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日本の小説家 (1871-1943) ウィキペディアから
徳田 秋声(とくだ しゅうせい、旧字体:德田 秋聲、1872年2月1日(明治4年12月23日) - 1943年(昭和18年)11月18日)は、日本の小説家。本名は末雄(すえお)。日本の近代文学を代表する作家の一人である。帝国芸術院会員。
石川県金沢市生まれ。尾崎紅葉門下であったが、現実社会に目を向け『新世帯』『足迹』『黴』『爛』『あらくれ』などを発表。自然主義的技法の完成者であり、静かに現実を見つめ、それを飾り気なく書き込んでいく作風で、島崎藤村、田山花袋と並ぶ大家となった。その後自然主義の衰退と共に行き詰まったが、『仮装人物』などで心境小説に新境地を開拓して復活。絶賛を受けた。その後『縮図』に取り掛かるも、戦時下に権力の干渉に遭って挫折し絶筆となった。
1872年2月1日[1](明治4年12月23日)現在の金沢市横山町に加賀藩家老横山氏の家臣徳田雲平の第6子(3男)として誕生(翌年の誕生日が暦の変更のため来なかったこともあり、生涯誕生日は12月23日、年齢は数え歳で通した)。自伝小説『光を追うて』によれば、雲平は秋声が3番目の妻タケ[2]の胎内にあるうちから「産まれ落ちたら知り合ひの農家へくれる約束」をしていたが、生まれた顔を見て思いとどまったという。明治維新後、秩禄公債で苦しい生計を立てていた没落士族の末子として「宿命的に影の薄い生をこの世に享け」た子供であり、4歳で生家を引き払って後は居を転々とし、また病弱であったため小学校へも学齢に1年遅れで入学しなければならなかった。随筆『思い出るまゝ』には、「私は幼い時分から孤独であつた。憂鬱の虫が体中に巣くつてゐた」と記されている。
小学生時代(現在の金沢市立馬場小学校)、一学年下に泉鏡花がいたが、この時点では顔見知り程度であった。1888年(明治21年)第四高等中学校に入学。このころから読書熱が高まり、翌年上級生から小説家になる事を勧められ志す。学科では、英語と漢文が特に他に抜きん出ていた[3]。
1891年(明治24年)、父が死去したため、第四高等学校を中途退学。翌1892年(明治25年)、友人の桐生悠々と上京し尾崎紅葉の門を叩くが、玄関番の泉鏡花に不在を告げられて辞去。郵送した原稿は、「柿も青いうちは鴉も突き不申候(まうさずさふらふ)」と書かれた返書を添えて返送された[4]。悠々が復学のため帰郷したのちは、大阪の長兄を頼るなど各地を転々とし、郡役所の雇員、新聞記者、英語教師などをしながら半放浪的生活を送った。「秋聲(秋声)」の筆名は、自由党機関誌「北陸自由新聞」の編集をしていた頃の1893年(明治26年)10月12日付けの私記「秋聲録」から使い始めた[5]。
1895年(明治28年)、博文館の編集部に職を得、当時博文館に出入りしていた泉鏡花の勧めで紅葉の門下に入る。1896年(明治29年)、被差別部落出身の父娘に取材した『薮かうじ』を「文芸倶楽部」から発表して「めざまし草」の月評欄に取り上げられ、これが実質的処女作となる。以来、泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉とともに紅門の四天王と称され、1900年(明治33年)「讀賣新聞」に連載した『雲のゆくへ』が出世作となる。しかし、硯友社の戯作者的な傾向に沿わない地味で質実な作風であったため、4人の内ではもっとも影の薄い存在であった。
