登米町寺池
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登米町寺池(とよままちてらいけ)は、宮城県登米市にある大字であり、旧登米郡寺池村、登米郡登米村の一部、登米郡登米町寺池に相当する。登米町寺池は住所上の表記であり、登記上の表記は登米町登米字寺池(とよままちとよまあざてらいけ)となっている。中世では葛西氏の城下町として、近世では登米伊達家の城下町として繁栄した地である[6]。
登米市の中央部、登米地域(旧登米郡登米町)の西部に所在し、北上川の西岸に位置する[7][8]。東部は北上川を挟んで登米町大字日根牛と、北部は登米町日野渡と、西部は登米町小島と、南部は豊里町と接する。
亀ヶ下や細谷の一帯に低湿地が分布する[9]。
地質的には、寺池の南部の丘陵地帯はほぼ全域に二畳系の地層(登米層)が分布しており、寺池の北部の平地は沖積層が分布している[10]。
仙台法務局登米支局の「登米市登記所備付地図データ」(2024年10月5日時点)およびデジタル庁公表のアドレス・ベース・レジストリの「宮城県町字マスターデータセット」(2024年8月13日時点)および運輸局公表の「東北運輸局宮城運輸支局住所コード表」(2024年11月1日時点)によれば、登米町寺池(登米町登米字寺池)の小字は以下の通りである[11][5]。
なお、本項では運輸局住所コード表や登米市HPなどで用いられている「登米町寺池○○」の形式ではなく、町字マスターおよび登記上の表記にならって「登米町登米字寺池○○」の形式で小字名を記す。
登米町誌によると明治19年頃の寺池村の小字は以下の通りである[12]。
安永風土記によると1774年(安永3年)4月時点での寺池村(登米伊達家家中屋敷も含む)の小字(小名)・屋敷名は以下の通りである[17][18]。
以下は小字・小名の変遷である。なお、小字および小名の対応は厳密なものではない[22][23]。
2024年現在 | 1886年時点 | 1774年時点 |
---|---|---|
荒町 | 荒町 | 新町屋敷 |
三日町 | 三日町 | 三日町屋敷 |
九日町 | 九日町 | 九日町屋敷 |
中町 | 中町 | 中町屋敷 |
金谷 | 金谷 | 金谷屋敷、金谷丁 |
桜小路 | 桜小路 | 前小路、後小路、中の町、下町、桜小路、舘の下、西小路、御小人丁 |
上町 | 上町 | 上町、鉄山、六軒町、牛蒡坂 |
前舟橋 | 前舟橋 | 前舟橋丁、後舟橋丁、新町、我津郷 |
鉄砲町 | 鉄砲町 | 鉄砲町、八丁田 |
道場 | 道場 | 道場山、上の山、中山、下り松 |
金沢 | 金沢 | 姥神沢、塩釜、金沢 |
目子待井 | 目子待井 | 目子待井 |
馬場𡉻 | 馬場𡉻 | 馬場𡉻、相野屋待井 |
辺室山 | 辺室山 | 部室山、部室、八幡埼 |
渋江 | 渋江 | 渋江、川原毛待井 |
鶴ケ𡉻 | 鶴ケ𡉻 | 鶴ケ𡉻 |
八丁田待井 | 八丁田待井 | 八丁田待井 |
亀ケ下 | 亀ケ下 | 亀ケ下 |
細谷 | 細谷 | 細谷、我津郷 |
銀山 | 銀山 | 大苗代、雨沼 |
(無番地) | 九九出 | 高梨、十八出 |
(不明) | 亀ケ下八幡、銅谷丁、蛭沢丁 |
2024年(令和6年)の公示地価によれば、下記の登米町寺池の宅地および宅地見込み地における地価は次の通りである[24]。なお、公示地価は不動産登記簿の表記に則り、登米町寺池は登米町登米字寺池と表記されている。
東北地方の覇権を握っていた奥州藤原氏が源頼朝に滅ぼされ、奥州藤原氏の旧領には源頼朝の家臣である関東の武者たちが配置された。その武者の一人、葛西清重は奥州総奉行(留守職)に任命され、胆沢郡・磐井郡・牡鹿郡を支配した[注 6][25][26][27]。その後、葛西氏は領土を拡張し、栗原郡・登米郡・遠田郡などをも支配するようになった[27]。そして葛西氏は、東に北上山地、西に湿原、南北に連続する丘陵があり[注 7]、北上川が近くを流れ、交通の便の良い寺池の地を本拠地として選んだ[28]。
