トップQs
タイムライン
チャット
視点
ザ・ピーナッツ
日本の女性ボーカルグループ (1959-1975) ウィキペディアから
Remove ads
ザ・ピーナッツ (The Peanuts) は、日本の双子の元女性歌手(デュオ)、女優である。愛知県知多郡常滑町(現・常滑市)生まれ[1]、同県名古屋市育ち[注釈 1]。略称「ピーナッツ」。
発売したシングル、LPの累計売上は1000万枚以上に達する。
人物
略歴
要約
視点
生い立ち
愛知県知多郡常滑町(現・常滑市)生まれ。ただしすぐに転居し、子供-学生時代は同県名古屋市で過ごす。
愛知県名古屋市立西陵商業高等学校(現・名古屋市立西陵高等学校)を2年生の時に中途退学後、主に名古屋市内にあるレストラン「ザンビ」の経営者谷村一、専属バンドで演奏していた大浦郁夫に歌の指導を得て「伊藤シスターズ」名義で歌っていたが、1958年に渡辺プロダクション社長の渡邊晋にスカウトされ上京[注釈 2]。同社長宅に下宿しつつ宮川泰に師事し、歌唱レッスンを受ける[注釈 3]。
デビュー




1959年2月11日、「第2回 日劇コーラスパレード」で歌手デビュー[1]。4月、「可愛い花」でレコードデビュー[1]。事務所はデビューより引退まで16年間一貫して渡辺プロダクションに所属。同社の専属タレント第1号であった[2][5][1]。レコード会社は各社の争奪戦となり、ビクターレコード[注釈 4]と契約寸前まで達したが逆転され1959年4月2日にキングレコードと契約した。
1959年6月17日から1970年3月31日までフジテレビ系の歌謡番組『ザ・ヒットパレード』のレギュラーに抜擢される。
その後1961年6月4日から1972年10月1日まで日本テレビ系の人気バラエティー番組『シャボン玉ホリデー』でメイン司会を務めた。
『夜のヒットスタジオ』には1969年(昭和44年)1月13日に初出演(曲は「ガラスの城」)して以来、約6年間の間に40回に渡り出演。まだ「歌謡バラエティ」の色が強かった夜ヒットにおける常連歌手の一組であり、『シャボン玉ホリデー』での経験から当時の人気コーナー「歌謡ドラマ」にも率先して参加した。引退前最後の出演となった1975年(昭和50年)3月31日放送では番組史上初の「サヨナラ」企画が組まれ[注釈 5]、ハナ肇、植木等、坂本九、坂本スミ子、伊東ゆかり、中尾ミエ、こまどり姉妹、平尾昌晃ら歌手・タレント仲間が数多く駆けつけ「情熱の花」、「ローマの雨」、「心の窓にともし灯を」、「可愛い花」の計4曲を熱唱した[注釈 6]。
日本国外でも活躍し、『エド・サリヴァン・ショー』(アメリカ)や『カテリーナ・バレンテ・ショー』(当時の西ドイツ。現・ドイツ)、『ダニー・ケイ・ショー』(アメリカ)[6]にも出演したことがある。
また、女優活動も行っており、映画などにも数作出演。中でも『モスラ』での「小美人」役は2人のキャラクター性を活かした役柄であった[5]。東宝作品では、ゴジラシリーズやクレージー映画に出演したほか、主演映画も制作された[1]。
和製ポップス[注釈 7]を海外公演などによって世界に広めた功績は大きく、特に当時の東西両ドイツやイタリアでは、日本の歌手といえば即座に「ザ・ピーナッツ」と連想されるほどの活躍ぶりも高く評価された[7]。
引退
1975年2月18日に当時東京都千代田区有楽町の三信ビルヂングにあった渡辺プロダクション社屋[注釈 8]にて記者会見を開き、現役を引退することを表明した[注釈 9]。
同年3月31日には番組開始時より数多く出演をした『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)にて引退記念特集「さよならピーナッツ」[注釈 10]が組まれ、続く4月5日にはNHKホールにおいて、高橋圭三司会で「さよなら公演」を興行[注釈 11]。
