日本初の一覧(にほんはつのいちらん)は、現存の是非にかかわらず、日本で(あるいは日本人による)初めてのことがらの一覧である。
- 打製石器(旧石器)の発見 - 1949年(昭和24年)7月、岩宿遺跡:相沢忠洋による。「日本列島の旧石器時代」も参照。
- 歴史上の人物 - 倭奴国(倭の奴国か)の大夫
- 紀元57年、後漢に朝貢して光武帝から印綬(漢委奴国王印)を授けられた人物。日本史上、その活動を(外国史書に)記された最初の人物。大夫は自称であるが、個人名は伝わっていない。
- 歴史上の人名 - 帥升
- 弥生時代中期から後期にかけての時代に属する、倭国の王の一人で、日本史上、個人名が分かる(外国史書に記された)最初の人物。ただし、実名たる日本語名は不明。なお、後述する「卑弥呼」なども同様である[8]が、言霊思想が浸透していた日本において、信頼に足る者以外に本名を知られることは呪詛に対して無防備になることを意味する[8]ため、基本的に秘匿され、公になるとしても、それは、権力者の家族やそれに次ぐような縁故者が呪詛の対象外である死者になった後に「歴史の一部」という形で残されるのが通例である[8]。
- 確認される為政者 - 帥升
- 史実として確認される最古の為政者であり、王。詳しくは上述。
- 確認される女性為政者 - 卑弥呼
- 史実として確認される最古の女性為政者であり、女王。173年頃より以前に即位。
- なお、本名は伝わっていない。「卑弥呼」という名は、日本語名「ヒミコ」に対して中華王朝が中華思想に則った「卑」という侮蔑語を当てた漢訳名であり、本来の意味に沿って「ヒミコ」を漢訳するなら「日御子(意:太陽神の子)」あるいは「日巫女(意:太陽神に仕える巫女)」であろうとの説がある(井沢元彦)[8]。また、「ヒミコ」は個人名とは考えられず、後世の「天皇」のように一種の称号であったと推定される[8]。
- 選挙 - 参議の選出
- 天平3年(731年)に制度として成立。
- 武家政権 - 平氏政権
- 平清盛らにより、平安時代末期(1160年代)に成立。
- 幕府 - 鎌倉幕府
- 源頼朝により、元暦2年(1185年)もしくは建久3年(1192年)に成立。歴史学における「幕府」の定義が明確でない上、頼朝が諸国に守護・地頭を置くことができた年であれば1192年ではなくその7年前になる。2000年代から論争が始まっている。
民俗学・文化人類学
- 釈迦の誕生日を祝う行事 - 推古天皇14年(606年)に飛鳥寺で行われたとされる(第1回の)灌仏会か
- 花見会 - 特定不可能
- 桜の花見が普及する以前は、中国文化の影響から梅の花見が一般的であった。しかし、梅の花見が行われ始めた時期についての史料は無い。
- クリスマス - 天文21年12月9日(1552年12月24日)の降誕祭のミサ
- 大寧寺の変後の周防国山口(現・山口市滝町など)において、イエズス会宣教師コスメ・デ・トーレスらが司祭館に日本人信徒を招いて行った。
- 雪祭り - 古来、行われてきた催事であり、日本初は特定不可能。
- 下記の通り、一定条件を課せば限定は可能である。なお、雪祭りは雪具供養等の祭事の側面をもつ場合があり、宗教色のない催事とは区別する。また、「雪まつり」と称し、地方公共団体等が開催する現代的なイベントだけを恣意的に過去の雪祭りと切り離して区別・定義することは辞典的でなく、ここでは避ける。
- 大会形式の近代的雪祭り[注 17]
- 雪合戦を主とする、大会形式の近代的雪祭り
- スケートを主とする、大会形式の近代的雪祭り
- 雪像展覧会を主とする、大会形式の近代的雪祭り[注 18]
- 小樽市北手宮尋常小学校(現・小樽市立北手宮小学校)の雪祭り
- 「現存する日本最古の、大会形式の近代的雪祭り」である。1935年(昭和10年)2月24日に第1回開催。同校は1988年(昭和63年)9月21日に「雪まつり発祥の地記念碑」を建立しているが、上述の通り、実際は「雪像展覧会を主とする」等の限定条件付きである[56]
