日本の俳優 (1923-2019) ウィキペディアから
山谷 初男(やまや はつお、1933年〈昭和8年〉12月19日[1] - 2019年〈令和元年〉10月31日)は、日本の俳優。本名:山谷 八男[2]。旧芸名は山谷 初夫。舞プロモーションに所属[2]。秋田県[2][1]仙北郡角館町(現仙北市)出身。秋田県立角館北高等学校(現:秋田県立角館高等学校)卒業[2]。役者仲間からは「はっぽん」の愛称で親しまれた。
八か月の早産で産まれたことから、八男と名付けられたが、生死が危ぶまれていた中、奇跡的に生き続けたため、もう一つの名前として「初男」を与えられている。その「はつお」から「ハツ坊」「ハッポ」というあだ名がつけられた[3]。
高校卒業後に画家を目指して上京。当初は中野の通信学校に入っていたが、昼は代々木の予備校、夜は阿佐ヶ谷の絵の学校にも通う。翌年、東京芸大の洋画科を受験しているが、実技で持参する絵のサイズが小さすぎ、この年は諦める。
二浪していたある日、阿木翁助作の『わが大学にある日々は』という劇団東芸の芝居を観たことにより情熱が芽生え、パンフレットにあった「研究生募集」に惹かれ、そのまま受験して入団する[3]。
1953年、劇団東芸での『ホタルの歌』の三吉役で初舞台を踏む。
有名劇団に入りたいとも思い、俳優座を受けるも不合格。のちに自由劇場、炎座、俳優小劇場の第一回研究生にもなっている(同期に山口崇がいる)[3]。
1964年に『ケチまるだし』の森本健二役で映画デビュー。
時代劇での凄みのある悪役をこなす一方、素朴な役柄もこなしていた。日活ロマンポルノにも多数出演していた。
1966年の『胎児が密猟する時』、1967年の『性の放浪』で、映画評論の新人賞を獲得。特異な俳優として注目され始める[3]。この頃に結婚するも、滅多に家に帰らず、ロケに出たり、俳優小劇場の海の家に泊まったりが続いたことから、離婚している[3]。
1973年、『国盗り物語』の赤兵衛役で一躍有名になった(里帰りした際は、実家の旅館に大勢の人が集まり、30枚以上の色紙にサインするほどだった)[3]。この頃は俳優小劇場で知り合った伊佐山ひろ子が恋人だった[3]。
2019年10月31日、間質性肺炎のため、秋田市の病院で死去[4][5]。85歳だった。
生家はJR角館駅前の「やまや旅館」である(「食堂やまや」も経営)。
秋田県出身とのことで秋田弁を自在に使えるため、東北弁の役柄が多かった。
1994年4月角館町に小劇場「はっぽん館」を建設。演劇、芸能全般、交流の館として地域に開放している[注釈 1]。
特技は東北弁[2][1]、手芸[1][3]。特に編み物に関しては、自分で着るベストなどを編んでいることを関根勤や黒柳徹子から賞賛された。
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