この時、渡辺プロの主要タレントがほぼ総出で見届けていた。なお、このさよなら公演は3月から4月に掛けて大阪・京都・名古屋でも行われていた。同公演を最後に芸能界を引退[注釈 12]。以後はほぼ公の場には姿を現すことはなかった[注釈 13]。
最終公演
→詳細は「ザ・ピーナッツ さよなら公演」を参照
引退後
姉の伊藤エミは1975年6月4日に同じ所属事務所であった沢田研二と結婚し[2]、世田谷区中町のハナ肇宅の隣に居を構えていた。その後1男を出産するが、1987年1月に離婚した。
ニッポン放送(JOLF)で、1961年(昭和36年)から1965年(昭和40年)にかけて、その名も『ザ・ピーナッツ』というタイトルで、伊藤姉妹がDJを務めていたラジオ番組の音源(放送日のデータは不明)が発見されたのをきっかけに、番組中で歌唱した曲(未発表曲10曲を含む)を集めてコンパクトディスク化したアルバムを、キングレコードが2008年(平成20年)11月26日に発売した[8]。
2005年12月23日より2006年1月15日まで東京都千代田区にある丸ビルで「渡辺プロダクション創立50周年企画 「抱えきれない夢」 日本のエンターテインメントの50年」が開催され、会場内の「ザ・ピーナッツコーナー」の展示品に、さよなら公演で使用されたマイクが伊藤エミ・ユミの提供により展示されていた。
2012年6月15日、姉:伊藤エミが死去[9]。およそ4年後の2016年5月18日には妹:伊藤ユミが死去した[10]。
2016年9月7日、生誕75周年を記念して森高千里や華原朋美、元Winkの相田翔子、そしてメンバーに吉田美和を擁するユニットFUNK THE PEANUTSら全12組が参加した自身初となるトリビュート・アルバム「ザ・ピーナッツ トリビュート・ソングス」とオリジナル音源を収録したコンピレーション・アルバム「ザ・ピーナッツ オリジナル・ソングス」の2枚が同時リリースされた[11]。
Remove ads
名付け親
グループ名は元・日本テレビのプロデューサー、井原高忠がグループ名、2人の芸名ともに名付けた[1]。また、姉妹それぞれの芸名を付けたのは渡邊晋である[12]。
エミとユミの相違点
エピソード
出演
主なテレビ番組
ラジオ番組
- 『ザ・ピーナッツ』(ニッポン放送 1961年 - 1965年/朝帯番組)
映画
- 素晴らしき十九歳(1959年7月14日、松竹)
- 実は熟したり(1959年9月17日、大映)
- 可愛い花(1959年11月3日、日活)
- 右門捕物帖 地獄の風車 (1960年3月1日、東映) - 風車売りの姉妹
- 女は抵抗する (1960年3月8日、大映) - 新人歌手
- 情熱の花(1960年11月12日、日活)
- 腰抜け女兵騒動(1961年1月26日、東宝)
- 飛び出した女大名(1961年4月16日、大映)
- モスラ登場作品(東宝) - 小美人[2][注釈 15]
- モスラ(1961年7月30日)
- モスラ対ゴジラ(1964年4月29日)
- 三大怪獣 地球最大の決戦(1964年12月20日)
- 私と私(1962年8月11日、東宝):主演映画 - 赤城増美(エミ)、山本まゆみ(ユミ)役
- 夢で逢いましょ(1962年9月15日、東宝)
- 若い仲間たち うちら祇園の舞妓はん(1963年6月30日、東宝):主演映画
- クレージー作戦シリーズ(東宝=渡辺プロ)
- 大冒険(1965年10月31日) - クラブの歌手
- クレージー黄金作戦(1967年4月29日) - 歌手
- クレージーメキシコ大作戦(1968年4月27日) - メキシコショーの歌手
Remove ads
音楽
要約
視点
シングル
カヴァー・ポップス作品
オリジナル作品
EP
LP
=== シングル以外 ===
- ふたりの四季(ABCホームソングとして制作・放送。後に梓みちよが、3番をカットしたものを「ポカンポカン」のタイトルでカバーしヒット)
- 砂に消えた涙(弘田三枝子、伊東ゆかりなどとの競作)
