銚子市
千葉県の市 ウィキペディアから
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銚子市(ちょうしし)は、千葉県北東部に位置する市。関東最東端[注 1]であり、利根川河口に位置する。水揚数量において日本最大の水産都市。犬吠埼や屏風ヶ浦などで知られる景勝地でもあり、港町の歴史的町並みは日本遺産に登録されている[注 2]。学術的に貴重な地質資産を有していることから市全域がジオパークに指定されている[1]。
古くから港町として栄え、水揚数量が日本一である特定第3種漁港の銚子漁港を有し、全国の水産物流通基地の役割を担う。3つの卸売市場を中心に水産加工場、水産物冷凍冷蔵庫、水産問屋・仲買業者、関連運送業者・鉄工所などが集積している日本最大の水産都市である[2]。また、江戸の食文化を支えた関東風醤油を生み出した醤油の名産地であり[3]、全国シェア2位の大手醤油メーカーであるヤマサ醤油が本社を置くことで知られる。
鎌倉・室町時代に坂東三十三箇所二十七番札所である飯沼観音の門前町として栄え、江戸時代には東廻り海運と利根川水運が確立したことにより、海運関連業を中心に水産業、醤油醸造業、商工業が盛んとなり、幕末に至るまで東北地方と江戸を結ぶ重要な港湾都市であった[4]。大正時代以降は近代的漁港としての施設と機能を備えた銚子漁港の建設が進み、水産業を基幹産業に、千葉県東部における政治・経済・文化の中心都市として発展した。銚子市が誕生したのは1933年(昭和8年)で、千葉市に次ぎ県内2番目の市制施行である[5]。
犬吠埼や屏風ヶ浦、地球の丸く見える丘など全国有数の景勝地を持つ観光都市でもあり、銚子駅を中心とした市街地と観光地は全長6.4kmの銚子電気鉄道線で結ばれている。犬吠埼は日本一早い初日の出を見ることができ[注 3]、1月1日未明から早朝にかけて約5万人が訪れる[6]。犬吠埼には源泉が湧出し、犬吠埼温泉郷を形成している。屏風ヶ浦を望む銚子マリーナには、ヨットハーバーと併せて海浜緑地公園、人工ビーチが整備されており、サーフィンやイルカウォッチング、シーカヤックなどのマリンスポーツも行われる海洋リゾート拠点である[7]。
1874年(明治7年)に竣工した犬吠埼灯台は日本を代表する灯台の一つで、国産煉瓦を使用した最古の西洋式灯台として歴史的文化財的価値が高く、国の重要文化財及び海上保安庁のAランク保存灯台に指定されている。世界灯台100選にも選ばれており、日本に5つの最大の1等4面フレネル式閃光レンズを使用した第1等灯台である[8]。
毎年8月に開催される「銚子みなとまつり」は銚子の夏の風物詩で、利根川河畔に約6000発の花火が打ち上げられる花火大会、約1000人の担ぎ手による神輿巡行が行われて銚子の街は祭り一色となる[9]。
銚子半島の海岸の黒生から犬若にかけての海岸では、中生代ジュラ紀から白亜紀の恐竜時代の地層を見ることができる[10]。 犬吠埼は1億2000万年前の地層であり、この時代の浅い海の海底の痕跡を数多くみることができる学術的に貴重な地層で「白亜紀浅海堆積物」として国の天然記念物に指定されている[11]。
変化に富んだ独特の自然景観から、江戸時代には数々の文人墨客が東国三社参詣と合わせて銚子の磯巡りに訪れ、文学作品や絵画の題材となった[12]。明治時代からは避暑や海水浴に訪れる人も多くなり、犬吠埼や海鹿島には皇族や財界人、作家、画家の別荘が構えられた。現在も海岸沿いには文人墨客の歌碑、詩碑が多く立っている[13]。
夏涼しく冬暖かい海洋性気候であり、避暑や避寒に適している。気候を生かした農業も盛んで、露地野菜や果物が栽培されており、春キャベツの生産量は日本一である[14]。
銚子市沖は国の再生エネ海域利用法に基づく洋上風力発電の促進区域で、今後三菱商事を中心とする千葉銚子オフィシャルウィンドが大規模な開発を行い、2028年9月に運転を開始する見込みであり、銚子市は電力会社及びメンテナンス会社を設立して、地元企業のサプライチェーン参入促進と洋上風力発電を利用した地域循環型スマートコミュニティ構築に取り組んでいる[15]。
千葉県北東部に位置し、県庁所在地である千葉市から約65キロメートルの距離である。東京都の都心から90 - 100キロメートル圏内である。
犬吠埼は関東地方および関東平野の最東端に位置し、市の東部と南部は太平洋に面する。市の北部には利根川が流れており、銚子市で太平洋に注ぐ。
利根川沿いの低地と北総台地(下総台地)からなり、表層は関東ローム層に覆われている。高神愛宕山(標高73.6メートル)は北総台地最高峰となっている。水田は台地山間の谷津田と利根川沿いに広がっており、畑地帯は台地の平坦部に位置し、比較的農業に適している。
銚子市は愛宕山を中心に局所的に隆起しており、東関東で唯一、古生界の基盤岩が露出している。また銚子地域は日本の地質体を大きく2分する「東北日本」「西南日本」の境界付近に位置すると考えられ、この境界の東端はまだ確定していないため銚子市の地層がその解明を担うものとして学術的に注目されている。
銚子市は太平洋に突き出た半島状の独特の地形、そして犬吠埼や屏風ヶ浦などの地質資産を核として大地の成り立ちが比較的容易に、そして安全に学べる場所であることから、2012年(平成24年) 9月に日本ジオパークに認定され、市域全体を活動のエリアとして「銚子ジオパーク」活動を推進している。
愛宕山や犬岩、千騎ケ岩は愛宕山層群と呼ばれ、約2億年前に形成された付加体と考えられる。愛宕山(標高73.6メートル)は北総台地最高峰となっており、硬く侵食されにくいため海に突出するような高台が形成されている。
東海岸に露出する白亜系の銚子層群は礫岩、砂岩、泥岩からなる約1億年前の地層であり、アンモナイトなどの化石を多産している。犬吠埼付近は浅い海の堆積構造や生痕化石がよく観察できるため「犬吠埼の白亜紀浅海堆積物」として国の天然記念物に指定されている。この銚子層群の砂岩は古くから「銚子石」と呼ばれ、古くから建材などに利用されてきた。
銚子地域の中新統は火山礫凝灰岩からなる安山岩の溶岩流を含む千人塚層と海成シルト岩からなる夫婦ケ鼻層に二分される。いずれも日本海が形成された時代の地層である。千人塚層の安山岩は利根川河口の川口、黒生、長崎に露出しており、銚子漁港整備に伴い取り除かれた安山岩はその一部が古銅輝石安山岩公園に保存展示されている。また、かつて夫婦ケ鼻層は銚子地域の北東端の夫婦ケ鼻から海岸沿いに黒生付近まで連続して露出していたが、現在は銚子漁港後背地開発により銚子ポートタワー下にわずか6m程度が露出するのみとなっている。
下総台地の平坦面はかつての海岸近くの海底面で、隆起と汎世界的な海水準変動の結果、基本的に4段面の後期更新統の海成段丘が分布する現在の形となった。この台地には谷がいくつも刻まれており平坦面は農業や畜産業に利用されている。
市域の南の海岸線は、犬若から緩やかに湾曲し、屏風ヶ浦と呼ばれる海食崖が広がっている。この崖は下総台地の東端にあたり、常に波浪によって侵食が続いている。屏風ヶ浦では下総台地の地下断面が観察でき、地層は下位から犬吠層群、香取層、関東ローム 層の3つに区分することができる。屏風ヶ浦は江戸時代後期以降、景勝地として著名となり、国指定名勝及び天然記念物として指定された。
周囲が海に囲まれているため海洋性気候となっている。すなわち、湿度は高めであり、気温は年間平均気温が約15℃で夏涼しく冬暖かいといわれる。
夏場は、関東平野部の都市では珍しく日中でも30℃を超えることは少なく、35℃を超えることはめったにない。熱帯夜になることもあまり無く、関東屈指の避暑地と言える。一方、冬場は南九州並みに温暖で気温が氷点下になることはほとんどなく、雪が降ることは非常に珍しい。
また、年間を通して比較的風が強く、風力発電所の風車が34基稼働している。沖合では洋上風力発電の計画が発表されている[16]。
銚子市川口町(銚子地方気象台、標高20m)の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 23.6 (74.5) |
24.0 (75.2) |
23.0 (73.4) |
25.9 (78.6) |
29.5 (85.1) |
30.9 (87.6) |
34.8 (94.6) |
35.3 (95.5) |
33.7 (92.7) |
30.6 (87.1) |
24.8 (76.6) |
23.4 (74.1) |
35.3 (95.5) |
平均最高気温 °C (°F) | 10.1 (50.2) |
10.3 (50.5) |
12.8 (55) |
17.0 (62.6) |
20.5 (68.9) |
23.0 (73.4) |
26.6 (79.9) |
28.6 (83.5) |
25.9 (78.6) |
21.5 (70.7) |
17.3 (63.1) |
12.7 (54.9) |
18.9 (66) |
日平均気温 °C (°F) | 6.6 (43.9) |
6.9 (44.4) |
9.7 (49.5) |
13.8 (56.8) |
17.4 (63.3) |
20.2 (68.4) |
23.5 (74.3) |
25.5 (77.9) |
23.4 (74.1) |
19.2 (66.6) |
14.4 (57.9) |
9.3 (48.7) |
15.8 (60.4) |
平均最低気温 °C (°F) | 2.9 (37.2) |
3.3 (37.9) |
6.4 (43.5) |
10.7 (51.3) |
14.8 (58.6) |
17.9 (64.2) |
21.2 (70.2) |
23.3 (73.9) |
21.3 (70.3) |
16.8 (62.2) |
11.1 (52) |
5.7 (42.3) |
13.0 (55.4) |
最低気温記録 °C (°F) | −6.2 (20.8) |
−7.3 (18.9) |
−4.3 (24.3) |
−0.2 (31.6) |
4.3 (39.7) |
10.2 (50.4) |
13.0 (55.4) |
15.9 (60.6) |
11.2 (52.2) |
4.5 (40.1) |
−1.3 (29.7) |
−4.6 (23.7) |
−7.3 (18.9) |
降水量 mm (inch) | 105.5 (4.154) |
90.5 (3.563) |
149.1 (5.87) |
127.3 (5.012) |
135.8 (5.346) |
166.2 (6.543) |
128.3 (5.051) |
94.9 (3.736) |
216.3 (8.516) |
272.5 (10.728) |
133.2 (5.244) |
92.9 (3.657) |
1,712.4 (67.417) |
降雪量 cm (inch) | 0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
平均降水日数 (≥0.5 mm) | 8.2 | 9.1 | 13.0 | 12.3 | 11.3 | 12.3 | 10.4 | 7.4 | 11.8 | 13.3 | 10.6 | 8.7 | 128.4 |
平均降雪日数 | 4.5 | 6.0 | 1.7 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.9 | 13.1 |
% 湿度 | 62 | 64 | 68 | 74 | 82 | 88 | 90 | 87 | 84 | 77 | 72 | 66 | 76 |
平均月間日照時間 | 179.8 | 159.0 | 168.9 | 183.0 | 188.9 | 142.3 | 174.0 | 221.3 | 159.0 | 137.9 | 140.1 | 163.7 | 2,017.8 |
出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1887年-現在)[17][18] |
銚子市は1933年(昭和8年)に市制を施行し、その後近隣の町村と逐次合併を行って市域を拡大していった。これに伴い人口も1955年(昭和30年)度には市制施行当時の約2倍となった。地域の人口は出生・死亡の差である自然増減と転入・転出の差である社会増減の結果として増減を生ずるが、銚子市においては就業者の東京その他市外・県外への転出から社会増減が1949年(昭和24年)以降減少し、これ以後市人口は横這いから減少方向に進んだ。少子化傾向により自然増減は1990年(平成2年)以降減少している。
銚子市は2015年(平成27年)10月に銚子市の人口の現状と将来の展望を提示する人口ビジョン及び基本目標や施策の基本的方向、具体的な施策等をまとめた「銚子市まち・ひと・しごと創生総合戦略」を策定した。5年間の計画期間を終える2020年(令和2年)2月には2024年度を計画期間とする「第2期銚子市まち・ひと・しごと創生総合戦略」を策定した。豊富な地域資源・地場産業の一層の発展活用と再生可能エネルギーを始めとした新産業の育成による雇用創出、子育て支援サービスの拡充、地域包括ケアシステムの構築、長期滞在・交流型ワーケーション推進等が掲げられ、取り組みにあたっては銚子市総合戦略検証委員会を設置して効果検証を行っている[19]。
銚子市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 銚子市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 銚子市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
銚子市(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
元は「銚子口」と呼ばれていた。「銚子」は、小さな注ぎ口を持つ酒器で、元々は生薬を煎じるのに使われた土瓶ややかんの類[注 4]。入口が狭く、中に入るとより広い空間が拡がる利根川河口の地形がよく似ているため、この地名がついたとされる。
「銚子」という名が使われるようになったのは江戸時代(1700年頃)以降であり、それ以前は「飯沼」あるいは「三前」と呼ばれていた。「銚子」が行政区画名として町名に使われたのは、1889年(明治22年)4月1日に市制町村制が施行されてからである。
銚子半島に人間が暮らし始めたのは、約1万5千~2万3千年前の旧石器時代といわれている。水域や下総台地に近く、それぞれの場所の豊かな恵みを得やすい環境にあり、数千年もの長い間狩猟と漁労を中心とした生活が営まれていた。粟島台遺跡や余山貝塚の出土品から当時の様子が伺い知ることができ、出土する縄文土器や石器から、東北地方や西関東等をはじめとする他地域との交易も読み取れる。
古墳時代の銚子周辺は、現在の霞ケ浦一帯に香取の海と呼ばれる内海が広がり、「古事記」などに記されている下海上国造の支配下で、海上郡に属していた。当地域を治める支配者たちは、香取の海を眼下に望む沿岸に古墳を造営した。現在、市内で把握されている最も規模が大きな古墳は、全長約35m、高さ約4mを測る前方後円墳の野尻1号墳で、この古墳を含む野尻古墳群には前方後円墳1基、円墳8基、方墳3基が確認されている。
平安時代に入り、武士が勃興するころになると、平忠常の子孫である豪族千葉氏の庶流である東氏(庶家、千葉六党)及び海上氏(庶家)が銚子地方を領有するようになり、建久年間に千葉常衡が海上与市を名のり、銚子地方の支配拠点として船木郷に中島城を築城したといわれている。室町時代になると、関東では新興勢力の後北条氏が覇を唱えるようになり、千葉氏とその一門である海上氏もこれに服属するに至った。そして安土桃山時代、後北条氏は天下統一を志す豊臣秀吉によって小田原城に滅亡し、千葉氏一門も共に滅亡した。
飯沼観音の名前で親しまれている円福寺は、728年(神亀5年)に漁夫が海中から引き揚げた十一面観音像を安置したのが始まりといわれ、海上氏の帰依も厚く、坂東三十三箇所二十七番札所に指定された。巡礼者や納経者が諸国から集まるようになると次第に門前町が形成され、室町時代末期になると旅籠や茶屋、遊女屋等が立ち並ぶようになり、現在の銚子の都市的起源となった[20]。
374年(応安7年)の「海夫注文」(香取文書)には香取の海の南に位置した飯沼・荒野・垣根・野尻・森戸・笹本の津が書上げられている。津(船舶の停泊地)には地頭の支配下に海夫が居住し、魚介を供菜物として香取神宮に納めていた。また津は商品の積み下ろし地でもあり、1560年(永禄3年)には 九十九里方面からの塩荷が船木・野尻宿に下ろされるなど、船木や高田にも津ができ香取の海を舞台とする人々が活動していた。
銚子の海岸には、源義経が兄頼朝に追われ奥州に逃れる途中、一千騎を引き連れて洞窟にこもったと伝えられている千騎ヶ岩や外川浦から船で奥州へ逃れた後、浜に残された愛犬が義経を慕って7日7晩吠え続け、最後は岩になってしまったという犬岩、馬糞池等、義経にまつわる伝説が残されている。
1590年(天正18年)、徳川家康の関東入国に伴い、松平伊昌が飯沼2000石を与えられ、銚子地域に知行した。江戸時代には現在の銚子市域は香取郡6村と海上郡35村から成り、その土地の多くは幕府領や旗本知行地であった。1709年(宝永6年)には高崎藩領に、1717年(享保2年)には幕府領となり、再び高崎藩領となった。その後、銚子は江戸の発展に伴い交通の要地として経済上・軍事上重要度を増していき、明治に至るまで幕府直系の親藩である高崎藩の手に委ねられた。飯沼には陣屋が置かれ、郡奉行1名と代官2名が駐在した。
徳川家康は江戸市中を水害から守り、新田開発を行うため1621年(元和7年)から利根川の東遷事業を命じた。幾度もの改修工事を経て寛永年間(1624年~1643年)に現在の流路に整えられ、江戸と銚子を結ぶ内陸水運路が開けた。1670年(寛文10年)、江戸幕府は河村瑞軒に命じて奥州の幕府直轄領から城米を江戸に輸送する東廻り航路を開発し、太平洋沿岸の主要な湊を立務場に指定、銚子もその一つとなった。これが契機となり、銚子は東廻り海運で運ばれてきた東北諸藩の産米や北海道の海産物を高瀬船に積み換え、利根川水運で江戸へ運ぶ物流基地となった。東北方面からの廻船の多くが利根川水運を利用したのは、従来の外海回り(房州回り)航路より安全で迅速であったためである。外洋利用者の寄港もあり、銚子は「東国一の港」と称され、江戸の外港として繁栄した。銚子湊は飯沼、新生、荒野、今宮、松本、本城、長塚、 松岸の8ケ村に渡り、その中心を担っていたのは飯沼から今宮の4ケ村である。特に荒野村には幕府や諸藩公認の御穀宿、各藩直系の藩蔵、民間船の世話をする船問屋、それより小規模な船宿等が整備され、幕末期には仙台、米沢、笠間等各藩の米蔵が7棟建ち並び、仙台河岸と称されていた。利根川を上下する高瀬船は飯沼49、高田38、野尻41の128隻を数え、飯沼村の廻船問屋は10軒余に及んだ。
陸上交通としては多古銚子道と銚子道があった。多古銚子道は銚子街道とも呼ばれ、延宝期までには成立し、商いの道として銚子地域と江戸を結んでいた。銚子道は木下河岸から飯沼村まで利根川に沿って走り、利根川水運の補助的な交通路として発達しつつ、沿線の村々とを結ぶ生活道路でもあったと考えられ、飯沼観音までの道程を示す石柱の道標も見られる。
