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応神天皇の子 ウィキペディアから
隼別皇子(はやぶさわけ の みこ、生年不詳 - 仁徳天皇40年2月)は『記紀』に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。5世紀頃の応神天皇の皇子。仁徳天皇の異母弟。母親は『古事記』では桜井田部連垂根(さくらい の たべ の むらじ たりね)の娘、糸井比売(いといひめ)[1] で、『日本書紀』では桜井田部連男組(さくらい の たべ の むらじ おさい)の妹、糸媛(いとひめ)。「隼総別皇子」とも表記する[2]。『古事記』では速総別命。
『古事記』・『日本書紀』に共通する物語をまとめると、以下のようになる。
仁徳天皇は雌鳥皇女(めとりのひめみこ)を妃にしようとして、結婚の仲立ちを頼まれた。しかし、隼別皇子は、密かに彼女を妻にして復命せず、さらに皇位への野心をうかがわせる、不敬の言動が本人からも周囲からも相次いだ。このため、一度は二人の仲を許した天皇の怒りを買った。
古事記には次のように、まず女鳥王(めとりのひめみこ)が速總別王(はやぶさわけのみこ)に、天皇を討つべしと促したことが記されている。
この時、その夫 速總別王の到來(き)ませる時に、その妻 女鳥王 歌曰ひたまはく、雲雀(ひばり)は 天に翔(かけ)る 高行くや 速総別 鷦鷯取らさね
天皇この歌を聞かして、即ち軍を興して、欲殺むとす。
とうたひたまひき
また日本書紀にも、
俄(しばらく)ありて隼別皇子、皇女(ひめみこ)の膝を枕にして臥せり。乃ち語りて曰はく、「鷦鷯と隼と孰(いづれ)か捷(と)き」といふ。曰はく「隼は捷(と)し」といふ。乃ち皇子の曰はく、「是、我が先(さきだ)てる所なり」といふ。天皇、是の言を聞しめして、更に亦起恨を起こしたまふ。時に隼別皇子の舎人等歌(うたよみ)して曰はく。
隼は 天に上(のぼ)り 飛び翔(かけ)り 斎(いつき)が上の 鷦鷯取らさね
とある。
『日本書紀』によると、追っ手として、吉備品遅部雄鯽(きび の ほむちべ の おふな)・播磨佐伯直阿俄能胡(はりま の さえき の あたい あがのこ)らの軍兵が差し向けられたという。皇子夫妻は伊勢神宮へ逃げる途中で捕らえられ、伊勢国の蒋代野(こもしろのの)、古事記では大和国の宇陀の蘇邇(そに)で捕らえられ、2人とも殺されたという[3][4]。
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