Remove ads
かつて日本の東京都新宿区にあったカメラ・フィルムメーカー ウィキペディアから
コニカ株式会社(英: Konica corporation)は、かつて存在した日本のカメラ、写真フィルムメーカー。日本の光学機器、感光材メーカーとしては古い歴史を誇る。2003年(平成15年)にミノルタと合併しコニカミノルタとなったが、同社は2006年(平成18年)3月をもってカメラ、フィルム関連事業より撤退している。
本節の出典は特記ない限り、コニカミノルタホールディングス株式会社 有価証券報告書 ‐ 第107期(平成22年4月1日~平成23年3月31日)第一部「企業情報」 / 第1「企業の概況」 / 2「沿革」。
杉浦六三郎(のちの6代目杉浦六右衞門)が1873年(明治6年)、東京麹町で薬種問屋小西屋六兵衛店を立ち上げ、写真関係商品や石版印刷材料の販売を開始したことに始まり、のちに小西六写真工業株式会社へと発展し、1903年(明治36年)に国産初の印画紙を発売した。
小西六写真工業は日本の写真用カメラフィルムのトップブランドの1つとして成長し、戦後の国内シェアは、さくらカラー(のち「サクラカラー」に変更)が富士写真フイルム(現:富士フイルムホールディングス)のフジカラーを圧倒する状態が続いた。しかし1970年代に入ると、圧倒的な広告費を投入して知名度を向上させたフジカラーがシェアを逆転した。サクラカラーはその後、コニカカラー、コニカミノルタカラーフィルムを経て事業撤退するまでの間、ついに首位の座を奪いかえすことはできなかった。
1987年に日本以外で使用していたブランド名「コニカ」に国内でも統一し、社名もコニカに変更。フィルムの商標もサクラカラーからコニカカラーに変更した。この際にコーポレートカラーを赤色(朱色)から青色(コニカブルー)に変更している。
2006年、写真フィルム・レンズ付きフィルム・感材(印画紙・薬品)を含めたDPE分野の事業を大日本印刷(DNP)に譲渡して撤退し、コニカブランドのフィルムは事実上消滅した。その後2009年にDNPも生産を打ち切ったため、完全にフィルム製造およびフィルム販売事業から撤退した。
小西屋六兵衛店は1902年(明治35年)、写真乾板・印画紙の工場として六桜社(六櫻社、ろくおうしゃ)を東京・淀橋(現:東京都新宿区西新宿)に開設した[1]。新宿の工場は1963年(昭和38年)まで操業し[1]、新宿副都心開発により閉鎖。現在は新宿中央公園の「区民の森」となっており「写真工業発祥の地」の記念碑が建てられている[1][4]。2011年には「六桜社跡」として新宿区の地域文化財(都市・産業分野、歴史分野)にも認定された[1]。
株式会社小西六となった後の1938年(昭和12年)、東京府北多摩郡日野町(現:東京都日野市)に六桜社の工場を開設[3]。これが現在のコニカミノルタ東京サイト日野(旧:日野事業所)[5]である[3]。六桜社は1940年(昭和15年)11月3日、国産初のカラーフィルムであるさくら天然色フヰルム(後のサクラカラーリバーサル)を発表。日野の工場でさくら天然色フヰルムを生産していたことにちなみ、「国産初のカラーフィルム発祥の地[3]」として日野市さくら町と命名された[3]。同社日野グラウンドには桜の木が植えられ、現在でも毎年春に「コニカミノルタさくらまつり」を開催して地域住民との交流を深めている[3]。
コニカは銀塩フィルムの最大手として、映画用フィルムの製造も手がけた。
かつてカラー映画用フィルムはテクニカラー(TECHNICOLOR)・システムという方式が世界の主流であった(現在も著名)。これはプリズム分解式のカメラで3原色ごとに3本のモノクロフィルムを使って撮影し、プリントの段階でカラー化するという、後のテレビカメラに通じる方式だが、フィルムのコストとプリント工程が増加するという欠点もあった。
これに対し、1942年に小西六はフィルムの記録面を3層にし、1本のフィルムを3工程で現像することによりカラー化する「コニカラー・システム」を開発した。当時にあっては画期的なシステムだったが、時局柄世界に広まることはなかった。しかし日本映画界には歓迎され、映画界と2つの車輪となってシステムの完成に尽力した。
