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日本の政治・社会運動 ウィキペディアから
自由民権運動(じゆうみんけんうんどう、旧字体:自由民權運󠄁動、英: The Freedom and People's Rights Movement, Liberty and Civil Right Movement, The Liberty and Civil Right Movement)とは、明治時代の日本において行われた、憲法制定や国会開設のための政治運動ならびに社会運動である。
明治6年(1873年)征韓論を主張して敗れた板垣退助らが、野に下り征韓派勢力を結集し、明治7年(1874年)1月12日、愛国公党を結成し、1月17日『民撰議院設立建白書』を左院に提出し東アジアで初となる国会開設の請願を行ったことに始まる運動である[2]。藩閥政府による専制政治を批判し、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約の撤廃、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げ、明治23年(1890年)の帝国議会(国会)開設を政府に約束させた。
自由民権運動は三つの段階に分けることができ、第一段階は1874年(明治7年)の『民選議院設立建白書』の提出から1877年(明治10年)の西南戦争頃までであり、第二段階は西南戦争以後、1884・1885年(明治17, 8年)頃までが、この運動の最盛期である。第三段階は条約改正問題を契機として、この条約改正に対する条件が日本にとって屈辱的であったため反対した民党が起こしたいわゆる大同団結運動を中心とした明治20年前後の運動である[3]。
自由民権運動は、維新回天の元勲板垣退助が億兆安撫国威宣揚の御宸翰の意を拝し尊皇思想を基礎とし、明治天皇の五箇条の御誓文を柱として発展したもので、世界の自由主義思想とは潮流を異にする[4]。特に御誓文の第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」の文言は重視され、国会開設および憲法制定の根拠とされた[4]。
朕󠄂幼弱󠄁ヲ以テ猝 ニ大統ヲ紹 キ、爾來何ヲ以テ萬國ニ對立シ、列祖󠄁ニ事 へ奉 ランヤト朝󠄁夕恐󠄁懼ニ堪ヘザルナリ。竊 ニ考 ルニ、中葉朝󠄁政衰󠄁 テヨリ、武家權ヲ專 ニシ、表ニハ朝󠄁廷󠄁ヲ推尊󠄁シテ、實ハ敬シテ是ヲ遠󠄁ケ、億兆ノ父󠄁母トシテ、絕テ赤子ノ情󠄁ヲ知ルコト能 ハザル樣 計リナシ、遂󠄂ニ億兆ノ君タルモ唯名ノミニ成󠄁リ果テ、其ガ爲ニ今日朝󠄁廷󠄁ノ尊󠄁重ハ古ニ倍セシガ如クニテ朝󠄁威ハ倍 衰󠄁へ、上下相離ルヽコト霄壤 ノ如シ。斯 ル形勢ニテ、何ヲ以テ天下ニ君臨セムヤ。今般朝󠄁政一新ノ時ニ膺 リ、天下億兆一人モ其所󠄁ヲ得ザル時ハ、皆朕󠄂ガ罪ナレバ、今日ノ事朕󠄂自 ラ身骨ヲ勞シ、心志ヲ苦 メ、艱難󠄀 ノ先ニ立 チ、古 列祖󠄁ノ盡 サセ給ヒシ蹤 ヲ履 ミ、治蹟ヲ勤󠄁メテコソ始 テ天職ヲ奉ジテ、億兆ノ君タル所󠄁ニ背 カザルベシ。往󠄁昔、列祖󠄁萬機ヲ親 ラシ、不臣ノ者󠄁 アレバ、自ラ將トシテ之ヲ征シ給 ヒ、朝󠄁廷󠄁ノ政 總 テ𥳑易ニシテ、此 ノ如 ク尊󠄁重ナラザル故、君臣相親 シミ上下相愛 シ、德澤天下ニ洽 ク、國威海󠄀外ニ輝キシナリ。然ルニ近󠄁年宇內大 ニ開ケ、各國四方ニ相雄飛スルノ時ニ當 リ、獨 リ我邦󠄂 ノミ世界ノ形勢ニ疎 ク、舊習󠄁ヲ固守シ、一新ノ效 ヲハカラズ、朕󠄂徒 ニ九重ノ中ニ安居 シ、一日ノ安キヲ偸 ミ、百年ノ憂 ヲ忘󠄁 ル時ハ、遂󠄂ニ各國ノ凌侮󠄁 ヲ受󠄁ケ、上ハ列聖󠄁ヲ辱シメ給リ、下ハ億兆ヲ苦メンコトヲ恐󠄁ル。故ニ朕󠄂コヽニ百官諸󠄀侯ト廣ク相誓ヒ、列祖󠄁ノ御偉󠄁業ヲ繼述󠄁シ、一身ノ艱難󠄀辛苦ヲ問 ハズ、親ラ四方ヲ經營シ、汝億兆ヲ安撫シ、遂󠄂ニ萬里ノ波濤ヲ開拓シ、國威ヲ四方ニ宣布シ、天下ヲ富嶽ノ安キニ置 カムコトヲ欲ス。汝億兆、舊來ノ陋習󠄁ニ慣レ、尊󠄁重ノミヲ朝󠄁廷󠄁ノ事トナシ、神󠄀州ノ危󠄁急󠄁ヲ知ラズ、朕󠄂一度 足ヲ擧 レバ非常二驚キ、種〻 ノ疑惑ヲ生ジ、萬口紛󠄁紜 トシテ、朕󠄂ガ志ヲナサヾラシムル時ハ、是朕󠄂ヲシテ君タル道󠄁ヲ失ハシムルノミナラズ、從テ列祖󠄁ノ天下ヲ失ハシムルナリ。汝億兆能 ク朕󠄂ガ志ヲ體認󠄁 シ、相率󠄁 ヰテ私見ヲ去リ、公󠄁議ヲ採󠄁 リ、朕󠄂ガ業ヲ助 ケテ神󠄀州ヲ保全󠄁シ、列聖󠄁ノ神󠄀靈ヲ慰メ奉ラシメバ生前󠄁ノ幸甚ナラム[5]。 — 『億兆安撫国威宣揚の(明治天皇)御宸翰[6]』