家康の関東入国は、西と東の経済的交流を大幅に促進した。銚子にも諸国から人々が入り込むようになるが、その主要勢力の一つが紀州漁民である。漁業の新天地を求めていた彼らは、正保年代から新漁法を携えてこの地に来、半農半漁的な地元漁業を開拓し、漁業を銚子の主要産業にまで成長させた。始めは季節的な出稼ぎであったが、次第に定住するようになり、あるいはまた漁業から商工業に転ずる者もあって、銚子の商工業の発展に寄与することとなった。1656年(明暦2年)に銚子へ渡った﨑山治郎右衛門は、1658年(万治元年)に外川浦に移住し、築港や碁盤目状の街区整備、「紀州堀」と称される大井戸掘削等、画期的な都市計画事業を実施し、僅か20年で「外川千軒大繁盛」といわれるほどの繁栄を築いた。漁法は正保・慶安期の間に任せ網から八手網に代わり、漁獲された鰯は食用にされるよりも、そのまま乾燥させた干鰯や煮て圧搾した〆粕へと加工された。干鰯は近世農業における最高の金肥であり、関西地方で栽培される綿花の肥料として需要が増大していた。川口神社から東側の浜辺一帯には干鰯場が広がっていたという。また〆粕の製造過程では灯火用の魚油がとれた。これらの流通の過程では仲買・問屋が生まれ、漁業生産に関連して造船業や漁網製造業も発達した。
紀州からは漁業だけではなく、醤油醸造の技術ももたらされた。1616年(元和2年)に銚子の豪農で干鰯生産に携わっていた3代田中玄蕃が西宮の海産物問屋である真宜九郎右衛門から醤油醸造の技術を伝授され、銚子の地で醤油醸造を開始した。現在のヒゲタ醤油である。また、1645年(正保2年)には紀州広村出身の濱口儀兵衛がヤマサ醤油の前身である広屋を創業している。温暖湿潤な気候であり、原料の大豆・麦・塩の生産地が近く、更に大消費地である江戸と利根川水運により結びついたこと等、好条件に恵まれた銚子の醤油は「地廻り醤油」と呼ばれ、味も江戸庶民の嗜好に合わせた関東風の濃口醤油へと改良したことで需要を高め、元禄期に銚子の主要産業へと成長した。醸造業者はいずれも富裕で豪商というべき者も多く、文政年間には20軒があった。幕末期の1864年(元治元年)には銚子のヤマサ、山十、ヒゲタ、ジガミサを含む関東醤油7印が江戸幕府から最上醤油として認められた[21]。
犬吠埼周辺や長崎海岸を中心に愛宕山中腹で採掘された砂岩は「銚子石」と呼ばれて古くは砥石や墓石、供養塔に用いられた。1856年(安政3年)には江戸へ3万斤送られた記録が残っている。
正保・寛文期に海運関連業と漁業が勃興した銚子は、元禄期に入ると醤油醸造の産業化という新しい要素を加えて、享保年間(1716年〜1736年)に至るまでに農村から東国屈指の港湾都市へと急速な発展を遂げた。人口についても飯沼・新生・荒野・今宮の4村だけで1万3千余を擁し、一般の農村の人口とは1桁違っていた。戦前の旧市域でみれば優に2万人を超える人々が生活していたと思われる。文化・文政期にはその他商工業も盛んになり、これらの人々の衣食住や健康・娯楽あるいは教養・文化を支える様々な業種も発達した。医療について見ると、1752年(宝暦2年)の飯沼村の医師数は13人で、医師1人当たりの人口は570人である。1956年(昭和31年)の全国統計では人口834人に対して医師1人の割合であるから、当時の銚子における都市化の進展が窺える。1841年(天保12年)銚子に遊んだ漢学者安川柳渓は今宮付近から飯沼観音に至る道筋を「市中の賑ひ、あきびとの見世棚、すき間もなくうちつづき、十まちばかりも来つらんが」と描写している。江戸末期の銚子の人口は江戸、水戸に次いで関東3位であり、下総・上総を合わせた中では第1位であった。
経済力を蓄えた銚子の有力商人は、利根川を通じた江戸との商いの中で江戸に支店を構え頻繁に江戸と銚子を往来し、文化人と交流した。海産物問屋・御殻宿として巨富を成した行方屋の大里庄治郎は自ら俳諧に親しんで俳号を桂丸とし、夏目成美や小林一茶を銚子の自邸に招いて句会を開いた。江戸の豪商古帳庵も銚子を訪れ「ほととぎす銚子は国のとっぱずれ」という有名な句を残している。このような交流の中で次第に銚子は江戸で流布していき、更に旅行案内書も出版されたことで文化・文政期には江戸からの身近な旅行先として多くの学者や文人墨客、江戸庶民が物見遊山に訪れた。木下河岸から出航する木下茶船は東国三社詣の遊覧船として人気を博し、乗客は東国三社詣の後利根川を下り、銚子の磯巡りと称して飯沼観音を始めとした寺社や海岸の奇岩、断崖、白砂、青松、怒涛等変化に富んだ明媚な風光を賞で清遊した。利根川河畔の松岸、本城、田中は花街として盛況を極めた。歌川広重作「六十余州名所図会」には「下総銚子の濱 外浦」と題して名洗濱が富士見の名所として描かれている。来銚した人々と在郷の知識人や経済人との交流によって銚子への江戸文化の流入と地域文化の醸成がもたらされた。銚子では宮内嘉長開創の「守学塾」等、幕末から明治にかけて私塾が相次いで立ち、各村には寺子屋も開かれ、市内には筆子塚が見られる。
かつての利根川河口は付近は川幅が狭いうえに水面下に岩礁が多く、波高の高い三角波により、当時の船頭歌で「阿波の鳴門か銚子の川口、伊良子渡合が恐ろしや」とうたわれ日本三大難所の一つに数えられていた。1614年(慶長19年)には鹿島灘方面へ出漁中であった漁師の多くが溺死した[22]。利根川河口付近に築かれた「千人塚」は水難で命を落とした人々の慰霊の場所で、かつてはこの塚の上で焚火をして帰りが遅い漁師の目印にしたと言われる。銚子には「銚子の川口てんでんしのぎ」という言葉もあり、川口の難所では自分の船を守るだけで精一杯という厳しい状況であった。出船入船を望む高台にある川口神社は銚子港の守り神として漁業者からの信仰が篤く、毎年旧暦6月15日には大漁と航行の安全を祈願して大潮祭りが行われる。
1864年(元治元年)春、銚子では未曾有の豊漁が続き、港は鰯の銀鱗で埋め尽くされた。この豊漁を祝うため大漁祭を催すことになり、飯貝根の網元網代久三郎と飯沼の松本旭江と俳諧師石毛利兵衛の三人が、松本家の離れ座敷・夏蔭庵に集って歌詞を合作し、常磐津師匠遊蝶が作曲、清元師匠きん子が振付して「銚子大漁節」が作られ、川口神社に奉納された。大漁節は現在も銚子の宴席では必ず歌われて座を盛り上げており、銚子を代表する民謡として全国に広く知られている。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は「漁師の数え歌」として英訳し、海外に紹介している。
- 銚子大漁節
- 一つとせ 一番ずつに積み立てて 川口押し込む大矢声 この大漁船
- 二つとせ 二間の沖から外川まで 続いて寄り来る大鰯 この大漁船
- 三つとせ 皆一同に招をあげ 通わせ船の賑やかさ この大漁船
- 四つとせ 夜昼焚いても焚き余る 三杯一丁の大鰯 この大漁船
- 五つとせ いつ来てみても干鰯場は あき間もすき間も更になし この大漁船
- 六つとせ 六つから六つまで粕割が 大割小割で手に追われ この大漁船
- 七つとせ 名高き利根川高瀬船 粕や油を積み送る この大漁船
- 八つとせ 八手の沖合若衆が 万祝揃えて宮参り この大漁船
- 九つとせ この浦守る川口の 明神ご利益あらわせる この大漁船
- 十とせ 十を重ねて百となり 千を飛びこす万漁年 この大漁船
幕末、銚子には異国船打払令による海岸防備のため、川口、長崎、高神に砲台が設置された。1864年(元治元年)には水戸藩士による天狗党事件が起こり、1868年(慶応4年)、榎本武揚が率いる旧幕府軍の艦隊8隻が函館に向かう途中で暴風雨にあい、その内の1隻である美加保丸が黒生沖で座礁・沈没、13名が死亡する等、幕末の銚子は騒然たる様相を呈した。ヤマサ醤油7代目当主濱口梧陵は銚子で開業していた医師関寛斎と共に銚子でのコレラ防疫と治療に尽力した他、佐久間象山、勝海舟、福澤諭吉らと活発に交流した。自分の田に火を放って津波の襲来を村人に知らせた「稲むらの火」の逸話でも知られる。1869年(明治2年)に銚子は宮谷県の管轄となり、県庁は大網白里に置かれ、飯沼陣屋に支庁が置かれた。1872年(明治5年)に新治県に編入されたが、1875年(明治8年)に廃されて千葉県となった。
新政府が推進する文明開化の波は銚子にも及び、西洋文明を採り入れた新施設の建設が相次いだが、その先駆けとなったのが犬吠埼灯台であった。日本における西洋式灯台の建設は江戸幕府が西欧4ケ国と締結した改税約書第11条に始まる。明治に入り条約灯台が次々に稼働するようになると、新政府は灯台は船舶の航海安全のため、条約に取り決めた数にかかわらず外国人と協議の上で灯台を建設することとした。これにより横浜・北米航路間の貿易船に対して必要な箇所として、犬吠埼の断崖に西洋型第1等灯台を建設することが決定した。建設はイギリス人技師のリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計・監督の下に進められた。建材中最も多量に必要とした煉瓦は、 ブラントンは日本製は品質粗悪であるとしてイギリス製を使用すべきとしたが、 当時イギリス製の煉瓦は非常に高価であった。このため日本人技師の中沢孝政は日本製の使用を主張、良質の粘土を求めて利根川を遡り、新治県香取郡高岡村に良質の土を発見し、日本製煉瓦の完成に腐心した結果、 外国製に遜色のない優良な煉瓦を完成させた。灯台・付属舎・宿舎には19万3千枚の煉瓦が使用された。地震が多い日本において煉瓦構造を支えるため二重壁構造や帯鉄を挿入するなど、当時の先進的技術が取り入れられて1874年(明治7年)に初点灯し、新時代の到来を告げた。犬吠埼灯台には毎日のように200人ほどの見物人が各地から訪れたと伝えられている。同時に濃霧時や降雪で灯台の光が遠方まで届かない折に音で船舶に灯台の位置を伝える霧信号所も設置され、30秒毎に5秒の霧笛を鳴らしていた。かまぼこ型屋根の霧笛舎には創業間もない官営八幡製鉄所製の鉄が使用されている。
