水沢市
日本の岩手県にあった市 ウィキペディアから
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水沢市(みずさわし)は、岩手県の内陸南部にかつて存在した市。
商人の街、偉人の街、天文台の街、鋳物の街、みちのくの小京都として知られる。
周辺自治体と合併し、現在は奥州市の中心部に位置する。
北上盆地の南部に位置し、北に北上市、南に一関市がある。市の北部を西から東に流れる、胆沢川によって形成された胆沢扇状地の東端に位置し、南北に北上川が流れる。東部は北上山地の山並みが連なり、西部は扇状地の肥沃な大地が広がり胆沢町と接する。
水沢市の面積は96.92平方キロメートルと県内12市のなかではもっとも狭く、人口は約6万人と県内12市のなかでは5番目に多い。また1平方キロメートル当りの人口密度は約630人で、人口28万人の盛岡市を抜いて県内で一番高い。
産業構造は、商業・サービス業などの第三次産業が60%と高く、製造・建設業などの第二次産業は30%, 農林業などの第一次産業は10%で、水沢市は商業都市としての性格が強い。実際、商業販売額は盛岡市に次ぎ、県南の中核的流通都市としての役割も大きい。
「みちのくの小京都」と称される城下町水沢は、水沢城を居城とした留守氏(水沢伊達氏)1万6000石の城下町で、いまも住時をしのばせる武家屋敷が残されている。
市南東部の黒石地区にある正法寺は日本一の茅葺屋根で有名な古刹で、国の重要文化財に指定されている。黒石寺も東北地方最古の寺院で、みちのくの奇祭・蘇民祭などで知られる。
市東部の羽田地区では、江戸時代から続く伝統産業の鋳物である南部鉄器が有名。また、星ガ丘町には日本の天文学で重要な役割を担った緯度観測所(現・国立天文台水沢観測所)がある。
春には「日高火防祭」「子供騎馬武者行列」、夏は「ざっつぁかまつり」「花火大会」、秋は「グルメまつり」「YOSAKOI in 水沢」、冬は「黒石寺蘇民祭」と、年間を通して多様な祭りがある。
江戸初期の後藤寿庵、幕末期の高野長英・箕作省吾、明治初期の山崎為徳・後藤新平・斎藤實など大きな足跡を残した人物を輩出した「偉人のまち」として知られ、国立天文台水沢観測センターには「z項」の発見者、初代所長木村栄の記念館もある。
ダイヤモンド社が発行した「全国693都市ランキング1999」の中で、「暮らしやすさ」「豊かさ」「成長度」の3項目すべてが平均以上のベストシティに選ばれている。また、日経パソコン誌が全国自治体の行政情報化の進展度を調査した「e都市ランキング2005」で、兵庫県西宮市に次いで全国2位の高評価を受けている。
水沢の地名の由来、縁起は不詳であるが、扇状地の扇端部地形に特徴的な伏流水や湧水がよくみられることから呼称された自然地名の可能性が高い。
約4万年から3万3000年前には、斜軸尖頭器を出土した柳沢舘遺跡などが存在し、旧石器時代から人が住んでいたと考えられる。
平安時代初期に後の水沢市を含む胆沢地方は朝廷が派遣する軍隊と交戦を繰り返し、度々これを退けた。巣伏の戦いでのアテルイの戦勝は中でも目覚ましいものだったが、数年後には坂上田村麻呂が率いる征夷軍が胆沢を制圧し、延暦21年(802年)に後の水沢市域に胆沢城を築いた。同じ年にアテルイは降伏し、斬首された。これによって胆沢地方は律令体制下に組み込まれることになり、胆沢郡が新たに設置された。胆沢郡は胆沢城の鎮守府将軍の管轄下にあり、後には江刺郡・和賀郡・稗貫郡・紫波郡・岩手郡と共に奥六郡とも呼ばれた。
11世紀には胆沢鎮守府の在庁官人から「奥六郡の司」として台頭してきた安倍氏の権益の中に組み込まれた。市域にも安倍氏の砦の一つ瀬原柵(水沢市瀬台野が疑定地とされる)があったとされる。前九年・後三年の役が終わると、安倍氏の血を唯一引く奥州藤原氏初代清衡によって、平泉の時代を迎えた。水沢にも、平泉の供養法田などがあり、平泉の勢力下にあったことを示している。
文治5年、鎌倉の源頼朝によって平泉滅亡後、葛西氏が奥州総奉行となり、水沢には重臣であったとされる佐々木氏や柏山氏が治める事になる。柏山氏は半独立した存在だったが、豊臣秀吉の小田原征伐に呼応せず葛西氏同様に奥州仕置により改易され、子息が南部氏に仕えることになる。
江戸時代には、水沢城(一国一城令により水沢要害と名称を変更)に仙台藩一門・伊達宗利が入り、以降明治維新に至るまで水沢伊達氏の統治が続いた。宗利は城を中心に家臣団を配置し、奥州街道沿いには商家町として商人を集め、その外側(東側)に寺院を集めて寺町を形成した。城下町の中には乙女川を筆頭に小さな川が何本か流れ込んでいるが、これを町割りや堀に利用するなど様々な工夫を施し、ここに後の水沢市街の原型が形成された。水沢は奥州街道が南北を貫き、手倉街道と盛街道が交差する交通の要所であったため、宿場町としても栄えた。