自由民権家が例外なく尊皇家であったのは、その主導者である板垣退助の影響が大きい[7]。板垣は「君主」は「民」を本とするので「君主主義」と「民本主義」は対立せず同一不可分であると説いた[8]。これらの論旨の説明には「天賦人権説」がしばしば用いられている[9]。東北地方では河野広中、北陸では杉田定一、九州では頭山満らが活躍したが、初期において自由民権運動に参加した者は、いずれも板垣の薫陶を受けたものから派生している[10]。世界の自由主義思想は、キリスト教神学の聖書解釈や個人主義などを伴って発展したものが多い中で、日本の自由主義は愛国主義(Patriotism)と密接に結びついており、単純にリベラリズム(Liberalism)と翻訳出来ない特徴を有す[7][10]。
内藤魯一(三河交親社) |
杉田定一(自郷学社) |
河野広中(三師社) |
「衆議ニ依テ政治ヲ決スルヲ要スト云フノ思想ハ封建制度ノ末期ニ既ニ其ノ萌芽ヲ見タリ」(佐々木惣一『日本憲法要論』昭和五年)[11]。 幕末時代はヨーロッパ、アメリカでの産業革命以降、アジアの諸民族は西欧によって次々に植民地化され奴隷化され、ついに東洋の大帝国であった清国までイギリスに敗北し、日本国にも存亡の危機が迫っていた時代であった[12]。 嘉永六年六月にペルリが浦賀に来航すると徳川幕府はそれまでの将軍専制の掟を破り朝廷に国際情勢の危機を奏聞するとともに、諸侯や一般の意見も徴した[13]。「幕府専断」から「尊皇公議」への転換であった[14]。公議公論にもとづいて天皇的統一国家を形成し[14]なければ他のアジア諸国のように分割され征服されるだろうという危機感があったのである[15]。 越前福井藩の横井小楠は幕府を廃止し、朝廷に公家と大名が参加する会議を開き、そこでの結論を「公論」と定め政策を行うことを提唱した[16]。幕臣の大久保一翁も大公議会、小公議会からなる議会構想をもち、この構想は松平慶永から西郷隆盛、大久保利通らの知るところとなり、彼らからも支持された[17]。津田真道は「上院」「下院」からなる議会設立を提案し、西周も上下院からなる「議政院」の設立を説いた[18]。 政治的闘争を経てついに将軍徳川慶喜は政権を天皇に奉還し公議公論の新政を行うしかないと決断し、慶応三年十月十四日に大政奉還の上奏文を朝廷に提出し、翌十五日に勅許された[19]。 明治元年には明治天皇は広く会議をおこして公論政治を断行する旨等の五箇条の御誓文を天地神明に誓ったが、これが明治維新の国是となった[20]。またこれに続き出された政体書には米国式の三権分立が早くも打ち出されていた[21]。 このように幕末期から唱えられた公議という言葉が政治参加の拡大を訴える正当性を持つ言葉として用いられ、広がることにより、近代の議会開設への歴史へと繋がっていくのであった[22]。
明治政府が樹立されると、日本はその旨を伝えるため、朝鮮に対し国書を送るが朝鮮は江戸時代を通じて、宗氏を通して伝達が行われていたため受け取りを拒否。そこで、改めて対馬藩の宗氏を介し送った。しかし、従来使用されていなかった印鑑が使われ、国書の中に「左近衛少将」「朝臣」「皇」「奉勅」などの用語が使用されていたことや「礼曹参判」への呼称などが従来の書契形式と異なることなどに対して朝鮮側が難色を示し、国書の受理を拒否した[23]。
