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日本の競輪選手、トラックレース選手 ウィキペディアから
中野 浩一(なかの こういち、ラテン文字表記:Koichi Nakano。1955年11月14日 - )は元競輪選手・自転車競技選手。競輪選手登録番号8959。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第35期生。現在は公益財団法人JKA顧問、競輪解説者、日刊スポーツ競輪担当評論家、公益財団法人日本自転車競技連盟理事(元副会長)、スポーツコメンテーター・タレント(所属は(株)アルカンシェル、業務提携は浅井企画)。 家族は尚美夫人。 2006年春に全ての公営競技及び競輪選手出身者では初の紫綬褒章受章[2][3]。血液型B型、身長172 cm、体重85 kg[4]。
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2018年 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
基本情報 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
愛称 |
ミスター競輪 世界の中野 ムッシュ 世界チャン スプリントの皇帝[1] 九州のハヤブサ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1955年11月14日(69歳) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 福岡県久留米市 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 172 cm (5 ft 8 in) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 85 kg (187 lb) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
選手情報 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
登録番号 | 008959 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
所属 | 引退 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
期別 | 35期 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚質 | 捲り→自在 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
登録地 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1975-1992 | 日本競輪選手会福岡支部 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
業績 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
賞金王 | 1977-1983 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
新人王 | 1976 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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選手情報 KEIRIN.JP | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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自転車競技情報 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
分野 | トラックレース | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
特徴 | スプリンター | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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■最終更新日:2009年7月23日 ■テンプレートを表示 |
世界選手権個人スプリント (UCI Track Cycling World Championships – Men's sprint) 10連覇[5][6][7][8][9]、特別競輪12勝(GP1勝、GI11勝)、賞金王6回(歴代最多)を達成している。 中野浩一博物館は地元、久留米競輪場内に設置されている。
福岡県久留米市出身[10]。両親はともに元競輪選手。両親は既に他界している。
福岡県立八女工業高等学校では陸上競技を行っており、高校2年のとき、1972年に開催された山形インターハイ・400メートルリレー走の第3走者として優勝に貢献。高校3年春に右太ももの肉離れで陸上競技での大学進学を断念[11]。高校卒業後の進路としては、祖父が中学校の校長をしていたことから体育教諭への道や[12]、プロ野球選手から転身した尾崎将司に倣ってプロゴルファーになる希望を持っていた。そんな中、当時競輪選手だった父・光仁から、一度トラックレーサーに乗ってみないかと奬められ[13]、正味3か月程度の練習の末、競輪学校第35期生試験に合格した。
1975年に競輪学校を卒業。「35期の三羽烏」と謳われる[14]。同年5月3日に久留米競輪場でデビュー。その後、デビュー戦を含めて18戦無敗の記録を作った。当初「九州のハヤブサ」というニックネームが付けられた[15]。当時、中野に対抗するためフラワーラインのグループが形成され、全国規模に拡大。最終的には九州勢VSフラワーの戦いへと移行した。
