金沢市
石川県庁所在地 ウィキペディアから
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金沢市(かなざわし)は、石川県のほぼ中央に位置する市。石川県の県庁所在地および人口が最多の市で、中核市、保健所政令市、中枢中核都市に指定されている[注釈 1]。旧石川郡及び河北郡。
かなざわし 金沢市 | |||||
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国 | 日本 | ||||
地方 | 中部地方(北陸地方) | ||||
都道府県 | 石川県 | ||||
市町村コード | 17201-4 | ||||
法人番号 | 4000020172014 | ||||
面積 |
468.81km2 | ||||
総人口 |
455,561人 [編集] (推計人口、2024年12月1日) | ||||
人口密度 | 972人/km2 | ||||
隣接自治体 |
白山市、野々市市、河北郡津幡町、内灘町 富山県:小矢部市、南砺市 | ||||
市の木 | 梅 | ||||
市の花 |
花菖蒲 サルビア 四季咲きベゴニア インパチェンス ゼラニウム (すべて推奨花) | ||||
市の歌 |
金沢市歌(1923年制定) 金沢市民の歌(1949年制定) | ||||
金沢市役所 | |||||
市長 | 村山卓 | ||||
所在地 |
〒920-8577 石川県金沢市広坂一丁目1番1号 北緯36度33分40秒 東経136度39分23秒 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
江戸時代には、江戸幕府(約800万石と言われる)を除いて、大名中最大の102万5千石の石高を領した加賀藩(「加賀百万石」)の城下町として栄え、人口規模では江戸・大坂・京の三都に次ぎ、名古屋と並ぶ大都市であった。第二次世界大戦中にアメリカ軍からの空襲を受けなかったことから、ひがし茶屋街や長町武家屋敷跡など市街地に歴史的風情が今なお残っており、重要な観光資源となっている。空襲の被害者やその遺族が少ない地域という理由から、終戦間もないころには国際交流を目的として来日するアメリカ市民の滞在先としても選ばれた。また、長年の都市文化に裏打ちされた数々の伝統工芸、日本三名園の一つとして知られる兼六園、加賀藩の藩祖・前田利家の金沢入城に因んだ百万石まつり、さらに庶民文化(加賀宝生や郷土料理のじぶ煮など)などにより、観光都市として知られる。2009年にはユネスコの創造都市に認定された(国内では神戸市、名古屋市に続く3番目、クラフト&フォークアート部門ではアジア初)。2015年に金沢駅まで北陸新幹線が開業したことにより、従来からの関西・中京圏のみならず、首都圏からのアクセスが大幅に向上した。
本州日本海側の都市としては政令指定都市である新潟市(約77万人)に次ぐ人口を誇る。北陸の富山県・石川県・福井県を管轄する国の出先機関が置かれ、大企業の「北陸支社」「北陸支店」も金沢市に置かれることも多い。中心市街地の香林坊・片町地区は北陸地方最大級の商業地として賑わっている。北陸3県で最大都市といったイメージがある一方で、北陸地方の人口や主要機能が当市に一極集中しているということでもなく、地域の主要企業である北陸電力や北陸銀行は本店を富山市に置いている。また、当市を中心とした金沢都市圏の人口規模は、富山市を中心とした富山都市圏より少ない[1]。
南東部は山地で、奈良岳(1,644m、金沢市の最高峰、犀川の水源)をはじめ、見越山 (1,621m)、大門山 (1,572m)、医王山(いおうぜん、939m)などがある。平野に近い部分は丘陵地となり、戸室山 (548m)、キゴ山 (546m)、野田山 (180m)、満願寺山 (177m)、卯辰山 (141m) などがある。戸室山・キゴ山は数十万年に形成された第四紀火山である。山地と平野の境界付近に森本・富樫断層帯が分布する。北西部は金沢平野で、犀川(別名おとこ川)、浅野川(別名おんな川)、金腐川(かなくさりがわ)、森下川(もりもとがわ)、伏見川、高橋川、内川などが流れる。犀川とこれに合流する伏見川は日本海へ直接注ぐが、他の川は河北潟へ流れ、大野川を経て日本海へ注ぐ。海岸部は砂丘となっており、河口部分は北向きに曲がっている。犀川上流には犀川ダムや内川ダムがあり、上水道や灌漑などに利用されている。犀川と浅野川は市内を並行して流れ、犀川北岸と浅野川南岸それぞれの河岸段丘に挟まれた台地が小立野台地である。小立野台地の西端に金沢城趾や兼六園がある。また、犀川南岸の河岸段丘は寺町台地と呼ばれる。
日本海側気候で、年中湿度が高く、雲が発生しやすい。特に冬には雨・雪が降る日が多い[注釈 2]。平年の雷日数が全国の県庁所在地の中で最も多く、そのほとんどは晩秋から冬に起こる。比較的好天が多いのは4月 - 5月と10月、夏にはフェーン現象が起きて最高気温が35℃を超えることもある。梅雨の影響は太平洋側と比較して少ない。12月から2月にかけては雪や雨が多い。雷を伴ってあられや雹が降ることもある。1987年以降の暖冬に加え、1991年10月23日に金沢地方気象台が中心部にほど近い弥生地区から、海風の影響で気温が高めで雪が積もりにくい沿岸寄りの西念地区へ移転して以降、観測される降雪量は急激に減っており、北陸の他都市はおろか鳥取市よりも積雪量が少なくなることが増えた。しかしながら、市の公表している積雪量[2] によると、気象台よりも兼六園のある市内中心部の方が積雪が多く、特に、金沢大学のある角間町などの内陸地域などは豪雪となりやすい。このように同じ市内であっても海側と内陸では積雪量が大きく異なっている。
降雪の深さ合計は平年で157cmと前々平年値(1971 - 2000年平均)の360cm、前平年値(1981 - 2010年平均)の278cmと比べて大きく減少した。気象台移転後の最深積雪記録は2001年1月16日の88cm、なお金沢地方気象台が現在の場所に移転する前の最深積雪極値は三八豪雪の1963年1月27日に記録した181cm。最後に積雪が1mを超えたのは1986年1月28日の113cmまで遡る。ただし、冬季の気温は曇りや雪の日が多く放射冷却が少ないため、最低気温は高め(1月の平均最低気温は1.2℃)であり、2000年代以降は暖冬傾向であること、また、除雪・融雪の体制が発達していることなどから、冬季の都市生活に支障は少ない。
湿度が高いため、伝統工芸の漆塗りや金箔製造に適している。
金沢地方気象台(金沢市西念、標高6m)の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 21.2 (70.2) |