当時、日本は西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、逸早く開国し明治維新によって近代国家を目指し、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係を樹立しようとして送った国書であったが、開明的な考え方の日本に比べ、閉鎖的、旧時代的な考え方にたつ朝鮮は、日本が送った国書の書式(書契)に「皇」や「勅」の文字があったため、日本の意図を曲解して受け取りを拒否したのである。中華思想における冊封体制下では「皇上」や「奉勅」という用語は中国の王朝にのみ許された用語であって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである(書契事件)[10]。
書契問題が膠着する中、朝廷直交を実現すべく朝鮮外交の権限を外務省に一元化し、対馬宗氏を除外して皇使を派遣すべきだとの意見が維新政府内に強まった。その前提として調査目的に佐田白茅らが派遣されたが、彼は帰国ののち1870年(明治3年)「30大隊をもって朝鮮を攻撃すべきだ」という征韓の建白書を提出する[2]。
局面の打開のため、外務省は対馬宗氏を通して朝鮮外交の一本化を進める宗氏派遣計画(1871年(明治4年)2月)や柳原前光の清国派遣(1871年(明治4年)8月政府等対論)など複数の手立てを講じ、同年9月13日には清国と日清修好条規が締結されるにおよんだ。しかしながら、1871年(明治4年)4月にアメリカ艦隊が江華島の砲台を占領、朝鮮側がこれを奪還する事態が生じ(辛未洋擾[注釈 1])、朝鮮が攘夷の意思を強めていたこともあって交渉は進展しなかった。1871年(明治4年)の末からは岩倉使節団が西欧に派遣されることとなり、国政外交に関する重要な案件は1873年(明治6年)秋まで事実上の棚上げとなった[2]。
欧米近代国家の政治や産業の発展状況を視察し、明治6年(1873年)9月13日に帰国した岩倉具視らは、帰国後の会議で、留守政府の首脳であった西郷隆盛や板垣退助らが朝鮮の開国問題解決のためには武力行使もあえて辞さないという強硬論(征韓論)を唱えたのに対し、海外事情を実見した大久保や木戸らは内治優先論を唱えて反対、征韓論は否決になった。そのため、西郷・板垣・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣ら征韓派の参議がそろって辞職、官僚600余名も征韓論の否決に抗議して一斉に官を辞した[10](明治六年政変)。
下野した征韓派は五箇条の御誓文の第一條「広く会議を興し万機公論に決すべし」の文言を基に有司専制を批判して結集を呼び掛け、明治7年(1874年)1月12日、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らが愛国公党を結成。1月17日、民撰議院設立建白書を政府左院に提出した[2]。
臣 等 伏 して方今 政權 の歸 する所󠄁 を察 するに、上 は帝󠄁室 に在 らず、下 は人民 に在 らず、而 も獨 り有司に歸 す。夫 れ有司、上は帝󠄁室 を尊󠄁 ぶと曰 はざるに非 ず、而 して帝󠄁室漸 く其 尊󠄁榮 を失 ふ。下は人民 を保 つと曰 はざるに非 らず、而 も政令百端、朝󠄁出暮改、政情󠄁實 に成󠄁り、賞罰愛憎󠄀 に出 づ。言路壅蔽、困苦吿 るなし。夫 れ如是 にして天下 の治 安 ならん事を欲 す。三尺の童子も猶󠄁 其 不可 なるを知 る。因仍 改 めずば、恐󠄁 くは國家土崩󠄁 の勢を𦤶 さん。臣 等 愛國 の情󠄁 自 ら已 む能 はず、乃 ち之 を振救 するの道󠄁 を講󠄁求するに、唯 天下の公󠄁議を張 るに在 る而已 。天下の公󠄁議を張 るは、民撰 議 院 を立 つるに在 る而已 。則 ち有司の權を限 る所󠄁 にあつて、而 して上下安全󠄁 、其 の幸福󠄁 を受󠄁 る者󠄁 あらん。請󠄁 ふ遂󠄂 に之 を陳 ぜん。 — (『民撰議院設立建白書』冒頭)
