トップQs
タイムライン
チャット
視点
西洋医学
生物医学・主流医学とも言い、西洋(西欧・アメリカ)を中心に発展した医学 ウィキペディアから
Remove ads
西洋医学(せいよういがく、英: Western medicine[1])とは、西洋において発展した医学を指す用語である。明治初期から、欧米医学を指す言葉として用いられた[2]。
ヨーロッパ、アラビア(西洋)には、中国医学(東洋医学)とは異なる概念・理論・治療体系をもつ伝統医学(ギリシャ・アラビア医学、ユナニ医学)がある。これは古代ギリシャに始まり、四体液説・プネウマ論など基礎とするもので、アーユルヴェーダ(インド伝統医学)・中国医学と同じように全体観(ホーリズム)の医学である[3]。各地の伝統医学は交流しながら発展した。
西洋医学の歴史は、古代ギリシアのヒポクラテスおよびその弟子らから扱うことになる。ヒポクラテス全集は、ヒポクラテス(あるいはヒポクラテスおよびその弟子)に帰せられる60篇前後の医療論文群の総称であり、教義、診断、治療、倫理、予後、自然学など幅広い範囲を含み、「現代の医学史・古典研究でも重要な資料群」とされている[4]。ヒポクラテス全集は1525年にはラテン語に翻訳版が出版され、翌1526年にはヴェネチアでギリシア語版が刊行された。
近代医学に焦点を当てる場合は、主にルネサンス以降に自然科学の手法を大いに強化し、19世紀後半に発展した近代医学[5]を扱うことになる。
現代の欧米では、医学を応用科学に含めるのが一般的である。
Remove ads
歴史
要約
視点
→詳細は「医学の歴史」を参照
古代ギリシア

ヨーロッパにおいては、「医」の起源は、古代ギリシアのヒポクラテスとされている。
その後古代ローマのガレノスがアリストテレスの哲学(学問の集大成)を踏まえ、それまでの医療知識をまとめ、学問としての医学が確立されたと言われている。ガレノスはその後、数百年ものあいだ権威とされた。
アラブ世界での医学の発展
古代ギリシャの医学知識は、8世紀後半から9世紀にかけて、バグダードの知恵の館においてヒポクラテス、ガレノス、アリストテレス、プラトン、ユークリッドなどのギリシア科学・医学文献が大量に翻訳され、古代ギリシアの医学書もイスラム世界において継承され、アラブの医学者によってさらに発展した。イブン・スィーナーやイブン・ルシュドなどが著名である。 (ユナニ医学、イスラム科学)
ヨーロッパでの中世からルネサンスにかけての状況
- 中世ヨーロッパ
一方、11世紀ころまでのヨーロッパには、古代ギリシアの医学やアラブ世界の高度化した医学が伝わっていなかった。内科に関しては、キリスト教の修道院において薬草(薬用植物)による治療が行われていた。これは修道院医学と呼ばれる。 外科のほうは、キリスト教徒の職業とはみなされていなかった。教会の内部では、「病気は神の恵み」と説明された。瀉血治療なども行われていた。
その状況が変化し始めたのは、12世紀にトレドを中心として、当時の先進学問だったアラブ語で書かれた学問書(ギリシア語文献をアラビア語に翻訳したものを含む)を大規模にラテン語へ翻訳する運動が起きたことである。これ担った者たちを現代ではトレド翻訳学派と呼ぶ。こうして西ヨーロッパにもアラブ世界の医学が伝わった。
ヒポクラテス全集は、教義、診断、治療、倫理、予後、自然学など幅広い範囲を含む。 1525年にはラテン語への翻訳版が出版され、翌1526年にはヴェネチアでギリシア語版が刊行されるなどした。オランダやドイツを含むヨーロッパ各国で、その後も写本・印刷本が多数出された。19世紀には、フランスの学者 Émile Littré が編んだ ギリシャ語およびフランス語の対訳形式のヒポクラテス全集(フランス語の書名:Oeuvres complètes d’Hippocrate : traduction nouvelle avec le texte grec)が、1839年から1861年にかけて刊行された。 これは学術的に精度が高く、今日でも多くの版の底本とされる。日本でもヒポクラテス全集の翻訳書が1997年に『新訂ヒポクラテス全集』として全巻セットで刊行された。編訳責任者は大槻真一郎らで、その構成は、古代ギリシア語の原文と日本語訳、および必要に応じた解説を含む。