23.6 (74.5) |
27.1 (80.8) |
31.6 (88.9) |
33.7 (92.7) |
36.1 (97) |
37.4 (99.3) |
38.3 (100.9) |
38.5 (101.3) |
33.1 (91.6) |
28.4 (83.1) |
24.7 (76.5) |
38.5 (101.3) |
平均最高気温 °C (°F) | 7.1 (44.8) |
7.8 (46) |
11.6 (52.9) |
17.3 (63.1) |
22.3 (72.1) |
25.6 (78.1) |
29.5 (85.1) |
31.3 (88.3) |
27.2 (81) |
21.8 (71.2) |
15.9 (60.6) |
10.2 (50.4) |
19.0 (66.2) |
日平均気温 °C (°F) | 4.0 (39.2) |
4.2 (39.6) |
7.3 (45.1) |
12.6 (54.7) |
17.7 (63.9) |
21.6 (70.9) |
25.8 (78.4) |
27.3 (81.1) |
23.2 (73.8) |
17.6 (63.7) |
11.9 (53.4) |
6.8 (44.2) |
15.0 (59) |
平均最低気温 °C (°F) | 1.2 (34.2) |
1.0 (33.8) |
3.4 (38.1) |
8.2 (46.8) |
13.6 (56.5) |
18.4 (65.1) |
22.9 (73.2) |
24.1 (75.4) |
19.9 (67.8) |
13.9 (57) |
8.1 (46.6) |
3.5 (38.3) |
11.5 (52.7) |
最低気温記録 °C (°F) | −9.7 (14.5) |
−9.4 (15.1) |
−8.3 (17.1) |
−1.6 (29.1) |
1.5 (34.7) |
6.8 (44.2) |
11.0 (51.8) |
13.1 (55.6) |
7.6 (45.7) |
2.2 (36) |
−0.7 (30.7) |
−6.7 (19.9) |
−9.7 (14.5) |
降水量 mm (inch) | 256.0 (10.079) |
162.6 (6.402) |
157.2 (6.189) |
143.9 (5.665) |
138.0 (5.433) |
170.3 (6.705) |
233.4 (9.189) |
179.3 (7.059) |
231.9 (9.13) |
177.1 (6.972) |
250.8 (9.874) |
301.1 (11.854) |
2,401.5 (94.547) |
降雪量 cm (inch) | 67 (26.4) |
53 (20.9) |
13 (5.1) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
1 (0.4) |
24 (9.4) |
157 (61.8) |
平均降水日数 (≥0.5 mm) | 24.9 | 20.2 | 17.5 | 13.4 | 11.8 | 11.6 | 14.2 | 10.4 | 13.2 | 14.1 | 18.2 | 24.2 | 193.6 |
平均降雪日数 | 22.7 | 19.9 | 12.7 | 2.5 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 1.5 | 14.5 | 73.9 |
% 湿度 | 74 | 70 | 66 | 64 | 67 | 74 | 75 | 72 | 73 | 70 | 70 | 72 | 70 |
平均月間日照時間 | 62.3 | 86.5 | 144.8 | 184.8 | 207.2 | 162.5 | 167.2 | 215.9 | 153.6 | 152.0 | 108.6 | 68.9 | 1,714.1 |
出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1882年-現在)[3][4] |
旧金沢地方気象台(弥生町)・1961 - 1990年平均の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | 6.1 (43) |
6.5 (43.7) |
10.5 (50.9) |
17.4 (63.3) |
22.2 (72) |
25.2 (77.4) |
29.4 (84.9) |
31.2 (88.2) |
26.7 (80.1) |
20.9 (69.6) |
15.3 (59.5) |
9.8 (49.6) |
18.4 (65.1) |
日平均気温 °C (°F) | 2.9 (37.2) |
2.9 (37.2) |
6.0 (42.8) |
12.1 (53.8) |
17.0 (62.6) |
20.8 (69.4) |
25.2 (77.4) |
26.6 (79.9) |
22.1 (71.8) |
16.1 (61) |
10.8 (51.4) |
6.0 (42.8) |
14.1 (57.4) |
平均最低気温 °C (°F) | 0.1 (32.2) |
0.0 (32) |
2.0 (35.6) |
7.3 (45.1) |
12.2 (54) |
17.0 (62.6) |
21.6 (70.9) |
22.7 (72.9) |
18.5 (65.3) |
12.2 (54) |
7.0 (44.6) |
2.8 (37) |
10.3 (50.5) |
降雪量 cm (inch) | 145 (57.1) |
102 (40.2) |
24 (9.4) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
1 (0.4) |
45 (17.7) |
318 (125.2) |
出典:NOAA(1961 - 1990)[5] |
金沢市 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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雨温図(説明) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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北側に内灘町、津幡町、東側に倶利伽羅峠、医王山などの山地を挟んで富山県小矢部市、南砺市、南側に白山市(旧松任市、旧鶴来町)、野々市市と接する。
「金沢」という都市名は「昔、山科の地(現:金沢市郊外)に住んでいた芋掘り藤五郎が山芋を洗っていたところ、砂金が出たため、金洗いの沢と呼ばれた」という伝説による。
「金洗いの沢」は、兼六園内の金沢神社の隣りにあり、現在は「金城霊澤」と呼ばれている。
古文書における「金沢」の初見は、『高野山正智院聖教目録』に文明13年10月8日(1481年10月30日)付で記載された「加州金沢惣持寺」が知られている[7]。
権門体制から幕藩体制への過渡期の時代、荘園性の崩壊と重課税で混沌とした中世には、強い支持を得た本願寺関連の一向一揆(一向宗)が治めた領地であった。当時、比叡山、京都五山、本願寺に代表される寺社勢力は中国と盛んに交易し大量の銭貨を得、経済的に幕府を支える存在であり対立していた。中でも京都五山や比叡山とは異なり、本願寺勢力は基本的に荘園を持たず、信徒からの喜捨により資金を集めていた。領地からの不安定な年貢や関所の通行税に寄らず、人の集積や経済活動に伴う需要や生産性増加に合わせて、中国から得た銭貨を用いたマネタリーベース増加が適切に可能であったことから経済的に栄えて自然と寄付金が増加した。蓮如たちは小高い丘の上に寺院を建設しその下を門前町とする都市計画(寺と町をセットとしたという意味での寺内町)を持っており、尾崎御坊など北陸の寺社・城跡でも同様の地形で寺内町の名残が残る。また、中世は幕府の内紛により権威が弱く地侍や盗賊がやりたい放題で、戦乱による財政難から度重なる徳政令で金融も麻痺していた。一方、本願寺の寺内町だけは、大量の資金、人材に恵まれ、規制緩和で酒や魚などの自由な商売が出来、軍事組織もあったため治安も良く、徳政令からも免れ、経済的に繁栄していた。従って、安心した暮らしを求めて帰依する者が多かったと考えられる。そして北陸は石山本願寺の財政基盤として重要な地域として機能していた。その中で、守護大名富樫氏一族の内紛に、地元武士、浄土真宗本願寺派と髙田派の内部抗争が入り混じった紛争が起こる。これに勝利した富樫正親と本願寺派勢力が内部対立を起こし、本願寺が勝利したことで、戦国大名化した寺社勢力の自治が行われていた[8]。
延元4年(1339年)に金沢城址の場所に、本源寺(現西別院)が開創され、中世に寺社勢力が統治する直前には、棟梁、松田次郎左衛門が田井城(金沢の旧奥村河内守の屋敷から出羽町にかけての土地。松山寺周辺は二の丸、成瀬内蔵助宅周辺は三の丸、八坂は馬場)を居城としていた。松田次郎左衛門の先祖は京の北面武士で、観應のころ(1350〜1352年)に移り住んでいた。明応3年(1494年)、州崎慶覚坊(近江の土豪出身、一揆にて富樫政親を滅ぼす)に謀殺され、越中荒木村(現南砺市荒木)に逃れ、元亀8年(1508年)ごろには現南砺市城端に移り子孫は城端城に居住していくも、江戸時代には前田家から家禄千石を賜り城下町(金沢別院近く)に屋敷を拝領し廃藩まで居住することになる[9][10]。
天文15年(1546年)、本源寺を尾山御坊(金沢御坊)と定めて、戦国時代の一向一揆の本願寺の拠点とした(本源寺はのちに前田利家・利常による寄進地で再建)。この寺内町(後町、南町、西町、後坊町)が現在の金沢市の原型と言える。天正8年(1580年)、織田信長配下の柴田勝家の甥佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、その地に金沢城を築城した。その際に西町、南町の外に堤町、松原町、近江町、安江町、金屋町、材木町が形成され、『尾山八町』として城下町金沢の基礎となる[11]。
賤ヶ岳の戦い以降、前田利家が金沢城に入り、加賀藩の原型が形成された。一罰百戒が当たり前の封建時代で着実な占領政策を行い、徹底的に残酷な弾圧による恐怖統制を強いた[12][13]。遺恨の痕跡や資料が旧加賀藩各地に残るとはいえ、顕著な加賀藩プロパガンダに成功し、さらには寺社勢力を懐柔できたことが加賀藩にとっては大きい。つまり、前田利家や加賀藩は一向宗勢力を中心とした寺社勢力の懐柔政策を以って利用し藩領の自治を行って行く。藩政初期寺社寺領の寄進は金沢市内中心でありほとんどが非一向宗寺院であった一方で、一向宗寺院に対して特例的に諸役免除などを行ったり、有力寺院(現南砺市の瑞泉寺や善徳寺など)に前田家の子女を縁女として送ったりなど懐柔策を徹底し、触頭として機能させ強固な統治を行った(特に南砺市の有力寺院への縁女は江戸時代を通じて送られた。そもそも農地開拓などは藩や武士の指導のもとで有力な農民や町民の協力が必要であり、武士の子女や縁女が送られ入ることもあった)[14]。
利家は金沢城を人心の一新(羽柴秀吉に敵対した佐久間盛政色の一掃および一向一揆に加わっていた真宗門徒との融和)を意図して自身の出身地である尾張国にも通じる「尾山城」と改名するが定着せず、利家の晩年もしくは次代の前田利長の時代には再び「金沢城」の名前に戻した[15][16]。城下町には二重の惣構が掘られ、環濠都市となり、現在でもその遺構を確認することができる。特に第3代藩主前田利常は宗徒の強い信仰心、つまり門主に対する絶対的信心や勤勉性を民政に利用することを考えた[17]。金沢城の防備や、人別(現在の戸籍)を行うため、城下に散在していた寺社を3か所に移転・配置し、金沢城から南西の犀川流域、東側の卯辰山、南東の小立野台地の三ヶ所に集められ、それぞれが寺町寺院群、卯辰山山麓寺院群、小立野寺院群となった。
慶長5年(1599年)に利家が死去すると、翌年には関ヶ原の戦いが起こる。利家の遺領を相続した長男の前田利長は、東軍の徳川家康につき、西軍に属した弟の前田利政の所領を戦後に与えられ、加賀国、能登国、越中国を有する大大名となる。第三代藩主前田利常の時代には、十村制や改作法といった農政改革を進め、支配機構の整備が行われ藩体制が確立した。また、利常の「百姓は死なぬ様に生きぬ様に」「百姓とゴマの油はしぼればしぼるほ程出る」からその統治思想が垣間見える[18]。第五代藩主前田綱紀は名君として名高く、兼六園の前身にあたる蓮池庭(れんちてい)を作庭し、木下順庵や室鳩巣、稲生若水といった学者の招聘につとめ学問を振興した。また綱紀は和書や漢書、洋書などの多様な書物の収集にも努め、その書物の豊富さから新井白石は「加賀は天下の書府」と言ったと伝えられている[19]。集められた書物や美術工芸品の収蔵品は尊経閣文庫と呼ばれ、現在では前田育徳会により保存管理されている。その後金沢は150余年に渡り、加賀百万石の城下町として繁栄することとなる。参勤交代の時、前田氏は約2,000人の家来を従え、現在の価値で片道約7億円をかけて江戸との間を往来した。
以下江戸時代の藩政史料や地図、明治初期の統計書に記録されている金沢町の人口をまとめる。但しその多くが町奉行支配場(本町、地子町、旧門前地、大工地)の町方人口に関するものであり、主に寺社奉行支配地(門前地)に居住した僧侶・神職ほか、武家屋敷や一部町方・寺社方に居住した士分・武家奉公人については人口に関する資料がほとんど残っていない。
元号 | 西暦 | 家数 | 人口 | 備考 | 典拠 |
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寛文4年 | 1664年 | 9,868 | 55,106 | 本町2532戸1万9845人、地子町7336戸3万5261人 | 『越登賀三州志』 |
寛文5年 | 1665年 | 7,350 | 地子町のみ | 『改作所旧記』 | |
寛文7年6月 | 1667年 | 8,667 | 59,101 | 本町1332軒1万9840人、地子町7335軒3万9261人 | 『稿本金沢市史』 |
延宝年中 | 1675年ごろ | 9,927 | 本町2186軒、地子町7081軒 | 『金沢古蹟志』 | |
3,959 | 武家屋敷分。士分1677軒、足軽1953軒、小者305軒 | 『延宝金沢図』 | |||
貞享2年 | 1685年 | 8,448 | 地子町のみ | 『国事雑抄』 | |
貞享3年 | 1686年 | 8,326 | 地子町のみ | 『国事雑抄』 | |
元禄3年 | 1690年 | 13,601 | 寺社奉行支配地を含む。寺社243戸、山伏65戸、 百姓85戸、非人4戸、穢多4戸、町其外遊民1万3209戸 | 『加賀藩史料』 | |
17,601 | 金府家数凡1万3601戸、外に士家奉公人分家4000戸の合計 | ||||
元禄9年 | 1696年 | 11,927 | 本町2536戸、地子町9391戸 | 『金沢古蹟志』 | |
元禄10年春 | 1697年 | 12,085 | 68,636 | 本町2285戸1万8949人、旧門前地大工地354戸2630人、 地子町9446戸4万7057人 | 『加賀藩史料』 |
宝永7年6月21日 | 1710年 | 12,558 | 64,987 | 『国事雑抄』 | |
宝暦5年 | 1755年 | 13,443 | 外に侍屋敷1365軒(但し知行持のみ) | 『稿本金沢市史』 | |
文化7年8月 | 1810年 | 13,792 | 56,355 | 本町2540戸、旧門前地384戸、地子町1万0754戸、大工胆煎等114戸 | 『越登賀三州志』 |
14,909 | 町奉行支配地1万3792戸、寺社奉行支配地1117戸の合計 | ||||
文化8年 | 1811年 | 11,070 | 本町2112戸、地子町8958戸。 但し本町4胆煎、地子町3胆煎分戸数不足 | 『城下町金沢』 | |
天保9年閏4月 | 1838年 | 15,273 | 35,841 | 町方・寺社方合計、人口は15歳以上のみ | 『金沢町数人口調』 |
安政4年2月 | 1857年 | 13,485 | 58,506 | 町方・寺社方合計、他支配2186軒を除く。 本町2650軒1万2019人、地子町9478軒4万0803人、門前地1351軒5684人 | 『金沢町家数人数高』 |
15,671 | 町方・寺社方合計、他支配2186軒を含む。 本町2784軒、地子町1万1281軒、門前地大工地1600軒 | ||||
文久3年5月以降 | 1863年 | 15,720 | 町方・寺社方合計、他支配を含む。 本町3049軒、地子町1万1342軒、大工胆煎等127軒、門前地1202軒 | 『町役人名帳』 | |
明治2年8月 | 1869年 | 15,715 | 1胆煎分戸数不足 | 『町役人名帳』 | |
13,562 | 60,789 | 町方・寺社方合計、支配違2634軒を除く | 『金沢町家教調』 | ||
16,196 | 町方・寺社方合計、支配違2634軒を含む | ||||
明治3年閏10月10日 | 1870年 | 17,222 | 56,295 | 居住制限撤廃後、家数は集計不完全、人口は町方人別之者のみ。 東郷3253軒1万2093人、西郷2263軒7943人、 南郷6600軒1万8960人、北郷5106軒1万7294人 | 『稿本金沢市史』 |
明治4年2月 | 1871年 | 24,744 | 123,363 | 全身分合計。士族4932戸2万6028人、 卒4607戸2万6888人、平民1万4907戸6万8810人、 元神官39戸139人、寺院259戸1032人、御預人466人 | 『金沢名数』 |
明治4年8月 | 24,146 | 123,453 | 第1区3253戸、第2区3635戸、 第3区882戸、第4区1836戸、第5区4068戸、第6区3369戸、第7区4103戸 | 『石川県史料』 | |
明治5年1月29日 | 1872年 | 37,880 | 壬申戸籍による本籍戸数・人口。第1区5610戸、第2区5411戸、 第3区6026戸、第4区2717戸、第5区6272戸、第6区5080戸、第7区6763戸 | 『石川県史料』 | |
明治6年1月1日 | 1873年 | 35,788 | 109,685 | 本籍戸数・人口[注釈 3] | 『金沢市統計書』 |
34,580 | 『日本地誌提要』 | ||||
34,883 | 『明治八年共武政表』 | ||||
明治9年11月1日 | 1876年 | 23,995 | 108,758 | 本籍家数・人口 | 『石川県史料』 |
明治11年12月9日 | 1878年 | 23,937 | 108,263 | 本籍家数・人口 | 『石川県史料』 |
明治12年1月1日 | 1879年 | 23,915 | 107,878 | 本籍家数・人口 | 『明治十一年共武政表』 |
107,876 | 本籍人口 | 『日本全国郡区分人口表』 |
金沢城下は、1822年(文政5年)に藩主前田斉広が遠藤高璟に命じて測量を行い、1828年(文政11年)までに詳細な地図である「金沢十九枚御絵図」を完成させており、市内の状況把握が可能となっている[24]。
「今津甚四郎書出候人数一巻」[25] によると、享保6年(1721年)の金沢藩の15歳以上の御家中人口は6万7302人(おそらく武家奉公人を含む)。また『金沢市史』や『藩制一覧』によると、明治3年閏10月10日の旧家中人口は、華族1戸11人、士7797戸2万8683人、卒9703戸2万7038人、仲間・小者(平民扱い)2699戸5938人の合計20,200戸61,670人(但し戸数は成人男性数(名数))。江戸時代中期以降、金沢城下町に居住する武家・武家奉公人人口は4万人から5万人で推移したと推測される。以下に2人の研究者による江戸時代から明治初期の金沢の推定総人口を列挙する。なお土屋敦夫の推計人口には神社仏閣数と僧侶・神官人口(明治4年2月の時点で298箇所1171人)が加算されていない[20]。また斎藤誠治が明治11年調として『明治十一年共武政表』より引用している人口は、正確には明治12年1月1日調のものである[26]。
