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日本の落語家 (1925-2015) ウィキペディアから
三代目 桂 米朝(かつら べいちょう、1925年〈大正14年〉11月6日 - 2015年〈平成27年〉3月19日)は、落語家。本名∶中川 清。出囃子∶『三下り鞨鼓』→『都囃子』[1]。俳号は「
三代目 | |
1947年から1950年ごろ撮影。向かって右の人物が米朝。左は三代目桂春団治(撮影当時は二代目桂小春)。 | |
本名 | |
---|---|
別名 | 俳号: ちゃーちゃん べーやん |
生年月日 | 1925年11月6日 |
没年月日 | 2015年3月19日(89歳没) |
出生地 | 関東州大連普蘭店 (現:中華人民共和国遼寧省大連市普蘭店区) |
師匠 | 四代目桂米團治 |
弟子 | 二代目桂ざこば 桂朝太郎 桂米蔵 桂米輔 桂千朝 桂米二 五代目桂米團治 桂勢朝 桂米平 桂米裕 桂米左 桂團朝 二代目桂八十八 |
名跡 | 桂米朝 (1947年 - 2015年) |
活動期間 | 1947年 - 2015年 |
活動内容 | 上方落語 |
家族 | 五代目桂米團治(長男) |
所属 | 千土地興行(1947年 - 1968年) 無所属(1968年 - 1974年) 米朝事務所(1974年 - 2015年) |
公式サイト | 米朝事務所 |
主な作品 | |
『地獄八景亡者戯』 『百年目』 『菊江仏壇』 『一文笛』 | |
受賞歴 | |
1987年:紫綬褒章 1996年:人間国宝 2002年:文化功労者顕彰 2009年:文化勲章 2015年:従三位 | |
備考 | |
上方落語協会副会長(1957年 - 1977年) 上方落語協会相談役(1977年 - 2015年) | |
現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興に大きく貢献した。その功績から、1996年(平成8年)に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、2009年(平成21年)には演芸界初の文化勲章受章者となった。位階は従三位。
旧関東州(満州)大連市生まれ、兵庫県姫路市出身。1979年(昭和54年)に帝塚山学院大学の非常勤講師を務めた。 若い頃から尼崎市武庫之荘に在住し[3]、同町の発展や景観維持などにも貢献していた[4][5]。
1925年、関東州大連普蘭店(現・中華人民共和国遼寧省大連市普蘭店区)に生まれた。4歳のころに奉天(現・瀋陽)ヘ転居。実家は兵庫県姫路市の九所御霊天神社の神職であり[6]、祖父の死去に伴い、父が1930年に実家を継承するために一家揃って姫路に帰郷した。米朝自身も上京前に周囲の勧めもあって神職の資格を取得しており、落語家になる前には実家の神社の禰宜(ねぎ)を務めたこともあったという[7]。幼少時代から落語や浪曲に親しみ、父や演芸好きの叔父に連れられて西花月亭や南地花月にもよく通っていた。
旧制姫路中学(現在の兵庫県立姫路西高等学校)卒業後、1943年、大東文化学院(旧制専門学校、現大東文化大学)進学のため上京。在学中、作家であり落語・寄席研究家でもある正岡容(蓉)主催の珍しい落語会を見たことを機に正岡に入門。正岡一門の一番弟子となった。正岡を通じ5代目笑福亭松鶴や、大阪の映画館主の息子であった矢倉悦夫(のちの3代目桂米之助)と知り合いとなった。
1945年2月に応召し、入隊するが急性腎臓炎に倒れて、3月には地元の陸軍病院に入院。三田の療養所に転院の後、8月12日に退院し、姫路の実家で太平洋戦争の終結を迎える。この頃、慰問で病院に訪れた橘ノ圓都と出会うことになる。専門学校(当時の大東文化学院は旧制専門学校)には復学せず、神戸市の神戸生活用品商事で会社員となり一介の落語愛好家として落語会や素人落語の上演会を主催するなど、上方落語復興に力を入れていた。[8]
矢倉が3代目桂米之助となったことが縁で、後に師匠となる4代目桂米團治に教えを請う機会が生じた。この時に「高津の富」を教わる。
やがて、師・正岡の「いまや伝統ある上方落語は消滅の危機にある。復興に貴公の生命をかけろ」との言葉を受け、本格的に落語家を志すようになり、1947年9月に会社勤めをしながら米團治に入門。3代目桂米朝を名乗る[9][10]。一旦勤めを辞めて米團治宅の内弟子となるものの親戚から叱責を受け、姫路市内の広畑郵便局員として1年ほど勤務した[11]。その後、師・米團治の死に遭い、落語のみに精進することを決意する。
戎橋松竹で初舞台後、長年千土地興行(後の日本ドリーム観光)に所属し、千日劇場を本拠に道頓堀角座やうめだ花月に出演したが、1968年3月以降はフリーとなり、ホール落語、独演会、一門会を中心に活動するようになる。ラジオパーソナリティーを務めていた近畿放送の「天壇ゴールデンリクエスト」の縁で1966年7月16日、初の独演会「米朝 スポットショー」を京都府立勤労会館で開催、その流れで10月25日に現在でも続く桂米朝落語研究会をスタート。1974年、千土地時代の担当マネージャーを社長に据え芸能事務所米朝事務所を設立。現在一門の多くがここに所属する。