南北朝時代になり、葛西宗清・貞清親子は南朝方として戦に馳せ参じるために本拠地を石巻に移した[29]。しかし、葛西高清などの寺池に残った者は北朝方を支持していたため、石巻に移った葛西家と寺池に残った葛西家で対立が生じた[30]。現に寺池を含む仙北地域の板碑のほとんどが北朝方の年号を採用している[30]。なお、貞清の子孫は石巻へと住み続け、寺池の本家としばらく対立し続けた[31]。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉が葛西晴信に対し、小田原征伐への参陣、つまり豊臣への臣従を要求するも、領内での反乱の対処に追われていたことや老臣らの保守的な態度が原因となって葛西晴信は参陣しなかった[32]。その結果、奥州仕置により寺池城は落城、葛西家は滅亡し[33]、寺池を含む旧葛西領は豊臣秀吉の家臣である木村吉清の支配を受けることとなった[34]。吉清は寺池城を本拠地として当地を支配した[34]。しかし、吉清の統治に対する反発から、葛西大崎一揆が勃発し、吉清は寺池城を捨て、木村清久とともに佐沼城に籠城した[35]。木村吉清らは伊達政宗・蒲生氏郷に救助されたが、一揆の責任を問われ、改易させられ、寺池の地は主のいない荒涼とした土地になった[35][36]。
慶長9年(1604年)になり、和賀一揆加勢の責任を問われた白石宗直が領主として、水沢より寺池に移った[36][37]。当時の寺池は戦乱や北上川・迫川の氾濫のため荒れ果てており、寺池城も大破荒廃していたとされる[37][38]。そのため、宗直はまず城下町の整備、河川改修、新田開発を行った[39]。葛西氏の旧臣を招致して家中の列に加えて、離散した民を招撫し、商いをする者を集めて市舎を開き、その結果、家臣をはじめとした人々が城下に集まり、寺池は軒を並べる賑わいとなった[40][36]。なお、士農工商の身分の別が厳しく、商家は新町・三日町・九日町・中町・金谷の五ヶ町に居住を限られ、武家も家中丁に限られた[6]。
元禄郷帳によれば村高は1,034石余、安永風土記によれば村高は101貫余(田代86貫余、畑代14貫余)、人頭237、家数400、人数1,729、馬35、御石艜2、渡世艜4、北上川渡船1、薪取草刈通用小舟4、鮭漁かっこ船11 [18]。
安永風土記には
式部様御居館続御林之内に小池有之候に付、村名に唱来候よし申伝候事
とあり、居館続きの林の中に小池があったため寺池と命名されたとされる[8][58]。現に、「御居館続御林」なる地域にあたる鉄山に小池が所在しており、また昔、鉄山の西に真珠院明了寺という寺院が存在していたことが判明しているため、「寺」と「池」を合わせて寺池の地名が生じたのだと考えられている[58]。いずれにせよ、高野山五大院記録には
建久五年四月移住干登米郡寺池館
とあるので鎌倉時代初期から寺池の地名があったということが明らかになっている[58]。
2020年(令和2年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りとなる[1]。
小字 | 世帯 | 男 | 女 | 外国人 | 人口 |
---|---|---|---|---|---|
上町 | 196世帯 | 278人 | 274人 | 8人 | 552人 |
桜小路 | 170世帯 | 228人 | 280人 | 1人 | 508人 |
前舟橋 | 227世帯 | 285人 | 300人 | 1人 | 585人 |
鉄砲町 | 168世帯 | 248人 | 254人 | 2人 | 502人 |
金沢山 | 33世帯 | 48人 | 92人 | 0人 | 140人 |
金谷 | 25世帯 | 36人 | 29人 | 0人 | 65人 |
道場 | 13世帯 | 19人 | 26人 | 0人 | 45人 |
中町 | 30世帯 | 32人 | 37人 | 0人 | 69人 |
九日町 | 30世帯 | 29人 | 42人 | 0人 | 71人 |
三日町 | 21世帯 | 23人 | 24人 | 0人 | 47人 |
荒町 | 29世帯 | 26人 | 35人 | 1人 | 61人 |
辺室山 | 37世帯 | 89人 | 127人 | 1人 | 216人 |
渋江 | 14世帯 | 21人 | 24人 | 0人 | 45人 |
合計 | 993世帯 | 1,362人 | 1,544人 | 14人 | 2,906人 |
登米町寺池三日町に所在する醤油・味噌・日本酒を製造、販売する企業である[65]。天保4年に海老名喜三郎が味噌醤油の醸造をはじめたことを由来としており、海老喜の醸造は登米地域としては最も古い[65]。
武家、とくに小禄の士の生活は決して豊かではなかった[6]。そのため、武家であっても養蚕や農耕を営んで生計を立てていた[6]。その後、明治維新に際して、政府は武家に対して帰農を勧奨したため、農業を営む者が漸次増加した[6]。
