中野 浩一(なかの こういち、ラテン文字表記:Koichi Nakano。1955年11月14日 - )は元競輪選手・自転車競技選手。競輪選手登録番号8959。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第35期生。現在は公益財団法人JKA顧問、競輪解説者、日刊スポーツ競輪担当評論家、公益財団法人日本自転車競技連盟理事(元副会長)、スポーツコメンテーター・タレント(所属は(株)アルカンシェル、業務提携は浅井企画)。
家族は尚美夫人。
2006年春に全ての公営競技及び競輪選手出身者では初の紫綬褒章受章[2][3]。血液型B型、身長172 cm、体重85 kg[4]。
概要 中野 浩一Koichi Nakano, 基本情報 ...
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世界選手権個人スプリント (UCI Track Cycling World Championships – Men's sprint) 10連覇[5][6][7][8][9]、特別競輪12勝(GP1勝、GI11勝)、賞金王6回(歴代最多)を達成している。
中野浩一博物館は地元、久留米競輪場内に設置されている。
福岡県久留米市出身[10]。両親はともに元競輪選手。両親は既に他界している。
福岡県立八女工業高等学校では陸上競技を行っており、高校2年のとき、1972年に開催された山形インターハイ・400メートルリレー走の第3走者として優勝に貢献。高校3年春に右太ももの肉離れで陸上競技での大学進学を断念[11]。高校卒業後の進路としては、祖父が中学校の校長をしていたことから体育教諭への道や[12]、プロ野球選手から転身した尾崎将司に倣ってプロゴルファーになる希望を持っていた。そんな中、当時競輪選手だった父・光仁から、一度トラックレーサーに乗ってみないかと奬められ[13]、正味3か月程度の練習の末、競輪学校第35期生試験に合格した。
1975年に競輪学校を卒業。「35期の三羽烏」と謳われる[14]。同年5月3日に久留米競輪場でデビュー。その後、デビュー戦を含めて18戦無敗の記録を作った。当初「九州のハヤブサ」というニックネームが付けられた[15]。当時、中野に対抗するためフラワーラインのグループが形成され、全国規模に拡大。最終的には九州勢VSフラワーの戦いへと移行した。
その象徴が宮杯での岩崎誠一の過度の牽制であり、競輪祭での吉井秀仁の発言(決勝戦終了後、中野に対し、「ザマーミロ、あー気持ちいい」と言った[16])だった。1978年には競輪祭を制し、特別競輪10回目の出場にして初めての優勝を飾った。そして1980年に、日本の全てのプロスポーツ選手として初めて年間賞金獲得額1億円突破を達成したアスリートである[4]。その後、1981年の日本選手権競輪を制し、高倉登以来となる史上2人目の特別競輪3連覇を達成。1983年には史上最多の6回目の賞金王の座に就いた他、1985年に開始されたKEIRINグランプリを制し、同レースの初代優勝者となった。
とりわけ最盛期ともいうべき、1970年代後半から1980年代前半にかけての中野の強さは驚異的であり、特に「浩一ダッシュ」と称された捲りは非常に鋭く[15]、400mバンクを1周程度しか逃げ切れる力がない先行選手だと簡単に捲られていた。なお、競技で使ったトラックレーサーはナガサワレーシングサイクル(長澤義明)製造[17]。
当時は全てのプロのスポーツ選手はオリンピックに出場出来なかったため、一方で1976年に初めて世界自転車選手権に参戦し、プロ・スクラッチ(現 スプリント)で4位に入った。翌1977年、準決勝で当時同種目連覇中だったジョン=ミカエル・ニコルソンを破ると、決勝では前年の3位決定戦でストレート負けを喫した菅田順和を逆にストレートで下し、日本人選手として初めて同大会の優勝者となった。それ以降は毎年この種目で優勝し続け、1986年までに10連覇を達成(詳細は後述)。
ただ中野は競輪主催団体の方針による後援が受けられたからとはいえ、世界、それも全てアウェイのスポーツ大会において日本人が毎年出場していた例そのものが少なかった頃の活躍だっただけに、現在海外で活躍し続ける日本人スポーツ選手の先駆者パイオニアとなった。不世出のアスリートであり、日本のスポーツ選手の中で、ヨーロッパやオセアニア、南米では特に有名である。
国内でも常にトップクラスで活躍し続け、1983年競輪祭で滝澤正光を捲って優勝したのを最後に、異例の長きにわたった競輪競走第一人者の座は降りたが、1988年には通算賞金獲得額10億円を突破[18]。しかし、1992年に特別競輪の中で最後まで優勝できなかった高松宮杯競輪(現在の高松宮記念杯競輪)の決勝戦2着を最後に引退した。獲得賞金総額は13億1916万2077円[19]。
引退後は、スポーツコメンテーター、日刊スポーツ専属の評論家として活動。特別競輪開催期間中は日刊スポーツの競輪面で、前日のレースの振り返りと当日のレース予想をコラムで述べている。ただ、引退した現在でもJKA競輪関係者の立場であるため車券の購入や(アナウンスとして)レースの出目の予想をする事は、JKAの競輪関係者の車券購入を禁止した自転車競技法第10条[20]に抵触するため行わず、コラムでも主に技術論や選手心理、勝因敗因について語るのみであり、レース予想についても「●●が引っ張っていくだろう」「▲▲が抜け出せば■■にもチャンスがある」程度の展開予想に留まっている[21][22]。
現役時代からアートネイチャーのCMに出演していた関係から、一時は自転車のロードレースチーム「チームアートネイチャー」の監督も務めていた[23]。しかしアートネイチャーとの契約が切れたこともあり2005年に自毛植毛No.1のシェアを誇るアイランドタワークリニック[24] にて自毛植毛手術を受けた[25]。カツラは使用していない。
競輪がオリンピック自転車競技の「ケイリン」として正式種目に採用された2000年のシドニーオリンピックでは、競技の解説を務めるかたわら、自転車国際連盟から10連覇のリスペクトにより強いオファーを受け、ケイリンでは全レース先導誘導員を務めた。
2006年51歳で春の紫綬褒章を公営競技の選手、及び競輪選手として初めて受章[2][3]。競輪選手としての現役時代の活躍とともに、世界選手権プロスプリント10連覇が高く評価された。中野は「現役時代に一生懸命取り組んできたことが評価されて光栄に思います。今回の受賞は自分だけの名誉ではなく、業界の後押しもあってのこと。これからも熱い思いでファンに愛される競輪のお手伝いができれば」と喜びを語った[26]。現在、現役時の本拠地であった久留米競輪場では彼の功績を称え毎年、記念競輪を「中野カップレース」と名づけて開催している。
2011年4月より、日本自転車競技連盟強化委員長に就任。2013年7月より同連盟副会長。競輪選手養成所名誉教授。[27] となったが、2015年1月に松本整の日本代表監督解任に関する訴訟への発言により、副会長および代表理事を辞任して理事に退いた[28]。2016年10月より強化委員長を再任されている[29]
2021年の東京オリンピックでは、競技の解説を務めた。
2023年、日本自転車競技連盟理事を退任し、JCF選手強化スーパーバイザーに就任[30]。
2024年のパリオリンピックでも、競技の解説を務めた。
UCI Track Cycling World Championships – Men's sprint
- 1976年
- イタリア・レッチェ大会のプロ・スクラッチ(現在はスプリント、以下スプリントと表記)種目に初参加。3位決定戦で菅田順和に敗れ4位(このときの3位決定戦において、1本目は先に中野が先取していたが、雨天のため2本目が中止となった。翌日に再度行われた同決定戦において、前日の成績はノーカウントとされたばかりか、結局菅田にストレート負けを喫した)。
- 1977年・V1
- ベネズエラ、サン・クリストバル大会。3人マッチとなった一次予選を通過。準々決勝1本目では、相手選手の反則寸前の牽制を受けて失ったが、2、3本目を連取して準決勝に進出した。準決勝では2連覇中のジョン・ニコルソン(豪州)と対戦。ここでも1本目を失ったが、2、3本目をいずれも連取し、決勝に進出した。決勝は、準決勝でジョルダーノ・トゥッリーニ(イタリア)を破った菅田順和との日本人選手同士の対戦となったが、2日間にわたる戦い(1本目、中野が先取したあと雨天のため中止となり、2本目は翌日早朝開催。このときは前年と異なり、前日の成績が反映された。)で破り、1893年より開始された同大会史上初の日本人選手優勝者となった。