- ルネサンス期以降
ルネサンス期のヨーロッパでは、アラビア語で書かれた医学書籍が、主としてラテン語に翻訳され、パドヴァ大学などで研究され、さらに発展した。
その後西ヨーロッパでは、16〜17世紀の解剖学革命、17世紀〜19世紀の生理学・内科・病理学の発展、19〜20世紀の近代医学・細菌学・臨床医学への移行、という大きな流れがあった。
16世紀-18世紀
16–18世紀のヨーロッパ医学は、解剖学、外科、内科が三本柱であり、それを担ったのは大学の教員だけでなく職人的外科医だった。その医学書はラテン語で書かれたものが多かったが、臨床にあたる普通の水準の医師には理解しづらかったので各国語(ドイツ語、オランダ語など)でも書かれるようになった。17世紀から20世紀の西ヨーロッパの医学界には人の集団や伝統(理論、方法論、教科書体系を共有する集団や伝統)がいくつか存在した。そうした集団や伝統は「学派」とよばれることもある。3本柱はおおよそ次のようになっていた。
- 解剖学(伝統派) - イタリア、ドイツ、フランスなどの大学で解剖学は標準的な医学であった。初期はルネサンス期から続くガレノス系解剖に注釈を書き加える伝統であったが、やがて精密解剖を行い実証的観察を蓄積してゆくようになった。こうした大学教員らが各種解剖学書を著して、「Anatomia...」といった書名の解剖学教科書が多数執筆された。
- 外科 - 実践的な外科技術と外科医学書体系を確立した。“職人的外科”として活躍し、上述した大学の理論的な解剖学者と並び立つ存在だった。著名な人物にローレンツ・ハイステル(Lorenz Heister, 1683–1758)がおり、代表的著作にChirurgieがある。
- 内科学、臨床医学(の萌芽段階) - 理論 + 経験を重んじた内科学であり、後に多くの翻訳や模倣を生みつつ、近代内科学の先駆となった。代表的人物にヨハネス・デ・ゴルテル (de:Johannes de Gorter, 1689–1762)がいる。
19世紀の西ヨーロッパの医学
19世紀の西ヨーロッパの医学は、経験・科学的方法・分科化の時代だった。単なる伝統医学ではなく、臨床観察、統計、解剖・病理、衛生、薬理、さらには社会医学的視点が医学の中に定着していった。19世紀になると医学書はラテン語だけでなく、むしろドイツ語・フランス語・英語など多言語で書かれるようになり、加速度的に多数の教科書や論文集が刊行されるようになった。大学・病院・研究所などの設立もさかんに行われ、制度化された医療体制の基礎が築かれた。
19世紀の西ヨーロッパでは医学の“分科化”と“科学的方法の導入”が進み、内科、病理学、予防医学、細菌学が確立した。(それらの成果により"近代医学の成立"と現代の学者からは見なされている。)代表的な学派(流派)、また著作を以下に示す。
20世紀の西ヨーロッパの医学
細菌学や微生物学の研究が進み、感染症理論、免疫理論、予防接種、公衆衛生の体系化が行われた。代表的人物としてルイ・パスツールやロベルト・コッホを挙げることができる。
なお、16世紀から19世紀にかけて西ヨーロッパでは、古代・中世のような「ヒポクラテス派」「ガレノス派」といった明確にラベル化された"学派"はゆっくりと消滅していき、代わりに現れたのが「解剖学者」「外科医」「内科医」「病理学者」「細菌学者」などの職能カテゴリであり、それがさらに細分化され、職能カテゴリ - 国(言語圏) -大学(大学別の集団) によりレイヤー化され細分化された存在となっていった。
Remove ads
日本への伝来