今や政治が誰のために行われているのか、我ら一同の見解を、恐れながら申し上げますと、上は天皇陛下の御為 でもなく、下は一般国民のためでもなく、ひと握りの政治家のためのものになってしまっております。その政治家は、天皇陛下を敬 っているとは云い難 く、そのため、次第に天皇の尊厳をも蝕 んでおります。また、かと言って国民のために何かをしているとも云い難 く、政令はバラバラで、朝令暮改が横行しいるのが現実です。賞罰も公平ではなく、個人的な好き嫌いで判断が為 され、抗議をしようとしても、その意見は遮断され、苦情を述 べる術 もありません。このような状態で、天下が安寧 に治 まるでしょうか。そのような状況ではとうてい無理だと幼い子供でも分かるはずです。この古いしきたりを今改 めなければ、国家は崩潰してしまうでしょう。我ら一同は、愛国心を抑えきることが出来ず、どうすればこの国難を救うことが出来るのか話合った結果、日本国内の様々な人から意見を求める方法しかなく、様々な人から意見を求めて政治を行うには、民撰議院を設立するしか方法はありません。これによって、専制を行なっている一部の政治家の権力を制限し、結果として天皇と国民の関係は絶妙に保たれ、互いに幸福を享受できるのではないでしょうか。恐れながら、我々の考えた結論を申し上げる次第です。 — (『民撰議院設立建白書』髙岡功太郎現代語訳)
板垣退助らの建白書は、時期尚早として却下されたが、この建白書がイギリス人のブラックによる新聞『日新真事誌』に載せられたことで、国会開設の問題が世間に知られることになり、民選議院を設立すべきか否かの論戦が新聞紙上で交わされることとなった[24]。
愛国公党の諸氏は、互いに地元に帰り、先ず自分の地盤を固めることから活動することに決し、板垣ら土佐勢は高知に戻って立志社を設立した[10]。
もともと議会開設を志向していた明治政府の木戸孝充は建白書の内容を知ると「天下之輿論」を採ろうとする主張は公議を重視するものと高く評価したという[25]。土佐藩出身の保守派と目されていた佐々木高行も徳川時代の「天下の自民を愚にし、権利を束縛」していた政治への批判から民選議院設立自体は否定していなかった(「佐々木高行日記」六)[25]。
明治8年(1875年)、板垣退助は、国会開設運動を全国組織に拡大することを目指し、大阪で愛国社の結成に奔走。その中で「国会開設を本気で目指すのであれば、なぜ参議を辞職したのか、政府の中で改革すれば良かったのではないか」との批判もあり、大阪会議の結果、板垣は政府内から国会開設の目的を果たす戦略を考え、参議に復職。この時、板垣は西郷隆盛も同時に参議に復職することを大久保らに約束させる。しかし、西郷は板垣からの書簡の受け取りを拒否し、さらに書簡を持参した使者に居留守を使ってまで追い返すという謎の行動に出たため、西郷は参議に復帰しなかった[10]。
一定の成果を上げるが、愛国社は中心となる板垣が公職に就いたため活動が出来ず資金難により、一旦消滅する。
建白書提出の直前の1月14日には赤坂喰違見附で右大臣岩倉具視が板垣にともなって下野した高知県士族に襲撃される暗殺未遂が起きていた[25]。 また、江藤新平が建白書の直後に士族反乱の佐賀の乱(1874年)を起こし、死刑となっていることで知られるように、この時期の自由民権運動は政府に反感を持つ士族らに基礎を置き、士族民権と呼ばれる。士族民権は武力闘争と紙一重であった。 神風連の乱、秋月の乱、萩の乱を経て 武力を用いる士族反乱の動きは明治10年(1877年)の西南戦争で頂点に達した。西郷隆盛が兵を挙げたことに乗じて挙兵し、兵力を以て議会開設を迫ろうとする動きが立志社内部でも発生、幹部が逮捕されてしまう(立志社の獄)。 板垣退助は言論の力で議会を開設しようとしており、即時挙兵には反対していたが、西洋の抵抗権思想の影響もあり、やむをえない場合は武力行使も辞さないという選択肢は捨ててはいなかった[26]。 この西南戦争が勃発した明治10年(1877年)には木戸孝充が戦争中に病死し、西郷隆盛は敗戦により自決し、大久保利通が翌年に紀尾井町で暗殺され、維新の三傑が相次いで世を去った[27]。
明治11年(1878年)、板垣退助は愛国社を再興し、明治13年(1880年)の第四回大会で国会期成同盟が結成され、国会開設の請願・建白が政府に多数提出された。地租改正を掲げることで、運動は不平士族のみならず、農村にも浸透していった。特に各地の農村の指導者層には地租の重圧は負担であった。これにより、運動は全国民的なものとなっていった。