- 1978年・V2
- 西ドイツ・ミュンヘン大会。決勝ではディーター・ベルクマン(西ドイツ)と対戦。1本目を追い込んで制したものの、2本目はベルクマンに逃げ切りを許す。しかし先行策に出た3本目、途中でベルクマンを戦意喪失させる圧倒ぶりを見せ連覇達成。その後中野は、1982年の大会でヤーヴェ・カール(フランス)に1本目を取られるまで、全てストレート勝ちを収めていくことになる。
- 1979年・V3
- オランダ・アムステルダム大会。ここでも決勝はディーター・ベルクマンとの対戦となったが、2-0 のストレート勝ちを収めて3連覇達成。そしてこの年を最後に、ベルクマンは現役を退いた。
- 1980年・V4
- フランス・ブザンソン大会。予選でカポンチェッリ、準々決勝で堤昌彦を撃破。準決勝では、アマチュア時代、メキシコ・ミュンヘンの両五輪大会においてスプリント連覇、世界自転車選手権アマチュア部門のスプリントを7回制し、「スプリントの神様」と称されたダニエル・モレロン(フランス)と対戦することになった。1、2本目ともに中野は逃げの策に出、これをモレロンが追う形となったが、モレロンはいずれも追い込み不発に終わり中野のストレート勝ち。決勝でも尾崎雅彦を破り、4連覇を達成した。そして、この大会でモレロンを破ったことに対して敬意を表し、以後フランスでは「ムッシュ・ナカノ」と呼ばれるようになった。
- 1981年・V5
- チェコスロバキア・ブルノ大会。準決勝で、後に名ロードレース・スプリンターとして名を馳せることになる、ギド・ボンテンピ(イタリア)に圧勝。そして、この年にプロ入りを果たしたばかりのゴードン・シングルトン(カナダ)と決勝で対決することになったが、1本目を逃げ切って制し、2本目は2角付近より山おろしをかけたシングルトンを捲り切り、5連覇を達成した。
- しかし、決勝で敗れたとはいえ、シングルトンは準々決勝で菅田順和、準決勝で高橋健二をいずれも力で圧倒しており、これからさらにキャリアを積めば、もっと強くなっていくであろうという考えが中野の中にあった。ひいては、翌年の大死闘の伏線となる。
- また、この優勝が評価されて中野は競輪選手としては史上2人目の日本プロスポーツ大賞を受賞した。
- 1982年・V6
- イギリス・レスター大会。先に行われたケイリンを制覇していたシングルトンは準決勝で亀川修一を圧倒するなど、予選道中完璧な内容で決勝進出。一方中野はこの年、競輪で落車が相次いだ[32] ことから不調が伝えられたが、準決勝のヤーベ・カール戦で先に一本先取され、連続連取記録は25でストップしてしまった。何とか2、3本目を取って決勝へと駒を進めたものの、決勝戦までの過程の内容は、断然シングルトンのほうが上回っていた。また、満場のスタンドはほとんど全てシングルトンを応援していたことから、決勝前にはシングルトン有利の下馬評が伝えられた。
- 1本目、逃げるシングルトンを中野は射程圏内に入れ、左右後方を振り返るほどの余裕をもってゴール前で完全にかわしに入ったが、かわし際にシングルトンと接触して双方転倒し、互いにゴールできなかったことからノーカウントの判定となった。ところで、中野が追い抜こうとした際、シングルトンが右ひじを出してきて進路を妨害されたとして日本選手団側は抗議に出たが却下された。そしてこのシングルトンの行為が2本目の伏線に繋がる。さらに中野だけは意識が朦朧としたままの状態がしばらく続いたという[33]。
- 再戦1本目、ダッシュのタイミングが遅れた中野は直線手前で踏むのを諦めたことから、シングルトンが逃げ切る。そしてもう後がなくなった[34]。
- 2本目、またしても逃げるシングルトンを追う形となった中野は2センターから遅めの捲りを敢行。そしてこの2本目においても中野のかわし際にシングルトンは右ひじを出してきたが、中野はこれにひっかからず、今度はシングルトンだけが転倒した。この時点で中野がタイに持ち込んだ。
- この判定にカナダ側が抗議に出るも却下され、そればかりかシングルトンはこの際に右ひじを骨折。3本目の競走続行不可能となり棄権。中野は薄氷を踏む思いで同種目6連覇を達成した。