- 住民主催で始まった、雪像展覧会を主とする、大会形式の近代的雪祭り[注 19]
- 十日町雪まつり[57]
- 第1回は1950年(昭和25年)2月4日・5日、新潟県中魚沼郡十日町の十日町文化協会が主催し、雪の芸術展や雪具供養の火の周りで十日町小唄を踊る雪中カーニバルやスキー駅伝大会などを主要イベントとして開催された[57]。十日町は「現代雪まつり発祥の地」を宣言し、十日町雪まつりが「日本初の雪祭り」であると標榜していて[57]、それが広く一般にも通用しているため、ここに記すが、上述の通り、実際は「雪像展覧会を主とする」「住民主催で始まった」等の限定条件付きである。
- バレンタインデー - 諸説並立して、定説なし
- 確認できている販売促進活動で最も早期に当たるものは、神戸モロゾフ製菓(現・モロゾフ)による1936年(昭和11年)2月12日起源説。詳しくは「バレンタインデー#沿革」を参照のこと。
- ハロウィン - 不明
- 確認できている販売促進活動で最も早期に当たるものは、キデイランド原宿店が1970年代に開始したハロウィン関連商品の店頭販売[58]。
電気・電子工学
- 発・変電工学
- 照明工学
- ラジオ・音響
- 通信工学
- 家庭電化製品
ファッション
- 扇(扇子)- 奈良時代後期の発掘品があり、折り畳み出来る扇子は、紙不足の難に窮したが故の日本の発明品である。 日本最古扇司は上京区。
- 西洋理髪店 - ヘアー・ドレッシング・アンド・シェイビング・サロン:文久3年/元治元年(1864年)、ファーガソンが横浜ホテルで開業。
- テーラー -「(金)柴田音吉洋服店」(神戸市):1883年、日本人最初のテーラーである柴田音吉が元町で開業。
- パーマネントウエーブ -「オリエンタルホテル理髪部」(神戸市):1923年(大正12年)。
注釈
ここでいう「日本公認」は「当時の日本陸軍の公認」を踏襲したもので、今日においても12月19日が「日本初飛行の日」とされている論拠である。
白瀬京子は、マゼラン海峡を含む一部区間、乗船していない。このため、白瀬個人は、ヨット世界一周は達成していない。
岡崎は途中棄権と棄権で終わっている。阪上は最高成績が第4位である。
天皇や皇后に近侍し、食事など身の回りの庶事を専門に行う女官。
山下知恵は、父である山下万蔵に最初は怒って拒絶していたが、3日後に情事が行われる。この情事により、密通で出来た子供がいる状態であったが、懐妊した。しかし、1872年(明治5年)3月に山に登っている途中転落して、流産している。その後も情事を重ねていたが、同年7月3日に捕まり、翌年7月7日に父と共に無期懲役(終身懲役)の判決が出る。当時の法では、この様な行為は違法であった。また、判決前に神奈川県から司法省に出した伺いでは、父娘共に梟首(獄門)にするよう求めていた。山下知恵の他に2件(東京府と愛媛県で其々1件)、同様の理由で父娘共に無期懲役の判決が出ており、どちらも1873年(明治6年)に判決が下され、この年に無期懲役の判決が下された女性の判決理由は全員父との情事となった。また、東京府では、植村ヒテが14歳であり15歳以下であったため、収贖[26]することで、無期懲役を受刑することを免れている。なお、当時の無期懲役の収贖金額は35円(現在の価値で70万円)である。
植村ヒテは、1874年(明治6年)3月9日夜に父である植村虎次郎の欲情をきっかけに情事を重ねる。そして、同年5月上旬に再び重ねる。そして、植村虎次郎の病気により生活が困難であるため妾になるように、両親(母は実母ではない。)に言われたが断ったため、両親が怒る。この状況に困り、同年6月2日に自首し、翌日に父が逮捕される。そして、同年10月17日に無期懲役(懲役終身)の判決が父と共に下される。但し、植村ヒテは15歳以下であったため、35円の収贖することで、無期懲役を受刑することを免れている。なお、ヒテは、植村虎次郎の不倫により出来た子供でもある。
