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1961年の坂本九の楽曲 ウィキペディアから
「上を向いて歩こう」(うえをむいてあるこう、英題:スキヤキ、SUKIYAKI)は、坂本九の楽曲。作詞は永六輔、作曲は中村八大[注釈 1]、プロデューサーは草野浩二。[要検証]
「上を向いて歩こう」 | |||||||||||||
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坂本九 の シングル | |||||||||||||
B面 |
あの娘の名前はなんてんかな(オリジナル盤) 九ちゃんの炭坑節(米盤・ジュークボックス向け) 幸せなら手をたたこう(1976年盤) 見上げてごらん夜の星を(1988年盤) | ||||||||||||
リリース | |||||||||||||
録音 | 1961年 | ||||||||||||
ジャンル | 歌謡曲 | ||||||||||||
レーベル |
東芝レコード 東芝EMI EMIミュージック・ジャパン | ||||||||||||
作詞 | 永六輔 | ||||||||||||
作曲 | 中村八大 | ||||||||||||
プロデュース | 草野浩二[要検証] | ||||||||||||
チャート最高順位 | |||||||||||||
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坂本九 シングル 年表 | |||||||||||||
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アメリカ合衆国のビルボード(Billboard)誌では、1963年6月15日付においてHot 100週間1位を獲得、同誌の1963年度年間ランキングでは第10位にランクイン。後に数多くのアーティストによってカバーされた。坂本や永六輔のメモリアルソングとしても用いられる。
2006年(平成18年)に文化庁と日本PTA全国協議会が「日本の歌百選」に選定[2]。
元々は中村八大が1961年7月21日に開催した自身のリサイタルのために制作した楽曲であったが、曲直瀬信子の推薦により、坂本九のシングル曲としてレコーディングされることになった[3][4]。
1961年7月21日、サンケイホールで開催された「第3回中村八大リサイタル」で、坂本九の歌唱によって初披露された[5][6]。
坂本九はリサイタルの2時間ほど前に初めて譜面を渡され、ぶっつけ本番で初披露した。その際、譜面では4ビートなのだが、坂本はそれを8ビートで大胆にアレンジして歌った[7]。また、曲中マイナーになる部分があるが、坂本が外してマイナーで歌ってしまったため、マイナーになったという。さらに、坂本は元々小節の頭からメロディーが始まるこの曲を浪曲の感覚で一拍遅らせて歌ってしまっており、これも取り入れられることとなった[7]。これらの坂本による独特なアレンジが後のヒットに繋がったと評されることが多い[7]。
同年8月19日、NHKで放送されていたバラエティ番組「夢であいましょう」でテレビ初披露[8]。同番組において、1961年10月・11月の「今月のうた」として発表され、同年10月15日にレコードが発売されると爆発的なヒットとなった。発売から3か月で30万枚を突破[9]。当時の日本のレコード売り上げランキング(『ミュージック・ライフ』誌に掲載されていた国内盤ランキング[注釈 2])では1961年11月 - 1962年1月まで3か月にわたり1位を独走した[10]。1968年時点での日本での累計売上は80万枚[11]。
1962年1月25日に第一ホテルで行われた「東芝レコードヒット賞」の授賞式で、「上を向いて歩こう」は特別賞を受賞した[12]。