日本では1543年の鉄砲伝来以降に西洋医学も伝えられ、宣教師はキリスト教布教に医術を利用した[6]。ポルトガル人、アルメイダは豊後に日本最初の洋式病院を設立した[7]。キリスト教が禁圧された後もその医学は「南蛮医学」と称されて外科医術 (金瘡術) などの分野で一定の役割を示した。その後は、日本と通商関係を有したオランダ経由で医学が流入して蘭方医学と呼ばれた。1774年には杉田玄白とその仲間らが、ヨーロッパの医学部向けの解剖学の教科書(もとはドイツ語で書かれそれがオランダ語に翻訳された『ターヘル・アナトミア』)を和訳し、さらに他の書物も参考に少し内容を改良しつつ『解体新書』を発刊したことで、日本人にも西洋医学の解剖学の知識が伝わった。幕末には蘭学とともに西洋医学書の翻訳などが行なわれた。内科学に関しては、Johannes de Gorterがオランダ語で書いたGezuiverde geneeskonstが、1793年頃に和訳が開始され『西説内科撰要』 (全18巻)として刊行された。これは日本で最初の西洋内科学書の本格的翻訳であり、これにより従来の外科中心だった蘭学が、内科(病理・診断・処方)を取り込んでゆくことになった。明治維新後には漢方医学を廃し、西洋医学を「医学」とするようになった、とも言われる。
20世紀になると、医者は患者の人体に劇的に作用する技術の向上に力を注いだ。
Remove ads
関連文献
- 書籍
- 小川政修『西洋医学史』日新書院、 1943
- 矢部 一郎『西洋医学の歴史』恒和選書、1983年
- インファンテ・ビエイラ セルソ『アディオス(さようなら)西洋医学―KI(気)がつけばハッピーライフ』さわやか出版社、1990、ISBN 4795214077
- ヒポクラテス、常石敬一 『ヒポクラテスの西洋医学序説』小学館、1996 ISBN 4092510268
- ディーター・ジェッター『西洋医学史ハンドブック』朝倉書店、1996、ISBN 4254101376
- ジョン・Z. バワース『日本における西洋医学の先駆者たち』慶應義塾大学出版会、1998 ISBN 4766407237
- 加藤 文三、平尾 真智子、石井 勉『西洋医学がやってきた―近世(日本人 いのちと健康の歴史) 』 農山漁村文化協会、2008、ISBN 454007217X
- 吉良枝郎『日本の西洋医学の生い立ち: 南蛮人渡来から明治維新まで』築地書館、2000、 ISBN 4806711977
- 梶田昭『医学の歴史』講談社学術文庫、2003、ISBN 4061596144
- 吉良枝郎『幕末から廃藩置県までの西洋医学』築地書館、2005、ISBN 4806713066
- 石原結実『間違いだらけの医学・健康常識―西洋医学を過信すると早死にする』日本文芸社、2005、ISBN 4537253029
- 河村 攻『「なぜ治らないの?」と思ったら読む本第3の医学“ハイブリッド医療”』ハート出版、2008、ISBN 4892955612
- 石内 裕人、織部 和宏『各科の西洋医学的難治例に対する漢方治療の試み』たにぐち書店、2009、ISBN 4861290880
- 論文類
- 河本重次郞「日本と西洋醫學との關係」千葉醫學會雜誌 Vol.11 no.1 page.20-33、1933
- 平野 智治「漢法医学と西洋医学」日本数学教育会誌Journal of the Mathematical Educaional Society of Japan 46(8) pp.121 1964
- 中川 定明「東西医学の接点 : (2) 中国伝統医学の病理学と西洋医学の病理学の対比 : 東西両医学に共通する「疾患分類」の提唱」日本東洋醫學雜誌 Japanese Journal of Oriental Medicine 45(3) pp.625-631、 1995
- 板垣英治2005「金沢医学館:北陸での西洋医学教育の始まり」
- Nancy Midol & Wei Guo Hu, Médecine occidentale, médecine orientale : un dialogue intéressant pour penser la santé en Europe, Le Détour, No.5, 2005, p.171-183
- 金澤 一郎「西洋医学と東洋医学の統合」日本東洋医学雑誌 Vol. 59、2008 、 No. 6 pp.765-774
出典・脚注
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads