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日本の脚本家 ウィキペディアから
山田 信夫(やまだ のぶお、1932年(昭和7年)7月11日[1] - 1998年(平成10年)2月2日)は、日本の脚本家。
中国・上海出身[1]。父親は電気技師[1]。上海から引き揚げ後は愛知県豊橋市で暮らす[1]。工業高校卒業[1]後、早稲田大学文学部に進学[1]。大学では、やがて訪れるであろうカラー映像時代を見据えて美術を専攻[1]。大学在学中に東宝の脚本研究生となる[1]。
1956年に大学卒業後、大学の先輩のつてで作家の佐藤愛子宅に居候[1]。居候生活の傍ら、女子高校の教師に就いた(数日で退職)[1]後、名古屋のミュージックホールで文芸部員を務め[1]、ミュージックホール閉鎖後はタブロイド新聞の記者を務めていた[1]。「生きることに背き続けて来た」自分自身をモデルにそれを3人の登場人物に反映させた自身の作品『陽に背く者』が1958年にシナリオ作家協会コンクールに入選した[1]。同年に日活と契約し、1970年にフリーとなる。1963年に『若もの-努の場合-』(TBS)で初のテレビドラマ脚本、同作で同年、第17回芸術祭奨励賞受賞[2][1]。
小さな心象風景を細かく描くのが主な脚本の作風[1]。最初は日本の映画やドラマには馴染めなかったと自ら話しており[1]、『憎いあンちくしょう』(1962年・日活)の脚本では、封切当時酷評されたことがあったという[1]。
『不毛地帯』(1976年・東宝)で毎日映画コンクール脚本賞、『去っていく男』(1991年・フジテレビ)で向田邦子賞を受賞[3]。
プライベートでは、東京で暮らした後、妻の故郷の岡山県へ転居[1]。妻が亡くなった後は高校生時代まで過ごした豊橋市へ転居[1]。1987年頃、20歳年下の女性と再婚[1]。息子は映画プロデューサー[1]。
ほか
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