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日本のタレント ウィキペディアから
宮尾 すすむ(みやお すすむ、1934年〈昭和9年〉3月8日 - 2011年〈平成23年〉7月12日[1])は、日本のタレント。本名は山口 進。
満洲国(現・中国東北部)で生まれ、敗戦後は鹿児島県阿久根市へ引き揚げ、そこで青春時代を過ごす[2]。鹿児島県立阿久根高等学校卒業。
鹿児島県川内市(現・薩摩川内市)で洋服店を経営していたが(当時は、まだ珍しい月賦販売をしていた)[2]、事業に失敗し倒産。その後、上京してデパートの紳士服売り場に勤め1969年に漫談家の宮尾たか志に師事[2]。
森進一のショーなどで歌手の司会などを務めた後、タレントとしてテレビに進出しバラエティ番組の司会やリポーターなどの仕事を中心に活躍。特にフジテレビ系『スターどっきり(秘)報告』のレポーターとして一気に名を馳せた。
登場する時、顔の前で両手を交差させて、右手の平を右アゴに添えて「……ハイッ!」と叫ぶ決めポーズで一躍有名になる[3]。母親の仕草をモチーフにしたといわれている。
芸能界にデビューしてから永らく、「昭和16年(1941年)生まれ」と年齢をサバ読みしていた。これはデビュー当時、事務所の意向で「昭和ヒト桁生まれでは若々しさがない」と言われたからである。
リポーターを務めたテレビ朝日系『モーニングショー』の人気コーナー「宮尾すすむのああ日本の社長」は、日本各地の会社の社長、すなわち実業家(社長・会長などの経営者・創業者)に密着リポートする長寿シリーズとなった[2]。
上記「ああ日本の社長」のセルフパロディコーナーである「宮尾すすむの社長のお嬢さん」というコーナーを、1990年から1991年にかけて放送されたバラエティ番組『GOB』(日本テレビ)で担当した。
その他、俳優としてテレビドラマや映画、テレビコマーシャルにも出演。テレビ朝日系のクイズ番組『象印クイズ ヒントでピント』の男性チーム解答者としても彼の存在を広く知られた。
1994年夏、全日空の客室乗務員だった妻が47歳で死去後、緊急入院。退院後、正式に自らの生年を1934年と公表。
長男でタレントの山口雅史は新日本プロレス、IGF実況ナビゲーターとして活動。
弟子としてお笑い・ものまねグループ「ルンルン・エクスプレス」がいた。「ルンルン・エクスプレス」には紅一点・あい京子(現在も斉藤京子としてソロ活動中)がいた。
阿久根市で育ったこともあることから、「薩摩大使」に任命された。
晩年は病気続きだった。1992年に顎下腺腫瘍、1994年には腸捻転、2002年に腰痛や前立腺肥大の手術を受けた。2007年5月には東京都内で車を運転中に意識を失い、前の車に追突、急性硬膜下血腫と診断された。それ以来、表舞台から遠ざかり、水頭症や肺炎の検査を受けていたが、2011年6月半ばに食道癌が見つかり、医師からは手の施しようがなく余命3ヶ月と宣告された[4]。そして同年7月12日、肺炎のため東京都内の病院で死去[1]。77歳没。戒名は「馨光院誠徳進修居士」(けいこういんせいとくしんしゅうこじ)。葬儀・告別式は東京の高野山東京別院で執り行われ、長男が喪主を務め、高橋英樹、森進一、坂口征二が弔辞を読んだ。祭壇には1994年に死去した妻の遺影と位牌も並べられた。くしくも告別式が行われた7月18日は妻の命日だった。告別式には他に徳光和夫、吉田秀彦、蝶野正洋、オスマン・サンコン、八波一起ら芸能・財界・スポーツ関係者やファンら250人が参列した。
2009年に長男と共に鹿児島県人会の会合で司会を務めたのが生涯最後の仕事となった。
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