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日本の女性声優・歌手 (1981-) ウィキペディアから
新谷 良子(しんたに りょうこ、1981年3月31日[7][9] - )は、日本の女性声優、歌手。石川県金沢市出身[3][4][5]。リマックス[10]、ランティス所属[14]。
しんたに りょうこ 新谷 良子 | |
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プロフィール | |
本名 | 新谷 良子[1] |
愛称 | りょーこ[2]、りょーこちゃん[2]、シンタス[2]、ぷりんこ[2] |
性別 | 女性 |
出身地 | 日本・石川県金沢市[3][4][5] |
生年月日 | 1981年3月31日(43歳) |
血液型 | B型[6][7] |
身長 | 158 cm[7][8][9] |
職業 | 声優、歌手 |
事務所 | リマックス[10] |
公式サイト | オフィシャルサイト「はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる」 |
声優活動 | |
活動期間 | 2001年[11] - |
デビュー作 |
ミルフィーユ・桜葉 (『ギャラクシーエンジェル』)[11][12][13] |
音楽活動 | |
活動期間 | 2003年 - |
ジャンル | J-POP、アニメソング |
職種 | 歌手 |
レーベル | Lantis |
星稜高等学校[15]卒業後に上京、日本工学院専門学校演劇俳優科声優コースへと進む[16]。在学中に清水愛・坂本美里などと「めぇめぇもぉ」を結成[17][18]。ラジオやイベントへの出演を行っていた。
その後、ブロッコリーが開催したゲーム『プリズムパレット』の一般公募のオーディションで、グランプリを受賞する[19]。しかし、同ゲーム制作の遅れにより、開発が中止するかもしれないとブロッコリーから連絡があり、お詫びとしてメディアミックス企画作品『ギャラクシーエンジェル』ヒロイン役オーディションを勧められる[20]。主役のミルフィーユ・桜葉役に合格し、デビューを果たした[20]。同時にテレビ『ゲーマーズエクスプレス』の司会も務める。
以降は、数々のブロッコリー提供のテレビ・ラジオで、司会を務めている。また、ミニアルバム『ピンクのバンビ』で、歌手デビューを果たす[13]。
紅屋25時(アットウイル)、ビーボ[8]を経て、現在はリマックス[10]、ランティスに所属[14]。
2004年、ファンクラブ「PINK☆ROCKS」を設立。
2011年、声優デビュー10週年記念として、6月25日、26日に「はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる 30 chu→lip☆BEST LIVE」、7月9日、10日に記念展示会「新谷良子 10th Anniversary Museum『chu→lipはてな』」を開催。
2012年、「新谷良子 with PBB名義」名義でミニアルバムBANDScoreを発売。
2017年12月19日、音泉、NECパーソナルコンピュータプレゼンツ デジタル生活応援!121ラジオ番組内でタイピング試験(イータイピングマスター)3級に挑戦し合格した。
基本的に内向的で、『chu→lip☆くえすと』のメイキング映像では、練習初日の顔合わせで人見知りする姿が確認できる。
ピンクが大好きで[21]、本人のファッションやCDジャケットにはそのカラーがよく表れている。また、ミニスカートやロリータファッションが多く、絶対領域にもこだわりがある。好きなファッションブランドは「MILK」や「h.NAOTO」など[22][23]。「MARCHING MONSTER」発売当時は黒や水玉模様もお気に入りで、CDのラベルには黒にピンクの水玉模様が描かれている。
小学校高学年の頃に友人に見せてもらったことがきかっけで、漫画雑誌『なかよし』を買い始めた[11]。その後、「やっぱり好きな作品は手元に置いておきたい!」と思い始めた頃からは『なかよし』、『りぼん』、『ちゃお』など連載誌問わずにコミックスを集めていたという[24]。
ディズニー関連が好きで、上京後はキャストになることも考えていた[25]。ブログには頻繁に東京ディズニーリゾートへ行ったという内容が書かれている[26]。エレクトリカルパレードを観るのがお気に入り[27][28]。
『るろうに剣心』が好きで、原作のコミックスも何度か読んでいたこと、CDブック版、テレビアニメ版の初代オープニングテーマの『そばかす』も聴いており、グッズも、アニメイトに通い色々集めていた[29][30][31]。高校時代の文化祭の時、クラス展のBGMに、キャラソンCDを使ったこともあり、専門学校時代のモダンバレエの授業のテストで、創作ダンスを作るというのがあり、そのダンスの音楽に、同作のサントラを使いテストに臨んだこともあったという[30]。同作の登場人物の相楽左之助も好きである[30]。
折原みとの小説『時の輝き』が好きであり、高校進学前は看護師になろうと思い、看護学科のある高校に進学しようと思っていた時期もあったという[32]。
昔はゲーム『卒業M』が好きで、最終的には落選したが、ゲームのドラマCDの中にファンのための企画で、3人出演できる募集でオーディション用CDがあり、二次まで通過していたこともあった[33]。二次に合格すると雑誌に名前が掲載され、その人物の中に福圓美里もおり、ものすごい縁を感じていた[33]。名前が雑誌に掲載されていたことで図に乗り、母に見せびらかしていたという[33]。
好きなアーティストは浜崎あゆみ[34]、川本真琴[35]、Tommy heavenly6[36]などが挙げられる。好きな俳優は藤原竜也[37][38]、ジョニー・デップ[39][40][41][42]。
本人いわく、寝言が凄い。自分の寝言で起きるくらいで、その時ほど一人暮らしで良かったと実感するという[43]。
舞台『想い出色の輪舞』では二役を演じることになったが、稽古中「演じ分けるにあたって、両者の精神年齢が気になる」と演出の下田正美に疑問をぶつけた。共演した俳優の寺崎正信はその真摯な姿勢に深い感銘を受け、後に「脚本に書かれている以上のことを追おうとしない若い役者が多い中で、このような一見当たり前のような疑問も無視せずに向かい合った。役を作る楽しさも難しさも知っている」と自身のウェブサイトで記している。
図工や美術が苦手[44]。