1902年(明治35年)7月ごろ、手伝いに来ていた女性の娘である小沢はまと恋愛関係になり、事実上の結婚生活が始まった(入籍は2年後)。1903年(明治36年)には、長男一穂が誕生する。同年尾崎紅葉が死去すると、硯友社もにわかに衰退をきたし、日露戦争後には文学の新気運として自然主義文学が擡頭するなかで、秋声の文学的資質が、新文学の写実的な傾向と相俟って本領を発揮してゆくこととなる。なお、1906年(明治39年)4月末頃、秋声の一家は本郷森川町の住居に転居し、ここが生涯の住処となった[6]。
1908年(明治41年)、以前住まいしていた小石川表町の近所の酒屋をモデルにした中編『新世帯(あらじょたい)』を「国民新聞」10月16日-12月6日に連載し、自然主義への具体的な作風転換の第一作となる。また、1908年(明治41年)刊の短編集『秋聲集』[7]に所収の『発奮』『小軋轢』『犠牲』『絶望』『裏の家』『二老婆』、1909年(明治42年)の短編集『出産』[8]に収められた『北国産』『四十女』『日向ぼっこ』『晩酌』『大祭日』『リボン』及び表題作などの諸作によって短編作家としての実力を示し、自然主義の一角に地歩を占める[9]。野口冨士男が「倒叙」と呼び[10]、松本徹が「錯綜する時間」と評した[11]、時間の巻き戻しの頻繁な秋声独特の文章はこのころから見られるようになる。
1910年(明治43年)には、妻はまをモデルに、信州の田舎から上京した娘がさまざまの成り行きを経て婚家を飛び出すまでをえがいた『足迹(そくせき)』[12][13]を「讀賣新聞」7月30日-11月18日に連載。1911年(明治44年)には、結婚に至るまでの経過とその後の無気力な生活に材を得た私小説『黴(かび)』を、夏目漱石の推挽により「東京朝日新聞」8月1日-11月3日に連載する。この「二作は秋聲の生涯における傑作であつたのにもかかわらず、その執筆当時においてはさしたる反響をよびおこすに至らなかつた」[14]が、翌1912年(明治45年)1月に『黴』が新潮社より単行本化されると、「早稲田文学」「新潮」誌等が盛んに書評や特集で取り上げ世評が高まり、秋声は初めてといっていいほどの文壇的成功をおさめる。それを追う形で『足迹』も1912年4月の単行本化と共に評価され、この2長編によって、島崎藤村、田山花袋らとともに、自然主義文学の担い手として確固たる地位を築いた[15]。
短編に於いても、『老婆』『娶(よめ)』『指環』(1909年/明治42年)、『死後』『二人』『山の手』『新店』(1910年/明治43年)、『ある夜』『丸薬』『出京』『下宿屋』(1911年/明治44年)、『わき道』『軀(むくろ)』『媾曳(あひびき)』『涙』(1912年/明治45年)など優れた作品を次々と発表し、その冷静な観察とリアリズムは、常凡な庶民の日常を「冷笑もせねばさしたる感激もなく世相の一端を切りとつて、ぢつと腰を据ゑて見」[16]ることによって裸形の真実を示している。生田長江は評論「徳田秋声の小説」において、秋声の自然主義を作者の「本来の性格に深い根差(ねざし)を置いてゐる」として、「生れたる自然派」と評した[17]。
自然主義文学運動が終熄し大正時代に入ってからも、『国民新聞』1913年(大正2年)3月21日-6月5日連載、7月刊の中編『爛(ただれ)』[18]において身請けされた一遊女の愛慾の生活を、1915年(大正4年)の長編『あらくれ』では本能のままに男から男へと渡り歩く勝気な女の半生をえがき、自然主義的作風の絶頂を示した。こうした、市井に生きる庶民の姿を、女性の生き方に焦点をあてて描くいわゆる「流転小説」によって、女性を描くことに長けた作家という評価も生まれた[19]。川端康成は、「秋声の自然主義の道は、明治四十一年、秋声三十七歳の『新世帯』にひらけ、四十三年から大正二年の、『足迹』、『黴』、『爛』で峠に達し、大正四年の『あらくれ』でまた新たな頂を極めたと見られる」[20]と述べている。
