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日本の儒学者 ウィキペディアから
木下 順庵(きのした じゅんあん、元和7年6月4日(1621年7月22日) - 元禄11年12月23日(1699年1月23日))は、江戸時代前期の儒学者。名は貞幹、字は直夫、通称は平之允、号は順庵・錦里・敏慎斎・薔薇洞。私諡を恭靖と言う。
元和7年(1621年)、誕生。 木下意春の次男で、五人兄弟。京都錦小路の出身。
幼少より神童と称され、僧天海に鬼才を見込まれて法嗣を望まれるが、藤原惺窩の弟子松永尺五に師事することを選び、儒学の勉学に勤しんだ。柳生宗矩に従って一時江戸に出たこともあるが、帰洛後、加賀国金沢藩主前田利常に仕えた。
天和2年(1682年)、江戸幕府の儒官となり、5代将軍徳川綱吉の侍講をつとめた。その間、『武徳大成記』をはじめとした幕府の編纂事業にたずさわり、林鳳岡や林門の儒家たちとも交流している。朱子学に基本を置くが、古学にも傾倒した。
教育者としても知られ、木門十哲と呼ばれる優れた人材を輩出した。元禄6年(1693年)に徳川綱豊(後の徳川家宣)の使者高力忠弘が、甲府徳川家のお抱え儒学者を探しに来た際、順庵は門人の新井白石を推薦した。
元禄11年(1698年)、江戸で死去。墓は東京都大田区妙雲寺。
著書に『錦里文集(十巻)』、『班荊集(二巻)』がある。
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