趣味は読書、かわいい服の収集[8]。資格はピアノ、トランポリン[8]。ピアノは住んでいた地方で「6歳の6月から習い事を始めるといい」という言い伝えのようなものがあることを祖母から言われた[13][45]。結局、その通りに小学1年生から習い始めて中学3年生の頃までしていた[13][45]。ピアノを始めてから「音で表現することはとても楽しいことだ」と感じるようになった[45]。ピアノをしていたため、保育士になろうと思ったこともあった[25]。トランポリンはとても楽しかったが、なかなか上手くならず、年下の子供に抜かれてしまったくらいだった[32]。
小学生の頃、「道徳の教科書」をもらって1週間で読んでしまうくらい活字が好きで、漢字も苦手ではないという[12]。
祖母は小学校の教師をしていた[46]。家は厳しく、正月に書初めをするような家だったが、ピアノを習ってからはピアノの弾き初めもするようになった[45]。その時に一緒に歌を歌ったりしており、2009年時点では録音テープなども残っているという[45]。読書や勉強に関しては、母と祖母は厳しかったという[46]。そんな厳しい家庭環境は「それが普通、それが当たり前だ」と思い、他の家の人物に憧れたりしていたこともあったが、親の教育が上手かったのかもしれず、このことについて「よくグレなかった」と語る[46]。母も祖母も怖かったが、一番怖いのは祖父だった[32]。新谷と祖父は外面がいいのが似てるという[32]。
一人っ子である[47]。4~5歳くらいは松田聖子が好きで、「聖子ちゃんになるんだ!」と言っていた[13]。その時はかわいい服を着て歌を歌っていたのに惹かれていたという[45]。アニメが好きだったことからオープニング、エンディングの曲をテレビに合わせて歌っていた[13]。
前述のとおり、厳しい家庭だったため、小さい頃から漫画やアニメに触れていたわけではなかった[11]。
アイドルをテレビで見ていたこと、バレエをしてた友人を観に行っており、「いいな」と思いながらも体が硬かったことから小学校の頃は観劇サークルで芝居を観に行っており、何かを演じたり表現することに惹かれていた[11][13]。「目が悪くなるから」とゲームは全然触らせてくれなかったが、テレビは週に二番組だけ好きなのを見てよかったという[11]。
基本的には明るくて元気な子供で、通知表もその部分だけは必ず評価されていた[45]。友達付き合いも活発で、よく友人の家に行って遊んでいた[45]。
多くの習い事をしており、民謡の後ろで踊る踊りなども少し学び、何回か発表会に出たこともあった[32]。ただし、どの習い事も自分で「習いたい」と言い出したものではなく、母や祖母に言われて始めたものだった[32]。親に「大学に行きなさい」と言われていたため、塾にも通っていた[32]。
幼少期より芝居や演技に興味を持ち、表現者に憧れていた[48]。小学生のときに声優というものがあることを知り、実在の人でも架空の人でも変身できるため、「自分がなりたいのはこれだ」と確信する[48]。セーラームーンになりたかったことや『ときめきメモリアル』のラジオドラマを聴いていたことも声優を目指すきっかけだった[25]。
当時は中学時代の仲良しグループでアニメ好きな友人ができたため、その影響を受けていた[45]。『なかよし』を買い始めた後、ちょうどその頃大人気だった『美少女戦士セーラームーン』に熱中していたという[11][32][46]。セーラームーンシリーズは最初期の『コードネームはセーラーV』の時から読んでおり、主人公のセーラーV(セーラーヴィーナス)が好きだった[25]。また、セーラーマーズにも憧れていた[25]。
地元で放送されているアニメが少なかったこともあり、その分ドラマCDを聞いていた[25]。就寝前に聴いていたが、声の芝居と音楽だけで光景が浮かんでくるのに感動したという[25]。その頃からアニメや声優のファンになった[32]。それ以前は前述のとおり、『なかよし』のような少女コミックス系などは読んでいたが、アニメはあまり見ておらず、意識して見るようになったのは『美少女戦士セーラームーン』が最初だったと語る[32]。中学時代、アニメに詳しい友人から話を聞き、声優を職業として意識するようになった[25]。その時にアニメ雑誌を貸してくれたりもしていたという[32]。
小学校時代の得意科目は国語と音楽[45]。幼少期、母に絵本を読んでもらったことから本を読むことが好きであったことと、合唱でピアノを弾いたりしていたためだという[45]。夏休み前に、学校で販売していた読書感想文のための指定図書のようなものをたくさん買ってもらっていた[45]。好きだった本は『かぎばあさんシリーズ』で、この本で読書感想文を書いていたという[45]。
作文、読書感想文などの宿題には、必ず母か祖母の添削が入ったといい、あらかじめノートに下書きをしたものを添削し、原稿用紙に清書する感じであった[45]。かなりきれいに整った大人な文章に仕上がっていたといい、教師にはバレていたと思ったという[45][46]。
中学生の頃は基本的には社交的で、元気なのは子供の頃から変わらなかったが、中学に進学すると周囲の生徒も増えるため、いじめられたりしたこともあった[46]。中学2年生ぐらいは都合の悪いことは忘れるタイプであまり覚えていないが、親から聞いた話だと、親と一緒に担任の教師の家に行ったという[46]。前述の仲良しグループがあったため、いじめというよりも単純に気が合わないというだけだったような気がしていたという[46]。
中学時代は当初は吹奏楽部に入ろうと思っていたが、バドミントン部に所属していた[46]。当時はそこそこ厳しい感じの部活だったが楽しく過ごしており、他の学校へ練習試合に行ったりするのも楽しかった[46]。ただし、バドミントンがハードなスポーツだとは思っておらず、思った以上に大変だったという[46]。
運動音痴で、走るのも遅かった[46]。ただし、小学生の頃トランポリンを習っていたことがあったため、バランス感覚だけはあるかもしれないという[46]。障害物競争などでも平均台だけは速く、2009年時点でも人混みを抜けるのは得意という[46]。
高校進学については、塾に通いながら受験に備えていた[32]。当時は声優養成所も考えており、養成所によっては中卒以上という条件の場所があるため、親に話していた[49]。その当時は大笑いされて終わりだったが、その頃から少しずつだが、「声優になりたい」と考えるようになった[49]。思い直したきっかけに雑誌『アニメディア』の中で神谷明のインタビュー記事の「今、やれることをしておきなさい」という言葉がすごく心に残り、「やっぱりちゃんと高校へ行こう」と思い直した[32]。結局、勉強が嫌いだったため、親が望んでいた公立高校には進学しなかったという[49]。