- オー・シャンゼリーゼ
- スター・ダスト
- 白い恋人たち(1968年グルノーブルオリンピックの同名記録映画主題曲の日本語訳歌唱)
- 昭和フォーティーズ~ザ・ピーナッツ・オン・ステージ(ヒット曲や洋楽カバーなどを収録したライブ盤、1972年)
- 小さな喫茶店(1935年の中野忠晴の曲をカバー。歌謡喫茶・昭和のエンディングに使われている。)
CMソング
コマーシャルソングの一部を記述。
- 日立キドカラーの歌
- 小田急ピポーの電車
- オークラ・コロコンの唄
- キッコーマンの歌
- レナウンの唄(「ワンサカ娘」(弘田三枝子)が発表される前はザ・ピーナッツの歌が使用されていた)
- エーワンベーカリーのうた
- プリンス自動車の歌
- 日本テレビの歌
- QRソング(文化放送)
- 資生堂ミラクルの歌
- ハマフォームポーリーの唄(横浜ゴム)
- しるこサンド
- マルゴのタナベ(田辺製薬(現・田辺三菱製薬))
など。
放送番組向けソング
民謡
民謡関連の一部の曲目を記述。
など。
クリスマスソング
その他
Remove ads
支えた裏方達
ザ・ピーナッツ担当のマネージャーは基本的に幹部候補生を数名抜擢した。これらの担当者は後年、渡辺プロで、あるいは独立し、それぞれが芸能界で大成している。
- 主なマネージャー
NHK紅白歌合戦出場歴
- NHK紅白歌合戦には1959年(第10回)から引退前年の1974年(第25回)まで16回連続で出場。実の兄弟・姉妹としては史上初めて出場。また、兄弟・姉妹による16回連続出場という記録も持つ。16回連続出場はPerfumeと並び紅組でのグループの最長記録。
- 対戦相手の歌手名の()内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある()はトリ等を務めた回数を表す。
- 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
- 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。
NHKみんなのうた出演歴
- 『バルーンのうた』・『花』・『パパはママが好き』の3曲はラジオのみの再放送。
その他
![]() | この節に雑多な内容が羅列されています。 |
- ハナ肇とクレージーキャッツ、ザ・ドリフターズとともに最強時代のナベプロを築き上げていた功績が評価されている。
なお、クレージーとの共演は比較的多かったものの、ドリフとの共演はほとんどない。特に志村けん加入後の後者との共演は茶の間に出回っている出典に残る範囲では1975年(昭和50年)正月の新春かくし芸大会と前述の「さよなら公演」[注釈 34]、8時だョ!全員集合でのゲスト出演が数回ある程度である[15]。[注釈 35] - 上記のような縁もあってか、ハナ肇が1993年に他界する直前にはハナの弟子であるなべおさみと共に看病に当たっていた[16]。ハナは伊藤姉妹が見舞うたびに笑顔で「いつも済まないねえ」「おとっつぁん、それは言わない約束でしょ」と『シャボン玉ホリデー』のコントのセリフを繰り返していたという。
- 同じ双子の歌手であったこまどり姉妹とはデビューした年も同一であったこともあり、公私共に交流があった。
- 1966年(昭和41年)発売の園まりのシングル「逢いたくて逢いたくて」は、ザ・ピーナッツが1962年(昭和37年)に発売したシングル「手編みの靴下」が元歌である。
- 「シャボン玉ホリデー」の番組タイトルを「ピーナッツ・ホリデー」にする事が有力であったが、スポンサー側の意向で立ち消えとなった。この為、テレビ番組に於けるザ・ピーナッツの冠番組は、現役時代には1番組も存在しなかった。
Remove ads
ザ・ピーナッツを演じた女優
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads