Loading AI tools
日本のタレント、俳優 (1962-) ウィキペディアから
柳沢 慎吾(やなぎさわ しんご、1962年3月6日[1] - )は、日本のタレント、俳優。神奈川県小田原市出身[2]。
この記事は大言壮語的な記述になっています。 |
やなぎさわ しんご 柳沢 慎吾 | |
---|---|
本名 | 柳沢 慎吾 |
生年月日 | 1962年3月6日(62歳) |
出身地 | 日本・神奈川県小田原市 |
身長 | 165 cm |
血液型 | AB型 |
職業 | タレント・俳優 |
ジャンル | テレビドラマ・バラエティ番組・ものまね |
活動期間 | 1979年 - |
配偶者 | 既婚(1992年 - ) |
事務所 | ハート・レイ |
公式サイト | プロフィール |
主な作品 | |
テレビドラマ 『翔んだカップル』 『翔んだライバル』 『ねらわれた学園』 『ふぞろいの林檎たち』シリーズ 『少女に何が起ったか』 『はね駒』 『名奉行 遠山の金さん』 『味いちもんめ』シリーズ 『終りに見た街』 『てっぱん』 『美男ですね』 『ウルトラマンオーブ』 吹き替え 『ウルトラマンG』 『マダガスカル』シリーズ 『ピクセル』 『猿の惑星: 聖戦記』 バラエティ番組 『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』 『上海紅鯨団が行く』 『クイズところ変れば!?』 『ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャー これができたら100万円!!』 『ウンナンのホントコ!』 『火曜サプライズ』 |
地元の小田原市立/白鴎中学校卒業を経て、私立/立花学園松田高等学校卒業[2]。中学時代、バレーボール部に所属していた。
幼少時からテレビ好きで、テレビで見たものを真似ては友達を喜ばせていた。家族構成は両親と姉1人。実家は自営業で、青果業の柳澤商店を経営していた[2]。
素人時代からお笑いコンビ『てっちゃんしんちゃん』を組んで、『TVジョッキー』などに出演。同番組のコーナー「ザ・チャレンジ」で4代目チャンピオンとなる[注釈 1][3]。
高校時代(1978年)、『ぎんざNOW!』の「素人コメディアン道場」で第20代チャンピオンとなり、芸能界デビュー[2][4]。
TVジョッキーのプロデューサーから、同じ日本テレビの番組『お笑いスター誕生!!』に、『てっちゃんしんちゃん』での出場を打診されるも、本人は青春ドラマの生徒役などドラマ出演志望だったことから、これを断っている[5]。その後間も無くして、てっちゃんしんちゃんは解散する[3]。
翌年(1979年)、「柳沢順吾」名義で『3年B組金八先生』のヤンキー生徒役として、テレビドラマデビュー[4][6]。『ふぞろいの林檎たち』『翔んだカップル』などで、俳優としての地位を確立[6]。
その後は俳優として活動する傍ら、バラエティ番組では「うるさい」「落ち着きのない」キャラクターを披露し、特に1989年にとんねるずの特番『仁義なき花の芸能界全部乗っ取らせていただきますスペシャル』で放送された「芸能人ねるとんコーナー(ねるとんね紅鮭団)」において、「ごめんなさい」を受けた際(過去同番組で2戦2敗・相手は内海和子、吉田美江)に言い放った「あばよ!」の決めゼリフが大ブレイクした[6][注釈 2]。3回目はとびきりの美女とのデートが実現したが、実はニューハーフで「お前が女だったら、俺もお前に惚れてたよ…、あばよっ!」と別れを告げた(と同時に大爆発が起き、夜の闇に消えていった)。
26歳(1986年)で、エランドール賞新人賞受賞[要出典]。
デビュー以降急速に人気を獲得していったが、急に多忙になったために精神的に追い込まれた時期があった[2][4]。自分から仕事を減らした結果「自分は周囲のスタッフに恵まれている」と感謝できるようになり[4]、「今思うと、あのめちゃめちゃ忙しかった経験が、その後の自分を支えてくれている気がします」と回想している[4]。
持ちネタは、自分が体験したり見た事柄を、ひとりで身振り手振りと声色、時には自分の所持品やその場に見える物を巧みに利用し(それらを鳴らし効果音としながら)再現するコントのような独り芝居を行う。中でも十八番の『警察24時』や甲子園ネタや山城新伍、石立鉄男などのものまねもする(後述)。また、水を飲もうと口に近づけたコップを歯にぶつけたり、リップクリームを唇だけでなく眉毛に塗ったりするなどの「小ネタ」も多い。
