![Thumb](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/86/Brocart_de_soie_fran%C3%A7ais.jpg/220px-Brocart_de_soie_fran%C3%A7ais.jpg)
肌ざわりがなめらかで、美しい光沢があるため、古来から珍重されてきた。様々な色糸を用いたものは錦(にしき)と呼ばれた。
歴史
絹織物は、中国で創出されたもので、絹を生産している形跡が新石器時代遺跡(西陰村遺跡、河姆渡遺跡など)から幾度も発見されている[1][2]。刺繍が施されるようになった最も早期の事例は、中国にある戦国時代(紀元前3世紀~5世紀)の墓から発見されたものである。
中国漢の時代になると高価な貴重品としてシルクロードの主要な交易品目とされた。その製法は長い間秘密とされ、蚕を中国の国外に持ち出したものは死刑に処せられたとされる[3][2]。14世紀になると絹織物刺繍が最盛期となり、蘇州の宋錦、南京の云錦、四川省の蜀錦などの刺繍デザインが発展した。
- 日本での歴史
- 前漢の時代に経錦(たてにしき)という経糸を緻密に使った技術が確立し、日本に伝来している[4]。『魏志倭人伝』には、239年に卑弥呼が魏帝へ貢物を献じた礼として、紺地句文錦(こんじくもんきん)などが贈られた[4]。また魏志倭人伝には、243年(正始4年)に倭錦を送っていることから、この時代に錦を製造する技術があったことがわかる[5]。
- しかし、経錦は色数の制限・織り方の難しさから、唐代に登場した様々な色が使えるようになる横糸を利用した緯錦 (よこにしき、ぬきにしき) という織り方がとって代わり、日本には奈良時代に伝わり経錦はすたれていった[6]。
- 中国から西洋へ流出
→詳細は「東ローマ帝国の養蚕伝来」を参照
- 西暦6世紀中盤に、産業スパイにより東ローマ帝国に蚕と養蚕技術が導入され、東ローマ帝国首都周辺のトラキアで生産が始まった。その後、東ローマ帝国が廃れ養蚕技術が拡散した。
防御力
強靭であることから、矢や銃弾を防ぐ用途にも使われた。日本では870年ごろから絹製の母衣と呼ばれる矢を防ぐ装備が身につけられた[7][8]。モンゴル帝国は西夏との1207年の最初の戦い後、矢が体に刺さらないよう絹製のシャツを着用していた[9][10]。
1881年、トゥームストーンの医師ジョージ・グッドフェローは、ルーク・ショートにより2回銃撃された賭博ブローカーを診察した際、絹製のハンカチによって銃弾が貫通しなかったことに気が付き[11][12]、1887年に銃弾に対する絹織物の防弾性について記事を書いた[13]。
1901年に作られた絹織物を何層にも重ねたベストは、スペイン王アルフォンソ13世を銃弾から救っている。また、1900年までギャングは防御用に800ドルのシルク製ベストを着こんでいた[14]。
注意点
主な絹織物
日本伝統の絹織物
中国
海外
種類分類
絹織物の関連施設
博物館
- 中国
- 海外
その他
脚注
関連項目
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