一方、1908年(明治41年)の『診察』以来、数多くの私小説の短編を発表しているが、明治40年代から大正年間にかけての短編小説では、客観小説のほうに優れた作品が多いとされる[21]。大正初期の主な短編作品には、『馴染の家』『別室』『衝突』(1912年/大正元年)、『痛み』『足袋の底』『絶縁』(1913年/大正2年)、『わなゝき』『都の女』『密会』(1914年/大正3年)、『女』(1915年/大正4年)などがある。吉田精一は、「『黴』以後『爛』に前後し、『あらくれ』に至る時期の短篇は、彼の短篇作家としての技倆のますます冴えて来たことを語つてゐる」と述べている[22]。なかでも、娼妓に相手にされずその仕返しをする老人をえがいた大正2年の『足袋の底』は、「一つの句でも、真実の命の無い、もしくは意義の籠らぬものが無いとも云へるほど、無駄のない技巧を持」[23]つ完成度を示すものとして第一に指折られる。
その後も、『奔流』(1915年 - 1916年/大正5年)、『何処(いづこ)まで』[24](1920年/大正9年)など「流転小説」の系譜につながる長編小説や『彼女と少年』(1917年/大正6年)、『或売笑婦の話』『蒼白い月』(ともに大正9年)、『復讐』(1921年/大正10年)などの好短編を執筆し、大正9年11月には文壇における多年の功績により田山花袋・徳田秋声誕生五十年記念祝賀会が催された。しかしその一方で、1917年(大正6年)以降多くの通俗小説を書き散らすようになっており[25]、純文学の分野ではやや弛緩した心境小説が目立ち、文学的には中だるみの時期に入ったとも言われる[26]。
もっともこの時期の仕事量を見ると、例えば1921年(大正10年)には長編小説の連載を同時に4本も抱え、一つを終えると間を置かず次の連載依頼が来るといった具合であり[27]、また大正中期から昭和初年にかけて量産した通俗小説のなかには、映画化・劇化されたものも少なからずあり[28]、当時勃興期を迎えた大衆小説の流行作家・人気作家という側面が近年重要視されつつある[29]。
こうした濫作のなかにあっても、大正末期には客観小説の『お品とお島の立場』(1923年、大正12年)『車掌夫婦の死』(1924年/大正13年)、私小説の『花が咲く』『風呂桶』(ともに1924年/大正13年)などの優れた短編を発表し、特に最後の2篇について「主観の窓展くと云ひたいやうな仄明りが射し始めた」と広津和郎が評したような円熟の境地を示している[30]。
1926年(大正15年)1月2日、妻はまが脳溢血で急死する。その2年前の1924年(大正13年)から秋声に手紙を出して以降時折出入りしていた山田順子は、訃音を聞きつけ秋田県から急ぎ上京し、秋声の愛人として徳田家に入り込みジャーナリズムを賑わしたのみか、秋声は『元の枝へ』などの「順子もの」と呼ばれる短編群[31]で、その情痴のありさまを逐次的に書き続け、世間の好奇の目を集めた。「しかし、派手な話題がつづき、痴態がさらされ、しかも順子への秋声の不当な買いかぶりを眼前にすると、しだいに興ざめし、非難の声も高まっていった」[32]。秋声は当初は歳が離れすぎているため結婚は考えていないと表明していたが、順子が家出をするようになると逆上して脳貧血まで起こすほどとなり[33]、正式結婚まで考えたが、順子は、自らの痔の手術をした医師や、慶大の学生(秋声の長男一穂の友人)らと浮き名を流すなど曲折の末に、勝本清一郎と恋愛に陥り、1927年(昭和2年)秋声との正式結婚の直前に勝本の許へ奔った。その後一時期縒りを戻すが、同年の大晦日、順子は秋声宅から追い出され、翌1928年(昭和3年)1月2日、藤間静枝の仲介により関係に一応の終止符が打たれた。但し、以後もしばらく断続的に関係は続いた。
