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日本の歌人・国語学者 ウィキペディアから
土岐 善麿(とき ぜんまろ、1885年(明治18年)6月8日 - 1980年(昭和55年)4月15日)は、日本の歌人・国語学者。歌人として土岐 哀果(とき あいか)の号も使用した。
哀果の号を用いたが、1918年以降は本名の善麿。独創的なローマ字三行書きの短歌集『NAKIWARAI』(1910年)で注目される。日常の哀歓をうたった生活歌が多い。ほかに『黄昏に』(1912年)など。
東京府東京市浅草区浅草松清町(現在の東京都台東区西浅草一丁目)の真宗大谷派の寺院、等光寺の二男として生まれる。等光寺は美濃国の守護大名土岐頼芸の遺児・大圓が創建した寺と伝えられる[1]。父・善静は柳営連歌最後の宗匠で、学僧として知られた。
東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)では同級生に石坂泰三、三宅正太郎、一級下に谷崎潤一郎がいた。中学在学中より学友会雑誌に文章、短歌、俳句の投稿を始める。
1905年(明治38年)、金子薫園の「白菊会」に入会し、田波御白、吉植庄亮、平井晩村らと知り合う。早稲田大学英文科に進み、島村抱月に師事。学外では馬場孤蝶に学び、外国文学に親しむ。窪田空穂の第一歌集『まひる野』に感銘を受け、同級の若山牧水と共に作歌に励んだ。北原白秋も同級である。牧水との交流は特に深く、ともに回覧雑誌「北斗」を作ったり(他の会員には佐藤緑葉、安成貞雄らがいた)、父の納骨の際に京都へ同行したりした。
早稲田大学卒業後、読売新聞社会部記者となった1910年(明治43年)、第一歌集『NAKIWARAI』を「哀果」の号で出版。この歌集はローマ字綴りの一首三行書きという異色のものであり、これを契機にローマ字運動に参加する。『NAKIWARAI』はヘボン式を採用したが、すぐに日本式ローマ字に転向し、田中舘愛橘、芳賀矢一、田丸卓郎指導のもとに「ローマ字世界」の編集に当たる。その後も読売に勤務しながら歌作を続けた。翌1911年には第二歌集『黄昏に』を刊行。
1911年(大正元年)に大杉栄、荒畑寒村らと「近代思想」の執筆者に加わり、大杉と知り合う。そこから社会主義的傾向を持つようになる。
1913年(大正2年)、読売新聞特派員として満州、朝鮮を視察。レフ・トルストイの短編集『隠遁』を翻訳する。石川啄木とともに刊行を計画して果たせなかった『樹木と果実』の後継として雑誌『生活と藝術』を創刊し、啄木の遺稿などを多く発表するが、1915年(大正4年)の2月号が発禁処分を受ける。「生活と藝術」の連載「歌壇警語」にて、半年にわたり斎藤茂吉と論争を展開する。
読売新聞社会部長の任にあった1917年(大正6年)、東京奠都50年の記念博覧会協賛事業として東京〜京都間のリレー競走「東海道駅伝徒歩競走」を企画し、大成功を収めた。これが今日の「駅伝」の起こりとなっている。しかしこの企画が予算オーバーだったために責任を取らされ、翌1918年(大正7年)に読売を退社、朝日新聞に転じる。
1919年(大正8年)、哀果の号を廃し、本名の善麿を名乗り始める。1923年(大正12年)、東京朝日新聞学芸部長に就任。1924年(大正13年)、白秋や前田夕暮、釈迢空らとともに雑誌「日光」の創刊に参加する。
1928年(昭和3年)に日本エスペラント学会の理事に選ばれ、また国語国字問題についての著書を出版。1934年(昭和9年)には日本放送協会の放送用語並発音改善調査委員となるなど、昭和初期には歌人としてよりも、国語の専門家として広く知られていた。
1929年(昭和4年)に茂吉、夕暮、庄亮とともに朝日新聞社主催の飛行機搭乗歌会に参加、これを機に自由律短歌へと傾くが、歌作は停滞するようになる。1936年(昭和11年)、日本歌人協会が改組して「大日本歌人協会」となり、白秋とともに常任理事に就任。歌作を復活させ、定型短歌へと還る。1939年(昭和14年)からは喜多実とともに新作能の創作に励む。