年号 | 西暦 | 土屋敦夫 (1980)[20][21] | 斎藤誠治 (1984) | ||
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城下町 合計 | 武士町 居住 | 町人町 居住 | |||
慶安3年 | 1650年 | 114,000 | |||
寛文4年 | 1664年 | 86,300 | 31,200 | 55,100 | |
貞享2年 | 1685年 | 62,200 | |||
元禄10年 | 1697年 | 111,200 | 42,600 | 68,600 | |
宝永7年 | 1710年 | 70,600 | |||
寛延3年 | 1750年 | 128,000 | |||
宝暦5年 | 1755年 | 116,600 | 44,900 | 71,700 | |
文化7年 | 1810年 | 68,900 | |||
文政4年 | 1821年 | 114,600 | 46,500 | 68,100 | |
天保9年 | 1838年 | 73,500 | |||
嘉永3年 | 1850年 | 118,000 | |||
文久3年 | 1863年 | 73,600 | |||
明治4年 | 1871年 | 122,900 | 48,100 | 74,800 | |
明治11年 | 1878年 | 107,878 |
江戸時代の金沢の人口は17世紀後半には10万人を超え、江戸、大坂、京の三都には及ばないものの、名古屋と並ぶ日本第4位から第5位の都市として発達し、美術工芸など現在に受け継がれる都市文化が花開いた。江戸時代は金銀複本位制であったため、マネタリーベースの増加に金銀山を領内に保有・管理することは重要であった。特に、参勤交代などの出費(金銀)が定期的に必要な中で領内のマネタリーベースを増加させようと思うと、領内産物を大都市に輸出し貨幣(金銀)を得る必要があった為、江戸時代は大都市が不況に陥ると途端にデフレに陥る構造をしていた。しかし、金銀山を有していれば、自前でマネタリーベースを増加させることができ(江戸後半にかけて、それでも不足し藩札が重要となってきた)、加賀藩は「越中七金山(加賀藩極秘金山でいわゆる黄金郷)」「尾小屋鉱山、金平金山、遊泉寺銅山(現小松市)」「刀利銀山」など、多数の鉱山を所有していたため、非常に経済的に潤っていた。そのような経済的潤いが背景となり、文化が花開いた。江戸時代の武士の給与体系は石高制であり、基本的に米で支給されていた。従って、江戸時代末期になるにつれ、経済の発展と共に米以外の商品作物など高価なものが増え、武士はどんどん貧乏になっていった。逆に百姓は、農業のみに専念しているわけではなく工商などを営むことで、経済発展に寄与し裕福であった。従って、大多数の武士は農工商も営んで生計を立てていた。また、加賀藩の十村制においては豪農と呼ばれる特別に裕福な者もいた。生産性の向上と共に、金銀山の採掘のみならず、藩は藩札によりマネタリーベースを増加できたことが要因と考えられる。さらに、天明の大飢饉を境に北前船に代表される海上輸送が発達。1811年(文化8年)に加賀藩の御用商人だった銭屋五兵衛が海運業に参入し、蝦夷地との回漕業、大坂の米相場や保険まで行い、藩への献上金の見返りに北方領土やイギリス、ロシアと密貿易を行ない、莫大な利益を得て加賀一の金持ちとまで言われていた。広く加越能では米の増産を奨励、絹織物の生産に努めた(尚、生糸・加賀絹は現南砺市と小松市が主体であった)。1859年(安政6年)の開国以降、金銀の含有量をペースとした固定相場制になり、激しい自国通貨安であったため、当時の日本の生糸はヨーロッパの半値以下で購入できた。特に生糸貿易は成長産業として発展することになり、明治維新後の軽工業中心の経済の礎となった。
幕末から明治維新のころの金沢は人口において東京、大阪、京都、名古屋に次ぐ日本第5位の都市であったが、明治時代に入ると産業・交通発達の基軸が太平洋側へと移り、明治20年ごろには六大都市を形成することになる神戸や横浜にも人口で抜かれる。金沢は明治維新後に城下町の大消費者であった武士の失業と士族授産の失敗により、特に経済が落ち込こみ激しい人口流出が起きたためである。というのも、明治維新後の徴兵国論の布告により士族は軍事専門担当から外れたにも関わらず、露頭に迷うことを防ぐために秩禄が供給され続けたことで世間の反感を買い、士族は生活困窮に加え世間的にも肩身の狭い状態に陥っていた。以降、段階的に、家禄税(累進課税による徴収)、家禄奉還制度(家禄放棄による現金・秩禄公債支給・農業用土地の低価販売)、廃刀令、秩禄処分に至ったことで、不平士族により西南戦争が起き、翌年には加賀藩出身の士族により大久保利通が暗殺されるほどであった。そして、明治10年代に士族(旧藩時代における平士以上の家系)の9割以上は転出したが、もともと生活水準が比較的低くかつ他の生業に従事していた軽輩の武士は、明治維新による生活の急激な変化を受けることが比較的少なく、ある程度は残ったと考えられている。万石以上の上級武士は、一部は中級武士と同様に公務職などに転身したが、一方で明治期以降の消息が不明な者が少なくなく、かつての地位に対応した格式や生活習慣を引きずりつつ各方面からの支援も受けられないまま債務不履行や行き場がなくなった(無職の)者も多かったと推測される[27]。尚、江戸時代、嫡子以外は藩につかえず町人や農民になれば藩士ではなくなっていため、末裔がいないという意味ではない。さらに、近代化の日本において最大産業であった軽工業は旧加賀藩領では隣県の現富山県南砺市旧城端町(加賀藩時代の絹織物の主力都市)を中心に発展した。しかし、没落した士族を救済する為に 長谷川準也 が、製糸・撚糸会社を設立し、当時全国で2番目の規模を誇った(全国初の官営範器械製糸工場は富岡製糸場)。製糸織物業が金沢の産業として広がり、国内初の力織機も開発された。また、北陸本線が全国的に見ても早期に敷設されるなどの鉄道導入が進んだりと、物資流通が変貌したことで、概ね金沢・大聖寺などの鉄道駅や市街地が発展していった。さらに金沢には旧制第四高等学校(金沢大学の前身)や日露戦争の旅順攻囲戦で知られる陸軍第九師団が置かれ、学都・軍都として栄えていった。大正、昭和と電気機械化が進んだが、加賀藩時代に藩の有力財源であった銅の採掘権を取得した竹内明太郎(吉田茂の実兄)が、採掘の電気機械化とともに小松鉄工所(後のコマツ)を設立、工作機械、鉱山用機械を製造した。