科刑理由:住吉仲皇子側についた阿曇連浜子に従ったため。
住吉仲皇子は、皇太子で兄の去来穂別(いざほわけ:のちの履中天皇)であると偽り、黒媛(羽田矢代宿禰の娘)との情事を重ねた。この行為発覚を恐れ、天皇の宮を包囲し放火。脱出した去来穂別は、軍を再編し竜田山を越えたところで、数十人の武器を持って追いかけててくる者たちがいた。皇太子はそれを見て怪しみ、近くにやってきた時に人を遣って尋ねた。 彼らは、「淡路の野島(のしま)の海人である。阿曇連浜子の命令で、仲皇子のために、太子を追っています」と答えた。そこで、伏兵を出して、取り囲んで捕えられた。後に、本来反逆であり死刑になる所、徒刑に減刑され、倭(やまと)の蒋代屯倉(こもしろのみやけ)での労働を伴う刑を受けた。
科刑理由:住吉仲皇子側について反乱に加担したため。
古代日本の豪族。住吉仲皇子側についたが、皇太子の弟の瑞歯別皇子(のちの反正天皇)が仲皇子暗殺を報告し、村合屯倉を与えられたその日に捕らえられた。履中天皇は、即位後の4月に阿曇浜子を呼び出して、死刑から減刑し、入墨刑にすることを宣告。宣告した日の内に、目の縁に入れ墨をした。
現在も境内にある「菱形池」。当時は山々に囲まれて菱の実の形をしていた潟であったと考えられる。
夜中に垣を乗り越えて脱走した罪で銃手7人の死刑が1869年(明治2年)8月13日に可決された。
罪状は倉庫に侵入し383円95銭相当(1円を2万円で換算した場合、約770万円[31])の官物を窃盗したことである[51]。1877年(明治10年)11月1日に死刑執行が確定し、同月28日に死刑が執行された。他に、上官や同僚から19円62銭の金銭と他人の官給品、逃亡した際に6人に詐欺を行い207円10銭を得たこと、1876年(明治9年)7月3日の脱獄の犯罪を犯している。[52]
脱賊であったが、長鯨丸に降伏し、艦内に服役する形で働いていた。罪状は、艦内のクロノメーターを盗み、逃走したこと。1869年(明治2年)9月8日に死刑が可決された。
「大会形式」であり、個人的な遊びが大規模になっただけのものは含まない。「近代的」であり、昔から行われてきた雪遊びの延長線上のものは含まない。以下同様。
興りが「住民主催」であったものだけでなく「法人主催」であったものも含む。
この説に対しては『薬経太素』なる書は存在しないとする強い批判がある。そもそも同書は『日本後紀』延暦18年(799年)2月乙未(21日)条に「(和気広世)大学会諸儒講論陰陽書新撰薬経太素等」とあり、これを「大学に諸儒を会して陰陽の書を議論し、新たに薬経太素等を撰す」と訓じたことに由来する。しかし、同条については、「大学に諸儒を会し、『陰陽書』、『新撰薬経』、『太素』等を講論す」と訓じる説が通説である。『陰陽書』は、詳細は不明であるが、呂才撰『陰陽書』(『大唐陰陽書』)などの陰陽道の基本書を指すと考えられる。また、『新撰薬経』は、蘇敬ほか撰『新修本草』の薬図・図経(略して薬経)のこと、『太素』は、楊上善撰『黄帝内経太素』のこととみられ、両書とも当時の医学の基本書を指すと考えられる。したがって、『薬経太素』なる書は『日本後紀』を誤読した結果生まれた偽書(『続群書類従』に採録された『薬経太素』は後世〈寛文元年[1661年]-延宝元年[1673年]頃か〉になって作られたと考えられる)であり、現在、その存在を支持する説はない。
八幡製鐵所は1901年操業開始だが、当初状態が不安定だったため、翌年1902年に稼動を停止。本格的に稼動したのは2年後の1904年から。釜石鉱山田中製鐵所は1887年に操業開始、1903年より銑鋼一貫製鉄所として稼動している。
既婚女性や男性を含む「美人」コンテスト(「ミス・コンテスト」より広義)