売り上げだけを見れば相当なものであったが、当時最も新しく不良の音楽とされたロカビリー(現代でいうロックンロール)出身の坂本の独特な歌い回しが耳に合わない当時の保守的な日本の歌謡界においてその評価は高くなかった。日本レコード大賞にも選ばれていない。だが、この評価は世界での大成功により覆された。
坂本九は本楽曲で1961年の「第12回NHK紅白歌合戦」に初出場を果たした。また、2000年の「第51回NHK紅白歌合戦」の第一部終了後、紅白に出演していた時の坂本九の映像のもと、出場歌手によって「上を向いて歩こう」が大合唱された。
「夢であいましょう」の出演者の一人だった黒柳徹子は、当時の日本には「ランキング」というもの自体が無く(オリコンの集計は1968年開始)、ましてや「全米ビルボード1位」というのが、どれほどすごいことなのか分からず、坂本がアメリカから帰って来た時も「上を向いて歩こう」が「SUKIYAKI」として、世界各国で発売されていることは知っていたため、それに対して「すごいね」とは言ったものの、「よくやった」、「おめでとう」という言葉を、当時の坂本に言うことが出来なかった。作詞の永六輔や作曲の中村八大も、特に喜んでいる素振りもなく、普通にしていた、と後に語っている[13]。
作詞者の永六輔自身は、レコーディングの時に歌い出しの「上を向いて……」の部分を初めて聴いて「ウエヲムーイテ」が「ウヘホムフイテ」に聞こえたといい、「何だその歌い方は!」と坂本に向かって激怒し、「これでは絶対ヒットしない」と言った[14][7]。この独特の歌い方は、母がやっていた小唄と、プレスリーやバディ・ホリーの影響であるとも言われている[14]。永六輔は後に、坂本九の母が九に小唄や清元などの邦楽を教えたという話から、坂本九と邦楽の歌い方を結びつけて考えるようになり、邦楽的な歌い方が、この歌の世界的なヒットと関係があると考えた[7]。また、この坂本の編み出した独特の歌唱法は、当時はとても斬新であり、個性的なものとしてとらえられた。
なお、本曲の間奏で流れる口笛も、口笛が得意だった坂本九本人が担当している。
1994年以後、日本の音楽教科書にも何度か掲載されている[15]。
2007年3月4日、茨城県笠間市のJR常磐線友部駅において発車メロディーに、2008年12月20日、神奈川県川崎市にある京急川崎駅で接近メロディーに、2016年12月10日、同じ神奈川県川崎市にあるJR川崎駅の東海道線で発車メロディーに採用される。
1962年、ヨーロッパでこの曲が紹介されて、大ヒットした。フランスなどでは原題と同じ意味のタイトルで発売されたが、イギリスでは「SUKIYAKI」、ベルギーやオランダでは「忘れ得ぬ芸者ベイビー」という曲名で発売された。
1962年、イギリスのディキシーランド・ジャズのトランペッター、ケニー・ボールが彼のバンドでインスト曲として演奏し、「SUKIYAKI」(無論、曲自体に『すき焼き』という単語は出てこない)というタイトルで発売、全英チャートで10位にランクインした[16]。
「SUKIYAKI」という曲名は、ケニー・ボールの所属したイギリスのパイ・レコードの社長ルイス・ベンジャミンが契約の話で来日した際、土産にもらった数枚の日本のシングルレコードをホテルに帰ってから聴いた中にあった「上を向いて歩こう」を大変気に入り、帰国後ジャズでリリースすることに決めたが[16]、レコードには日本語のタイトルしか印刷されておらず、原題の「UE O MUITE ARUKOU(上を向いて歩こう)」というタイトルがわからなかったため、『日本で契約の際に会食した「スキヤキ」が心に残る食べ物だった』という理由で、日本料理の名前を付けたのであると言われている。しかしケニー・ボールの証言では、「上を向いて歩こう」ではタイトルが長くなってしまうので短くわかりやすい日本語の曲名をつけたかったが彼が知っていたものが「SUKIYAKI」と「SAYONARA(さよなら)」ぐらいだったため、「サヨナラ」では暗すぎるのでどうすれば良いかと思案していたが、中華料理屋での会食で同席していた友人の女性歌手ペトゥラ・クラーク[注釈 3]に相談したところ「SUKIYAKI」がいいと言われたこともあり、タイトルに採用されることとなった。この英語題について、『ニューズウィーク』のコラムニストであるフレッド・ブロンソンは「『ムーン・リバー』を日本で『ビーフシチュー』というタイトルで売り出すようなものだ」と評した[17]。