- レース後、国際自転車競技連合 (UCI) はノーカウントとなった1本目ならびに2本目のシングルトンの中野に対する行為は悪質だとして、シングルトンを事実上の永久追放処分とすることに決した。UCI主管以外の大会には出場ができたが、当然、世界自転車選手権には出場できず、その後シングルトンは現役引退を余儀なくされた。
- また、この年の優勝により、中野はジェフ・シェーレン(ベルギー)が1932年 - 1937年に記録した同種目の連覇に並び、翌年に新記録をかけることとなった。
- 1983年・V7
- スイス・チューリッヒ大会。1回戦でティンスリー、準々決勝でライアンを破った中野は、準決勝でオッタヴィオ・ダッツァン(イタリア)と対戦。1本目は捲り、2本目は逃げ切って制し、連覇新記録をかけて決勝で、前年の準決勝で1本目を奪われているヤーベ・カール(フランス)と対戦することになった。しかし1、2本目とも、いずれも逃げ切り勝ちを収め7連覇。46年ぶりに連覇記録を更新した。
- 1984年・V8
- スペイン・バルセロナ大会。6月に行われた高松宮杯競輪決勝で、山口健治に押圧されて落車し、鎖骨骨折で全治2ヶ月と診断された影響を受け、万全の体調とはいかなかったが、予選、準々決勝をいずれもストレート勝ち。準決勝は新顔のディーター・ギープケン(西ドイツ)との対戦となったが、1本目逃げ切り、2本目は追い込んで勝ち、決勝に進出した。決勝ではヤーベ・カールを下したオッタヴィオ・ダッツァン(イタリア)と対戦。1本目を捲りで仕留め、2本目は逃げ切って勝ち8連覇。ついにシェーレン、アントニオ・マスペス(イタリア)と並んでいた同種目最多優勝記録をも更新し、ギネスブックに登録されることになった。
- また、公営競技の選手としては初めて、昭和天皇主催の秋の園遊会の招待も受けた。さらにこの年、競輪学校名誉教官の称号も与えられた。
- 1985年・V9
- イタリア・バッサノ大会。準決勝で、前年のロサンゼルスオリンピックのスプリントで4位に入り、プロ入り初年度のフィリップ・ヴェルネ(フランス)と対戦。1本目、逃げの策に出たがゴール直前、タイヤ差交わされ先取されてしまう。1982年決勝におけるシングルトン戦以来となる、後がない展開となったが、2本目は逃げ切り。3本目はバック付近でカマシに打って出たヴェルネに対し、直線半ばで抜き去り決勝進出を決めた。そして決勝では、松枝義幸をストレートで下して9連覇を達成した。
- 1986年・V10
- そして10連覇目となる舞台は、アメリカ・コロラドスプリングス。
- しかし試練が待ち構えていた。
- 5月下旬、久留米競輪場で行っていた、高松宮杯競輪直前の練習中に転倒し、肋骨などを骨折(折れた骨の中には肺に突き刺さっているものもあった)する大怪我に見舞われた。一時は全治3ヶ月と診断され、世界自転車選手権出場自体も危ぶまれた。
- しかし、担当した寺門敬夫医師や山本トレーナーなどの尽力の甲斐もあって驚異的な回復力を見せ、ほぼ1ヶ月程度で競走可能な状態にまで持ち込み、当時世界自転車選手権の直前に行われていた、8月の全日本選抜競輪への出場を予定していた。だが、またしても久留米競輪場で行われていた、同大会へ向けての直前練習の際に転倒。大事にこそ至らなかったが同じ箇所を痛めてしまい、骨折が完治しないまま中野はコロラドスプリングスの世界選手権に出場することになった。
- しかし中野はこの年から採用された、対戦相手を決めるために行われる200メートルフライングタイムトライアルにおいて当時の同種目プロ世界新記録となる記録(10.57秒)をたたき出し、これまでの不安を一掃した。本戦1回戦では、ローリー・ベン(豪州)を圧倒。準々決勝のパトリック・ダ・ロシャ(フランス)戦では、観戦に招待した両親に向かって手を振る余裕ぶりを見せた。もちろん、ダ・ロシャ戦はストレート勝ち。準決勝のディーター・ギープケン戦もストレートで下し、決勝では、同じ日本の俵信之を下した松井英幸との対戦となった。1本目は追い込んで勝った中野だが、10連覇がかかった2本目は、バックから山降ろしをかけて松井を圧倒し、ついに10連覇達成。また、3位決定戦において俵信之がギープケンを下したことから、この年の同種目は日本勢のメダル独占となった。