高校1年生の夏までは半年演劇部に所属していた[11][13][49]。しかし先輩が新谷に不満があったようで、「あんなに素直に自分の気持ちを直接的にぶつけることはできない」というくらいの大喧嘩をしてしまったことから、夏の1回公演が終わった後に辞めてしまった[49]。後に先輩から「いずれあなたを部長にしようと思っていたのに」と言われたが、当時の新谷はそういうことがわからなかった[49]。高校2年生からは吹奏楽部に所属したが、これは「芝居は間が大事」と知り、リズム感を養うためのものだった[13][49]。担当はパーカッション[50]で、高校時代の思い出を「ブラスバンド部(吹奏楽部)は楽しかった」と語る。高校への通学は電車とバスを利用していたが、一度だけ自転車で行ったことがある[51]。
高校1年生時から親に「声優になりたい」と言っていたが、当初は笑い飛ばされていたという[13]。アニメも変わらず好きでドラマCDなども買っており、高校になってから声優雑誌も買いだした[49]。その当時、林原めぐみが好きで、『スレイヤーズ』も見ており、小説はライトノベル好きになった[49]。林原のラジオを聴いており、母にも林原の著書などを見せて「声優の仕事はいろいろあるから老後も大丈夫なんだよ」と言っていたという[13]。林原は好きな声優だったため、「声優の仕事には、歌などを歌う流れもあるのだな」と知っており、ちょうど堀江由衣がデビューしていた時期だったため、グラビアやCDで仕事の流れもあるとは認識していた[49]。しかし自分がそうなるとは全く思っておらず、「私はとりあえずアニメに出たい」というだけで「歌を歌うなんて他人がすることだ」と勝手に思っていた[33]。
勉強は嫌いであったが、好きなもののおかげで、色々なことが繋がっていった[49]。当時、『創竜伝』と『封神演義』といった歴史ものの話が好きで、『封神演義』などは、全三冊の分厚い文庫本を読み倒していた[49]。出てくる話が漢文の教科書にも掲載されていたため、漢文の成績は良かった[49]。『創竜伝』も好き過ぎてドラマCDまで買ってしまい、台詞を全部覚えていたような気がしており、そのおかげで世界史もその時代の中国と日本史の幕末だけは得意だったという[49]。
高校時代から声優に関する書籍を買って読んでいたが、トレーニング系の書籍は持っていなかった[33]。持っていたのは、『声優になるには?』など、「どういうところでどんなレッスンをして、どんなオーディションがあり、養成所とはこういうところ」というような本が多かった[33]。そういった声優界隈の知識を知らないと、親を説得できないと考えていた[33]。「基礎の滑舌だけはできそうかな」と思い、それだけはトレーニングしていた[33]。たまにテープで録音して自分の声を聴いてみたり、友人に借りたアニメのビデオテープを自分でセリフを書き起こし、音声を消して1人アフレコなどをしていた[33]。家族がいると恥ずかしいため、いない時間を狙って行っていた[33]。台本の書き方なども分からないため、「今どこ?」のようになるなど試行錯誤していた[33]。高校時代は、「私が声優ならずに誰がなる」というくらいに思っており、その自信は高校時代までだったという[33]。
高校3年生の進路を決めなくてはいけない時期には、親と大喧嘩していた[13]。養成所の特待生やいくつかのオーディションに応募して、大阪府まで母に付き添われて受験するも、一次審査で落選し泣きながら帰ったこともあった[13][33]。親が一緒ではないと行かせてくれなかったため、落選した時は「やっぱりね」、「ほら、ダメでしょ!」と言われ、悔しい思いをしたこともあった[13][33]。
親からは「せめて大学に行け」と言われ、祖父からも「公務員になってくれ」と言われていた[13]。親は声優の仕事がわからないから心配で反対しているんだと思い、認知してもらうために、塾の送り迎えの道中、母に声優の歌やドラマCDを聴かせたり、あの手この手で説得を試みるも、それでも反対された[13][33]。進路相談では、演劇部の顧問でもあったクラス担任の教師との最初の三者面談時に、「先生はやりたいことを知っていてくれているから、2対1で親を説得してくれる」と期待していたところ全くの逆で、教師は反対する側であり親と一緒に説得された[33][52]。教師からは「演劇部ですら1年続けられなかったのに、専門学校などでやっていけるわけがない」と凄い勢いで反対され、半泣きになったという[33][52]。
しかし、その年の夏に中部地方の演劇の講習会が能登半島で開催されることになっており、理事のようなことを担任教師がやっていたため、新谷は演劇部ではなかったが、「やる気があるなら」と推薦される[52]。星稜高校演劇部からのイベント参加者はいなかったが、教師から「演じるという世界はどういうものか体験してこい」と送り出さる[52]。2〜3泊の短期間合宿だったが、想像以上に楽しく学ぶことができたことを伝えると、その後は担任も親身になり、信用できる学校などを探してくれた[52]。『声優グランプリ』の企画で金沢への帰省時、担任に当時の話を聞く機会があり、「過去に何人か女優さんになりたいと言って上京したが、うまくいかず結局帰ってきたことがあった」と打ち明けられる[52]。当初、「反対して、それで辞めるのであるならばそれはその方がいい」と思っており、「声優になりたい」と言ったのは新谷が初めてであり、担任自身「声優になるためにはどうしたらいいのかよくわからなかった」という[52]。親はぎりぎりまで反対しており、夏休みは専門学校の体験入学期間であったため、担任が見つけてくれたところと、新谷が見つけたところの両方に母と参加した[13][52]。そこで出会ったのが、日本工学院専門学校の講師を務めていた神谷明で、あまりアニメなど無知だった母でも、神谷のことは知っていたという[53]。最終的に、日本工学院専門学校の寮に入り「2年間だけなら」という条件で、声優科への入学の了解を得た[13][52]。最初に寮の抽選にもれてしまい、入寮できなければ上京できなくなってしまうため、そのことだけは泣くに泣かれず、翌日に交渉しようと学校に直接電話すると、ちょうどキャンセルが1件出たということで、優先的に入れて貰えることになり、上京が可能になった[52]。専門学校に推薦入学が決まってからは寮に入るとはいえ、上京して頑張るためには資金が必要だったことから、2年間で帰るつもりはさらさらなかったため、専門学校卒業後のことを考えると、その先の余裕を作っておきたかったため、内緒でアルバイトをしていた[52]。あの頃の行動力は「すごいな」と思ったが、勉強だと地道なことは嫌いで、日本工学院に入学が決まった10月頃から嬉しく、声優になるための勉強ができるということが楽しみで仕方なかったという[52]。