1958年頃には朝日放送専属となり、放送タレントとしても、1960年代以降は、『ハイ!土曜日です』、『お笑いとんち袋』(関西テレビ)や『味の招待席』、『和朗亭』(朝日放送)など多数の番組に出演して大人気を博した。一方で、落語研究家としても活動を行い、文献から発掘したり落語界の古老から聴き取り調査をしたりして、一度滅んだ噺を多数復活させている。彼によって復活した演目としては「算段の平兵衛」「風の神送り」「矢橋船」などがある。また上方文化の交流を深める「上方風流」を1963年から結成し「上方風流」を発行(1967年まで活動)。
入門当時には衰微を来たしていた上方落語の復興を願い、ともに上方落語四天王と讃えられた6代目笑福亭松鶴、3代目桂小文枝(後の5代目桂文枝)、3代目桂春団治らと東奔西走して尽力した。現在の上方落語の隆盛は米朝・松鶴らの功績であるというのが衆目の一致する処である。一言に東奔西走といっても、地方においては昭和40年代(1965年 - 1974年)であってもなお、落語に対する理解は低く、米朝が高座に上がって落語を始めても、客からは「何を一人で喋ってるんだ? 遊んでないで早く落語を始めろ!」と野次が飛んでくる有様だった。地方に於ける落語の一般的認知は複数の演者が舞台に上がり問答で笑いを取る大喜利、演芸テレビ番組の『笑点』が落語であると、その程度の認識であり、その苦労は並大抵のものではなかった。
1987年4月29日、紫綬褒章を受章する。1988年2月25日には上方落語協会の選挙で会長に選出されたが、当時相談役に退いていた米朝は「いまさら会長になる気持ちはない[12]」「相談役という隠居の身[13]」と辞退したため、「米朝会長」は幻に終わっている。四天王としては唯一、会長に就任していない。1996年、落語家では5代目柳家小さんに続き2人目、上方落語界では初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。また、2002年11月3日には、演芸人として史上初の文化功労者顕彰を受ける。
2009年3月、医師から脳梗塞と診断され入院し、7月27日にも脳幹出血と診断され入院した[14]が、いずれも軽度で済み、早期に活動復帰している。同年11月3日、演芸人として史上初の文化勲章受章者となった[15]。
2013年1月の米朝一門会を最後に高座から遠のき、2013年8月、肺炎のため入院。10月に退院するも、再び入院し2015年3月19日19時41分、肺炎のため死去[16]。89歳没。諡は「中川清大人之命(なかがわきよしうしのみこと)」[17]。4月17日に日本政府は、三代目米朝が上方落語界発展に尽くした功績を讃え、没日に遡り従三位に追叙することを閣議決定した[18]。
墓所は姫路市の名古山霊苑内。同市名誉市民として同霊園に築かれた「名誉市民墓」は、上から見ると「米」の字をかたどった形に石が配されている[19]。
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
朝日放送社員の松本昇三(当時)が、香川登志緒(のちの香川登枝緒 作家)、三田純市(作家)とともに、米朝に対し、3代目の死後空き名跡となっていた「桂三木助」の襲名を提案した。米朝の芸風や風貌が2代目に似ているとされることがその理由だった[28]。
やがて、3代目三木助の師匠であり落語芸術協会の会長であった6代目春風亭柳橋[29]、3代目が心酔していた落語協会の8代目桂文楽[29]、3代目の遺族、在京の各寄席の席亭、安藤鶴夫、久保田万太郎、テレビ局関係者の承諾がまとまったが、8代目文楽から[要出典]「襲名披露は角座で行うこと」との条件が出された。当時、角座は原則として松竹芸能が芸人の配給や番組の編成を取り仕切っており、一方の米朝は千土地興行所属であった(千土地と松竹との関係から定期的に角座に出演はしていた)。当時の上方芸界の慣習上、角座で襲名披露を行うためには、松竹へ移籍することが必須条件であった[30]。この話を聞いた米朝は「大きな名前がほしいために、今までお世話になって来た千土地さんを裏切ることは、わたしの良心が許しまへん[29]」と、断固拒否する姿勢を示した。その後、柳橋と文楽を呼び寄せて話し合いの場が設けられるなど、米朝への説得が続けられたが、松本の朝日放送退社などで襲名計画は立ち消えとなった。米朝自身は著書で「文楽さんにも私にも知らされていなかったが(中略)襲名を条件に私をある興行会社の専属にしようという計画だった」「三木助の名前で誘い込もうというのである。それを知った途端に私の思いは冷めた」[10]と回想している。
その後「三木助」の名跡は、3代目の実子が4代目を、3代目の孫で4代目の甥が5代目を襲名した。なお、米朝は4代目に稽古を付けていたことがある。
結局、米朝は改名・襲名を生涯行わなかった。
※月亭柳正
・桂天吾
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