トーク番組では、高田純次やルー大柴や江頭2:50などと同様に最初はテンションが高く暴れているが、出番前の楽屋からずっとハイテンションなために最後には疲れてテンションが低く人の話を聞かないことがある。[要出典]なお、関根麻里はタイプの似ているこの2人(柳沢と高田)を「理想の男性」に挙げている。麻里の父親である関根勤は「俺の育て方は間違っていなかった」と述懐している。本人曰く「テレビ番組出演時とプライベートとではテンションが全く変わらない」とのこと[7]。
観客がいる番組出演の場合、若手だった1980年代に出演した番組ではまだおこなっていなかったものの、1990年代に入ってからは持ち前の明るさをそれまで以上に全面に押し出し、最前列でスタジオ観覧する客席にいる見ず知らずの観客数人にいきなり握手を逆要求して最後に握手した相手には「楽しんで、来てくれてありがとう」と敬意を込めつつ、軽くどつくというパフォーマンスを行ってこれもネタの一つになっていた。しかし2020年以降のスタジオ出演番組では観客がいる場合でも新型コロナウイルス世界的流行問題による万が一の無症状からの接触感染を防ぐため、おこなっていない。[要出典]
若手の頃、テレビ番組で「自身の家系の男性が全員ハゲ頭であるため、自身の将来の髪について心配している」と語っていたが、1990年代以降見た目と髪型はほとんど変わっていない。[要出典]
熱烈な野球ファンである。自宅で高校野球中継を見るために50インチのプラズマテレビを購入した他[8]、選抜高等学校野球大会と全国高等学校野球選手権大会開催時には仕事をほとんど入れない上、球児と同じ気持ちになろうと締め切った部屋に冷房を入れず汗をかきながら観戦に熱中するほどのファンである。プロ野球は、横浜DeNAベイスターズと埼玉西武ライオンズのファンである[要出典]。
また、『警視庁24時』を放送する日は、リアルタイムで見たいがため、気晴らしで行く温泉旅行をキャンセルするほどである[9]。
愛車はトヨタ・2000GTとメルセデス・ベンツ・S600ロリンザー仕様(W220系)だが[要出典]、ベンツの方は『志村&所の戦うお正月』の「ペーパードライバー対決」で運転手の西村知美により、あちこち散々ぶつけられている。
2010年05月01日(48歳)、出身地である小田原市の初代「小田原ふるさと大使」に任命された[10]。
2023年12月03日(61歳)、横浜スタジアムで開催された『YOKOHAMA STADIUM 45th DREAM MATCH』で、始球式を行った。「東海大相模 vs. 横浜」の決勝戦を再現し、松坂大輔本人に投球をさせて、優勝するパフォーマンスを行った。 メインイベントでは、横浜高校出身の松坂大輔氏、東海大学付属相模高校出身の森野将彦氏、横浜商業高校出身の山口鉄也氏など神奈川県内の高校野球出身のレジェンドたちが集結したチーム「Y45 LEGEND HEROES」の監督を勤め、見事ベイスターズOBが終結した「BAY DREAM STARS」(監督:三浦大輔)に(7-2で)勝利した。
親友の京本政樹と2人揃うと「芸人つぶし」と言われ、『ウンナンの気分は上々。』での「ナンチャン・シンチャン・京様の旅」をはじめとして本職の芸人を食うトークをみせる。京本とは『HOTEL』で共演して以来「兄弟」と呼び合う仲で、お互い毎年最初に会う芸能人と決めており、ほかの芸能人から誘いがあっても断っている。その他、『火曜サプライズ』では河本準一とともに「京さま・慎ちゃん 都バスで飛ばすぜぃ! with 河本」で共演した。[要出典]
『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』で『ふぞろいの林檎たち』のパロディを行った際、南原清隆が柳沢役を演じ、その後柳沢本人も登場した。以後、ウッチャンナンチャンとは親しい間柄になった。また『気分は上々。』の「シンチャン・ナンチャンのセブ島の旅」では勝俣州和と共演し、宿泊したホテルで夜は柳沢が南原の睡眠を妨害し、朝は勝俣が南原らを強引に起こし、南原を困らせた。[要出典]
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.