高校卒業後に専門学校に入学すると、自分の声が個性的ではないことを知った[48]。上京するまでは、「私が声優にならなかったら、だれがなるんだろう」というぐらいに思っていた[11]。しかし、学校にはすごい人物もおり、「その中で一歩前に出ないとダメだろうな」という焦りのようなものも感じていた[11]。当時は自分がやりたいことをやるための学校だったことから嫌なことはなく、「好きなことだけして毎日過ごせばいい」のような感じで、前述のアルバイトをしながら学校に通っていた[13]。一方、演技の勉強を始めた時は不安で、「こんなに好きなことだけやっていいのかな」と勉強があまり好きでなかった新谷にとっては、学校は苦手な場所で、「専門学校も」と思っていたが、入学したところどの勉強も楽しく、「自分の好きなことだけしてていいの?」と思ったという[52]。ただし、日本舞踊、タップダンス、ジャズダンス、モダンバレエなど身体を動かすレッスンも多く、運動神経がいい方ではなく体が硬いため、それらは苦手だった[54]。一方、タップダンスの授業の年配の先生がとても優しく、先生自身のスタジオでも教えてくれたという[54]。引っ込み思案なタイプだったが、専門学校に入学後、常に講義やレッスンの時は一番前に座っていた[54]。人前で演技をするのは恥ずかしかったが、仕事をするまでは、最初の第一声を発するまでの恥ずかしいという思いはなくせなかったという[54]。レッスン中でキャストが指定されて、教室の前で読み合わせをする時なども緊張していた[54]。講師の神谷明に専門学校に入学して最初に「とにかく大声出せ」と言われた言葉が印象的だった[54]。大声を出すと、とりあえず緊張が取れるようになったという[54]。1日中勉強とは思えないほど好きなことばかりをしていたため、毎日楽しかったという[11]。
専門学校在学中にラジオにも出演していたが、番組アイドル募集と書かれた告知を見たため、「アイドルは考えられないな」と思い、当初は応募しようとしなかった[54]。しかし神谷が「応募してみろ」と背中を押してくれて「それならがんばってみよう」と応募[54]。オーディションに合格した後は、アイドルという言葉がほど遠く、色々なことをしていたが、プロの現場に関わるのも初めてだったことから、とにかく何をするにも必死だった[54]。自分にできるとは何一つ思えなかったことから、とても怖かったという[54]。現場に関われることは嬉しかったが、色々な人物から注意されたり、怒られたりしていた[54]。早口のため、「聴く人は電波にのった音声だけなので聴きづらいよ」ということを指摘された[54]。話題に対してわりとマイナスな方向から話しがちだったため、「もう少し話題の広げ方を考えるように」と言われた[54]。マネージャーをしてくれた学校の先生からも色々なアドバイスを受け、自分たちのコーナーをくれたため、その中の企画を考えていた時に、「その企画、自分が聴きたいと思う?」という厳しい指摘も受けた[54]。何かを始めるたびに、学校の先生をはじめ、スタッフなどたくさんの人物からアドバイスや指摘をくれたことは、とても役に立っていることから感謝しているという[54]。
1年目の終わりの公演では、主役の女の子と、楽団のキーボードを担当していた[54]。始まる前は緊張していたが、始まると気にならなくなり、舞台の上では役としてどう生きるのかに一番意識が行っていた[54]。役は「どんな反応をするんだろうか」などと、舞台を経験したことで、考えられるようになったという[54][55]。
2年生の夏の研修旅行前の勢いで前述のブロッコリーが主催していたオーディションに応募[55]。研修旅行から帰ってきたところ、一次審査合格の案内が届き、池袋の会議室で行われていた二次審査の会場に行っていた[55]。その時、プロの人物も何人もおりマネージャーと一緒に来ていた人物は、皆とてもかわいい人物ばかりであった[55]。そんな中、新谷1人でポツンと余計に緊張して萎縮していた[55]。会場に着いた時点で、「もうダメだ」と思っていたが、三次オーディションまでも合格してしまい、どうしたらいいかわからなくなり先生に電話で相談していた[55]。二次審査は質疑応答と自己PR、三次審査はセリフとアカペラの歌であったが、「既存の歌を歌うと、音程を外した時にばれやすいかな」、「この曲だったら知らない人がほとんどなので、正解もわからないだろう」と思い、出演していたラジオ番組で作った歌を歌っていた[55]。最終の公開オーディション当日には、専門学校の先生が付き添ってくれた[55]。その時はグラビアアイドル、モデルも受けに来ていたようで既に仕事していた人物もいたようであったため、合格するとは思っていなかった[20]。合格した嬉しさもあったが、「どうしたらいいんだろう」と不安もあった[20]。審査に通過して学校に電話をしていた時は、先生も「受かる」とは思っていなかったようで、「道に迷ったの?」と心配されるくらいであった[20]。前述のとおり、最終オーディションでグランプリを受賞しているが、その時代から応援してくれるファンもいてくれて、すごく長い付き合いになった[20]。皆のおかげで、前述のPCゲームのヒロインに選ばれたという[20]。オーディションに合格したことは嬉しく、自信になったが、前述の通り、親に「声優になるための猶予は学校に通っている二年間だけ」と約束していたため、「これでなんとか続けられる」という安心感のほうが強かったという[11]。神谷明に、「お前は笑顔が一番の魅力だから、辛くても人前ではずっと笑顔でいろ」と言われていたこともあり、当時は、「とにかく元気でいることが私の持ち味だ」と思っていたという[11]。
その後、前述にもある通り、『ギャラクシーエンジェル』のオーディションでミルフィーユ・桜葉役に合格[48]。その時は何も知らなかったため、原作がない『ギャラクシーエンジェル』では、「色が付いていないのがよかった」と語る[20]。専門学校でほとんど褒められた記憶がなく、先生に「受かったよ!」と報告しても、「1作品で消えることもあるからなぁ。これで波に乗って頑張ればいいけどなー」と言われたという[56]。初アフレコで憧れの先輩たちが並み居る中、そこに自分がいるとは信じられないまま収録は進み、無我夢中で記憶はほとんどないが「思うように声は出なかった」と語っている[48]。その時初めて、神谷が何故「大きい声を出せ」と述べていたのか、その意味が分かった[56]。専門用語も何も知らず、いつマイク前に立つのかわからなかった[56]。スタジオは、マイクが3本立つスタジオであったが、新谷だけ専用に1本のマイクを使わせてくれたことから、「いつも申し訳ないな」と思いいつも謝っていた[56]。一方、初めは掛け合いもぜんぜん芝居になっていなかった[56]。救いだったのは、演じていたキャラクターがあまり人の話を聞かない感じの突っ走るキャラクターだったことであった[56]。最低ラインぎりぎりのところで商業作品としては成り立ったが、芝居を考えると全く話にならないレベルで「このキャラクターではなく、別のキャラだったら成り立たなかった」と語る[56]。