この時期の農村指導者層を中心にした段階の運動を豪農民権という。豪農民権が自由民権運動の主体となった背景には、明治9年(1876年)地租改正反対一揆が士族反乱と結ぶことを恐れた政府による地租軽減と、西南戦争の戦費を補うために発行された不換紙幣の増発によるインフレーションにより、農民層の租税負担が減少し、政治運動を行う余裕が生じてきたことが挙げられる[28]。実際交通事情が未整備な当時、各地の自由民権家との連絡や往復にはかなりの経済的余裕を必要としていた。これら富農層が中心となった運動だけに、政治的な要求項目として民力休養・地租軽減が上位となるのは必然であった。また、士族民権や豪農民権の他にも、都市ブルジョワ層や貧困層、博徒集団に至るまで当時の政府の方針に批判的な多種多様な立場からの参加が多く見られた。
民権運動の盛り上がりに対し、政府は明治8年(1875年)には讒謗律、新聞紙条例の公布、明治13年(1880年)には集会条例など言論弾圧の法令で対抗した。
国会期成同盟では国約憲法論を掲げ、その前提として自ら憲法を作ろうと、翌明治14年(1881年)までに私案を持ち寄ることを決議した。板垣退助は私擬憲法の作成意図について『我国憲政ノ由来』で次のように述べている。
これらの影響により憲法草案を考えるグループが全国的に誕生し、明治14年(1881年)に交詢社は『私擬憲法案』を編纂・発行し、植木枝盛は私擬憲法『東洋大日本国国憲按』を起草した。昭和43年(1968年)に東京五日市町(現あきる野市)の農家の土蔵から発見されて有名になった『五日市憲法』は地方における民権運動の高まりと思想的な深化を示している。
一方、明治政府内においても元老院において国憲案の起草作業が行われ、その国憲案の中には議会の設置も含まれていた[29]。また、1879年から1881年にかけて左大臣有栖川宮熾仁親王は諸参議に立憲政体についての意見書の提出を求め、山縣有朋、黒田清隆、山田顕義、井上馨、伊藤博文が意見を提出し、最後に大隈重信がイギリス流の議院内閣制の採用と1983年までの議会開設という当時としては急進的な意見を提出した[30]。この大隈の急進的な案は他の参議より大隈に対する不信を招くきっかけとなった。 この後、北海道官有物払下げ事件が起きると政府内では大隈が情報を新聞社にリークしたと目され、大隈は追放されることとなり、同時に国民感情を抑えるために議会開設が必要であると伊藤博文が岩倉具視を説得し、10月11日の御前会議にて大隈罷免と官有物払下げ中止が決定され、翌日に9年後の議会開設を約した「国会開設の勅諭」が出された。この一連の政変が明治十四年の政変である[31]。
明治十四年の政変の結果、大隈重信が政府を追放され、薩摩の領袖である黒田清隆もその影響力を大きく低下させ、政府の中心となった伊藤博文は議会開設と憲法制定に向けて伊藤巳代治、西園寺公望らを連れて欧州へ旅立った[32]。
明治14年(1881年)、9年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、国会期成同盟第三回大会で日本初の本格的政党である自由党が結成し総理(党首)に板垣退助、副総理に中島信行、常議員に後藤象二郎、馬場辰猪が選出された[33]。
また参議・大隈重信は、政府内で国会の早期開設を唱えていたが、明治14年(1881年)に起こった明治十四年の政変で、参議伊藤博文らによって罷免され、下野していたが、大隈も明治15年(1882年)に立憲改進党を組織し総理(党首)となった。
大隈とともにイギリス流の議院内閣制を目指し、政変に敗れ追放された福沢諭吉の門下生らは政治的中立・独立をモットーとする『時事新報』を創刊した[34]。
板垣退助は、明治15年(1882年)3月、『自由党の尊王論』を著し、自由主義は尊皇主義と同一であることを力説し自由民権の意義を説いた。
