若山牧水
日本の歌人 (1885 - 1928) ウィキペディアから
若山 牧水(わかやま ぼくすい、1885年(明治18年)8月24日 - 1928年(昭和3年)9月17日[1])は、戦前日本の歌人。本名・繁(しげる)。
生涯
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宮崎県東臼杵郡坪谷村(現・日向市)の医師・若山立蔵の長男として生まれる。1899年(明治32年)宮崎県立延岡中学校に入学。短歌と俳句を始める。
18歳のとき、号を牧水とする。由来は「当時最も愛していたものの名二つをつなぎ合わせたものである。牧はまき、すなわち母の名である。水はこの(生家の周りにある)渓や雨やから来たものであった」[2]
1904年(明治37年)早稲田大学に入学。同級生の北原射水(後の白秋)、中林蘇水と親交を厚くし、「早稲田の三水」と呼ばれる。土岐善麿、安成貞雄、佐藤緑葉も同級生で、ともに回覧雑誌「北斗」を作っていた。1908年(明治41年)早稲田大学英文学科卒業[3]。7月に処女歌集『海の声』出版。翌1909年(明治42年)、安成貞雄の紹介で中央新聞社に入社するが、5ヶ月後に退社。尾上柴舟の門に入った。
1911年(明治44年)創作社を興し、詩歌雑誌「創作」を主宰する。この年、歌人・太田水穂を頼って塩尻より上京していた歌人で、のちに妻となる太田喜志子(1888-1968[4])と水穂宅にて知り合う。1912年(明治45年)友人であった石川啄木の臨終に立ち合う。同年、水穂が仲人となり喜志子と結婚。1913年(大正2年)長男・旅人(たびと)(1913〜98)誕生。その後、2女1男をもうける。
1920年(大正9年)沼津の自然を愛し、特に千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住する。1926年(大正15年)詩歌総合雑誌「詩歌時代」を創刊。この年、静岡県が計画した千本松原伐採に対し、新聞に計画反対を寄稿するなど運動の先頭に立ち、計画を断念させる。
1927年(昭和2年)妻と共に朝鮮揮毫旅行に出発し、約2ヶ月間にわたって珍島や金剛山などを巡るが、体調を崩し帰国する。翌1928年9月に日光浴による足の裏の火傷と下痢・発熱を起こして全身衰弱し、長年の大量飲酒による急性胃腸炎と肝硬変を併発して9月17日に沼津市の自宅で死去する[5]。享年43。沼津の千本山乗運寺に埋葬される。戒名は古松院仙誉牧水居士。
牧水の死後、詩歌雑誌「創作」は歌人であった妻・喜志子により受け継がれた。長男・旅人も歌人となり、沼津市若山牧水記念館の第2代館長をつとめた。
人物
- 自作の短歌の揮毫を多数制作しており、書家としても知られる。
- 旅を愛し、生涯にわたって旅をしては各所で歌を詠み、日本各地に歌碑がある。
- 鉄道旅行を好み、鉄道紀行の先駆といえる随筆も残している。
- 大変な酒豪(またはアルコール依存症)としても知られ、1日に1升の酒を飲んでいたという[7]。死因は肝硬変である。盛夏に死亡したにもかかわらず、死後しばらく経っても遺体から死臭がせず「生きたままアルコール漬けになったのでは」と医師を驚かせた逸話がある。
- 自然を愛し、特に終焉の地となった沼津では千本松原や富士山を愛し、千本松原保存運動を起こしたり、富士の歌を多く残すなど、自然主義文学としての短歌を推進した。
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- 情熱的な恋をしたことでも知られており、妻・喜志子と知り合う前の園田小枝子との熱愛を詠んだ歌も残る。
- 出身地・宮崎県では牧水の功績を称え、1996年(平成8年)より毎年、短歌文学の分野で傑出した業績を挙げた者に「若山牧水賞」を授与している。
- 牧水自身は宮崎県出身だが、祖父・若山健海は武蔵国神米金村(現・埼玉県所沢市神米金)出身で、長崎にて西洋医学を学び、宮崎県にて診療所を営む開業医であった。
- 牧水は祖父ゆかりの地である埼玉県を度々訪れた。大学時代には所沢を訪れた。所沢市の八雲神社には、牧水の歌碑が建立されている。また、秩父地方にも数度訪れて、歌と紀行文を残している。秩父市の羊山公園には「牧水の滝」と名づけられた滝があり、そこには
- 「秩父町出はづれ来れば機をりのうたごゑつゞく古りし家竝に」
という秩父の春を歌った碑がある。
作品
歌集
- 海の声(1908年7月出版)
- 独り歌へる(1910年1月出版)
- 別離(1910年4月出版)
- 路上(1911年9月出版)
- 死か芸術か(1912年9月出版)
- みなかみ(1913年9月出版)
- 秋風の歌(1914年4月出版)
- 砂丘(1915年10月出版)
- 朝の歌(1916年6月出版)
- 白梅集(1917年8月出版)
- さびしき樹木(1918年7月出版)
- 渓谷集(1918年5月出版)
- くろ土(1921年3月出版)
- 山桜の歌(1923年5月出版)
- 黒松(1938年9月出版)
紀行
- みなかみ紀行
- 木枯紀行
刊行作品集
代表歌
幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
うら恋しさやかに恋とならぬまに別れて遠きさまざまな人[8]
白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり[7]
たぽたぽと樽に満ちたる酒は鳴るさびしき心うちつれて鳴る[7]
足音を忍ばせて行けば台所にわが酒の壜は立ちて待ちをる[7]
うす紅に葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山ざくら花[9]
旅人のからだもいつか海となり五月の雨が降るよ港に
麦ばたの垂り穂のうへにかげ見えて電車過ぎゆく池袋村
この冬の夜に愛すべきもの、薔薇あり、つめたき紅の郵便切手あり
水無月の青く明けゆく停車場に少女にも似て動く機関車
妻が眼を盗みて飲める酒なれば惶て飲み噎せ鼻ゆこぼしつ
釣り暮し帰れば母に叱られき叱れる母に渡しき鮎を[10]
歌碑
脚注
外部リンク
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