アニメスタッフも、新谷のデビュー作が『ギャラクシーエンジェル』だと知っていることから、分かりやすいように新谷のキャラ絵だけ色をつけてくれたり、皆色々助けてくれた[12]。しかし「実は色をつけていたんだよ」と言われるまで緊張して周囲が見えず、全然気付かなかったという[12]。
『ギャラクシーエンジェル』は、大きくメディアミックス展開をしていたため、テレビやラジオの出演、横浜アリーナでのライブや客の1人ひとりと触れ合えるイベントまで、色々なことを体験しており、当時はとにかく目の前のことを一生懸命するしかなかったという[11]。
『ギャラクシーエンジェル』の収録が始まったのが専門学校卒業間際だったことから、2週目の収録の時が卒業式とぶつかっており、式だけ出席したもののその後の卒業パーティーには収録があったため、参加できなかった[56]。専門学校在学中に好きだったのは講師の神谷が褒めてくれたことからナレーションだった[56]。ただし、その時できることを一生懸命して、「後悔だけはしないように」と思ったという[56]。
卒業時に、学校である事務所のオーディションが開かれ、そこで合格して事務所に所属[56]。講師からは、「私がその当時仕事を持っているということは、自分が行きたいという事務所を選べる程度にはいいお土産になるよ」と言われ、そのおかげで色々声を掛けてもらえるようになった[56]。プロとして仕事をしていくことをしなくてはいけないことで精いっぱいであり、テロップに名前が流れても自身のこととは思えず、同姓同名の別人に思えた程だったという[12][56]。その時は「号泣するくらいうれしかった!」という話を聞いていたが、あまりにも現実味がなく、今まで自分の中でアニメは「出るもの」ではなく「見るもの」だったため、急にそのギャップは埋められなかったようだった[12]。2011年時点は、テロップにでているのを見ると嬉しく、「中にいる自分を客観的に見つめることができたとき、自分は声優になったんだな」と実感できたという[12]。
2009年のインタビューでは、自分には完璧主義者な部分もあったと語っている[56]。「やれないことがあっちゃいけない」と思い、「何でもできるのがプロ。それに比べて、今の自分はあまりにもできな過ぎる……」と考えてしまい、理想と現実の間を埋めるのが難しかった[56]。その間を少しでも埋めるべく、まず収録の時に受けたダメ出しを、一つひとつ直していくように頑張っていた[56][57]。台本のペーパーノイズを注意された時は、次はノイズを出さないように注意する、マイクに入れる時は周囲の人物もよけられるようにするなど、できることから始めていき、前回注意されていたことを言われなくなっただけでも進歩、ということをしていった[57]。仕事としてお金を貰いながら学んできたため、色々と申し訳なかったという[57]。
落ち着いてきたのは、『ギャラクシーエンジェル』の8話目あたりの収録でかないみかの声が聞こえるなど周囲のことが少しずつ見えてきた[12][57]。一生懸命落ち着かせようとしてくれているのが伝わり、なんとなく安心して周囲を「普段でも芝居でも助けていただいているんだなぁ」と実感するようになった[12][57]。もらった優しさを感じることができるようになってからは楽になり、自分自身のやらなくてはならない役目も見えてきた[57]。それらを周囲が見やすいようにしてくれていたことにも気付いたという[57]。
2011年時点でもも緊張はしやすいといい、オーディションが緊張する時は、声を出すことを意識して頑張っており、大人になるにつれて人前に出るのは緊張するようになったかもしれないという[12]。ライブでも袖で激しく緊張しているが、その場の空気とファンの温かいパワーを貰うと元気になれてしまうという[12]。
その後は「表現したい気持ちはわかるけれども、そう持っていくためにはどうしたらいいのか」など、芝居の内容に踏み込むダメ出しを受けることが多くなった[57]。しかし、芝居的なダメ出しを即座に直したり理解したりすることは難しく、その内容は分かるが形にできなかったりしていた[57]。話してくれること自体がわからなかったりしていたこともあったという[57]。
当時は新人だったため、できないことだらけで居残りもあり、いっぱい怒られいっぱい泣いていた[12]。音響監督のたなかかずやに「主役が現場の空気を作るんだ、次の週にはちゃんと笑っていろ」と言われ、気をつけていたという[12]。『ギャラクシーエンジェル』の現場では、スタッフや共演者から多くのことを学び、「この恩に報いるためには、このまま終わるわけにはいかない」と感じ、色々なことにおいて、「恵まれている」とも思ったという[12][57]。
プロになってから「人間味を出したい」と思うようになった[57]。初期の頃は『ギャラクシーエンジェル』のミルフィーユ役のまんまの、「明るくて元気で悩みなさそうでいいね」というようにとらえられることも多かったが、「それは少し違うかな」と思い、2009年時点では、「人間らしさ、人間“味”」という部分を「これからもなくしたくないな」と語っていた[57]。2008年のインタビューでは、プロになってからアニメですごく感動するシーンを見ていたところ、「こういうふうにお芝居をすれば泣けるのかな」と考えてしまうなど、素直に楽しんで見られなくなった[11]。オーディションもすべてうまくいかないこともあり、3カ月に1回は落ち込み、「辞めたい」と思ったこともあった[11]。しかし、お世話になっているスタッフやファンと顔を合わせると「私がいただいた恩恵を、これから精一杯頑張ることでお返ししなきゃ」と感じた[11]。そう思わせてくれるいい出会いが多数あったことから、自分自身では「“運と縁で生きている人”だ」といい、ひとつひとつの出会いを大事にしていきたいと考えると「くじけている場合じゃない」と思えてくるという[11]。
新谷自身は何を演じても「声が似ている」、と言われることもあるが、そういう意味では、「そのアニメのキャラクターではなく、キャストで見られることが増えてきたのかな」と語る[57]。