1927年(昭和2年)1月、北陸地方が豪雪となり金沢市内でも3メートルの積雪を記録。家屋の倒壊が相次いだ。また、同年4月21日には横安江町から火災が発生。強風に煽られ延焼して733戸が全焼する大火となった[28]。
第二次世界大戦中には軍管理工場の指定を受け軍需を支えた多数のモノづくり企業が金沢市を中心に県内に創立された。尚、陸軍第九師団の全国屈指の軍事演習場が、加賀藩時代には鷹狩場であった隣県南砺市立野原に造られ、立野原監的壕 が市の史跡として今でも残る。第二次世界大戦中は機銃掃射など(金沢空襲)があったものの大規模空襲を免れ、古い町並みが残った(石川県内では空襲で60人以上が死傷した)。
現在の金沢市中心部は、古くは石浦村と呼ばれていた。尾山御坊が置かれたことで寺内町として発展し、南町、西町、松原町、安江町、近江町、堤町、金屋町、材木町といった町が成立した。これを総じて尾山八町、或いは単に「尾山」と呼んだ。なお、尾山という地名は、「二つの川に挟まれた台地の先端」という意味を持つ。後に、前述の芋掘り藤五郎の伝説から「金沢」と称するようになるが、こちらの地名も室町時代まで遡ることが確認されており2つの地名が併用されていた。前田利家が城主になると一度「尾山」に戻され、家督を長男の前田利長が継いだ後に再び「金沢」となった。
金沢市は、1962年(昭和37年)に「住居表示に関する法律」の実験都市に指定され、500余りの町名が消滅してしまった。しかし、長年慣れ親しんだ旧町名の復活を望む声が多く、主計町を皮切りに次々と旧町名が復活した。これを受けて長崎市など全国へ旧町名復活運動が広がっていった。
かつては、ドーナツ化現象が顕著で、郊外の太陽が丘などにニュータウンが建設されたが、近年は都心部に集合住宅が盛んに建設されており、都心回帰が鮮明となっている。山間部では空き家が目立ち、高齢化が深刻となっている。2000年(平成12年)以降、人口は横ばいを続けている。
金沢市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 金沢市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 金沢市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
金沢市(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
石川県第十大区長 | |||||
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代 | 人 | 氏名 | 就任 | 退任 | 備考 |
1 | 1 | 大野木克正[157] | 1876年(明治9年)11月1日 | 1878年(明治11年)12月17日 | |
歴代区長 | |||||
代 | 人 | 氏名 | 就任 | 退任 | 備考 |
大野木克正[158] | 1878年(明治11年)12月17日 | 1879年(明治12年)4月10日 | 金沢区書記、区長代理 | ||
1879年(明治12年)4月10日 | 1879年(明治12年)7月7日 | 区長心得 | |||
石川昌三郎[158] | 1879年(明治12年)7月7日 | 1879年(明治12年)11月11日 | 区長心得 | ||
1 | 1 | 相馬朔郎[158] | 1879年(明治12年)11月11日 | 1881年(明治14年)6月20日 | |
2 | 2 | 加藤恒[158] | 1881年(明治14年)6月20日 | 1881年(明治14年)10月8日 | |
3 | 3 | 梅原可也[158] | 1881年(明治14年)10月8日 | 1884年(明治17年)2月18日 | |
4 | 4 | 稲垣義方[158] | 1884年(明治17年)2月18日 | 1889年(明治22年)3月31日 | |
歴代市長 | |||||
代 | 人 | 氏名 | 就任 | 退任 | 備考 |
1 | 1 | 稲垣義方 | 1889年(明治22年)5月27日 | 1893年(明治26年)4月11日 | |
2 | 2 | 長谷川準也 | 1893年(明治26年)6月23日 | 1897年(明治30年)12月2日 | |
3 | 3 | 奥村栄滋 | 1898年(明治31年)1月12日 | 1902年(明治35年)5月10日 | |
4 | 4 | 渡瀬政礼 | 1902年(明治35年)6月16日 | 1908年(明治41年)6月15日 | |
5 | 1908年(明治41年)7月24日 | 1909年(明治42年)11月6日 | |||
6 | 5 | 山森隆 | 1909年(明治42年)12月15日 | 1915年(大正4年)12月14日 | |
7 | 1915年(大正4年)12月15日 | 1919年(大正8年)5月14日 | |||
8 | 6 | 飯尾次郎三郎 | 1919年(大正8年)5月28日 | 1922年(大正11年)4月24日 | |
9 | 7 | 相良歩 | 1922年(大正11年)5月23日 | 1926年(大正15年)5月22日 | |
10 | 1926年(大正15年)5月23日 | 1930年(昭和5年)5月22日 | |||
11 | 8 | 吉川一太郎 | 1930年(昭和5年)6月9日 | 1934年(昭和9年)6月8日 | |
12 | 9 | 片岡安 | 1934年(昭和9年)7月13日 | 1936年(昭和11年)4月20日 | |
13 | 10 | 澤野外茂次 | 1936年(昭和11年)7月30日 | 1940年(昭和15年)7月29日 | |
14 | 1940年(昭和15年)7月30日 | 1944年(昭和19年)7月29日 | |||
15 | 1944年(昭和19年)7月30日 | 1945年(昭和20年)9月22日 | |||
16 | 11 | 武谷甚太郎 | 1945年(昭和20年)10月18日 | 1947年(昭和22年)2月28日 | |
17 | 12 | 井村重雄 | 1947年(昭和22年)4月5日 | 1951年(昭和26年)4月4日 | |
18 | 1951年(昭和26年)4月23日 | 1955年(昭和30年)4月22日 | |||
19 | 13 | 土井登 | 1955年(昭和30年)5月2日 | 1959年(昭和34年)5月1日 | |
20 | 1959年(昭和34年)5月2日 | 1963年(昭和38年)1月16日 | |||
