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日本の女優、タレント (1958-) ウィキペディアから
宮崎 美子(みやざき よしこ、1958年12月11日[2][3] - )は、日本の女優、タレント、元グラビアモデル、歌手。旧芸名、宮﨑 淑子(読み同じ)。本名は"﨑"。熊本県熊本市出身[2][3]。ホリプロ所属[2]。
みやざき よしこ 宮崎 美子 | |||||||||||||
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本名 | 宮﨑 美子(読み同じ) | ||||||||||||
別名義 |
宮﨑 淑子(旧芸名) (読み同じ) | ||||||||||||
生年月日 | 1958年12月11日(66歳) | ||||||||||||
出身地 | 日本・熊本県熊本市 | ||||||||||||
身長 | 156 cm[1] | ||||||||||||
血液型 | A型[2][3] | ||||||||||||
職業 | 女優、タレント | ||||||||||||
ジャンル | 女優、グラビアモデル | ||||||||||||
活動期間 | 1979年 - | ||||||||||||
活動内容 | 映画、テレビドラマ、舞台 | ||||||||||||
配偶者 | 上川伸廣(1989年 - 1990年) | ||||||||||||
事務所 | ホリプロ | ||||||||||||
公式サイト | 公式プロフィール | ||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||
映画 『雨あがる』 『太陽は動かない』 テレビドラマ 『2年B組仙八先生』 『ごちそうさん』 『八重の桜』 『リコカツ』 『志村けんとドリフの大爆笑物語』 | |||||||||||||
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幼稚園の頃、父親の転勤で大阪府豊中市、大阪市を経て、大分市へ移住。小学校は豊中市立南桜塚小学校へ入学し、移住に伴い大分市立春日町小学校へ転校して卒業。小学校在学当時からミュージカルやアナウンスなどに興味を持つ。小学生の頃から知識が豊富で、担任の教師が知らない特殊な漢字を知っていたりするなど博学だった。大分大学教育学部附属中学校卒業後、大分県立大分上野丘高等学校に入学。2学年に進級する際、熊本市内に戻り熊本県立熊本高等学校に編入学。卒業後、熊本大学法学部法律学科に入学[4]。専攻のゼミは「現代の政治」(岡本宏教授)。
大学入学後、熊本の百貨店岩田屋伊勢丹のポスターモデルとして、水着姿を披露。さらに同大学写真部の友人が彼女をモデルにしたブロマイドを作り、それがキャンパスの至る所で目に付き、大学では有名人だった。熊本大学3年生の1979年10月、偶然朝日新聞で見つけた「篠山紀信が撮る!週刊朝日“キャンパスの春”」の表紙モデルに写真を応募[2]。多くの応募者がスタジオで撮った写真を添えて応募していたが、当時交際していた医学部の福島靖正(のちに医務技監)が撮った、化粧けのない素っ気無いスナップ写真を添えて応募。逆にその素朴さが審査員の目に留まり、応募者約1000人のうちの50名の写真選考を通過し、面接後に最終合格者の10名に選ばれる[注 1]。12月に東京で撮影。普通、素人モデルは撮影に数時間かかるが、宮崎はほんの十数分で終わった。1980年1月、「週刊朝日」1980年1月25日号の表紙を飾ることになる[2][5][6]。撮影後には篠山からグラビアモデルの誘いがあったが、家族に水着姿を見られるのが嫌でその時は断った。2月に直接、篠山紀信からミノルタ(現:コニカミノルタ)のCMへの出演依頼がある。ちょうど春休みで時間があり、撮影地のサイパンに旅行気分で行けるという理由でその依頼を受けた。同年、ミノルタ一眼レフカメラ「X-7」のテレビCMに出演し[2]、木陰でTシャツとGパンをはにかみながら脱いで水着姿になるという内容で、大反響となる[7]。さらにCMに使われていた曲も評判になり、このCMコピーを担当した糸井重里が、30秒だけであったCMソングに歌詞を付け足し「いまのキミはピカピカに光って」(作曲:鈴木慶一、唄:斉藤哲夫)としてレコードも急遽発売されるに至るなど、社会現象化した。
宮崎の出現は、それまでのグラビアモデルはスリムでなければならないという概念を崩すものであり、後に小学館の雑誌「GORO」で、篠山が撮影するグラビアに登場。
2020年10月、芸能生活40周年を迎え、自身初のカレンダー『宮崎美子 40周年 カレンダー&フォトブックセット』を発売することを発表。本カレンダーは、デビューのきっかけとなった篠山の撮り下ろしで構成されており、篠山の提案で初心に戻るべく水着を着用してのカットも含まれている。同年10月19日に水着姿のショットが公開されるとTwitterのトレンドワード1位に宮崎の名前が踊り出た[8][9]。情報が解禁された同日から予約が殺到し、同年10月23日時点でAmazonと楽天のカレンダー部門・売れ筋ランキングで、2020年に空前のブームとなり、書籍売り上げや映画興行収入などの記録を次々塗り替えている「鬼滅の刃」の公式カレンダーを抑えて1位を獲得する快挙を遂げた[10]。
このCMで各マスコミ媒体に登場する機会が増え、雑誌やテレビにも出演。当時、現役の国立大学法学部の学生という硬いイメージと宮崎の柔らかいイメージのギャップが、必ずといっていいほど記事に取り上げられ、その後1980年代以降の「才色兼備の女子大生タレント」というジャンルを定着させた。ジャーナリストを志望していたが、1980年4月、地元熊本放送の番組レポーターになる。5月にはTBSから熊本放送の制作部長を通じて『ポーラテレビ小説』の主演女優の依頼があるが、断り続けていた。6月になると、番組担当のTBSのプロデューサーとディレクターが熊本の実家まで何度も来て出演説得を続けた。その結果、後にポーラテレビ小説『元気です!』(1980年10月 - 1981年3月)で主演を務め、女優デビューを果たす[2][11]。ただ、東京の大学生のように、撮影の合間に頻繁に通学できる環境ではなく、ドラマ出演と熊本での大学生活を両立させるのは困難であった。その結果、必須科目等の単位不足で、翌春に控えた大学卒業が不可能となることにも繋がった。同作品のクランクアップ後はすぐに『2年B組仙八先生』(1981年4月 - 1982年3月、本来9月までの半年放送予定だったが、途中で1年に放送期間を延長)の出演も果たした[2]。それらの撮影中も週に1時限のゼミに出席するため、毎週 東京-熊本間を飛行機で往復し、1982年3月に大学卒業。2021年3月29日からはフジテレビ系列の『めざまし8』で初の情報番組レギュラー出演をすることとなった。番組では宮崎独自のコーナー「女優がゆく」で、1年間取材や体験などを担当。
大学2年生の時に、クイズ番組「アップダウンクイズ」(毎日放送)に出場した事がある。この時は3問正解だった[12]。
『クイズダービー』(TBS)では1981年10月より、女優の長山藍子の後を受け継いで6代目の2枠レギュラー解答者として、約2年間出演した。レギュラーなりたての頃は全問不正解の回もあったが[13]、正解率は3割9分7厘(平均3勝5敗ペース)の成績で、また連勝記録でも歴代4位となる10連勝を達成している。なお、宮崎の頃から2枠レギュラーは若手女性タレント枠となるが、若手女性タレントの中では一番良い正答率だった。レギュラー出演降板後も、1986年3月には竹下景子の産休代役として、4枠の席に座ったこともあるが、その時も4勝4敗&5勝3敗の合計9勝7敗、正解率.563の成績を残した[14]。
『Qさま!!』(テレビ朝日)で日本漢字能力検定1級に合格。準1級に合格した数ヵ月後に1級に挑戦し、事前のテストで満点だったが、合格点の160点に9点及ばず、151点で不合格となった。その後、再挑戦して175点で1級合格した[15][16]。