北上川の舟便が石巻港から盛岡までひらけていた頃、寺池の地はその中間地点にあり、かつ登米郡・栗原郡・本吉郡の物資の集散地であったため、寺池の商況は活況を呈していた[6]。そのピークは明治20年代から30年代の間であったとされるが、東北本線の開通および自動車の発達により陸上運輸の便が盛んになるにつれ、北上川の水運は著しく衰退し、それとともに寺池の商況もまた、衰退していくことになった[66]。そのため、商家のなかでも農業に転業又は兼業する者があり、農家数はさらに増加していった[66]。
域内に鉄道駅は存在しないが、1968年3月24日まで仙北鉄道登米線登米駅が存在していた[67]。現在の最寄駅はJR気仙沼線柳津駅などが挙げられる。
登米市例規「登米市就学すべき学校の指定に関する規則」によれば、登米町寺池の小・中学校の学区は以下の通りとなる[68]。
大字 | 字・番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
登米町寺池 | 全域 | 登米市立登米小学校 | 登米市立登米中学校 |
登米伊達家9代の伊達村良は1764年(明和元年)12月に「学問を励み武芸を嗜むべき」旨の通達をし、学問の勧奨をした[69]。現に、村良は1773年(安永2年)4月に星信好と都沢庄之丞を、1779年(安永8年)伊藤吉治を儒者として登用した[注 8][69]。村良に続く、登米伊達家10代の伊達村幸も学問を奨励し、蓮沼三修を儒者として迎えた[69][70][71]。しかし、村良の治世の後半では天明の飢饉が、村幸の代にも旱水害があり、生活が困窮するに至って、学問も衰えをみせた[70]。
登米伊達氏は郷学を持たなかった。そのため、寺池には郷学の代わりとなるような私塾が存在していた[72]。後小路には佐藤助右衛門、桜小路には星弥右衛門、下町には大槻吉次、三日町には大槻源右衛門、横丁には星亮策、上町には春日五郎左衛門、六軒町には大槻喜源太の塾が存在していた[72]。このなかで、星亮策の塾は規模が大きく、他の塾の生徒数は30名から50名程度であったのに対し、星亮策の塾の生徒数は250名以上であった[72]。星亮策は登米伊達家の家臣であったことから、星亮策の塾が郷学の肩代わりをしていたと推定されている[73]。
明治期になり、学制が公布され、寺池を含む登米郡は第七大学区第二十中学区に編入された[74]。1874年(明治7年)3月には、水沢県伝習所が設置され、宮城師範学校卒の三等訓導大石常雄が初代所長として着任した[75]。寺池の養雲寺で伝習講座が開かれ、水沢県内から56人が受講した[75]。伝習科目は国語、算術、地誌、歴史教授法等であった[76]。卒業生には三等訓導の免許状が授与され、教員として勤務することが許された[76]。1875年(明治8年)1月4日、校舎が一関へと移った[76]。
1873年(明治6年)6月18日、第七大学区水沢県内第二十番中学区登米村第一番小学校が養雲寺を仮校舎として開校する[77]。1876年(明治9年)5月には旧水沢県庁が登米村第一番小学校に下付され、これを校舎として使用開始する[77]。この頃には、男生徒394人、女生徒83人を擁する県内最大規模の小学校となった[77]。登米村第一番小学校は同年11月、登米村凌雲小学校に改称するも、後に登米小学校と改められ、1886年(明治19年)11月、登米高等小学校と登米尋常小学校に分割、そして小学校令を受けて、二つを合わせて校名を登米高等尋常小学校とする[78]。その後、生徒数の増加と施設(旧水沢県庁)の頽廃が問題となり、寺池桜小路6番地に登米高等尋常小学校の校舎を建設することが決定された[78]。新校舎は1888年(明治21年)10月に落成した[78]。生徒数は増え続け、1900年(明治33年)には生徒数が1,000人を超えた[79]。それに伴い、1898年(明治31年)2月に二号校舎、1902年(明治35年)9月に三号校舎が落成した[79]。昭和初期になると、教育の場に国家主義的性格があらわれるようになり、登米尋常小学校は1941年4月1日、登米国民学校に改称、1944年4月1日、養護学級を設けた[80]。学童集団疎開により、1944年9月には東京都桃井第三国民学校および桃井第四国民学校の児童が来校する[80]。戦後、1947年(昭和22年)4月1日、登米国民学校が登米町立登米小学校と校名を変更する[80]。
1920年(大正9年)4月1日、登米町立登米実科高等女学校が登米尋常高等小学校二号校舎内に設置される[81]。しかし、独立校舎建設問題と県立移管の気運がおこり、1927年(昭和2年)3月31日に廃校となった[82]。その後、登米町は登米郡内町村長、本吉郡、栗原郡関係町村に呼び掛け賛成を得て、県立高等女学校建設委員会を設けて誘致運動を開始した[82]。その結果、県立高等女学校設置が議決され、1927年4月1日に宮城県登米高等女学校が設置された[83][82]。1948年(昭和23年)4月15日、学制改革により、宮城県登米高等女学校が男女共学の高校として宮城県登米高等学校として新しく発足した[82]。
