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日本の男性俳優、YouTuber ウィキペディアから
稲川 淳二(いながわ じゅんじ、本名:稲川 良彦(いながわ よしひこ)、1947年〈昭和22年〉8月21日 - )は、日本の俳優、工業デザイナー、YouTuber。元お笑いタレント、怪談家[2]。
東京都・渋谷区恵比寿出身で目黒区中目黒育ち[2]。桑沢デザイン研究所専門学校研究科卒業[2]。3人姉弟(姉1人弟1人)の長男。ユニJオフィース所属。
元お笑いタレントで、ラジオの深夜放送で人気を博し、テレビ番組のリポーターやリアクション芸人として活躍。また、ラジオ放送での怪談が好評を博し、以後「霊感タレント」としても活動している。トレードマークは口髭とマオカラースーツ(ただし口髭を剃っている時期もあった)。怪談トークの際の愛称は「座長」[2]。
怪談の語り口は特徴的で、その独特の口調で聞く人に恐怖を味わわせている。タレントとしてだけではなく、テレビ番組などにデザイナーとしても出演することもある。
稲川の人柄の良さは業界内では有名で、「稲川の悪い話は聞かない」と言われるほどである。すこぶる温厚、ユーモアのある人柄でありつつ、壮大なサービス精神を持ち前にしており(生来のサービス精神と場持ちのよさから、学生時代から「コンパ屋」の異名をとっていた)、他人のためなら自分を傷つけていいと思っており(リアクション芸において垣間見ることが出来る)、絶大なるお人好しだという。ファンに対するサービス精神も旺盛で、頼まれもしないのにファンに怪談をエンドレスで聞かせ、マネージャーに止められることもしばしば。かなりの確率でファンレターに返事をすることでも有名。インターネット上では、ライブの際に控え室で記念撮影をしてもらったことなどが記されたブログもある。
2003年以降、稲川自身が心霊スポットに向かい、独自の“稲川節”と呼ばれる心霊に関する発想・発言や建築への造詣、突然倒れたり吐き出したりする映像が収録された“恐怖の現場”シリーズがネット上で人気を博している(霊を感じると吐き気を催す体質)。
かつてはおしどり夫婦として妻(青森県弘前市出身)と共にテレビCMにも出演していたが、1990年の正月に妻が家からいなくなり、現在も別居中ではあるが淳二の事務所社長を務めており、本人いわく「給料を振り込む、込まれるだけの間柄」[3](『おはよう朝日です』水曜日にレギュラー出演していた時によくネタにされていた)。息子が2人いる。長男の稲川貴洋は俳優として活動中。2006年、ダイドーブレンドコーヒーのCMで、元プロ野球選手の新庄剛志と共演した。次男の由輝(ゆうき)は先天性疾患を持つ重度の身体障害者であり、2013年4月に逝去(享年26)。この経験から稲川は障害者支援活動に取り組んでいる(詳細後述)。
1985年8月12日、健康番組の『稲川淳二のためになる話』を東京で収録後、日本航空123便で大阪に移動する予定だったが、当日は立つのが辛いほど体調を崩していた。そこで翌朝に国鉄東海道新幹線のひかり号一番列車で大阪へ向かうようスケジュールを変更、当該便をキャンセルしたため、その墜落事故の難を逃れた。一方、友人で同番組を手伝っていた美容研究家の和田浩太郎は収録後、私用で大阪へ移動する際、羽田空港への到着が早かったためキャンセル待ちで当便に搭乗して犠牲になった[4]。稲川本人はこのエピソードを「運命の分かれ目」「生涯忘れられない出来事」と語っている。
夏場の怪談ツアーの活動が知られるが、工業デザイナーとしての仕事や障害に関する講演など、年間通して精力的な活動を行っている。怪談以外の活動にも注力するため、テレビ出演は夏場の怪談関係の仕事に絞っている[5]。
次男の由輝は先天性の頭蓋骨形成異常を引き起こすクルーゾン症候群(Crouzon syndrome)という重度の身体障害者であり[6]、2013年4月に死去した(26歳没)。稲川は障害者の親として講演やボランティア活動にも取り組んでいる[5][7][8]。また、厚生労働省が2005年に国会へ提出した「障害者自立支援法案」に反対の意思を表明している。
2021年、パラアーティスト(障害者アーティスト)による絵画を募集し、ウェブや書籍にて公開する「稲川芸術祭」を開催[9]。
幼少時は恵比寿に在住しており、地元ではガキ大将的存在で「10人ほどの弟分を従えていた」という。安岡力也とは有栖川公園で出会っているが、これといった交流があった訳でもなく[10]芸能界入り後にある現場で再会してそこから交友が始まり、以後力也の死まで関係が続いていた[11]。
古い日本家屋であった実家で、母親が稲川兄弟や近所の子供たちに語り聞かせた怖い話を喜んで聞いていたと回想している[12]。また、母は歴史好きでもあったため時々東京各地や鎌倉など様々な場所に遊びに行くたび、そこにまつわる歴史上の人物などの話[注釈 1]を講談のように聞いて育った[2]。この母の影響を受けて自然と話術が身に付き、小学校では上記の怪談、歴史やバカ話をクラスメイトに聞かせては人気を集めていた[2]。
子供の頃から絵を描くのが得意で、その後進学した工業高校で美術教師から絵の才能を褒められた[2]。将来美術系に進むことを決め、3年生の夏休みに阿佐ヶ谷の美術予備校に通った[2]。高校卒業後、桑沢デザイン研究所に入所するが時々授業をサボったり課題の提出を怠るなど不真面目な学生だった[2]。この頃「コンパ屋」の異名がついた[注釈 2]。
同研究所に通っている内に舞台美術に興味を持ち、仕事の見学のため劇団を訪ね歩いた。ある日稲川のおしゃべり好きを知った舞台演出家から、舞台のセット転換時にストーリーテラーとして場を繋ぐよう頼まれる。この舞台で「借金取りのジジイ役」をあてがわれ、本番では演技未経験ながらアドリブで数分間を乗り切った。
これにより演出家に気に入られて劇団に頻繁に出入りし始め、ほどなくして劇団のマネジャー的立場(児童部の世話係など)を任された。研究所卒業後は、本職でデザイン会社所属の工業デザイナーをしながら、同劇団に依頼されてはマネジャー業務や舞台美術制作、たまに端役での出演も熟した。
このころ、上京直後でデビュー前の松平健と知り合っており、稲川が東京中を案内して回ったこともあった。
工業デザイナー兼劇団スタッフをしていたある日、役者たちが子供向けテレビ帯番組の大人の出演者オーディションに参加することになった[2]。稲川は彼らの付き添いで訪れたところ、構成作家が偶然研究所時代の知人と判明。急遽オーディションに参加して合格し、テレビへの出演を果たす[注釈 3]。
これにより後日友人の結婚式の司会を任されると、たまたま出席していたラジオ局のプロデューサーに司会ぶりを気に入られた。数日後の夜、彼から呼び出され「今からラジオに出て喋ってほしい」と頼まれたのが、「オールナイトニッポン」第二部への出演だった[2]。1976年4月より、ニッポン放送の深夜ラジオ番組『オールナイトニッポン』二部カッコマン(伊藤政則)の跡を継いでラジオパーソナリティとなる。
舞台俳優として活動していたが、1980年代中期に貧乏・不健康というキャラクターでバラエティ番組にも登場。一世を風靡したフジテレビ『オレたちひょうきん族』内の一コーナー『ひょうきんベストテン』にて、"歌手役で登場 → 「悲惨だなー」と嘆き、散々な扱いを受ける → カメラに向っての決め台詞「いかがでしたか? 喜んでいただけましたか?」"という一連の流れを披露していた。