実はケニー・ボールはレコーディングの直前に最愛の母を亡くしており、その哀しみをトランペットに込めて演奏[注釈 4]、これもヒットにつながった要因の一つといえる。
なお、ケニー・ボールは現在でも自分のバンドの演奏レパートリーにこの曲を加えており、2005年にはこの曲が海外でヒットした経緯を辿る番組のために、彼のコンサートを訪れていた坂本九の次女の大島舞子(舞坂ゆき子)を特別にヴォーカルに迎えて演奏した。
アメリカでは、イギリスでヒットしたケニー・ボール楽団のレコードが発売されたが、チャートの100位以内には入らなかった。しかしワシントン州パスコのKORDラジオのDJリッチ・オズボーンが彼の番組の高校生リスナーから日本の文通相手からもらった坂本九の本曲のレコードを入手したことをきっかけに、ラジオ番組で「SUKIYAKI」として紹介すると、局にリクエストが殺到した[18]。メロディも今までの曲調とは違い、ボーカルもジャズやロックシンガーのようなテイストがあるとティーンエイジャーから火が付いた。当時は女性が歌っていると勘違いする人もいたという[19]。そして1963年、「SUKIYAKA」の題でキャピトル・レコードから発売が決定した。この「SUKIYAKA」という米題は誤植ではなく、ラジオDJが曲紹介をする際、歌手の「KYU SAKAMOTO」と韻を踏ませるために、キャピトル・レコードのデイヴ・デクスター・ジュニアが意図的に命名したものである。しかし、東芝レコードの石坂範一郎の説得により発売時には「SUKIYAKI」に訂正された[20]。
同年5月3日[21]にアメリカでレコードが発売されると、ビルボードのBillboard Hot 100で6月15日付から6月29日付まで3週連続、キャッシュボックスのTop 100で6月15日付から7月6日付まで4週連続、レコード・ワールドで6月22日付から6月29日付まで2週連続で1位のヒットとなった。ビルボードのHot R&B Singlesでは6月15日付にて最高18位にランクインされている。Billboard Hot 100において、英語以外の歌では1958年のドメニコ・モドゥーニョ「ボラーレ」(イタリア語)以来2曲目の1位である。また、Billboard Hot 100では同年の年間チャート13位にもランクインしている[22]。日本でも「全米1位」の影響を受け、シングルが新たにプレスされて『ミュージック・ライフ』の国内盤ランキングに再チャート入りを果たした。
当時、「SUKIYAKI」が全米で1位を獲得したことを、日本の一般紙がリアルタイムで報道した形跡は確認されていない[21]。アメリカでも一般紙による報道は非常に少なく、例外的にロサンゼルスの日本語新聞『羅府新報』が1963年6月15日付にて報じた[21]。『週刊朝日』の1963年6月21日号では、「世界第4位のレコード生産」という記事の導入部で「SUKIYAKI」が全米2位(当時)になったことを報じた[23]。また、日本の東芝レコードの反応は「あまりの遠い国での出来事に実感がなかった」という。
なお、キャピトル側は最初、アメリカでは英語以外の歌がヒットした前例がほとんど無いことから坂本九に英語で歌わせようとしたが、米軍時代に朝鮮戦争の際駐日経験のあるオズボーンは日本語に馴染みのあるアメリカ人も多く日本語で売り出した方が受けがいいと主張、日本語のオリジナルバージョンがそのまま発売された[18]。
この大ヒットを受けて、同年8月13日に坂本九はキャピトル・レコードの招きで渡米[24]、空港に到着した際に3000人を超える坂本のファンが押し寄せた[25]。「SUKIYAKI」の全米でのヒットが一般紙において本格的に報じられるようになるのはこの頃からである[21]。テレビ番組「スティーブ・アレン・ショー」にゲスト出演し[24](実は「エド・サリバン・ショー」からも出演依頼が来ていたが、スケジュールが合わずに出演は果たせなかった)、さらにアメリカ国内の売り上げが上昇して100万枚を突破し[24]、外国人としては初めての全米レコード協会のゴールドディスクを受賞。翌1964年5月15日にホテルオークラで行われた授賞式には坂本九の母も出席した[24](当時は100万枚以上がゴールド)。この頃、アメリカ国内の音楽雑誌の記事には手書きの「鋤焼(すきやき)」が「鍬焼(くわやき)」となったり、初期のレコードジャケットでは「坂本九」が「坂木九」となるなどの誤植が見られた[18]。「鍬焼」に関しては、NHK「夢であいましょう」内でもヒットの話題を伝える黒柳徹子が触れていた。
このほか世界約70か国で発売され、総売り上げは1300万枚以上[26][9]とされる。また、1988年にはアメリカのテレビやラジオでのオンエア回数が100万回以上の楽曲に贈られるBMIの「ミリオン・エアー」を受賞している[27][28]。
2005年6月から「上を向いて歩こう」がイギリスの携帯ネットワーク会社スリー・モバイルのCMソングに起用され、問い合わせが殺到。同年8月29日にイギリスで坂本九のアルバム「メモリアル・ベスト」が発売された。9月には「上を向いて歩こう」をシングル発売。
アルゼンチンではスペイン語に訳されアルゼンチン・タンゴへと編曲され、1964年に「SUKIYAKI(Naranjos en Flor)」として、南米長期滞在中であった日本のタンゴ歌手・阿保郁夫が歌い、空前の大ヒットとなっている。
アメリカ合衆国ではその後、渡辺はま子のカバー「支那の夜(China Nights)」[注釈 5](アメリカでの片面は「勉強のチャチャチャ」)が最高58位、アルバム『Sukiyaki and Other Japanese Hits』(有名な「坂木九」の誤植は、このレコードである)も最高14位(いずれもビルボード誌)に止まった。次のシングル「九ちゃんの炭坑節(Tanko Bushi)」(こちらは日本でも発売された。アメリカでの片面は「東京五輪音頭」)も発売されたが、三井三池炭鉱で起こった爆発事故の影響で歌うことを自粛し、これに伴いアメリカでの活動も事実上終了した。その後にも契約が残っていたヨーロッパではそれらに次ぐシングルとして、中国の歌謡曲に英語詞をつけた「Rose, Rose, I Love You」(日本未発売。片面は「サヨナラ東京」)が発売された[29]。キャピトル・レコードはビートルズのアメリカでのプロモーション以上に宣伝費用をかけたといわれるが、結局、アメリカでは一発屋に終わってしまった。
予定では、本格的に活動拠点を日本国外に移す計画もあったという。なお、坂本九がアメリカでの活動を終えたことで、それ以降ピンク・レディーが37位にランクインするまで、日本人歌手がBillboard Hot 100のランキングに入ることはなかった。
なお、1975年にはアメリカとの企画でアルバム「ターニング・ポイント」を制作。録音はアメリカワーナーブラザーズスタジオにて行われ、制作も全て現地スタッフによりおこなわれた。シングル「襟裳岬/若者たち」、アルバムがアメリカと日本で同時発売された。
1981年にはテイスト・オブ・ハニーが英語詞でカバーし、Billboard Hot 100で最高3位を獲得した。その際、テイスト・オブ・ハニーと坂本九は一緒にすき焼きを食べている。
柏木由紀子によると、坂本九と結婚後、柏木と坂本がプライベートでロサンゼルスに行ってアーティストのショーを観客席で見ていたとき、「SUKIYAKIのキュー・サカモトが来ている」と司会者に紹介されたという[30]。
2017年現在、本作の出版者は八大コーポレーション作品事業部となっており、録音、ビデオ、映画、通信カラオケ等での利用でJASRACに権利が付託されていない。それゆえ本楽曲はカラオケ業者のウェブサイトでの歌詞閲覧サービスに登録されていない[31]。