仕事をする際に心がけていることは「作りすぎないでいよう」と思い、キャラクターや台詞回しを作りすぎるとなかなか変えられないため、相手の方の返ってくる台詞によって変えていけるように気をつけている[12]。「その場になじむように、その空気になじむように」ということを心がけているという[12]。
専門学校時代は歌の授業もあったが、当時は「私もいつか歌うんだな」など思い描いたりしていたということは全然思ってなかった[13]。
声優のオリジナルのCDの記事など雑誌で読んでいたことから声優が歌う機会が多くなっているのも知っていた[13]。しかし新谷自身はうまくなく、そういう活動をするとは全く思っていなかったという[13]。
デビュー作の『ギャラクシーエンジェル』はアフレコの前にOP曲のレコーディングがあったため、歌の仕事が先になった[13]。
当時は事務所に所属する前で、「すごいキャストの皆さんと共演するだけでもすごいのに、自分の歌がOPに流れるなんていいのかな? 大丈夫かな?」と思ったという[13]。
アーティストデビューについては『ギャラクシーエンジェル』が始まり、早い段階で話をくれたようで、マネージャーから聞かされた時には驚いていた[13]。その時に「せっかくのお話だし、頑張ろう!」と思っていたところ、しばらく進展がなかった[13]。
2002年に本格的なプロジェクトが動き出し、その頃は変な知識があったため、「絶対、(投資分)回収できないと思いますよ。大丈夫ですか?」と言ったりしていた[13]。当時から、野川さくら、千葉紗子もリリースしており好調で「すごい」と思っていたが、そこに入ることはピンときておらず、「私がランティスの勢いを止めたらどうしよう?」と本気で心配していたという[13]。
ここでは、「アニメの新谷とは差をつけたいな」、歌、ライブでは、「今のリアルな新谷、素の新谷良子を表現したい」、「アニメではもちろんキャラクターを表現したい」と思っている[57]。2009年時点では曲のファンも増えてきてくれて、アニメは無知だが曲は好きという人物もおり、新谷にとっては、とても嬉しいという[57]。
自らの音楽スタイルを「バンビポップ」と称している[注 1]。アルバム作成の際にはそれぞれのCD独自のコンセプトのほかに、毎回共通して「等身大のしんたにりょーこ」というコンセプトで作成されている。ライブにおいて演奏を担当するバックバンド「Pink Bambi BAND」が存在する。基本的にライブはこのバンドと行っているが参加メンバーは流動的であり、2008年にROSARYHILLが結成されてからは当バンドのメンバー+ドラマーという編成になっている。2011年頃からほぼ同一のバンドメンバーでライブが行われているOLDCODEXとイベントが重なることが多くなり、またバンドメンバーが流動的になりつつある。
歌手活動もしていることから、「アイドル声優」と見られると語るが、新谷自身は、「完璧なアイドル声優ではなくて、もう少し人間っぽい、親しみやすい声優さんでいたいな」と語る[11]。
座右の銘は「はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる」。これは彼女のライブツアーのタイトル名として、現在のところ毎回使用されている。ライブ終盤に歌う曲として同名の曲があるが、これはライブ限定で歌われておりCDなどには収録されていない。なお、2007年6月27日に発売されたライブDVD『新谷良子 LIVE“はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる'07”chu→lip☆ARMY』において、初めてフルサイズで映像化された。
ライブでは「ちゅーりっぷ王国」という架空の王国の姫であるという設定であり、観客は国民ということになっている。国歌は「ray of sunshine」。国花は「ファンシーフリル」(チューリップの品種の一つ)。建国記念日はファーストライブが行われた日である2004年6月26日。同じく王国という設定でライブを行っている田村ゆかりのことを「隣国の姫」と呼ぶことがある。ライブで王国スタイルをとっている理由は「いわゆる『声優さんのライブ』というのをわざと作り上げたかったから。」と語っている[58]。
『ギャラクシーエンジェル』で共演した田村ゆかりが新谷を可愛がっており、ブログでもその仲のよさは知られ、親友と呼べる間柄。
喜多村英梨は新人の頃に『マーメイドメロディー ぴちぴちピッチ』で共演しており、新人で勝手が分からなかった喜多村にアドバイスをした事で慕われている。また、『かってに改蔵』のファン同士の仲である。
太字はメインキャラクター。
※はインターネット配信。
※はインターネット配信。
枚 | 発売日 | タイトル | 規格品番 | 最高位 |
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1st | 2003年8月27日 | ワガママ date show | LACM-4104 | 62位 |
2nd | 2003年9月26日 | あいのうただから | LACM-4106 | 73位 |
3rd | 2003年10月22日 | ray of sunshine | LACM-4108 | 82位 |
4th | 2004年9月23日 | 恋の構造/トリックスター | LACM-4155 | 54位 |
5th | 2004年11月26日 | Wonderstory/HAPPY END | LACM-4168 | 67位 |
6th | 2005年3月2日 | 世界でいちばんボクが好き! | LACM-4185 | 131位 |
7th | 2005年10月5日 | Happiest Princess | LACM-4220 | 63位 |
8th | 2006年5月24日 | CANDY☆POP☆SWEET☆HEART | LACM-4262 | 52位 |
9th | 2007年6月27日 | ロストシンフォニー | LACM-4383 | 42位 |
10th | 2008年5月21日 | crossingdays | LACM-4502 | 38位 |
11th | 2008年10月22日 | 月とオルゴール | LACM-4535 | 58位 |
12th | 2009年6月3日 | ReTIME | LACM-4621 | 56位 |
13th | 2009年11月25日 | Piece of love | LACM-4667 | 67位 |
14th | 2010年3月24日 | Magic Spell | LACM-4701 | 46位 |
15th | 2010年10月6日 | HONEY TEE PARTY! | LACM-4743 | 55位 |