日本テレビ『スーパージョッキー』では初期のレギュラーであった。同番組では、Jockey-1のコーナーで、マイナーな商品やあまり意味の無い商品をビートたけしのツッコミを受けながら、視聴者がなんとか欲しがるように説明や実演を行っていた。また、番組名物の「熱湯風呂」に入る際は、たけしがきちんとピンマイクを外す冷静さを指摘し、その後のダチョウ倶楽部のネタ「聞いてないよ」の伏線となっている。
その後も、日本テレビの『ルックルックこんにちは』やTBSテレビの『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』などのバラエティ番組に出演、体を張ったリポートと大きなリアクションで人気を得ることとなる。リアクション芸人としての地位は、後にダチョウ倶楽部や出川哲朗が引き継いでいくこととなる。
極度の音痴も芸風のひとつで、一昔前のものまね番組では沢田研二の『勝手にしやがれ』を調子はずれな音程で熱唱するのが恒例だった。
1987年に朝日放送のテレビドラマ『ザ・ハングマン6』および『ハングマンGOGO!』で、悪人に対する仕置きの見本となる「モルモット小父さん」役を演じた。
1992年のNHK大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』では、サイドストーリー的な準レギュラーとして、キリスト教宣教師に出会い洗礼を受ける琵琶法師・慈海(ロレンソ)役を演じて俳優出身のシリアスな一面を見せ、さらにその時にはトレードマークであった口ひげを剃り周囲を驚かせた。
独特の口調で語る怪談の語り手としても知られている。1986年、オールナイトフジでの『生き人形』(後述)の怪談が反響を呼ぶ。翌1987年には数篇の怪談を収録したカセットテープが発売され、オリコンチャートの上位にランクインする(その後もCDやビデオ、あるいは書籍として数多くの怪談がリリースされた)。 また、1993年頃から『稲川淳二の怪談ナイト』(ミステリーナイトツアー)という怪談によるライブを毎年夏から年末にかけて行い、全国を廻っている(2001年には、正月にも開催された)。演劇調の演出が施された稲川の怪談は従来の講談や落語のようなシンプルな演出をやや派手に発展させたものであり、特にテレビのコンテンツとしての相性が良かった。稲川の登場により多くのタレントが怪談の語り手としてメディアに登場するようになったという点で怪談の現代化・ビジネス化に大きく貢献したと言える。『稲川淳二の怪談ナイト』は2019年7月時点で披露した怪談460話、動員数延べ57万人に達する[12]。2022年6月現在で、連続公演30年を達成。披露した怪談は500話以上、動員数延べ63万人を越えた[2]。
夏場は怪談のトークライブを全国各地で行っていることから、関西テレビの『ナンボDEなんぼ』の"夏に忙しい芸能人番付"で、東の横綱に選ばれた(ちなみに西の横綱は盆踊りで関西各地を廻る河内家菊水丸)。
稲川淳二自身が口にしたくない程に恐い(話の内外で死者や負傷者が出ている)『生き人形』という話がある。大抵、この話をすると呪いがかかると噂されている。自身の著書でも、自分のお気に入り恐い話のランキング1位に持ってくるほどである。
スティーヴン・キングの大ファンである[13]。
自身が選ぶ最も怖い映画ベスト3として、1位:『ハイド・アンド・シーク 暗闇のかくれんぼ』 2位:『ミザリー』 3位:『キャリー』 を挙げている。 『恐怖の現場』というDVDシリーズでは、心霊がいることを証明するために心霊スポットに潜入するドキュメントを制作しており、「科学で心霊を説明しようとする考えが大嫌いだ」と番組内で強く発言したことがある。
芸能界入り前から工業デザイナーとして活動しており、「車どめ」のデザインで平成8年度通商産業省選定グッドデザイン賞(公共空間用設備機器部門)を受賞している[16]。
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