JASRAC作品コード:010-0006-3/内国作品/出典:PO(出版者作品届) [31]。
東芝レコードが東芝EMIになった後、何度かアナログ、およびCDのシングル盤がリリースされていたが、ここ10年近くは新品の市場流通も途絶え、坂本九のベストCD、および同時代の歌謡曲を収録したオムニバスCD以外の形では、曲が収録されたメディアを入手することの難しい状況が続いていた。
2011年(平成23年)、音源の原盤を保有し続けるEMIミュージック・ジャパンでは、同年7月に公開されたアニメ映画『コクリコ坂から』の挿入歌として採用されたことと、同年に起こった東日本大震災後にコマーシャルメッセージに使われたこと、「元気が出る歌」としてリバイバル的な人気が高まったことを受け、“アニバーサリー・シングル”として7月13日にマキシシングル盤とカセットテープ盤を、iTunes Storeで音楽配信にてリリースすることになった。
2011年5月1日に発売されたローソン発売版の『コクリコ坂から』前売券の購入特典。 紙ジャケットで造られ、表面はオリジナル盤のジャケット写真にタイアップ先と「SUKIYAKI50」と書かれており、裏面は歌詞とスタジオジブリのプロデューサーである鈴木敏夫のコメントが掲載されている。
その他、フランス語やデンマーク語、ポルトガル語等のカバーもあり、すき焼を食べる内容の歌詞に変えられたバージョンも存在する。また、エルヴィス・プレスリーも1964年にカバーする予定だったが、坂本九で1位を取っていることと、良い英語の歌詞が見つからなかったことを理由に断念したという。なお、エルヴィスは後年、ラスベガスでのステージを見に坂本が訪れたことを知ると「もっと早く知っていればステージに上げて紹介したのに」と残念がったという。
1962年3月4日に日活より同名の映画が公開された。同時上映は石原裕次郎主演の『銀座の恋の物語』[51]。
少年鑑別所から集団脱走して「当たり屋」をした九は刑事永井徳三に、良二はヤクザな商売をしている松本健に助けられる。この九と良二の更生と趣味に傾斜する行く末を軸に、高度経済成長期に生きる若者達の青春群像を描いている。刑事の娘が紀子で、小児まひを克服しているが精神的に歩けない妹の光子を九が歩けるように力づける。紀子には秘密があり、健に話す。良二は恩師のドラムをカタにするが負けて取られる。松本は妾の子で兄と確執がある。九は新車のトラックをもらい、口添えした光子は歩けるように。良二は10万のドラムを取り戻そうと車泥棒を持ちかける。兄の誕生日に健が訪問して大学生になったことを報告するが、父も兄も冷たい。紀子が激怒。ドラムを手に入れたのに、良二は新車を盗み、壊し、二人で喧嘩。健も喧嘩するが紀子が止める。
主題歌のカップリング曲(オリジナル盤)である「あの
先述したアニバーサリー・シングル盤の関連商品として初DVD化され、2011年7月2日に発売された。なお、本作のみ収録されたものと、本作と同年に製作・上映された姉妹編的劇映画『ひとりぼっちの二人だが』も収録した「『上を向いて歩こう』DVDスペシャル・コレクション」と題したDVD-BOXの2種類が発売された。
2011年12月31日には、テレビ東京の年末特番『大みそかシネマスペシャル』の一環として、本作が15:00 - 17:00(JST)で放送、ラストの合唱シーンでは歌詞テロップが添えられて放送された。なお、この後に放送された『第44回 年忘れにっぽんの歌』では、冒頭とエンディングで全出演者により『上を向いて歩こう』が合唱された。
テレビ東京 大みそかシネマスペシャル | ||
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前番組 | 番組名 | 次番組 |
エレキの若大将
(2010年) |
上を向いて歩こう
(2011年) |
(終了)
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