それ以後しばらく作家活動は低迷し、プロレタリア文学やモダニズム文学の隆盛も相俟って、1930年(昭和5年)からは殆ど作品発表の場すらない状態が続き、ダンスを習い、ホールに出入りするようになる。 また、この年の5月には危篤状態に陥った田山花袋を見舞い、見送った[34]。 1931年(昭和6年)夏には、小石川白山の芸者小林政子(『縮図』のモデル)を識る。秋声は後年、この低迷期を「芸術の方面でも影が薄くなつてゐた」が「立直しの工作は容易ではなかつた」「彼は彼自身のぼろぼろになつた自然主義から建直さなければならなかつた」と振り返っている[35]。こうした境遇の秋声を励ますため、1932年(昭和7年)5月には室生犀星、中村武羅夫、井伏鱒二、舟橋聖一、尾崎士郎、阿部知二、榊山潤、楢崎勤らが「秋声会」を結成し、同年7月に秋声会機関誌「あらくれ」を創刊、同年秋には島崎藤村の提唱で「徳田秋声後援会」が組織され色紙短冊の義捐を行うなど、手厚い後援が行われた。
満洲事変(1931年/昭和6年)後、官憲の弾圧などもありプロレタリア文学運動は退潮し、1933年(昭和8年)には「行動」「文藝」「文學界」等の文芸誌が創刊されるなど、文芸復興の声が高まった。こうした機運の後押しもあり、昭和8年、身辺の人たちの死をえがいた『町の踊り場』『和解』『死に親しむ』の3つの短編を発表する。川端康成が文芸時評で『町の踊り場』を「自ら悟りのありがたさが感じられる」「努力よりも怠惰の妙味であらう」「ゆゑ知らず頭の下がる」[36]と賞賛するなど、これらの作品が好評で迎えられたことで、秋声は文学的復活を果たし、以後の充実した創作活動へと結実して行くことになる。
なお『和解』は、秋声宅の敷地内に建築したばかりのフジハウスというアパートで鏡花の実弟の泉斜汀(1880年 - 1933年)が病死したことがきっかけで、かつて長編『黴』の中の尾崎紅葉に関する表現[37]を巡り疎遠になっていた鏡花との間に一応の和解が成立したことを書いた作品である。
その後も、『金庫小話』『一つの好み』『一茎の花』(以上1934年/昭和9年)、『彼女達の身のうへ』『チビの魂』『勲章』(以上1935年/昭和10年)など、晩年の実りを示す好短編を立て続けに発表する。昭和10年には、島崎藤村・正宗白鳥らと共に日本ペンクラブの設立に参加した。1936年(昭和11年)4月、頸動脈中層炎で倒れ一時は生死を危ぶまれるが、7月には健康を回復して執筆を再開。同年、短編集『勲章』が第2回文芸懇話会賞を受賞。
1935年7月から1938年(昭和13年)8月まで「経済往来」[38]に断続的に連載し完結した長編『仮装人物』は、「順子もの」の集大成であり、後期の代表作とされる(第1回菊池寛賞受賞)。1937年(昭和12年)には短編『のらもの』『戦時風景』を発表、同年6月、帝国芸術院会員になる。1938年(昭和13年)1月 - 12月には、自伝的長編『光を追うて』を「婦人之友」に連載する[39]。1941年(昭和16年)1月発表の『喰はれた芸術』が最後の短編小説となった。
1941年(昭和16年)6月、50年にわたる秋声文学の集大成ともいうべき最後の長編『縮図』を「都新聞」に連載。しかし芸者の世界を描いていたために、 情報局から時局柄好ましくないとして発禁処分を受け[40]、 80回で作品を中絶、その後も続きが書かれることなく、未完に終った。1942年(昭和17年)、日本文学報国会小説部会長に就任。
1943年(昭和18年)11月18日、太平洋戦争の敗色が濃くなるなか、肋膜癌により本郷区森川町(現・文京区本郷)の自宅で死去。戒名は徳本院文章秋声居士[41]。
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