また、伊達政宗の家臣でキリシタンである後藤寿庵は見分(水沢市福原)に千二百石を領した。自分の家臣や領民をキリシタンに帰依させ、居館の傍に天主堂やクルス場(墓地)をおき、この地を聖書の福音にちなんで福原に改めた。ここに全国から信者が移り住み、ガルバリヨ神父など外国人宣教師も訪れ、福原は東北地方のキリシタン布教の拠点となった。そして、外国の知識を大いに活用して胆沢川の水を引く用水堰の開削に尽力し、胆沢平野の開墾に大きな功績を残した。
1868年、明治維新の際の戊辰戦争では、仙台藩は奥羽越列藩同盟(北部政府)をつくって明治新政府と戦った。仙台藩の一門である水沢藩も白河の役に出陣したが、石切山などで敗れ、慶応4年6月12日に星隊長ら17人の死者を出した。新朝廷を創設する動きまであったが、敗戦により「東武朝廷」の誕生は成らなかった。
戊辰戦争敗戦にともない、水沢伊達氏領は仙台藩から没収されたため失領。翌明治2年(1869年)、邦寧は旧姓に復して留守氏を名乗る。同年、居城・水沢城が胆沢県庁として使用されることになり新政府に接収され、さらに水沢伊達氏家中は陪臣であるからとして帰農を命じられ、仙台藩の士族籍を得られなかった。このため、士分を保つために家中一同そろって北海道開拓に参加すべきとの意見が出されたが、邦寧は病身のため極寒の気候に耐えられないであろうとの判断から仙台に残留し、吉田元俶・坂本平九郎が家中200名を率いて石狩国札幌郡に移住した。この時、水沢伊達氏家中によって拓かれたのが平岸村(現・札幌市豊平区平岸)である。これにより大量の知識階級(武士階級)が北海道へ流出した。
明治時代には、廃藩置県により、胆沢県庁設置。その後、県合併により一関県、水沢県(水沢県庁は当初は水沢に置かれる予定であったが、現在の宮城県登米市登米町寺池に置かれた)、磐井県、岩手県となる。 1878年、胆沢江刺郡役所が水沢に置かれる。
なお、奥州市が属していた旧仙台藩領が「仙台県」とならずに「宮城県」となったのは、仙台藩の雄藩のイメージを明治新政府が抹殺したためだといわれる。但しこれは宮武外骨が昭和になって提唱した説であり、実際は官軍側であっても県名に郡名を採用した結果県名と都市名が一致しない例が沢山あることからも、俗説の域を出ない。
明治32年には世界に6箇所建設された国際緯度観測所の一つとして、水沢に緯度観測所(現国立天文台水沢VERA観測所)が開設された。初代所長である木村栄がZ項を発見した功績により、水沢緯度観測所が国際極運動観測事業の中央局となり、Mizusawaの名が世界に知られた。
明治以降は、県南の中核都市の一つで、商工業が盛んな地域として発展。現在でも旧侍町には多くの侍屋敷が残り周辺の歩道の整備などに力を入れている。
戦後も盛岡市に次ぐ商業都市として発展してきたが、90年代のバブル崩壊後は中心市街地が郊外の大型店出店などの影響により衰退している。
代 | 氏名 | 就任 | 退任 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 藤原喜蔵 | 昭和29年(1954年)4月29日 | 昭和31年(1956年)1月28日 | 辞職 |
2〜4 | 佐藤哲郎 | 昭和31年(1956年)1月29日 | 昭和43年(1968年)1月24日 | |
5〜9 | 高橋忠八 | 昭和43年(1968年)1月25日 | 昭和59年(1984年)1月21日 | |
10 | 坂本至正 | 昭和59年(1984年)1月22日 | 昭和63年(1988年)1月23日 | |
11 | 鈴木貞蔵 | 昭和63年(1988年)1月24日 | 平成4年(1992年)1月18日 | |
12〜16 | 後藤晨 | 平成4年(1992年)1月19日 | 平成16年(2004年)1月28日 | |
17 | 高橋光夫 | 平成16年(2004年)1月29日 | 平成18年(2006年)2月19日 | 廃止 |
水沢の中心市街地は江戸時代から昭和まで商人の町として栄え、岩手県南部の商業集積地として発展した。1990年代中頃まで従来の商店の他にマルサンデパート、マルカンデパート、ダイコー、三春屋(後のダイエー)、ジャスコなどの大型百貨店が進出し、中心市街地の規模では盛岡を凌いで県内一栄えた。
しかし、グローバル化が進んだ2000年以降は平成不況や、旧大店法廃止の影響により、国道や幹線道路沿いへのロードサイド店舗 や郊外型大型店の開発が進み、駐車場の狭い中心市街地の大型百貨店や個人商店の撤退・閉店が相次ぎ、空洞化が進んだ。
また、高齢化や首都圏の人口流出、モータリゼーション、ネットショッピングの普及、個人商店の後継者不足に加え、周辺市町村の工業団地の整備が進むにつれ昼間人口の流出が顕著となり商業集積地としての機能が失われつつある。
※岩手めんこいテレビ(開局当初に水沢市に本社・演奏所を構えていたが、のちに盛岡市に移転した)
当市には大学がなかったため、長らく大学誘致運動が行われていた。黒石町に東海大学の学部を誘致する構想があったが、実現しなかった。
南中学校は、文部科学省が推進する「学力向上フロンティア」指定校(フロンティアスクール)である。
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