16th | 2011年10月26日 | Euphoric Prayer | LACM-4871 | 51位 |
17th | 2012年2月14日 | AUTOMATIC SENSATION | LACM-4908 | 54位 |
18th | 2015年3月11日 | STARting -from rebirth- | LACM-14318 | 36位 |
発売日 | タイトル | 規格品番 | 最高位 | |
---|---|---|---|---|
1st | 2004年4月28日 | ファンシー☆フリル | LACA-5277 | 63位 |
2nd | 2005年5月25日 | Pretty Good! | LACA-5390 | 96位 |
3rd | 2006年11月15日 | 空にとける虹と君の声 | LACA-5565 | 23位 |
4th | 2007年12月19日 | Wonderful World | LACA-5717 | 87位 |
5th | 2009年2月18日 | MARCHING MONSTER | LACA-5866 | 30位 |
6th | 2011年6月22日 | UNLOCKER! | LACA-15126 | 44位 |
7th | 2013年8月14日 | Blooming Line | LACA-15328 | 55位 |
発売日 | タイトル | 規格品番 | 最高位 | |
---|---|---|---|---|
1st | 2007年2月14日 | The Great bambi Pop Swindle | LACA-5600 | 71位 |
2nd | 2011年2月9日 | BEST BAMBI BOX | LACA-9205/6 | 21位 |
3rd | 2018年10月10日 | BEST BAMBI BOX 2 | LACA-9649/50 | 55位 |
楽曲 | タイアップ |
---|---|
世界でいちばんボクが好き! | テレビアニメ『だめっこどうぶつ』オープニングテーマ |
Happiest Princess | PS2用ゲームソフト『White Princess 〜一途にイっても浮気してもOKなご都合主義学園恋愛アドベンチャー!!〜』オープニングテーマ |
CANDY☆POP☆SWEET☆HEART | テレビアニメ『姫様ご用心』エンディングテーマ |
crossingdays | テレビアニメ『紅 kure-nai』エンディングテーマ |
Magic Spell | オンラインRPG『トリックスター0 -ラブ-』イメージソング |
HONEY TEE PARTY! | テレビ東京『アニソ〜ンぷらす』2010年10月度オープニングテーマ |
AUTOMATIC SENSATION | アニメ『こいけん!〜私たちアニメになっちゃった〜』主題歌 |
Blooming Line | テレビ東京『アニメDON!』2013年8月度エンディングテーマ |
発売日 | タイトル | |
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1st | 2005年6月29日 | "はっぴい・はっぴい・すまいる '05" Chu-lip くぇすと in Zepp Tokyo |
2nd | 2005年12月21日 | "はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる'05" chu→lip☆Legend in Zepp Tokyo |
3rd | 2007年6月27日 | "はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる'07" chu→lip☆ARMY in U-PORT |
4th | 2008年7月23日 | "はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる'08" chu→lip☆Medalist |
5th | 2009年10月21日 | "はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる'09" chu→lip☆Toy parade |
6th | 2012年3月21日 | "はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる'11" chu→lip☆CHEERS! |
7th | 2014年4月28日 | "はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる'13" chu→lip☆Voyage |
8th | 2016年2月24日 | "はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる’15" chu→lip☆STAR |
ユニット名 | メンバー |
---|---|
めぇめぇもぉ | 新谷良子・清水愛・坂本美里 |
Teddy milk(テディミルク) | 新谷良子・清水愛 |
エンジェル隊 | 新谷良子・田村ゆかり・沢城みゆき・山口眞弓・かないみか・後藤沙緒里(ゲーム版のみ) |
ぴたぴたエンジェル♪ | 新谷良子・田村ゆかり |
ぴたぴたエンジェル♪A | 新谷良子・田村ゆかり |
Vsixteen | 愛河里花子・飯塚雅弓・岩田光央・國府田マリ子・サエキトモ・新谷良子・鈴村健一・高田広ゆき・ 竹内順子・豊嶋真千子・千葉紗子・三重野瞳・西村ちなみ・三橋加奈子・宮村優子・望月久代 |
あまえ隊っ!! | 川上とも子・新谷良子・寺田はるひ・中原麻衣・樋口智恵子・渡辺明乃 |
激☆娘 | 新谷良子・山本麻里安・三重野瞳 |
ラジアニfeaturing.新谷良子+後藤邑子 | 新谷良子・後藤邑子 |
桃月学園1年で〜組 | 門脇舞・沢城みゆき・新谷良子・生天目仁美・松来未祐 |
che★lip | 新谷良子・野川さくら ※アニぱら音楽館 EXTREME LIVE 2005の一夜限り |
絶望少女達 | 野中藍・井上麻里奈・小林ゆう・沢城みゆき・新谷良子・真田アサミ・谷井あすか・後藤邑子・松来未祐 |
発売日 | 商品名 | 歌 | 楽曲 | 備考 |
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2004年 | ||||
4月21日 | てんたま2wins ヴォーカルプラス | 五十嵐真雪(新谷良子) | 「Rebirth〜どんなに遠く離れていても〜」 | ゲーム『てんたま2wins』関連曲 |