1886年(明治19年)には地元有志が私立銚子測候所を開設。1908年(明治41年)には逓信省が日本最初の無線交信基地である銚子無線電信局を開局し、横浜からシアトルへ向けて航行中の丹後丸が受信した。これが海岸局と船舶局との間における日本最初の無線電報とされている。敷地内には約70mの鉄製の柱が聳え、犬吠埼灯台と共に銚子の誇りとなっていた。
明治維新により幕藩体制は崩壊し、その上に成り立っていた東北地方と江戸を結ぶ海運は急速に衰退、東北諸藩からの廻船やそれに関係する物資船舶の往来は途絶した。一方、利根川水運は明治以降も残り、1874年(明治7年)に高瀬船に代わり蒸気船がいち早く導入され、利根川水運の一層の利便化が図られた。1881年(明治14年)には銚子汽船株式会社が設立され、蒸気船による銚子-東京間の定期航路が開かれ、銚子丸を始めとする7隻の外輪船が利根川を上下するようになった。そして1897年(明治30年)に佐倉-銚子間の総武本線が開通して東京の本所と結ばれた。1900年(明治33年)には駅東側に新生貨物駅が新設された。
鉄道網の整備は鮮魚消費市場の飛躍的な拡大をもたらし、明治末期には漁船の動力化が始まり、その後大型化や漁具・漁船等の改善も加わって漁業の近代化が進んだ。いわし漁は八手網からあぐり網での漁となり、さんま漁やかつお漁、まぐろ漁も盛んとなった。また、漁業に関連して造船業・鉄工業・製網業・撚糸業・漁船用発動機製作・水産加工業も発展し、銚子は水産業を基幹産業として再び発展の道を歩み出した。
当時国内最大規模にあった醤油醸造業では、1893年(明治26年)にヤマサ醤油10代目当主濱口梧洞が国内初の醤油研究所を開設し、手工業的な要素が強かった製造方法の近代化に取り組んだ。また市内の各醤油醸造業者も機械化・工業化に取り組み、生産の効率化が図られた。
銚子では江戸時代中頃から甘藷栽培が盛んとなっていたが、1889年(明治22年)に本銚子町の石橋重兵衛が蘇我町から講師を招き、澱粉作りを習得して以降は、甘藷を原材料とした澱粉生産が増加していった。当初は小規模で農業の副業という程度であったが、有力な農家によって製造工場が相次いで建設され、1907年(明治40年)に27軒であった澱粉製造業者は1914年(大正3年)には67軒と急増し、大正時代前期までに醤油醸造業に次ぐ一大産業へと成長した。
こうした産業の発展に伴って大手銀行支店の進出、地元銀行の設立等、金融機関の開設も多くなり、1914年(大正3年)には8行を数えるに至った。国や県の出先諸官庁も設置され、銚子は千葉県東部における政治・経済の中心都市としての機能を備えていった。1889年(明治22年)、町村制にともない、飯沼村が本銚子町と改称、荒野、新生、今宮の3村が合併し銚子町に、また、長塚、松本、本城の3村が合併し伊豆原村と改称したのち1891年(明治24年)に西銚子町となった。
犬吠埼周辺は景勝地として古くから著名であったが、明治初期、西洋から健康増進のために海水浴が効果的であるという考え方が導入されて酉明浦一帯が海水浴場として開かれ、灯台見物と相俟って犬吠埼は一大観光地へと発展した。1885年(明治18年)には銚子の有力者が潮湯治客を相手にした海水浴旅館として暁雞館を創業した。以来銚子の迎賓館として皇族や政治家、財界人、文人墨客が数多く宿泊した。
1912年(大正元年)夏には、暁雞館に宿泊していた高村光太郎が長沼智恵子と出会った。光太郎は智恵子を以前から知っており、この夏の犬吠埼で2人の間に強い繋がりが生まれた。詩集「智恵子抄」に付されている「智恵子の半生」にこの夏のことが書かれている。
丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来ていて又会った。後に彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時若もし私が何か無理な事でも言い出すような事があったら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだったという事であった。私はそんな事は知らなかったが、此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまったく子供であった。しかし又私は入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかという予感をふと感じた。
この出会いの後智恵子は熱烈な手紙を書き送り、光太郎も「此の人の外に心を託すべき女性は無いと思ふやうに」なって、やがて結婚した。
暁雞館の南側にはかつて海水浴旅館の「水明楼」があり、明治を風靡した文豪の一人、徳富蘆花は「枕を撼かす濤声に夢を破られ、起って戸を開きぬ。時は明治二十九年十一月四日の早暁、場所は銚子の水明楼にして、楼下は直ちに大東洋なり。」に始まる「自然と人生」の一編「大海の出日」において、水明楼から見た太平洋に昇る日の出を、華麗で緊迫した文語体で微細に描き出した。「自然と人生」は当時のベストセラーとなり、自然を見る新しい目は旧来の花鳥風月の美意識を覆した。特に「雑木林」と「大海の出日」は明治の青年に衝撃を与え、犬吠埼の日の出へと人々を誘った。
こうした状況の中、伏見宮家別邸の用地として犬吠埼の地が選定され、1904年(明治37年)に瑞鶴荘が建設されている。敷地には主屋、茶室、潮見亭、撞球場などの建物があり、これらの建物や庭園は海岸の風景を借景とした設計がなされていた。伏見宮貞愛親王は66歳で没するまで毎年避暑や避寒のため銚子を訪れ、瑞鶴荘に滞在したとされる。
総武鉄道株式会社は銚子から外川への路線延長を計画し、1901年(明治34年)に免許を取得したが、用地取得の失敗により敷設を断念し、1904年(明治37年)に工事は中止された。その後、1909年(明治42年)に濱口吉兵衛、13代田中玄蕃、小野田周斎ら地元財界人が銚子人車鉄道の計画を申請したが、1912年(明治45年)には人車よりも輸送力の大きい、銚子・犬吠埼間を結ぶ本格的な蒸気鉄道敷設の申請へと転換した。この申請は政府の免許を受け、1913年(大正2年)に銚子遊覧鉄道株式会社が設立され、同年12月に銚子—犬吠間が開業した。しかし収支は毎年度赤字が続き、政府補助金の交付を受けて辛うじて黒字経営を保っていた。1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦の影響で鉄鋼類の価格が高騰すると、遊覧鉄道はレールや車両を売却して利益を得る方針を採り、1917年(大正6年)に開業から僅か4年で廃止された。残った旧線路用地は暁雞館自動車部の宿泊客送迎用バスの専用道路として利用された。 その後、1921年(大正10年)に旧遊覧鉄道発起人により再度、銚子鉄道の敷設願いが提出され、1922年(大正11年)に免許を取得、1923年(大正12年)に外川まで延伸、開通した。銚子鉄道の路線のうち銚子・犬吠間は遊覧鉄道の旧路線をそのまま使用し、犬吠・外川間は新たに延長したものである。当初使用していたガソリン機関車は故障続きであったため1925年(大正14年)には電化開業している。
このように犬吠埼周辺の観光開発の気運が盛り上がっていた中、銚子鉄道の出資者で、仙台出身の資本家であった武田辰之助は銚子に移住後、1921年(大正10年)頃、海鹿島を保健別荘地区として開発造成して売り出した。海鹿島の名は沖の岩礁に明治時代まで見られたというアシカに由来し、大小無数の岩礁が作り出す明媚な風光が文人を魅了した。
大正浪漫を代表する叙情画家である竹久夢二は、海鹿島を訪れた際に次の詩を作っている。
- 宵待草
- 待てど暮せど来ぬ人を
- 宵待草のやるせなさ
- 今宵は月も出ぬさうな
夢二は1910年(明治43年)夏に海鹿島を訪れ、宮下旅館に間借りをした。夢二はそのとき隣家の次女であった長谷川賢を見そめ、彼女を散歩に誘い出すことに成功した。海鹿島の松林の中には犬吠埼灯台へ行く白い路が延びており、夢二はここを通い路と名付け、逢瀬を重ねた。夢二は翌年再び海鹿島を訪れたが、賢はすでに鹿児島の教師のもとへ嫁入りをしていた。この詩は、夢二が失望のあまり当てもなく海鹿島海岸をさまよっていた時、海岸に咲き乱れる宵待草によせてわが身の悲恋をうたったものである。原詩は今の3行詩の形に改められて、1923年(大正12年)発行の「どんたく」に掲載された。これにヴァイオリン奏者・多忠亮がメロディーをつけて、一世を風靡した。
河童の絵で有名な日本画家の小川芋銭は、1923年(大正12年)、東京三越の展覧会が終わった直後、後援者であった篠目八郎兵衛の勧めにより、海鹿島海岸の高台にある篠目別荘で休息した。芋銭は逗留中に「樹間如水人如魚」や「水魅戯」を描き、海鹿島海岸に魅せられた。翌年、海鹿島を再度訪れた芋銭は篠目別荘を「潮光庵」と名付けて半年間逗留し、その後も毎年のように来て、多くの名作を描いた。1933年(昭和8年)、芋銭は皇太子明仁親王の誕生を賀して、次の句を詠んでいる。
- 大海を飛び出づる如と初日乃出
- 銚子灘朝暾
女流作家平林たい子は大正末期に短い期間であったが文学仲間と銚子で流浪の日々を送ったことがあり、そのときのことを自伝小説「砂漠の花」に書いている。銚子に流れてきたときの平林たい子はプロレタリア文学を志しており、同行の仲間はアナーキスト・グループの仲間で、海鹿島の別荘を借りて滞在していた。彼女は銚子のレストラン「巽軒」で働いていたが、これと前後して、同じ女流作家の林芙美子も近くの「第二仙松軒」というカフェーで女給をしていたことがあった。林芙美子は1940年(昭和15年)に君ヶ浜の杉山平助別荘に泊まり、潮騒に眠りを妨げられるまま壁面に「激しく寝がへを打ちてかへりゆく波のうねり、犬吠の岬に来て何も忘れ果てたり」と鉛筆で書きつけたと伝えるが、建物は現在は失われた。