- 大会終了後、中野はこの10連覇をもってスプリントから撤退すると表明。一部の外国記者から「引退か」と質問をかけられたが、中野は「スプリントにはもう出場しないが、今度はケイリンに出たい」と表明した。
- そしてこの年、中野の大偉業を讃え、当時の中曽根康弘首相より「内閣総理大臣顕彰」が授与されることになった。同じく内閣総理大臣顕彰の授与者として、アジア大会・ハンマー投5連覇を果たした室伏重信(アテネ五輪・ハンマー投金メダリストの室伏広治の父)もいた。
1990年、前橋の開催において、日本自転車関係者のたっての希望により、中野はケイリンへの出場を果たすも予選で敗退した。
1991年、ドイツ・シュトゥットガルト大会にもケイリンで参加したが、決勝5着。そして、これが中野が参加した最後の世界選手権となった。
以下は、2008年11月22日にNHK衛星第一放送で放送されたスポーツ大陸の、「世界を変えた“浩一ダッシュ”〜自転車 中野浩一〜」を参考に記した。
- 途中までは中団に位置し、残り数百メートルあたりで全力ダッシュをかけて一番前に出て、そのままゴールまで先頭を維持し続ける「捲り」という走りを最も得意とした。スプリントV10はこの走り方により成し遂げた面が大きい(浩一ダッシュとも言われた)。高橋健二は浩一ダッシュを「一瞬の爆発力。ピストの走路に中野がダッシュすると、タイヤのスリップ跡が付いた」と評している。
- 浩一ダッシュの秘密が、競輪学校の教材に残されている。中野の場合、踏み込む時には大きく力が加わっているが、その後は全く力が加わっていない。一流選手でも力が残る人が多いのとは対照的に、中野の切り替えの見事さが際立っている。ペダルは両足で漕ぐが、右足で下向きの力を掛けている時に左足の力も残っていると、ギアを回転させる力を殺してしまうのだ。中野が高速でペダルを踏んでも絶妙なタイミングで切り替えができたのは、実は陸上競技をしていた時の練習の賜物で「踵がお尻に当たるような、足を出す時に早く巻き込むというようなイメージで、陸上練習をやっていたのが、逆に役に立っているのかなと思う。僕の自転車に乗ってる姿を見て、なんか自転車の上で走ってるようだねっていう人もいた」と述懐している。
- 競輪競走においてダッシュは2通りある。一つは、いわゆるスタンディングと呼ばれる全くスピードに乗っていない状態からの踏み出しで0発進と呼ばれ、長塚智広が世界有数の能力を持っている。もう一つは、ある程度スピードに乗った状態からの急加速であり、吉岡稔真のF1ダッシュ(ラジオの題名)が有名である。通常、この2つはあまり同居せず、長塚は並のS1選手であり、吉岡は常に踏み出しで遅れをとっていたが、中野はこの2つのダッシュ力においてどちらも輪界トップであったことが驚異的な成績につながることになった。なお、ダッシュ力の持続は数百メートルの範囲であり、競輪以外での中・長距離走は苦手であることを現役時代から公言している。
- 中野の速さのもう一つの秘密は、自転車のフレームにあった。他の選手は通常、結構ハンドルにしがみついて乗るフォームになる。それに対して、中野は全速力で走る時も、腰をサドルに乗せたままペダルを漕ぐ。しかし腰を浮かせて前に行ったほうが、ペダルに力を掛けやすい。そこで、中野の自転車を製作していた長澤義明は、その走り方の特長を最大限に生かそうと考えた。フレームの形を変え、サドルの位置を前に2cmずらした。これなら安定して強い力で漕げる。さらに中野のパワーに負けないように、フレームのパイプを肉厚にした。重くはなるが、力が逃げない。安定したペダリングで強い踏み込みができるこのフレームは、中野が世界で勝った後、わずか3年でスタンダードになっていた。
- 競輪競走1236走中9着は僅か4回で[35]、うち一回は落車後の再乗車によるものである。自身も「9着を取らない」ことを相当意識しており、不利な状況でもできる限りの力を尽くしたと後のインタビューで答えている。
- 本人曰く根は練習嫌いであったという。しかし練習嫌いゆえに効率的な練習ができ、必要以上に肉体を酷使せずに疲労による怪我をせずに済んだと語っている。また、競輪学校時代と、その後プロになってからしばらくの間は、必死に練習したとも言っている。