CMの宮崎バージョンがあまりにもインパクトがあったため、別の2人の女性モデルが同じ動作をして収録済であった第2弾・3弾のCMバージョンはお蔵入りとなり、彼女らは日の目を見ることが出来なかった。一人は年長のプロのモデル、もう一人は一般の高校生だった。出演したCMには他に「ゆかた編」「水撒き編」「ハンモック編」もあった。1981年も宮崎がCMキャラのまま、ミノルタX-7の新CMが制作されている。同年夏期に放送された「水着姿でフリスビーに興じる」バージョン(スローモーションで豊かな胸と腹が豪快に上下動)は、「Gパン脱ぎ」を超えるセクシー映像として隠れたファンも多い。CMソングもRCサクセションの「こんなんなっちゃった」や、CINEMA(松尾清憲が在籍)の「君のプリズナー」に変更となっている。この時期は他のカメラ会社も、ミノルタX-7と同様のシンプルで低価格な自動露出一眼レフを続々と発売していた。1979年にはオリンパスがOM10という機種を発売。同機種のCMモデルは、アイドル歌手から女優に転じたばかりの大場久美子で、水着ポスターなどはそれなりに話題だったのだが、翌年の宮崎の登場により、すっかり影が薄くなった。
1982年からは宮崎に代わり、斉藤慶子がミノルタの顔になっている(ただしX-7のCMには出ていない)。当時の斉藤も、宮崎と同じ熊本大学の学生だった(宮崎の3年下)。ただし、宮崎は半年留年で熊本大学を卒業しているが、斉藤はタレント活動を優先し大学を中退している。宮崎いわく「斉藤さんが入学してきたときは可愛いと大騒ぎだった」という事だったが、宮崎の入学時も「アグネス・ラムみたいな新入生がいる」と大騒ぎだった。『クイズダービー』の宮崎の後任のレギュラーや、宮崎司会の『気分はパラダイス』の後任アシスタントがいずれも斉藤と、この2人にはその後も因縁がある。このTシャツとGパンを脱いで水着姿になる動作は、落語家の金原亭世之介(当時:金原亭駒平)の舞台芸や、志村けんの『8時だョ!全員集合』中のコントでお腹の贅肉をつかみ「ミヤザキヨシコォー」と叫ぶ芸でも評判になる。1980年11月に放送された『クイズダービー』(TBS、第250回)では、そのミノルタCMの問題が出題され、正解発表時には金原亭世之介が登場、その宮崎の舞台芸を披露している。『The・かぼちゃワイン』の作者三浦みつるは、たまたま見ていた宮崎の着替えCMにインスピレーションを喚起され、同作の連載に取り掛かったと言う経緯がある。同作品のヒロインである愛称「L(エル)」こと朝丘夏美のモデルが宮崎である[22]。CM放送から22年を経た2002年3月20日にポニーキャニオンから発売されたコンピレーション・アルバム『一世風靡〜スター登場編』『一世風靡〜一曲入魂編』のCDジャケットに、宮崎が出演したミノルタX-7のCMのワンシーンが使用された[23]。
1981年秋発売「NO RETURN」(作曲:八神純子)でレコード・デビューしているが、その少し前、同年春~夏に放送されたポーラ化粧品のテレビCMで、宮崎の映像と共にBGMに宮崎の歌が使用されている。
1987年初夏発売「だからDESIRE」は、当時はまだマイナーだったラップ調の曲(B面は「タカラ本みりん」CMソング)で、これをもって「日本初の女性ラッパー」とする声もある。
# | 発売日 | A/B面 | タイトル | 作詞 | 作曲 | 編曲 | 規格品番 |
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ビクター音楽産業 | |||||||
1 | 1981年 10月21日 | A面 | NO RETURN | 八神純子 阿里そのみ | 八神純子 | 船山基紀 | SV-7159 |
B面 | Beautiful Dreamer | 田中弥生 | |||||
2 | 1982年 9月21日 | A面 | わたしの気分はサングリア | 安井かずみ | 加藤和彦 | 井上鑑 | SV-7238 |
B面 | 今夜はふたり | 宮崎美子 | 田中弥生 | 新川博 | |||
3 | 1982年 12月11日 | A面 | 黒髪メイド・イン・Love | 橋本淳 | 筒美京平 | 戸塚修 | SV-7260 |
B面 | 冬の鏡 | 竜真知子 | |||||
BPM | |||||||
4 | 1987年 6月5日 | A面 | だからDESIRE | 作詞センター | 馬飼野康二 | 7SS-16 | |
B面 | タカラ本みりん | 香西貴乃 | TIKADAHARO | ||||
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