21 | 14 | 徳田與吉郎 | 1963年(昭和38年)2月10日 | 1967年(昭和42年)2月9日 | |
22 | 1967年(昭和42年)2月10日 | 1971年(昭和46年)2月9日 | |||
23 | 1971年(昭和46年)2月10日 | 1972年(昭和47年)7月8日 | |||
24 | 15 | 岡良一 | 1972年(昭和47年)8月6日 | 1976年(昭和51年)8月5日 | |
25 | 1976年(昭和51年)8月6日 | 1978年(昭和53年)11月23日 | |||
26 | 16 | 江川昇 | 1978年(昭和53年)12月10日 | 1982年(昭和57年)12月9日 | |
27 | 1982年(昭和57年)12月10日 | 1986年(昭和61年)12月9日 | |||
28 | 1986年(昭和61年)12月10日 | 1990年(平成2年)12月9日 | |||
29 | 17 | 山出保 | 1990年(平成2年)12月10日 | 1994年(平成6年)12月9日 | |
30 | 1994年(平成6年)12月10日 | 1998年(平成10年)12月9日 | |||
31 | 1998年(平成10年)12月10日 | 2002年(平成14年)12月9日 | |||
32 | 2002年(平成14年)12月10日 | 2006年(平成18年)12月9日 | |||
33 | 2006年(平成18年)12月10日 | 2010年(平成22年)12月9日 | |||
34 | 18 | 山野之義 | 2010年(平成22年)12月10日 | 2014年(平成26年)12月9日 | [注釈 6][159] |
35 | 2014年(平成26年)12月10日 | 2018年(平成30年)12月9日 | |||
36 | 2018年(平成30年)12月10日 | 2022年(令和4年)2月16日 | [160] | ||
37 | 19 | 村山卓 | 2022年(令和4年)3月13日 | 現職 | [155] |
(2024年6月11日現在[165])
(2024年6月11日現在[166])
姉妹都市の多くは、その地方の中心的都市であったり、歴史的遺産を持つ古都であるのが特徴的である。
国連機関
領事館
市内から周辺市町村へ広がる金沢平野は、低温であるものの水利がよく適湿で、江戸時代から良質の農地であった。明治時代中期には、他地方に先駆けて近代的な耕地整理が行われ、生産性が飛躍的に向上した。現在でも、単作の稲作中心の農業が継承されており、北陸地方の他地域と並んでコシヒカリの主要な産地の一つである。
稲作だけでは採算が望めない農地については、小規模でも生産でき付加価値の高い作物、さつまいもや蓮根などの加賀野菜、梨などの果実の生産に移行する動きがみられる。
江戸時代に金沢を治めた加賀藩は、石高は高いものの外様大名であったため、幕府や周囲に警戒されないよう内向きの産業や工芸を奨励した。そのため、当時から絹織物の主要な産地であった。また、藩の財政に余裕があったため、京都などから職人を招聘し、加賀友禅などの染織工芸を育成することができた。これらを基盤として、明治時代には繊維工業や染織加工業が発達した。ただし現在では、中国などから安価な製品が輸入されるようになったため、高機能商品の生産に特化する動きがみられる。現在でも金箔の製造は全国シェアの98%、銀箔は100%、市民1人当たりの和菓子購入額全国第1位である。 また、大野地区では醤油の製造が昔から盛んで、現在も直源が製造している「直っぺ」などがある。
繊維製品の生産に必要な織機の製造は現在でも衰退しておらず、ジェット・ルーム(高速の気流や水流で横糸を飛ばす方式の織機)を生産する津田駒工業本社工場は、世界最大の織機製造工場と言われている。また、こうした高速制御が可能な複合的な機械製造技術は他分野にも転用され、ボトリング・システム(瓶詰め機械)で世界一の澁谷工業や、自動給茶装置付き回転寿司コンベア機でトップシェアを持つ石野製作所など、一風変わった機械の製造に結びついている。
近年では、パソコン周辺機器に関する企業群が急速に成長している。市内で創業したパソコン周辺機器大手のアイ・オー・データ機器は、当地の小規模な繊維工場では手が届かなかったメインフレームではなく、マイコンを利用した工場制御用の周辺機器開発からスタートした企業であり、コンピュータ関連の大手企業が手がけなかった需要に応えて成長の軌道に乗った。また、織物用の柄を修正するディスプレイ装置の開発といった細かな需要の発掘でも、繊維工業が周辺産業へ影響を与えたことがうかがえる。
中心部にある市内最大の繁華街、香林坊・片町地区には、百貨店大和本店をキーテナントとした香林坊アトリオやハンズなどが入居する香林坊東急スクエア、アパレルなど多数の路面店が軒を連ねる竪町通りがある。また、香林坊に隣接する片町地区は、約1500もの飲食店がある北陸最大の歓楽街となっている。中心部の主な商店街は香林坊商店街、竪町商店街、広坂振興会(商店街)、柿木畠振興会(商店街)、片町商店街。
一方、もう一つの繁華街である武蔵地区には金沢エムザと近江町市場がある。なかでも近江町市場は、市場独特の風情が味わえることから訪れる観光客も多く、金沢市内の観光地のひとつとしても有名。2009年4月16日には市街地再開発事業により、近江町いちば館が開業した。
金沢駅周辺では北陸新幹線開業を控えた時期にさらなる開発が進んだ。駅東口横にイオン系列のファッションビルである金沢フォーラスが開業、金沢百番街では2007年5月26日にくつろぎ館がオープン、2011年3月3日にはトレンド館を大幅に改装したRintoがオープンするなど、駅ビルや駅ナカの商業施設の集積が進んだ。また、北陸新幹線開業を受けて都市型マンションやビジネスホテルの集積も顕著である。そのため、駅周辺の商業地としての地位が向上し、テナントビルの空室率は駅周辺ビルを中心に大幅に改善した。それに伴い、商圏は香林坊・片町地区、武蔵地区、金沢駅前地区と三極化し始めた。[要出典]
また、金沢大学や石川県庁などの公共施設が市街地から郊外へ移転したことや、イオンタウン金沢示野、アピタタウン金沢ベイ、ラパーク金沢(メガ・ドン・キホーテ)などのショッピングセンターやロードサイドショップが開業し、国道8号線沿いや山側環状道路および海側環状道路周辺などの郊外が著しく発展していることから、中心街の空洞化、購買客の流失が懸念されている。[要出典]
金沢市消防局が管轄する。
※病床数200以上の医療機関のみ記述する。