この他、銚子には明治から昭和にかけて、島崎藤村、与謝野晶子、若山牧水、佐藤晴夫、高浜虚子、久米正雄、前田夕暮、田山花袋、尾崎紅葉、吉田絃二郎、窪田空穂、大町桂月、斎藤茂吉、岡倉天心、中里介山、内田百閒、ノーマン・メイラーら数多くの文人、歌人が訪れている。
また、銚子は国木田独歩を始め、「大日本国語辞典」を刊行した国語学者の松井簡治、画家で詩人の宮崎丈二、講談社専務取締役を勤めた尾張真之介らの文学者を輩出している。
1925年(大正14年)、ヤマサ醤油10代目当主濱口梧桐は学校教育における人物養成の不完全性に目を注ぎ、人物養成のために、私財30万円を投じて財団法人公正会を設立した。「公正」という名前には、私事を捨て大衆を基とし、最も公平に正しく運営するという理念が込められているとされた。翌年には住民のための図書館、勤労青少年を対象とする補修的な夜間学校及び集会場を併せ持つ公益的な施設として、公正会館を開館した。鉄筋コンクリート2階建ての瀟酒な建物で、低い石の柵に囲まれた植込みのある前庭がゆっくりと取られ、銚子における文化の殿堂として、市中の盛り場とは違った香り高い雰囲気をかもし出した。 1階は図書館・教室・事務室、2階は約500人収容のステージ付き大ホールになっており、会館では講堂と呼んだ。
図書館は閲覧室が3室あり、蔵書は開館時400冊で、文学書の他「国史大系」や「続群書類従」「広文庫」「史料綜覧」等の学術書も多くあった。その他、開架式の閲覧方法や館外貸出しも利用者に大きな利便を提供し、銚子の文化の向上に裨益するところが大であった。公正学院は働く青少年に中等学校程度の教育を施そうというもので、今日の定時制高校に相当した。公正会主催の事業は講演会、講座、展覧会、音楽会、芸能会その他多数で、講演会には各界一流の人々が中央から招かれた。当時の講師の揮毫帖を見ると、作家でいえば巖谷小波・菊池寛・舟橋聖一等のクラスが来銚している。会場は常にほとんど満員で、銚子にも知的に飢えた人々が多かったと見ることができ、その欲求にこたえた事業の意義は大きかった。こうした催しの他に、公正文化会や公正母の会、あるいは子供会・読書会というような会員制グループ活動も推進していた。このような活動を創意し展開できたのは、東京帝国大学出身の文学士であった初代館長兼学院長の小山文太郎の功績によるところが大きい。
1945年(昭和20年)3月の銚子空襲により街は壊滅的な被害を受けたが、この建物は奇跡的に残り、臨時病院として使用された。1948年(昭和23年)、公正会は施設一切を市に寄付して解散し、20年余にわたる歴史に終止符を打った。寄付後の公正会館は銚子市公正市民館及び銚子市公正図書館となった。「公正」の名をとどめたのは、財団法人公正会とその創立者濱口梧桐を永く記念するためである。
江戸時代の銚子港は主として商港として興り商港として発展したもので、漁業根拠地たることは二次的なものでしかなかった。明治維新によって幕藩体制が崩壊すると、従来の藩を中心にした物資の流通に大きな変化が起こって東廻り海運は急速に衰退した。また、鉄道が発達すると河川を利用していた運輸も衰え、昭和初期までに銚子港の商港機能は全く失われることとなった。この頃我が国の漁業は漁船の動力化・大型化と漁法の改良によって沿岸漁業から沖合漁業への発展期にあり、銚子港は全面的にその根拠地として大きく機能するようになった。しかし大正期に入っても銚子港の形態はほとんど天然のままの河口港であり、僅かに沿岸の海岸のところどころに防波用の合掌枠や桟橋が設けられていた程度であった。港口の出入りには危険が伴い、漁船の遭難が繰り返されていた。そのうえ港といっても接岸できる岸壁はなく、漁船は岸を離れた深みに停泊し、陸とは伝馬船で連絡する状態であった。その陸上にも漁港施設はあまりなかった。そこで近代的な漁港を建設して航行の危険を除くとともに、施設の整備により地元船ばかりでなく廻船を誘致し、銚子の新たな発展の基盤にしようとしたのである。折しも銚子沖が全国屈指の漁場であることが分かり、岩手県・宮城県・和歌山県にいたる各地から多くの漁船が集まるようになり、銚子港は東部太平洋岸の主要漁業基地として認識されつつあった。
このため築港事業は漁業関係者の一致した認識となり、1919年(大正8年)には具体的な実現運動に発展した。その結果政府も銚子港の重要性を認め、我が国の水産業の発展という大局的な見地から一大整備を行うこととなった。銚子醤油株式会社社長の濱口吉兵衛[23]は、代議士の立場から築港の促進を図るため衆議院議員選挙に立候補して当選し、在任中、政党を動かして議会や政府に働きかけた。当初の計画による銚子漁港の規模は外港・中港・内港を有する壮大なもので、外港は夫婦ヶ鼻東方に突き出す北防波堤と黒生北方に建設する南防波堤で囲み、これと河口側の内港は運河を掘って結ぶというものであった。工事は1923年(大正12年)度から10か年継続とし、総工事費1千万円を千葉県の他に将来銚子漁港を利用する東京・神奈川・静岡・愛知・三重・宮城・福島・茨城の各府県で分担することとなった。しかし各府県の財政事情によりこの案は廃され、国庫補助金500万円に県下の寄付金、魚市場の売上等を合わせて、千葉県単独で実施することとなった。これに至るまでには、銚子町選出の県会議員小野田周斎の努力があった。
だが予想外の問題が起こって、事態は頓挫してしまった。起債の許可と工事施行の認可が容易に下りようとしなかったのである。これらの許認可は内務省の所管であったが、利根川河口の沿岸を埋め立てたり、河中に堤防等を構築することは治水上重大な影響を及ぼすとして、農商務省の設計による築港工事を認めようとしなかった。両省の意見の食い違いは、事が科学的・技術的な問題であるだけに容易に解決を見ることができず、折から1923年(大正12年)に関東大震災が発生して国はその対策に追われ、事業開始は遅れるばかりであった。銚子はその将来に関わる重大な問題であるだけに、衆議院議員選挙に再出馬して当選した濱口吉兵衛や香取郡から再選された今井健彦を動かし、内務省や農商務省に働きかけた。その労が実り、1925年(大正14年)、部分的に第二船溜まりの工事が認可された。
起工式は1925年(大正14年)11月21日に飯沼魚市場において挙行され、全市挙げての祝賀提灯行列が開催された。ここに銚子近代化の最初の槌音が高く鳴り響いたのである。工事には当時としては新鋭のドイツ製の浚渫船や杭打ち船が配置されて、新生・飯沼町地先のさざ波が寄せる天然の岸辺は広大な埋立地に生まれ変わっていった。だが他の工事は依然として認可に至らず、県は大幅に計画を変更して外港・中港・航路の建設を取り止め、その代わりに龍ノ口と一の島間に防波堤を構築し、内港に新たに第三船溜まりを設けることとした。この計画変更と工事施行は1932年(昭和7年)にほぼ全面的に認可され、銚子の長年の宿願が果たされた。そしてこの年から、工事は第一船溜まり・外港へと延びていった。なお、この年には既に埋め立ての成った第二船溜まり後背地に東洋一を誇る新魚市場が完成した。この魚市場は戦後の1965年(昭和40年)まで、銚子漁港の中心施設として大きな役割を果たした。1934年(昭和9年)度からは埋立地を貫通する延長5500mに及ぶ臨港道路の建設が始まり、銚子漁港の大動脈となった。これらの築港工事により、かつてさざ波が打ち寄せる砂浜であった利根川河畔は、車や人が激しく行き交い、岸壁には大小無数の漁船がマストを林立させる近代的な漁港へと変貌していった。
海上郡銚子町 | C | 銚子市 | ||||||||||||
海上郡本銚子町 | ||||||||||||||
海上郡伊豆原村 | B | 海上郡西銚子町 | ||||||||||||
海上郡豊浦村 | ||||||||||||||
海上郡高神村 | D | |||||||||||||
海上郡海上村 | ||||||||||||||
海上郡船木村 | E | |||||||||||||
海上郡椎芝村 | A | 海上郡椎柴村 | ||||||||||||
香取郡豊里村 | F | |||||||||||||
海上郡豊岡村 | G | |||||||||||||
銚子市市域の変遷(年表) | ||
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年 | 月日 | 現銚子市町域に関連する行政区域変遷 |
1889年(明治22年) | 4月1日 | 町村制施行に伴い、以下の町村がそれぞれ発足。[24] |
1891年(明治24年) | 1月26日 | 椎芝村は改称し椎柴村になる。 |
8月14日 | 伊豆原村は町制施行・改称し西銚子町になる。 | |
1933年(昭和8年) | 2月11日 | 銚子町・本銚子町・西銚子町・豊浦村が合併し銚子市が発足。 |
1937年(昭和12年) | 2月11日 | 高神村・海上村は銚子市に編入。 |
1954年(昭和29年) | 3月31日 | 豊岡村の一部(塙と八木の一部)が飯岡町と三川村と合併し、飯岡町が発足。 |
4月1日 | 船木村・椎柴村は銚子市に編入。 | |
1955年(昭和30年) | 2月11日 | 香取郡豊里村は銚子市に編入。 |
1956年(昭和31年) | 4月10日[矛盾][矛盾] | 豊岡村は銚子市に編入。 |
1958年(昭和33年) | 飯岡町の一部(三川の一部)は銚子市に編入。 |
銚子市市域の変遷表(※細かな境界の変遷は省略) | |||||||
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1868年 以前 |
明治22年 4月1日 |
明治22年 - 昭和64年 | 平成元年 - 現在 | 現在 | |||
海上郡 | 新生村 | 銚子町 | 銚子町 | 昭和8年2月11日 銚子市 |
銚子市 | 銚子市 | |
荒野村 | |||||||
今宮村 | |||||||