世に尊王家多しと雖(いえど)も吾(わが)自由党の如き(尊王家は)あらざるべし。世に忠臣少からずと雖も、吾自由党の如き(忠臣)はあらざるべし。(中略)吾党は我 皇帝陛下をして英帝の尊栄を保たしめんと欲する者也。(中略)吾党は深く我 皇帝陛下を信じ奉る者也。又堅く我国の千歳に垂るるを信ずる者也。吾党は最も我 皇帝陛下の明治元年三月十四日の御誓文(五箇条の御誓文)、同八年四月十四日立憲の詔勅、及客年十月十二日の勅諭を信じ奉る者也。既に我 皇帝陛下には「広く会議を興し万機公論に決すべし」と宣(のたま)ひ、又「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」と宣(のたま)ひたり。吾党、固(もと)より我 皇帝陛下の之(これ)を履行し、之(これ)を拡充し給ふを信ずる也。又、立憲の政体を立て汝衆庶と俱(とも)に其慶幸に頼(たよ)らんと欲す。(中略)既に立憲政体を立てさせ給ひ、其慶幸に頼らんと宣ふ以上は、亦吾党に自由を与へ吾党をして自由の民たらしめんと欲するの叡慮なることを信ずる也。(中略)況や客年十月の聖諭の如きあり。断然二十三年を以て代議士を召し国会を開設せんと叡断あるに於ておや。(中略)故に吾党が平生自由を唱え権利を主張する者は悉く仁慈 皇帝陛下の詔勅を信じ奉り、一点(の)私心を(も)其間に挟まざる者也。(中略)斯(かく)の如くにして吾党は 皇帝陛下を信じ、我 皇帝陛下の意の在る所に随ふて、此立憲政体の慶幸に頼らんと欲する者也。(中略)方今、支那、魯西亜(ロシア)、土耳古(トルコ)諸邦の形状を察すれば、其帝王は驕傲無礼にして人民を軽侮し土芥之を視、人民は其帝王を畏懼し、或は怨望し雷霆の如く、讎敵の如くし、故に君民上下の間に於て曾(かつ)て其親睦愛情の行はるる事なし。(中略)今、吾党の我日本 皇帝陛下を尊崇する所以(ゆえん)は、固(もと)より支那、土耳古(トルコ)の如きを欲せざる也。又、大(おおい)に魯西亜(ロシア)の如きを好まざる也。吾党は我人民をして自由の民たらしめ、我邦をして文明の国に位し、(皇帝陛下を)自由貴重の民上に君臨せしめ、無上の光栄を保ち、無比の尊崇を受けしめんと企図する者也。(中略)是吾党が平生堅く聖旨を奉じ、自由の主義を執り、政党を組織し、国事に奔走する所以(ゆえん)也。乃(すなわ)ち皇国を千載に伝へ、皇統を無窮に垂れんと欲する所以(ゆえん)なり。世の真理を解せず、時情を悟らず、固陋自ら省みず、妄(みだ)りに尊王愛国を唱へ、却(かえっ)て聖旨に違(たが)ひ、立憲政体の準備計画を防遏(ぼうあつ)し、皇家を率ゐて危難の深淵に臨まんと欲する者と同一視すべからざる也。是れ吾党が古今尊王家多しと雖(いえど)も我自由党の如くは無し、古今忠臣義士尠(すくな)からずと雖も我自由党諸氏が忠愛真実なるに如(し)かずと為(な)す所以(ゆえん)なり。 — 『自由党の尊王論』板垣退助著
板垣退助は全国を遊説して回り、党勢拡大に努めていた明治15年(1882年)4月6日、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。その際、板垣は襲われたあとに竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い[注釈 2][35]、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。この事件の際、板垣は当時医者だった後藤新平の診療を受けており、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と述べ、療養後に彼の政才を見抜いた板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と語っている[36]。
「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉は、板垣が襲撃を受けた際に叫んだものである。
板垣自身が記しているものによれば、
4月6日の事件後すぐに出された4月11日付の『大阪朝日新聞』は、事件現場にいあわせた小室信介が書いたものであるが「板垣は『板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ』と叫んだ」と記されており[38]、他紙の報道も同様で、東京の『有喜世新聞』では「兇徒を睨みつけ『板垣は死すとも自由の精神は決して死せざるぞ』と言はるゝ」[39]等とある。