1940年(昭和15年)、論説委員を最後に朝日新聞を退社。この年に出版した歌集『六月』は反軍国主義的な性格を含んでいたことから、「潮音」にて匿名歌人「桐谷侃三」に強く非難される。桐谷の正体については現在もなお議論がなされている。 一方、1941年(昭和16年)12月24日に大政翼賛会の肝いりで開催された「文学者愛国大会」では短歌朗読を行うなど、時世に沿った行動が見られた[2]。
戦時体制の中で、太田水穂、吉植庄亮、斎藤瀏による大日本歌人協会の内紛が起こり、議長として解散を決議。戦時下は日本文学報国会などの動きに同調せず隠遁生活を送り、春秋社常務取締役のかたわら田安宗武研究や新作能の創作に没頭する。
戦時下に自由主義者のスタンスを貫いたため、戦後は進歩的文化人として大きく飛躍する。1946年(昭和21年)には新憲法施行記念国民歌『われらの日本』の作詞を担当(作曲・信時潔)。翌年には『田安宗武』によって学士院賞を受賞、早稲田大学にて文学博士号を受ける。同年に窪田空穂の後任として早稲田大学教授となり、上代文学を講じた他、能・長唄の新作を世に出すなど多彩な業績をあげた。寺院の生まれであることから、仏教を題材とした新作能を手がけた。
1949年(昭和24年)に発足した国語審議会会長に就任[3]し、以後12年にわたってその任を務める。現代国語・国字の基礎の確立に尽くし、新字・新仮名導入にも大きな役割を果たした。文部省教材用図書検定調査会長、東京都立日比谷図書館長、日本図書館協会理事長を歴任し、国語教育や図書館行政にも大きな影響を及ぼした。
1955年(昭和30年)、日本芸術院会員に選ばれ、紫綬褒章を受章。1965年(昭和40年)、武蔵野女子大学文学部日本文学科主任教授に就任。晩年は杜甫の研究に励んだ。荻江節「蟬丸」の作詞で、1967年(昭和42年)度芸術祭賞を受賞。1977年(昭和52年)、仏教伝道文化賞・功労賞を受賞。
1910年(明治43年)に刊行した第一歌集『NAKIWARAI』の批評を、当時東京朝日新聞にいた石川啄木が執筆[5]。これは編集局長の安藤正純(土岐とは縁戚関係にあった)が土岐に贈られた『NAKIWARAI』を「批評してくれまいか」と託したもので、啄木は同年8月3日付の紙面に「大木頭」の筆名で好意的に紹介した[5]。土岐は当初筆者が誰かわからず、安藤から啄木だと教えられる[5]。だが、土岐は以前に出席した新詩社の文士劇で見た啄木に「生意気」という印象があったため、すぐには会わなかった[5]。その後啄木は歌壇時評「うたのいろいろ」で、土岐の別の短歌を賞賛した[5]。
啄木も同年12月に第一歌集『一握の砂』を出し、翌1911年(明治44年)1月10日付の読売新聞に、文芸評論家の楠山正雄が匿名で啄木と土岐を歌壇の新しいホープとして取り上げた[5]。土岐はこの直後の1月12日に東京朝日新聞の啄木に電話をかけ、翌日初めて面会する[5]。この面会で意気投合した二人は、啄木の提案で雑誌を出すことを決め、二人の筆名から一文字ずつを使った『樹木と果実』に誌名を決める[6]。しかし啄木が病気を発したことや、出版を依頼した印刷社が倒産したことから、刊行を断念した[7]。
1912年(明治45年)4月13日に啄木が病死。土岐は同年刊行した第二歌集『黄昏に』の前書きに「この一小著の一冊をとつて、友、石川啄木の卓上におく。」と記した。
啄木とはわずか1年ほどの付き合いであったが、啄木の才能を評価していた土岐は死後も遺族を助けた[8]。また、啄木の遺稿整理と出版に務め、特に新潮社の佐藤義亮を説得の末に刊行を実現した初の『啄木全集』(1920年)はベストセラーとなり、その名を広めることに貢献した[8][9]。
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