2024年(令和6年)3月16日に北陸本線がIRいしかわ鉄道に移管されて以降、本州の県庁所在地では唯一、市内にJRの在来線が存在しない[注釈 8]。
IATA都市コードはQKWが充てられている。小松空港(空港コードKMQ)から、2022年時点で国内線は東京(羽田)、札幌(新千歳)、福岡、那覇へそれぞれ就航している。国際線の発着もある。小松空港へは金沢駅西口から小松空港リムジンバスによって約40分で結ばれている。
この他に、高速ツアーバスから新高速乗合バス制度へ移行した高速バスが金沢駅西口を中心に発着している。
金沢市街地は加賀前田藩の城下町として栄えた歴史があり、初代藩主前田利家は、甲州流兵学に基づいて城下に敵が攻め込みにくいよう、他の城下町以上に道に曲がり角を多数設けた設計がなされた[176]。市内の道路は道が入り組んでいて分かりにくいという指摘があるが、これは金沢が戦災に遭わなかったこともあり、藩政時代の区画がそのまま残されて今の道路に引き継がれた名残である[176]。
その他、市道を含む、金沢市内の道路には、さまざまな通称名がつけられている。詳しくは金沢市内の通りを参照のこと。
※ 全国紙では、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞、日本経済新聞の4紙は大阪本社で発行された物が、読売新聞は北陸支社(富山県高岡市、読売新聞東京本社の支社)で発行された物が販売されている。読売新聞については夕刊も発行されている。
金沢市を含む「金沢地域[注釈 9]」の観光入込客数は518.7万人(2021年(令和3年))で、兼六園への来客が全体の約17%(88.0万人)を占める[177][注釈 10]。伝統的な建造物や工芸、文化が遺り、「北陸の京都」とも呼ばれるが、江戸期に成立した町であることから江戸の町の典型を遺し、また、京都が伝統文化を対外的な売り物としている「観光都市」であるのに対し、金沢はそれらを生活の中で消費する「文化都市」であるとも一時は言われていたが[178]、2015年の北陸新幹線開通などを受け国際観光都市を目指した街づくりが推進されている。
江戸時代に金沢城の庭園として作られた兼六園は、水戸の偕楽園、岡山の後楽園とともに日本三名園とされる。名称「兼六」の由来は、宋代の洛陽名園記が指摘する、庭園にとって両立しがたい六つの特性、宏大と幽邃、人力と蒼古、水泉と眺望を兼ね備えていることによる。兼六園に隣接して江戸末期に建てられた成巽閣は前田家の奥方御殿である。内部の意匠は女性らしい可憐で優美なしつらえや造りとなっている。
この兼六園から百間堀を隔てた金沢城跡には、当時の建造物のうち一部である石川門や三十間長屋などが現存している。この跡地には城の中の大学として金沢大学のキャンパスがあったが、郊外(角間)へ移転した。その後一部の櫓や門、庭園などが当時の技術のままに復元され、一般に公開されている。
市内中心部の長町には石畳に整備された路地に並ぶ武家屋敷跡に野村家庭園があり、加賀友禅の長町友禅館(旧彩筆庵)と並んで内部を見学することができる。中には小さい滝があり、立体的な配置のため街中とは思えない奥行きがある風景を楽しめる。
市内には、犀川と浅野川の二つの川が流れている。浅野川沿いの東山周辺、東の茶屋街(旧東の郭)には江戸時代の遊郭に由来する古い町並みが残る。内部を改装して飲食店などに利用されている家もある。東山ひがし地区と主計町は重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。背後にある卯辰山からは市街地から遠く日本海までを見渡すことができる。一方犀川沿いには、にし茶屋街(旧西の郭)がある。
犀川からほど近い寺町の妙立寺は、内部に外敵を避けるための隠し通路や階段などの工夫が施されていることから「忍者寺」と呼ばれ人気がある。海外のガイドブックにも紹介されている。
この他、2010年10月に東山に移転オープンした安江金箔工芸館では金箔の製造工程や箔打ちなどの実演を観ることができる。松根城は市の史跡に指定されている。
2004年に開館した金沢21世紀美術館は市街地の中心部に立地し、現代美術をテーマとした展示を行っている。開館1年で地方都市の公立美術館としては驚異的な157万人の入館者を集め、5周年にあたる2009年には累計入館者数700万人を突破し[179]、兼六園と並ぶ新たな観光資源として注目されている。
金沢市の海に面した地域に大野地区は醤油の産地で、今でも醤油蔵が立ち並んでいる。町並保存地区として独特の風情を楽しむことができる、商業の町である。
近年、台湾を始めとした日本国外からの観光客も増えており、仏ミシュランの2009年3月発行の「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン2009」では、兼六園が3ツ星、金沢21世紀美術館と長町武家屋敷跡の野村家が2ツ星を獲得している[180]。
北陸新幹線の開業により、これまで少なかった関東や東北などからの観光客が増加し、ホテルの建設ラッシュなども進んでいる。
金沢百万石まつりが有名。毎年6月に前田利家の金沢入城を模した行列が街の中を練り歩く。利家役には男性有名人が選ばれている。友禅灯籠流しや百万石踊り流しなどの協賛・関連行事も多く催される。
湯涌地区では、毎年6月30日に氷室開きと呼ばれる藩政期より伝わる伝統行事が行なわれる。
イベントでは、毎年2月初旬にいしかわ四高記念公園で行われるフードピア金沢、毎年5月初旬にクラシック音楽祭のいしかわ風と緑の楽都音楽祭(旧ラ・フォル・ジュルネ金沢)、8月には香林坊から武蔵が辻が歩行者天国となる金沢ゆめ街道が開催される。
市内には、神社が330余り、仏教寺院が390余りある。仏教寺院を宗派別に見ると、他宗派が17世紀からほぼ横ばいなのに対して浄土真宗の寺院のみが3倍あまりに増加し、寺院全体の半数を超える210寺が立つ。これは、親鸞の子孫である綽如と巧如の父子が北陸地域へ教線を延ばし、さらに巧如の孫にあたる蓮如が、北陸地域で熱心に布教活動を行ったからといえる。その内の192寺が真宗大谷派である。
金沢では加賀藩が茶菓子作りを奨励したため高度な菓子文化が育まれ、京都市や松江市などと並ぶ「日本三大菓子処」として知られてきた。正月に食べる福梅、辻占や、初夏に食べる氷室饅頭、婚姻の際に振舞われる五色生菓子や金花糖などのいわゆる縁起菓子は、菓子文化の成果の一つといえよう。
市内には今でも「森八」、「諸江屋」、「俵屋」、「柴舟小出」、「村上」といった和菓子の老舗が至る所にある。特に森八で作られている長生殿は日本三名菓の一つである。
金沢市では数多くの伝統産業が継承されている。
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