しかし1951年に富士写真フイルムが1本のフィルム・1工程現像の映画用カラーリバーサルフィルムを発売したことで、コニカラー・システムの優位性は覆されてしまい、以降コダックと富士フイルムの世界を二分する商戦の中で埋没していくことになる。
家庭用を主体とする8ミリフィルムでは、富士フイルムとの対立から当初コダックの「スーパー8」陣営についた。「世界で通用するコニカのスーパー8」をキャッチコピーに拡販を狙ったが、スーパー8に因縁のある富士フイルムの「シングル8」の徹底した世界展開により優位性は得られなかった。
カメラの製造販売にも力を注ぎ、1903年には国産初の商品名を持つカメラ「チェリー手提暗函」を発売。戦前から「ミニマムアイデア」、「パール」シリーズや「パーレット」シリーズ、「リリー」シリーズなどの大衆向けから上級者向けの高品質カメラを数多く製造して名を馳せた。
戦後は「コニカI」から出発。フィルムメーカーという商品戦略上の理由もあり、基本性能を生かしたまま誰でも扱いやすい製品群が生み出された。一例がフラッシュを内蔵しシャッターを押すだけで誰でも簡単に写真が撮れる「ピッカリコニカ」、世界初のオートフォーカス機構を採用した「ジャスピンコニカ」であり、日本中の家庭にコンパクトカメラが浸透するきっかけを作った。
また工事現場などでの記録写真用に特化して、防塵防水ボディを採用し汚れたら水洗いできるコンパクトカメラ「現場監督シリーズ」、ワインダーを内蔵した一眼レフカメラ「FS-1」など、後世に主流となる機能・機構を盛り込んだ数多くの名機を世に送り出した。写真愛好家の中では高級レンズ「ヘキサー」「ヘキサノン」のブランド名で馴染みがある。
2000年代初めからはコンパクトデジタルカメラとして「Digital Revioシリーズ」を発売。「Revio」はもともとAPSカメラの商標名で、のちにデジタルカメラのシリーズが投入されたが、末期にはデジタル機も単に「Revio」として発売された。しかしフィルム事業にも影響しかねない分野だけに集中的な開発は行われず、後にミノルタと合併した際には「デジタル現場監督」と一部の銀塩コンパクトカメラのみを残し、ミノルタの商品群に飲まれて姿を消すこととなった。
2006年1月19日、コニカミノルタホールディングスは同年3月末に写真フィルムからレンズ・カメラに至る全ての写真関連分野から撤退することを発表した。ミノルタ時代からの「α」ブランドを含むデジタル一眼レフカメラ事業は先に提携を発表していたソニーに譲渡し、同時期をもって長年続いたコニカのカメラ事業は幕を閉じた。
他の商品としては「U-bix」ブランドの複写機シリーズがあった。
1980年代にはマグナックス(Magnax)のオーディオブランドで音楽用カセットテープも手がけ、その後もコニカミノルタへの統合までコニカブランドでカセットテープ・ビデオテープの販売を行っていた。アンペックスが小西六写真工業時代に合弁会社「小西六アンペックス」を設立し、マグナックスブランドで音楽用カセットテープを製造販売していた時期もある。
またエニックス(現:スクウェア・エニックス)との合弁会社「小西六エニックス」(後に「コニカエニックス」と改称)を設立した。
2003年4月1日に事業子会社を設立し持株会社化した。同年8月には写真機・複写機大手のミノルタを完全子会社化し、コニカミノルタホールディングスを発足させた。同年10月1日、ミノルタをコニカミノルタホールディングスに合併し、その事業をコニカミノルタホールディングスの事業子会社に分割した。この結果、写真フィルム事業は以下のように再編された。
2013年4月1日にグループ内の再編に伴い、コニカミノルタエムジーとコニカミノルタビジネステクノロジーズを含む事業子会社7社をコニカミノルタホールディングスへ合併。事業会社となった同社はコニカミノルタに商号変更した。
特記なきものは「サクラカラー→コニカカラー」のキャラクター。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.