その象徴が宮杯での岩崎誠一の過度の牽制であり、競輪祭での吉井秀仁の発言(決勝戦終了後、中野に対し、「ザマーミロ、あー気持ちいい」と言った[16])だった。1978年には競輪祭を制し、特別競輪10回目の出場にして初めての優勝を飾った。そして1980年に、日本の全てのプロスポーツ選手として初めて年間賞金獲得額1億円突破を達成したアスリートである[4]。その後、1981年の日本選手権競輪を制し、高倉登以来となる史上2人目の特別競輪3連覇を達成。1983年には史上最多の6回目の賞金王の座に就いた他、1985年に開始されたKEIRINグランプリを制し、同レースの初代優勝者となった。
とりわけ最盛期ともいうべき、1970年代後半から1980年代前半にかけての中野の強さは驚異的であり、特に「浩一ダッシュ」と称された捲りは非常に鋭く[15]、400mバンクを1周程度しか逃げ切れる力がない先行選手だと簡単に捲られていた。なお、競技で使ったトラックレーサーはナガサワレーシングサイクル(長澤義明)製造[17]。
当時は全てのプロのスポーツ選手はオリンピックに出場出来なかったため、一方で1976年に初めて世界自転車選手権に参戦し、プロ・スクラッチ(現 スプリント)で4位に入った。翌1977年、準決勝で当時同種目連覇中だったジョン=ミカエル・ニコルソンを破ると、決勝では前年の3位決定戦でストレート負けを喫した菅田順和を逆にストレートで下し、日本人選手として初めて同大会の優勝者となった。それ以降は毎年この種目で優勝し続け、1986年までに10連覇を達成(詳細は後述)。
ただ中野は競輪主催団体の方針による後援が受けられたからとはいえ、世界、それも全てアウェイのスポーツ大会において日本人が毎年出場していた例そのものが少なかった頃の活躍だっただけに、現在海外で活躍し続ける日本人スポーツ選手の先駆者パイオニアとなった。不世出のアスリートであり、日本のスポーツ選手の中で、ヨーロッパやオセアニア、南米では特に有名である。
国内でも常にトップクラスで活躍し続け、1983年競輪祭で滝澤正光を捲って優勝したのを最後に、異例の長きにわたった競輪競走第一人者の座は降りたが、1988年には通算賞金獲得額10億円を突破[18]。しかし、1992年に特別競輪の中で最後まで優勝できなかった高松宮杯競輪(現在の高松宮記念杯競輪)の決勝戦2着を最後に引退した。獲得賞金総額は13億1916万2077円[19]。
引退後は、スポーツコメンテーター、日刊スポーツ専属の評論家として活動。特別競輪開催期間中は日刊スポーツの競輪面で、前日のレースの振り返りと当日のレース予想をコラムで述べている。ただ、引退した現在でもJKA競輪関係者の立場であるため車券の購入や(アナウンスとして)レースの出目の予想をする事は、JKAの競輪関係者の車券購入を禁止した自転車競技法第10条[20]に抵触するため行わず、コラムでも主に技術論や選手心理、勝因敗因について語るのみであり、レース予想についても「●●が引っ張っていくだろう」「▲▲が抜け出せば■■にもチャンスがある」程度の展開予想に留まっている[21][22]。
現役時代からアートネイチャーのCMに出演していた関係から、一時は自転車のロードレースチーム「チームアートネイチャー」の監督も務めていた[23]。しかしアートネイチャーとの契約が切れたこともあり2005年に自毛植毛No.1のシェアを誇るアイランドタワークリニック[24] にて自毛植毛手術を受けた[25]。カツラは使用していない。
競輪がオリンピック自転車競技の「ケイリン」として正式種目に採用された2000年のシドニーオリンピックでは、競技の解説を務めるかたわら、自転車国際連盟から10連覇のリスペクトにより強いオファーを受け、ケイリンでは全レース先導誘導員を務めた。
2006年51歳で春の紫綬褒章を公営競技の選手、及び競輪選手として初めて受章[2][3]。競輪選手としての現役時代の活躍とともに、世界選手権プロスプリント10連覇が高く評価された。中野は「現役時代に一生懸命取り組んできたことが評価されて光栄に思います。今回の受賞は自分だけの名誉ではなく、業界の後押しもあってのこと。これからも熱い思いでファンに愛される競輪のお手伝いができれば」と喜びを語った[26]。現在、現役時の本拠地であった久留米競輪場では彼の功績を称え毎年、記念競輪を「中野カップレース」と名づけて開催している。
2011年4月より、日本自転車競技連盟強化委員長に就任。2013年7月より同連盟副会長。競輪選手養成所名誉教授。[27] となったが、2015年1月に松本整の日本代表監督解任に関する訴訟への発言により、副会長および代表理事を辞任して理事に退いた[28]。2016年10月より強化委員長を再任されている[29]
2023年、日本自転車競技連盟理事を退任し、JCF選手強化スーパーバイザーに就任[30]。
UCI Track Cycling World Championships – Men's sprint
1990年、前橋の開催において、日本自転車関係者のたっての希望により、中野はケイリンへの出場を果たすも予選で敗退した。
1991年、ドイツ・シュトゥットガルト大会にもケイリンで参加したが、決勝5着。そして、これが中野が参加した最後の世界選手権となった。
以下は、2008年11月22日にNHK衛星第一放送で放送されたスポーツ大陸の、「世界を変えた“浩一ダッシュ”〜自転車 中野浩一〜」を参考に記した。
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
日刊スポーツの「中野浩一のザ・提言2024」では、「車番を競走得点順に入れるか抽選にする[40]」「S級戦はオール9車に戻す[41]」「仕掛ける選手の意思確認をしてから誘導員を退避」「斜行・蛇行のルールを厳格に見直してギア倍数の上限も下げる[42]」という提言をした。
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