2006年 | ||||
12月27日 | Gift〜eternal rainbow〜 キャラクターソングミニアルバム | 藤宮千紗(新谷良子) | 「デリケートマジック」 | テレビアニメ『Gift〜eternal rainbow〜』関連曲 |
年 | タイトル | 公演会場 | バンドメンバー |
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2004年 | 新谷良子ファーストライブ はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる'04 chu→lip☆LIVE | 6月26日 東京 ラフォーレミュージアム六本木 | |
2005年 | 新谷良子ファーストライブツアー“はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる'05 chu→lip☆くえすと” | 2月12日 名古屋 ボトムライン 2月13日 大阪 BIG CAT 2月20日 東京 Zepp Tokyo |
山本直哉(ベース) 宮崎誠(ギター) 船山周(キーボード) ゆうまお(キーボード、コーラス) 川上貴史(ドラム) |
新谷良子 さまぁらいぶつあー“はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる'05 chu→lip☆Legend” | 8月20日 大阪 BIG CAT 8月21日 福岡 DRUM Be-1 8月27日 仙台 CLUB JUNKBOX 9月3日 名古屋 ボトムライン 9月4日 東京 Zepp Tokyo(完結へん) 9月10日 金沢 金沢市文化ホール(あんこーるすぺしゃる) |
山本直哉(ベース) 宮崎誠(ギター) R・O・N(ギター、キーボード) 船山周(キーボード) ゆうまお(キーボード、コーラス) 川上貴史(ドラム) | |
2007年 | 新谷良子 LIVE“はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる'07”chu→lip☆ARMY | 3月3日 東京 ゆうぽうと簡易保険ホール | 川島弘光(ベース) R・O・N(ギター&キーボード) 太田貴史(ギター) 宅見将典(ドラム) |
2008年 | 新谷良子Live Tour “はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる'08”chu→lip☆Medalist | 2月23日 名古屋 E.L.L. 2月24日 大阪 BIG CAT 3月9日 東京 SHIBUYA-AX | |
Early X'mas Time in chu→lip☆kingdom | 11月30日 神奈川 CLUB CITTA' | 川島弘光(ベース) R・O・N(ギター&キーボード) 太田貴史(ギター) 村田一弘(ドラム) | |
2009年 | 新谷良子Live Tour 2009 はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる'09 chu→lip☆Toy parade | 全14公演
4月18日 千葉 LOOK |
川島弘光(ベース) R・O・N(ギター&キーボード) 山本陽介(ギター) 村田一弘(ドラム) |
2011年 | Ryoko Shintani 10th Anniversary はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる 30 chu→lip☆BEST LIVE | 6月25日 日本橋三井ホール 6月26日 日本橋三井ホール(昼の部)(夜の部) |
宮崎誠(ギター) HIROTOMO(高橋寛知)(ベース) 村田一弘(ドラム) Show(ギター) |
Ryoko Shintani 10th Anniversary TOUR はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる'11 chu→lip☆CHEERS! | 9月25日 横浜BLITZ 10月2日 名古屋CLUB QUATTRO 10月9日 大阪BIG CAT 10月23日 東京 SHIBUYA-AX |
宮崎誠(ギター) 川島弘光(ベース) RyoYamagata(ドラム) 大内慶(ギター) 榎本裕介(トロンボーン) 小薗江榮人(トランペット) 白坂勉(テナーサックス) | |
2013年 | 新谷良子 LIVE TOUR「はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる'13 chu→lip☆Voyage」 | 11月16日 名古屋 ElectricLadyLand 11月17日 大阪 umeda AKASO 11月30日 東京 品川ステラボール |
宮崎誠(ギター) 川島弘光(ベース) RyoYamagata(ドラム) 大内慶(ギター) 荒幡亮平(キーボード) |
2015年 | Ryoko Shintani Live Tour はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる'15 chu→lip☆STAR | 4月4日 仙台 darwin 4月11日 名古屋 ボトムライン 4月12日 大阪 BIG CAT 4月18日 東京 TOKYO DOME CITY HALL |
宮崎誠(ギター) 川島弘光(ベース) 村田一弘(ドラム) 睦月周平(ギター) 荒幡亮平(キーボード) |
2017年 | Ryoko Shintani Live Tour はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる'17 chu→lip☆DayDream | 9月17日 名古屋 ボトムライン 9月18日 大阪 BIG CAT 9月22日 金沢EIGHT HALL 9月23日 金沢 EIGHT HALL 10月15日 東京 Zepp DiverCity |
宮崎誠(ギター) 川島弘光(ベース) 村田一弘(ドラム) 大内慶(ギター) 荒幡亮平(キーボード) |
2018年 | Ryoko Shintani 15th Anniversary Live はっぴぃ・はっぴぃ・すまいる'18 chu→lip☆BEST Wishes | 10月21日 東京 Zepp Tokyo |
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