また政府側の密偵で自由民権運動を監視していた立場の目撃者・岡本都與吉(岐阜県御嵩警察署御用掛)の報告書においても、板垣自身が同様の言葉を襲撃された際に叫んだという記録が発見され今日に至っている[40]。
1884年に「自由燈」で女性の権利の確立を訴えた「同胞姉妹に告ぐ」を発表した岸田俊子や「東洋のジャンヌ・ダルク」と評された福田英子らの運動が著名である。これらの運動は日本の女性解放運動の先駆けであった。女性参政権を求めて運動をした高知の楠瀬喜多の活動も知られている[42]。
明治十四年の政変によって、自由民権運動に好意的と見られてきた大隈をはじめとする政府内の急進派が一掃され、政府は伊藤博文を中心とする体制を固める事に成功して、結果的にはより強硬な運動弾圧策に乗り出す環境を整える事となった。また伊藤らは民権運動家の内部分裂を誘う策も行った。後藤象二郎を通じて自由党総理板垣退助に洋行を勧め、板垣がこれに応じると、民権運動の重要な時期に政府から金をもらって外国へ旅行する板垣への批判が噴出。批判した馬場辰猪・大石正巳・末広鉄腸らを板垣が逆に自由党から追放するという措置に出たため、田口卯吉・中江兆民らまでも自由党から去ることとなった。また改進党系の郵便報知新聞なども自由党と三井との癒着を含め、板垣を批判。板垣・後藤の出国後には自由党系の自由新聞が逆に改進党と三菱との関係を批判するなど泥仕合の様相を呈した[43]。
大井憲太郎や内藤魯一など自由党急進派は政府の厳しい弾圧にテロや蜂起も辞さない過激な戦術をも検討していた。また、松方デフレ等で困窮した農民たちも国会開設を前に準備政党化した自由党に対し不満をつのらせていた[注釈 3]。
こうした背景のもとに1881年(明治14年)には秋田事件、1882年(明治15年)には福島事件、1883年(明治16年)には高田事件、1884年(明治17年)には群馬事件、加波山事件、秩父事件、飯田事件、名古屋事件、1886年(明治19年)には静岡事件等と全国各地で「激化事件」が頻発した。また、大阪事件もこうした一連の事件の延長線上に位置づけられている。なお、政府は1885年(明治18年)1月15日に爆発物取締罰則を施行した。
1884年には自由党は解党し、同年末には立憲改進党も大隈らが脱党し事実上分解するなど打撃を受けた。
1886年には星亨らによる大同団結運動で民権運動は再び盛り上がりを見せ、中江兆民や徳富蘇峰らの思想的な活躍も見られた。翌1887年(明治20年)には、さらに井上馨による欧化主義を基本とした外交政策に対し、外交策の転換・言論集会の自由・地租軽減を要求した三大事件建白運動が起こり、民権運動は激しさを増した。これに対し政府が保安条例の制定や改進党大隈の外相入閣を行うことで運動は沈静化した。伊藤博文らの憲法草案を元に枢密院会議での審議を経て1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が明治天皇によって公布され、同時に皇室典範、議院法、衆議院議員選挙法、会計法、貴族院令も公布された[44]。皇居での憲法発布式を終えた明治天皇・皇后の馬車が正門を出ると、帝国大学の学生が万歳を叫んだ[45]。 『朝野新聞』社説で改進党の犬養毅は東洋ではじめて制定された憲法を礼賛したが、今後の運用が重要であると指摘した[46]。同じく改進党系の高田早苗も『憲法雑誌』上で明治憲法は素晴らしい憲法であると論じた[46]。憲法発布とともに大赦令が公布され保安条例などの対象とされていた旧自由党系458名が赦免され、河野広中、大井憲太郎、星享らの旧自由党系指導者が大量に出獄した[47]。 翌1890年(明治23年)に第1回総選挙が行われ、帝国議会が開かれた。以降、政府・政党の対立は帝国議会に持ち込まれた。
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