飯沼村 | 本銚子町 | 本銚子町 | |||||
松本村 | 伊豆原村 | 明治24年8月14日 西銚子町に 町制改称 | |||||
本城村 | |||||||
長塚村 | |||||||
小川戸村 | 豊浦村 | 豊浦村 | |||||
辺田村 | |||||||
三崎村 | |||||||
高神村 | 高神村 | 高神村 | 昭和12年2月11日 銚子市に編入 | ||||
松岸村 | 海上村 | 海上村 | |||||
垣根村 | |||||||
四日市場村 | |||||||
余山村 | |||||||
柴崎村 | |||||||
高野村 | |||||||
三宅村 | |||||||
赤塚村 | |||||||
高田村 | 船木村 | 船木村 | 昭和29年4月1日 銚子市に編入 | ||||
芦崎村 | |||||||
岡野台村 | |||||||
船木台村 | |||||||
三門村 | |||||||
中島村 | |||||||
正明寺村 | |||||||
野尻村 | 椎芝村 | 明治24年1月26日 椎柴村に改称 | |||||
小船木村 | |||||||
塚本村 | |||||||
忍村 | |||||||
猿田村 | |||||||
小浜村 | 豊岡村 の一部 |
豊岡村の一部 | 昭和31年7月1日 銚子市に編入 | ||||
親田村 | |||||||
常世田村 | |||||||
八木村の一部 | |||||||
香取郡 | 下桜井村 | 豊里村 | 豊里村 | 昭和30年2月11日 銚子市に編入 | |||
富川村 | |||||||
下森戸村 | |||||||
諸持村 | |||||||
宮原村 | |||||||
東笹本村 |
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銚子市は2021年(令和3年)2月16日に「ゼロカーボンシティ銚子」を宣言し、銚子電力・銚子市・Looopの協働による官民連携で再生可能エネルギーの地産地消を推進し、2050年までに温室効果ガス排出実質ゼロを目指すことを表明した[28]。
現在までの取り組みとして、2021年(令和3年)に開校した銚子市立銚子西中学校への「銚子ウィンドファーム」を主とする実質再生可能エネルギー100%電力の供給が行われている。 今後の計画としては、災害時に備えた地域循環型スマートコミュニティの形成として、洋上風力発電等のポテンシャルを活用した地域単独のマイクログリッド構築の推進や2035年までの市内全公共施設の二酸化炭素排出係数ゼロ化等が挙げられている[29]。
銚子市沖は、再生エネ海域利用法に基づき国が大規模な洋上風力発電開発を認めた促進区域であり、2021年(令和3年)12月には三菱商事を中心とする「千葉銚子オフィシャルウィンド」が事業者に決定し、2028年9月に39kWに及ぶ設備が稼働を開始する見込みとなっている。 促進地域に最も近い名洗港は千葉県がメンテナンス拠点港湾としての活用を目指して、係留施設建設や埠頭用地造成等、機能強化に向けた整備を開始しており、風車景観とジオパークを融合したエコツーリズム拠点として、眺望緑地も新たに造成される見込みである[30]。 銚子市は銚子商工会議所や銚子市漁業協同組合と共同出資でメンテナンス会社である「銚子協同事業オフショアウインドサービス」を設立し、地元企業のサプライチェーンへの参入促進を行うとともに日本初の漁業共生型となる「銚子モデル」の実現に取り組むとしている[31]。
銚子市は2016年(平成28年)度から全国10自治体を対象とした総務省「お試しサテライトオフィスモデル事業」に取り組み、企業・起業家の誘致による地域経済の活性化を図るため、主に都市部のベンチャー企業・IT企業を対象に豊富な地域資源、地場産業と都心からのアクセス利便性を活用したSO環境の整備を行った。市街地だけでなく市内景勝地の施設を活用した無料コワーキングスペースを提供し、開発合宿体験事業や観光体験事業等も併せて実施した。同年には銚子市企業立地等促進事業補助金を創設している[32]。
独自性の高い地域資源とそれを運営管理する地元団体を巻き込んでお試し勤務の誘引を行ったこと、企業誘致活動及び当該活動で培った行政と都市部企業の個別ネットワーク等を最大限に活用したこと、SNSを駆使してお試し勤務の状況をリアルタイムに配信する他、地元事業者とUJIターン者のマッチングを促す特設サイトを構築する等、デジタル的なアプローチを充実させたことから順調にお試し勤務企業数を伸ばし、2社のSO進出企業を確保している[33]。
老朽化・狭隘化が著しかった旧庁舎に代わり、銚子市長期計画に基づいて1973年(昭和48年)から新庁舎建設が進められ1975年(昭和50年)に開庁した。設計整理は山下設計、施工は清水建設及び熊谷組共同体が担当した。地上8階地下1階建で、庁舎棟、議会棟、付属棟から構成され、庁舎棟下層階への市民窓口の集中と模写電送装置・コンピュータの導入により、事務処理の合理化とスピード化が図られた。また庁舎棟1階には各種相談の窓口として市民相談センターが設置され、議会棟1階には市民との対話の場として約200人を収容する市民ホール及び展示ホールが設けられた。職員厚生設備としては売店、茶室、理髪店、厚生室等がある。市議会議場を始め議会関係の室は議会棟の2・3階に配置されている[34]。
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1933年(昭和8年)に県内2番目に市制を施行した銚子市は、都市基盤整備にいち早く着手し、教育、医療、消防、衛生等あらゆる領域の公共サービスを近隣市町村との共同によらず銚子市単独で供給する政策を採り、東総地区の中核都市としてその整備を進めた。近年の少子高齢化をはじめとする社会構造の抜本的かつ急激な変化や地方分権の進展による地方自治体の行財政運営における自立性の高まりといった状況の下、銚子市では「銚子市行財政改革大綱」を策定して持続可能な財政基盤の確立、組織・施設等の整理、アウトソーシングの推進、事務事業の見直し、公共サービスの広域化を実施し、市立病院への財政支援と大学建設費助成を主とする大規模事業の短期間集中に伴う公債費償還の増大・基金の不足その他によって窮迫していた財政の構造転換を進めた[35]。
2019年(令和元年)度の銚子市の実質公債費比率は13.2%で年々改善されており、財政再生団体の基準である35.0%を大きく下回っている。財源の余裕度合いを示す財政力指数も0.61であり、財政力は香取海匝地域(銚子市・旭市・匝瑳市・香取市・香取郡神崎町・多古町・東庄町)の中でトップの水準にある[36]。
1970年(昭和45年)3月市議会定例会において、市民から募集した草案98点からの入賞作品を基に作成した「銚子市民憲章」が市長から提案された。この議案は満場一致をもって可決され、同年4月1日からの施行となった。提案理由は、銚子市民であることの誇りと自覚を持ち、銚子市将来の目標をかかげ、これを実践し、健康で明るい文化都市をきづくため、というものであった。
- 銚子市民憲章
- 洋々とした大海原、雄大な流れの利根川。漁業の町として、祖先のたゆまぬ努力によって栄えてきたわが銚子市は、あらたに近代都市として、力強くはばたこうとしています。わたくしたちは、この美しい郷土を守り育て、市民として誇りをもって生活できるようにするために、わたくしたちの願いをこめて、この憲章を定めます。
- 1 仕事をたいせつにし、明るく元気に働きます。
- 1 老人やこどもをいたわり、人に親切にします。
- 1 自然を愛し、町をきれいにします。
- 1 教養を高め、心を豊かにします。
- 1 力を合わせ、交通安全につとめます。
銚子市紋章は市制施行を記念して、紋章図案を懸賞募集し、応募総数1127点の中から最終決定し、1934年(昭和9年)1月15日に市会の議決を経て、同日告示された。制定にあたっては、銚子市は本邦東端に位置し、旭日仰ぐは最も早く、即ち市の発展性は旭日と共に力強く、その増大を意味して紋章は之を象徴することとし、旭日を中心にその周囲を丁四(銚子)にて輪郭図案化せるものなり、とされた。
銚子市歌は懸賞募集し応募総数267点の中から三軒町山崎晋道作詞を一等として採用し、1936年(昭和11年)1月27日に市会議決のうえ、同日告示第2号をもって告示された。
- 銚子市歌
- 1 阪東太郎洋々と 太平洋にそそぐところ 四季に絶えせぬ海の幸 市民の意気はさかんなり 銚子、銚子、吾等の銚子
- 2 潮花咲く磯つづき 観光の美に富めるところ 犬吠埼の灯台は 文化の光世を照らす 銚子、銚子、吾等の銚子
- 3 遠く元和の昔より 醤油の香の匂ふところ 水産業の発展は 伸びゆく力世に示す 銚子、銚子、吾等の銚子
会派名 | 議席数 | 議員名(◎は代表) |
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市民クラブ | 5 | ◎石上允康、岩井文男、地下誠幸、鎌倉 金、大野正義 |
新和会 | 4 | ◎野平仁人、石神嘉明、宮崎光子、桶谷範幸 |
新風 | 2 | ◎石上友寛、池田健一 |
みらい | 2 | ◎釜谷藤男、広野恭代 |
公明党 | 2 | ◎桜井 隆、加瀬栄子 |
リベラル | 1 | ◎加瀬庫藏 |
日本共産党 | 1 | ◎笠原幸子 |
緑の会 | 1 | 工藤忠男 |
※ 2021年6月1日現在
※2020年10月1日現在
銚子市は水揚数量と水産物流通加工機能によって日本最大規模の水産業を中心として、畑作野菜生産の一大供給基地となった農業、長い歴史を有する醤油醸造その他製造業及び商業の複合した産業都市であり、日本経済の好況・不況の影響を直ちに受ける度合いが少ない安定生産型の産業都市とされている。 犬吠埼から屏風ヶ浦に至る海岸線は1959年(昭和34年)に水郷筑波国定公園として指定された景勝地で、観光都市としても知られる。