2024年8月末現在は教育資料館として使用されており、1963年(昭和38年)7月2日に宮城県重要文化財に指定され、1981年(昭和56年)6月に国の重要文化財に指定された[84]。この校舎は1888年(明治21年)10月に竣工したもので、6,287円という膨大な金を使って建設された[84]。建築委員長は登米伊達家14代当主伊達基寧で設計は宮城県技手の山添喜三郎、監督は佐藤朝吉、材料提供者は三島秀之助であった[84]。校舎は木造二階建て、白木造で中央校舎の両端から南方に校舎が延びてコの字形配置をなし、さらにその両端に平屋造り半六角形の昇降口が付けられている[84]。建物の大きさは東西23間、東西の両翼は南へ長さ11間、建築面積255坪となっている[85]。内部は廊下と階段をのぞいてほとんどが横4間縦5間の普通教室となっている[85]。各室は漆喰仕上げの壁をもって仕切られ、他の周辺はガラス戸を多くしている[85]。校舎正面入口の赤煉瓦造りの門(赤門)は1978年の宮城県沖地震で倒壊したため、国指定から外れている[46]。
2024年9月現在は水沢県庁記念館として使用されており、1976年(昭和51年)5月に登米町の文化財に指定された[86]。明治4年7月に着工され、明治5年7月27日に開庁式が行われた[46]。初めは登米県庁舎として着工されたものであるが、登米の地が明治4年11月に一関県に、同年12月に水沢県となったことから、明治8年9月までの約3年間にわたり、水沢県庁として使用されることとなった[46]。水沢県庁が明治8年9月に一関へと移った後には、登米小学校(明治9年5月から明治21年10月)、登米裁判所(明治22年7月〜昭和33年8月)、老人福祉センターとして使用された[86]。
明治22年竣工で設計は山添喜三郎が担当した[86]。木造2階建て下見板張り白ペンキ塗り、寄棟の茅葺屋根である[87]。突き出した玄関は上下階とも吹き抜けで、屋根はペディメントで鬼瓦が載せてある[87]。
県指定重要文化財であり、現在のものは1968年(昭和43年)に解体復元されたものである[88]。桃山様式による霊屋造りの秀作として、価値が認められて県の重要文化財として指定された[88]。廟は方三間素木単層宝形造り杮葺で前面に一間の向拝とその両側に縁をつけてある[88]。
登米町寺池桜小路大手前に所在[89]。宮城県指定の天然記念物で古くは馬繋ぎの柳と呼称された[89]。ユウキシダレの雄木で樹高約25m、幹回りは根元で5.6m、胸高で3.6mある[89]。樹齢は150年と推定されているが、一説には200年以上というものもいる[89]。
1952年5月16日の早朝、西の強風が吹くなか、前舟橋から出火し、風下の茅葺の家屋へと次々へと飛び火し、大火となった[119]。死者1人、負傷者7人、全焼53棟、罹災戸数30戸、損害額4,000万円の被害を出した[119]。類焼家屋の多くは茅葺の武家屋敷で、多くの文化財が灰燼に帰すこととなった[120]。
登米総合支所は2011年3月11日当時、支所長を含む21人体制で業務を行っていた[57]。地震が発生した後、登米総合支所では地盤沈下が発生して、駐車場に亀裂と段差が生じる、油配管用トラフが沈下するといった被害を被ったものの、庁舎機能は失われていなかったため、支所長の命で災害対策支部を設置した[57]。停電と電話の不通により、情報を得ることは困難であったが、消防団や行政区長、自主防災組織の協力のもと、登米地域の被災状況を把握することができた[57]。12日午前11時頃には、南三陸町役場職員2人が来庁し救援を要請した[57]。これに応える形で登米総合支所職員と消防団員を南三陸町へと派遣し、炊き出しなどを行った[57]。同日夜、再び南三陸町役場職員が来庁し、南三陸町立戸倉中学校の児童を登米地域に避難させることを要請した[57]。即日、市長の許可を得て、13日、戸倉中学校の児童らを登米中学校へと避難させた[57][121]。
3月17日には、電気が復旧したため、登米市内に住んでいる住民らは次第に帰宅していったが、南三陸町から避難してきた住民は帰宅することができなかった[122]。
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