転属している。
前述の平野謙は「いかにして空白の4分間に佐山とお時に15番線を確実に歩かせるのかトリックが説明されていない」と指摘している。『松本清張全集 第1巻』または新潮文庫 版(1971年5月)の平野による解説を参照。なお、平野の『点と線』読解に関連して、巽昌章 による補足的解釈も出されている。巽『論理の蜘蛛の巣の中で』(2006年、講談社 )中「第十八回 トリックは語る」参照。また、近年の長所短所併せた評価として、有栖川有栖 による文春文庫 版(2009年)解説がある。
種村直樹 『東京ステーションホテル物語』(1995年、集英社 )中、「松本清張をめぐる「点と線」」参照。
『点と線』の原稿料は1枚1500円であった。塩澤実信『出版社の運命を決めた一冊の本』(1980年、流動出版)中の第7章「光文社と松本清張の『点と線』」参照。
戸塚文子「『点と線』の頃」(『松本清張全集 第1巻』付属の月報に掲載、後に『松本清張の世界』(1992年、文藝春秋臨時増刊、2003年、文春文庫)に再掲)を参照。
いわゆる空白の4分間を発見し著者に報告したのは交通公社の従業員だった、と清張自身述べたことがある。清張と斉藤美智子との対談「推理小説の魅力」(『主婦の友 』1959年9月号掲載、『文学と社会-松本清張対談集』(1977年、新日本出版社)収録)参照。
岡田によれば、「「四」は「死」に通じるので、これは使えると思ったところが、さすが清張さんである」という。岡田喜秋「『点と線』の余韻」(『交通新聞 』2011年1月25日付掲載)参照。また『週刊 松本清張』第1号 10頁も併せて参照。
岡田『旅する愉しみ』(1998年、ほるぷ出版)参照。
佐野洋 との対談「清張ミステリーの奥義を探る」(『発想の原点-松本清張対談集』(1977年、双葉社 、2006年、双葉文庫 )収録)で、清張は以下のように発言している。「はっきり言って、『点と線』が自分では好きでなかったんだよ。むしろ同時に書いてた『眼の壁』の方に気合いが入っていたんだな。当時、『眼の壁』の方は非常に反響があったわけだけど、『点と線』は何の反響もないんだよ。何か、虚空に向かって球を投げているような感じだったんだ」。
戸塚「『点と線』の頃」、塩澤実信『ベストセラー作家 その運命を決めた一冊』(2009年、北辰堂出版)中の第2章「松本清張と『点と線』」参照。
戸塚「『点と線』の頃」に加えて、塩澤『ベストセラー作家 その運命を決めた一冊』も参照。
神吉晴夫 『現場に不満の火を燃やせ』(1963年、オリオン社)55頁以降、または同著者による『カッパ兵法-人間は一回しか生きない』(1966年、華書房)59頁以降参照。
光文社の出版部門を担当していた伊賀弘三良 によれば、単行本『点と線』の初版は5000部からのスタートであったが、20万部近くに達し、日本の推理小説の単行本としては空前の売れ行きとなった。2年後の1960年7月に刊行されたカッパ・ノベルス 版では初版から10万部近くを刷り、カッパ・ノベルス版だけで100万部を突破した。塩澤実信『出版社の運命を決めた一冊の本』(1980年、流動出版)188頁掲載の部数データ(光文社営業調べ)、または佐野洋 、半藤一利 、郷原宏 による座談会「週刊誌創刊時代の松本清張」(『松本清張研究』第8号(2007年、北九州市立松本清張記念館 )に収録)を参照。
徳川夢声による連載対談「問答有用」第386回(『週刊朝日 』1958年9月7日号掲載)参照。
種村直樹『東京ステーションホテル物語』中、「松本清張をめぐる「点と線」」参照。
笠井潔『探偵小説論Ⅰ 氾濫の形式』(1998年、東京創元社 )第七章「壊れた人間と平和な現在 - 松本清張論」参照。
『松本清張(新潮日本文学アルバム)』(1994年、新潮社 )88頁、『松本清張全集』第66巻(1996年、文藝春秋 )巻末の翻訳出版目録、および Japanese Literature in Foreign Languages 1945-1995 (1997、the Japan P.E.N. Club)を参照。
DVD『ビートたけし×松本清張 点と線』収録インタビュー参照。
中川里志「『点と線』(原稿・雑誌・単行本・全集)の校異について」(『松本清張研究』第2号(2001年、北九州市立松本清張記念館 編集・発行)に収録)
単行本化にあたっての死因の変更など。なお本作の直筆原稿は松本清張記念館が所蔵。
掛野剛史「松本清張『点と線』―連続する〈錯誤〉」(『論樹』第16号(2002年、論樹の会編集・発行)に収録)
初出における錯誤と、それにともなう単行本初版・再版・三十五版の異同など。
西本衛「『点と線』新潮文庫と文春文庫」(『松本清張研究』第11号(2010年、北九州市立松本清張記念館編集・発行)に収録)
新潮文庫版・文春文庫版の103ヶ所にわたる差異を各該当ページとともにまとめたもの。なお文春文庫版は『松本清張全集』第1巻(1971年、文藝春秋 )を底本としている。
安岡孝一「西鉄電車を歩く―松本清張『点と線』―」(『人文』第60号(2013年、京都大学人文科学研究所 編集・発行)に収録)