2018年(平成30年)度の産業別就業者の割合を見ると、第1次産業に10.7%、第2次産業に28.5%、第3次産業に58.4%が従事しており、1965年(昭和40年)と比較して第3次産業の割合が拡大している[37]。
銚子市は外房(海匝・山武・長生・夷隅地域)で茂原市・東金市に次ぐ第3の商業都市であり、銚子商圏を形成する単独商圏都市である[38]。 銚子市の商業は、銚子漁港魚市場の仲買人による鮮魚の市外出荷すなわち卸売りを除けば、ほとんどが市民を中心とする一般消費者を対象とした小売業である。卸売業はこれらの小売業に対する卸売り、あるいは市内の業者に業務用の原材料を売る卸売りであって、市外の小売業をも対象とする卸売業は、醤油その他の食料品についてごく少数が見られるだけである。
銚子市の商業の特徴の一つは、人口に比較して商店数が多いことである。また企業規模の余り大きくない零細な規模の商店が多いことも特徴である。2019年(令和元年)の銚子市の人口1000人あたりの小売店数は県内1位であり、飲食店数は県内3位となっている[39]。
戦後、バラック建ての店舗から再出発した主要商店街も、1950年代までにはアーケードや街路灯等によって整備された近代的な商店街となった。1960年代に入ると技術革新と大衆消費革命が進んで商業は競争の時代を迎え、市内各地区には中小のスーパーマーケットが開店した。高度経済成長期には個々の商店また商店街の競争が激しくなり、個店の改造、商店街の整備美化、合同大売り出しが行われ、銚子銀座商店街が中心商店街となっていた。1970年代半ば以降は銚子駅前に大型店が進出したことを契機に各種小売店や飲食店が集積して、銚子銀座商店街に代わる新たな商業拠点となった。
平成に入ってからは各地域の商店街の基盤となる主要道路整備が重点的に進められ、銚子駅前シンボルロード、本通りマイロード、銚子銀座ココロードの整備によって、魅力ある商業空間づくりが目指された。2000年(平成12年)には大規模小売店の出店を規制する、いわゆる「大店法」が撤廃されて小売店をめぐる情勢は変化し、専門店や量販店等のロードサイド店の進出が見られるようになり、銚子市においても郊外の開発が進んだ。
2010年(平成22年)には市街地から離れた郊外の国道126号沿いに東総地域で最大規模の大型ショッピングセンターであるイオンモール銚子が開店。イオン銚子店を中心に、100の専門店や飲食店、映画館(シネマコンプレックス)等のアミューズメント施設を備えている。
銚子市において、おおむね100店以上の小売店・飲食店が機能的に一体化している商業集積地区、いわゆる繁華街は銚子駅前、銚子銀座、田中町の3地区とされてきた。1970年代半ば以降は、市内中央部の人の流れが銚子駅前へと遷移し、現在ではかつての中心繁華街であった銚子銀座商店街と田中町商店街の小売店数をあわせても銚子駅前商店街のそれの2分の1にも達していない。近年では郊外へのショッピングセンターやロードサイド店の進出等により、市内商業地図の変化が著しく、特に小規模小売店を取り巻く環境の厳しさが強くなっているといえる。
銚子市内の金融機関は地元信用金庫本店・6支店、地元信用組合本店・5支店、地方銀行支店4店、労働金庫1店の計18店がある。またちばみどり農業協同組合及び東日本信用漁業協同組合連合会も金融機関として大きな役割を果たしている。
銚子市に初めて風力発電施設が建設されたのは、2001年(平成13年)である。日本風力開発の関連会社により市内には多数の風力発電が稼働しており、その大半は屏風ヶ浦を中心とした高台に位置する。
その他の風力発電所は以下の通り。
銚子市の製造業の中で最も市の経済を支える重要な位置を占めるのは、水産加工業と醤油醸造業を双璧とする食品製造業である。食品製造業に続く業種は、窯業建材製品・生コンクリート製造業、電気機械製造業である。これらの代表的な製造業以外の伝統的な地場産業として、漁網やロープ製造、籐製品、造船、鉄工業等がある。
江戸期に肥料のいわし搾粕生産を中心として発展した銚子市の水産加工業は、戦後、養殖飼料用の冷凍いわしが主力となった。また、さんま・さば漁の発展に伴って、食用の一般加工品の原料が、いわしからさんま、さば、あじへと推移した。 冷凍・冷蔵施設の普及・発展によって市外・県外・国外からの移入・輸入による原料の長期保存が年間均等操業を可能とし、更に最適時期の出荷までの製品の保存が可能にさせた。そしてこのことが水産加工業者による原料売買という新しい流通形態を生じさせ、製造業経営における商業的要素が大きくなった。 また1960年代以降、コンベア、フォークリフト、自動選別機、自動軽量機、自動割裁機その他機械導入による生産設備の省力化、冷凍・冷蔵施設の大型化、経営近代化、原材料の移入・輸入が進み、生産額も増大して、今日まで銚子市の主要業にある。 また、銚子漁港整備の進展と連動して計画的に沿岸漁業の水揚げ拠点基地づくりが推進され、全国有数の水産流通加工センターを形成している。
大正期に始まった銚子市の冷凍業は、戦後、冷蔵庫が普及すると大型加工場が多かった銚子市では、冷凍・冷蔵施設の大型化が競って進められ、その規模も飛躍的に拡大した。銚子市のように一つの地域に冷蔵能力が集中しているところは他に例がなく、水産業に関する冷蔵庫の数とその能力が大きいことでは、銚子市は全国一となっている。 この中で新しい営業形態として盛んとなったのが、冷蔵業である。主としていわし・さば・さんまを加工原料・飼料用に保存し、そのままの形で冷凍加工原料魚、冷凍飼料として出荷している。 氷は船積み用・鮮魚出荷用その他、水産業における必需品であり、製氷業は冷凍冷蔵業務とは別に専門業者、漁業協同組合、水産業者の製氷工場で行われている。
銚子市における缶詰製造の歴史は1979年(明治12年)に行われたいわし油漬缶詰の試験製造に始まったとされるが、企業としての缶詰生産は明治後期に本格化した。その後、1906年(明治39年)のくじら大漁によるくじら大和煮缶詰製造業の勃興と昭和初期のいわし豊漁に伴ういわしの大和煮・トマト煮、油漬製造の増加によって急激な発展を遂げた。戦後は輸出向けのさば缶詰の生産が進んだが、1980年代からの円高傾向により国内向けへの販路転換と他種兼業の経営多角化が目指された。
銚子市の練製品製造業は終戦直後に食糧難を背景として急速に発展し、その後製品の質は年々向上し、生産高も増加した。種類としては半片、蒲鉾、鳴門、小魚を使った揚蒲鉾、いわし・さば等を原料とするつみれ等である。これらは大部分が東京を中心とする近県へと出荷されており、地元消費は一部である。
銚子の醤油醸造は江戸時代初期に始まる古い歴史を有し、銚子市における主要産業の一つである。銚子市の醤油醸造業の全国シェアはヤマサ醤油、ヒゲタ醤油の大手2社を主に15%を占め、銚子市内における企業としては別格の地位にある。近年ではつゆ・たれ等の醤油加工調味料の開発・改良が進められるとともに、うま味調味料やだし類が製造されている。 銚子市内で生産される醤油は、主として濃口醤油と薄口醤油であるが、その種類は多岐に渡り、特に濃口醤油は家庭用にかぎってみてもヤマサ醤油、ヒゲタ醤油の二社の商品は20種類を超えている。 なおヤマサ醤油は1992年(平成4年)、アメリカ合衆国オレゴン州に関連会社を設立し、工場を建設してアメリカ、カナダ、メキシコなどに製品出荷も行っている。 この他、醤油製造会社では、蓄積された研究開発技術により核酸関連物質を利用した医薬品原料、食品添加物、化粧品原料、医薬品合成原料、研究用試薬、体外診断用医薬品、また、動物医薬用ワクチン、抗がん活性物質、抗ウイルス性物質、臨床検査薬、動物薬等の研究開発が進められている。
銚子では明治以降、漁船用内燃機関である焼玉エンジンに関する鉄工業が勃興し、戦前は漁船用内燃機関の他、澱粉製造機械、醤油工場関係の機械及び農機具等が製作されていた。漁船エンジンのディーゼル化後は、市内の鉄工場の多くが大手機械メーカーに系列化に入り、その下請工場となった。1969年(昭和44年)には、財団法人銚子市開発協会と千葉県開発公社の共同事業により、新たに小浜工業団地が造成されている。
銚子市の伝統的な地場産業として造船業があり、江戸期から昭和前期にかけて、銚子市の造船業は全て船大工の個人企業であった。造船所はちょき船や伝馬船のような小舟を除いては川岸や海岸の砂浜にあり、主として市東部では漁船が、市西部では川船が造られていた。銚子市の漁船は和船型が主流であったが、1960年代以降は西洋型が増加し、材質も木船から鋼船・強化プラスチック船へと変化した。
銚子で籐製品が製造されるようになったのは明治後期からで、大正から昭和にかけて主要な地場産業に成長した。当時の銚子の籐製品はほとんど全てが草履や下駄に使われる籐表で、その後銚子市は籐表の全国的特産地となった。戦後は国民の生活様式の変化によって籐表の需要は減少し、産業というよりも文化財的な工芸としての性格が強くなっている。
銚子漁港は、漁港漁場整備法上の特定第3種漁港(国指定最重要漁港)に指定された日本三大漁港の一つであり、古くから沿岸・沖合及び遠洋漁業の拠点港として利用されている。3つの卸売市場を抱えており、第2卸売市場に入港する大中まき網漁船によってサバ、サンマ、イワシなどの主要な魚種が水揚げされ、これらの魚種を中心に年間水揚量が全国第1位である[40]。総水揚げ量の約90%が大中型まき網漁業によるもので、これらの多くは地元漁船ではなく他の漁港に属する廻船であり、地元漁船は底引き網漁業等の比較的規模が小さい漁業が中心である。
タイやヒラメなどの高級魚も漁獲されており、特に銚子漁業の発祥の地である外川地区の小はえなわ型船による立縄漁業で漁獲しているキンメダイは「銚子つりきんめ」として千葉ブランド水産物第1号に認定され、ブランド力向上と資源管理が行われている。
国漁業協同組合連合会(全漁連)が中心となり、漁業協同組合連合会(漁連)・漁業協同組合(漁協)が選定した、漁師が自信をもって推奨する魚介類として「銚子つりきんめ」「銚子の入梅いわし」がプライドフィッシュとして選定されている。
銚子市は県内有数の農業都市であり、春キャベツの生産量は日本一を誇る。海洋性の気候と首都圏から100km圏内という地理的な利便性を生かし、キャベツやダイコン、スイカ、イチゴなど露地野菜や果物が栽培されている。銚子市の総耕地面積2540haのうち約80%近くが畑地であり、県内トップクラスである農業産出額268億円のうち57%にあたる 152億円を野菜が占め、畑作中心の営農である。 一戸あたりの栽培面積が増加し農地の集約化が進んだことで経営規模は拡大傾向にあり、専業農家率は県の平均が30.6%であるのに対し、銚子市では 55.6%で、販売農家戸数1,007戸のうち560戸が専業農家である。
姉妹都市・提携都市
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観光地が豊富であり、犬吠埼温泉などの温泉地を有することから宿泊施設が市内に点在している。以下、主な旅館・ホテル一覧[48]。
二次医療圏(二次保健医療圏)としては香取海匝医療圏(管轄区域:香取地域・海匝地域)である[49]。三次医療圏は千葉県医療圏(管轄区域:千葉県全域)。
銚子市と市外とを結ぶ旅客輸送の主力機関は鉄道である。銚子市の私設鉄道は市内電車で、市外に通ずるものは東日本旅客鉄道であり、線路は総武本線と成田線の2本である。東京・銚子間には特急電車「しおさい」が運転されている。
中心となる駅:銚子駅
東日本旅客鉄道(JR東日本)
銚子電気鉄道(銚子電鉄)
銚子市内唯一の私設鉄道である銚子電気鉄道は1923年(大正12年)に銚子鉄道株式会社として設立開業し、戦後の1948年(昭和23年)に企業再建整備法により、新旧勘定合併にため銚子電気鉄道株式会社と改称し、設立登記を行って現在に至っている。営業キロ数は銚子駅構内から外川まで全長6.4キロで、短いことでは全国屈指の私鉄である。
銚子市及び近隣市町村との間を結ぶ路線バスは、ほとんど千葉交通が運行している。
大阪 - 銚子線は夜行、その他は昼行。※主要停留所のみ記載
銚子市内には一般国道が3路線あるが、このうち最も主要な国道は千葉・銚子間を結ぶ126号線であり、かつては銚子市と首都近郊を結ぶ唯一最大の道路であった。現在も貨物輸送を始めその他の交通における大動脈としての役割は極めて大きい。銚子大橋前交差点は、126号線とこれに次ぐ銚子市の動脈である356号線及び水戸市に至る国道で銚子市と茨城県を結ぶ最大の幹線道路である124号線が集まる3国道の起点となっている。
広域幹線道路については、国道126号線飯岡バイパス、東総広域営農団地農道、東総有料道路、東関東自動車道成田線、九十九里波乗道路等が整備されている。2000年(平成12年)、利根かもめ大橋が開通し、2013年(平成25年)には銚子大橋架け替え工事が完了した。今後は山武方面との高規格幹線道路・銚子連絡道路の早期実現が期待されている。市内の主要道路では、海岸を一周する県道銚子公園線、愛宕山の観光道路市道愛宕山天王台線、三崎町から屏風ヶ浦の台地を通って天王台に至る銚子ドーバーラインが整備されている他、銚子海上線の拡幅整備、銚子公園線長崎周遊道路の開通、銚子駅前シンボルロード・本通りマイロード・銚子銀座ココロードの整備等により、観光都市としての交通体系の整備も進められてきた。
千葉県成田市の成田国際空港(成田空港)が最寄りとなり、約40キロメートルの距離に位置する。東京都大田区の東京国際空港(羽田空港)へは約95キロメートルの距離に位置する。
江戸時代の文化・文政期頃から多くの文人墨客が銚子に来遊し、銚子の海岸の奇岩、断崖、白砂、青松、怒涛など変化に富んだ明媚な風光を和歌・俳句、漢詩に詠み、あるいは文に記し絵にして、多くの作品を残した。大正時代以降は避暑地として、皇族、政治家、財界人、作家、画家が別荘を構えて滞在した。竹久夢二の「宵待草」や高村光太郎の「智恵子抄」の舞台としても知られる。現在、市内には歌碑、詩碑が多く立つ[53]。以下、代表作一覧。
ヤマサ醤油10代目当主濱口儀兵衛は、地域への報恩のため1925年(大正14年)に私財を投じ、銚子に財団法人公正會を設立した。1926年(大正15年)に開館した公正會館は鉄筋コンクリート2階建の建物で、公正會の活動拠点として利用され、銚子における文化の殿堂となった。建物内にはステージ付きホールや図書室があるほか、夜間中学である公正學院を開くなど当時としては先進的な社会教育事業が行われた。また、各界一流人を招いた講演会やオーケストラ演奏会も頻繁に催された。「公正」という名前には、私事を捨て大衆を基とし、最も公平に正しく運営するという理念が込められているとされた。1945年(昭和20年)3月の銚子空襲により街は壊滅的な被害を受けたが、この建物は奇跡的に残った。戦後は市に寄付され、1983年(昭和58年)まで市立図書館として利用された[54] 。
銚子市の千葉県立銚子商業高等学校は春8回、夏12回という千葉県最多の甲子園出場記録を保持しており、全国制覇の経験もある高校野球の名門校として知られている。 その豪快な打線は「黒潮打線」として知られ、名将・鈴木源三郎、斉藤一之監督の指導の下、木樽正明、篠塚和典、宇野勝ら20人ものプロ野球選手を輩出した[55]。 2019年(令和元年)には木樽正明により野球チームが結成され、銚子スポーツタウンを拠点に活動している。
宮内庁御用達
番号 | 指定・登録 | 類別 | 名称 | 所在地 | 所有者または管理者 | 指定年月日 | 備考 |
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1 | 国指定 | 重要文化財(建造物) | 犬吠埼灯台(灯台、旧霧笛舎、旧倉庫) | 銚子市犬吠埼 | 国(海上保安庁)、公益社団法人燈光会 | 令和2年12月23日 | 1基、2棟 |
2 | 重要文化財(彫刻) | 木造薬師如来坐像 | 銚子市常世田53-1 | 常灯寺 | 昭和34年6月27日 | 1躯 | |
3 | 重要文化財(工芸品) | 鐃 | 奈良国立博物館 | 円福寺 | 昭和34年6月27日 | 1口 | |
4 | 記念物(名勝及び天然記念物) | 屏風ケ浦 | 銚子市春日町744-1他 | 銚子市・千葉県・国 | 平成28年3月1日 | ||
5 | 記念物(天然記念物) | 犬吠埼の白亜紀浅海堆積物 | 銚子市犬吠埼9578-10他 | 銚子市・国 | 平成14年3月19日 | ||
6 | 県指定 | 有形文化財(建造物) | 猿田神社本殿 | 銚子市猿田1677 | 猿田神社 | 昭和30年12月15日 | 1棟 |
7 | 常灯寺本堂 | 銚子市常世田町53-1 | 常灯寺 | 昭和54年3月2日 | 1棟 | ||
8 | 海上八幡宮本殿 | 銚子市柴崎1-17 | 海上八幡宮 | 平成2年3月16日 | 1棟 | ||
9 | 有形文化財(彫刻) | 木造薬師如来立像 | 銚子市岡野台町2-473 | 等覚寺 | 平成元年3月10日 | 1躯 | |
10 | 木造薬師如来立像 | 銚子市岡野台町2-473 | 等覚寺 | 平成元年3月10日 | 1躯 | ||
11 | 木造菩薩立像 | 銚子市岡野台町2-473 | 等覚寺 | 平成元年3月10日 | 1躯 | ||
12 | 有形文化財(工芸品) | 梵鐘(享徳十一年在銘) | 銚子市馬場町293-1 | 円福寺 | 昭和42年3月7日 | 1口 | |
13 | 釈迦涅槃図 | 銚子市馬場町293-1 | 円福寺 | 平成3年2月15日 | 1幅 | ||
14 | 有形文化財(古文書) | 天正検地帳 | 銚子市ほか | 銚子市ほか | 昭和57年4月6日 | 18件・71冊 | |
15 | 有形文化財(考古資料) | 金銅経筒(建長四年在銘) | 銚子市岡野台町2-473 | 等覚寺 | 昭和60年3月8日 | 1合 | |
16 | 無形文化財 | 銚子縮 | 銚子市松岸町 | 常世田眞壱郎 | 平成13年3月30日 | ||
17 | 記念物(天然記念物) | 渡海神社の極相林 | 銚子市高神西町2 | 渡海神社 | 昭和34年4月24日 | ||
18 | 猿田神社の森 | 銚子市猿田1675-21他 | 猿田神社 | 昭和49年3月19日 | |||
19 | 犬吠埼産出のアンモナイト | 銚子市前宿町1034 | 銚子市 | 平成18年3月14日 | 5標本6点 | ||
20 | 国登録 | 登録有形文化財(建造物) | 内野家住宅洋館 | 銚子市長山町2034 | 個人 | 平成11年7月8日 | 1件 |
21 | 磯角商店主屋 | 銚子市飯沼町186 | 個人 | 平成26年4月25日 | 1件 | ||
22 | 滑川家住宅主屋ほか | 銚子市野尻町27-1 | 個人 | 平成29年6月28日 | 2件 | ||
23 | 旧西廣家住宅(治郎吉)主家ほか | 銚子市川口町1-6271 | 株式会社ランス | 平成30年3月27日 | 5件 | ||
24 | 石上酒造米藏ほか | 銚子市田中町7-1 | 個人 | 平成30年3月27日 | 5件 |
君ヶ浜の風景を詠んだ歌人は多いが、ポップスの歌詞のモチーフにもされている。
屏風ヶ浦では、多数のプロモーション用ミュージックビデオが撮影されている。
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