市川市
千葉県の市 ウィキペディアから
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いちかわし 市川市 | |||||
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国 | 日本 | ||||
地方 | 関東地方 | ||||
都道府県 | 千葉県 | ||||
市町村コード | 12203-3 | ||||
法人番号 | 6000020122033 | ||||
面積 |
57.44km2 (境界未定部分あり) | ||||
総人口 |
499,383人 [編集] (推計人口、2024年10月1日) | ||||
人口密度 | 8,694人/km2 | ||||
隣接自治体 |
浦安市、船橋市、松戸市、鎌ケ谷市 東京都江戸川区 | ||||
市の木 | クロマツ | ||||
市の花 | バラ | ||||
市の鳥 市の虫 市の歌 |
ウグイス スズムシ 市川市歌、 市川賛歌 | ||||
市川市役所 | |||||
市長 | 田中甲 | ||||
所在地 |
〒272-8501 千葉県市川市八幡一丁目1番1号 北緯35度43分19秒 東経139度55分52秒 市川市役所第1庁舎 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
特記事項 | 河原地区が江戸川区との境界未定 | ||||
ウィキプロジェクト |
人口は約50万人。千葉県内では千葉市、船橋市、松戸市に次いで第4位の人口規模である[1]。旧東葛飾郡。計量特定市に指定されている。
1934年(昭和9年)市制施行。
市川市は、東京都の都心から10 - 20キロメートル圏内[注 1]に位置し、西側で東京都江戸川区と接している。通勤、通学の便の良さから東京のベッドタウンとして発展している。東京都特別区部への通勤率は47.1%といわゆる「千葉都民」が極めて多い(2015年国勢調査)。政令指定都市・中核市以外で松戸市に次ぐ人口を持つ都市であり、財政力指数が高く地方交付税不交付団体になることが多い。健康都市連合加盟都市[2]。市の標語は「ともに築く 自然とやさしさがあふれる 文化のまち いちかわ」。
市中央部(西部)は、国道14号(千葉街道)、総武本線、京成本線を軸として、歴史的な街としての一面、文教都市・学園都市としての一面、日本有数の閑静な高級住宅地としての一面、市の行政および商業の中心としての一面がある。
国道14号(千葉街道)の北側の歴史は古く、旧石器時代や縄文時代の遺跡や古墳時代の古墳が多く残されており、1000年以上前に創建された葛飾八幡宮や日蓮宗の大本山である法華経寺を始めとした歴史のある神社仏閣も多く点在している。下総台地に位置する国府台や国分エリアには、かつて下総国の国府および国分寺が置かれ、現在の東京都の隅田川以東から千葉県の北部エリアを領域とした下総国の中心地として栄えた。その後、国府台城や旧陸軍の施設が置かれた後、現在では国立高度専門医療研究センターである国立国際医療研究センターや東京医科歯科大学などの教育機関に置き換わった。国府台から八幡にかけて私立の小学校、中学校、高等学校が多く点在しており、文教地区・学園地区となっている。
市川、真間、菅野、八幡などのエリアは、市の木であるクロマツも多く静かな佇まいであり、これらの地区は明治時代から木内重四郎などの政治家や東京都心・下町(神田、日本橋、京橋、本所、深川、柳橋、浅草橋など[注 2])の富豪、旧日本軍の将官クラスが別荘・邸宅を構え[要出典]、戦後も移り住んできた富裕層が「お屋敷街」を形成する国内屈指の高級住宅地となっている[3][4][5][6][7]。千葉県内の住宅地の公示地価としては第1位である[8][9]。
また、文化人や著名人が居を構えたことでも知られ、過去には永井荷風、幸田露伴(次女の幸田文、孫の青木玉も同居)、北原白秋、井上ひさしなど数多くの文人が好んで定住した[4][5][7]。近代文学では夏目漱石、正岡子規、与謝野晶子、三島由紀夫[10]、安岡章太郎、島尾敏雄などが「市川」に関する作品を書いており、本市に縁のある作家や作品が多い[11]。これら文人の足跡が市民団体や市などの手で「市川文学の散歩道」として残されている。このようなことから「文化都市[12]」と言われている。
市川駅および本八幡駅周辺は、超高層マンションや商業施設、企業が立ち並び商業地として発展している。特に本八幡駅(京成八幡駅)は鉄道3路線(JR総武線、都営地下鉄新宿線、京成本線)が利用でき、駅周辺には市役所などの市の施設が多く立地する行政の中心地にもなっている。また、付近には京葉道路および東京外環自動車道も通っており、高速道路の利用も至便である。
南部の行徳地区は東京メトロ東西線が通り区画整理が進んだエリアである。道幅の広い比較的新しい街として開けており、人気のある住宅地となっている。かつては湿地帯で、江戸時代には塩田(行徳塩田、塩浜由緒書より)が作られて大量の塩が生産され、行徳の塩は全国的に有名だった。JR京葉線、国道357号(首都高速湾岸線・東関東自動車道)沿線の湾岸部は工業地となっていて、様々な企業の工場および倉庫が立ち並ぶ物流の拠点となっている。市川塩浜駅周辺の沖合には東京湾では数少ない干潟・三番瀬があり、埋め立てられて工業用地になる予定であったが産業構造の変化や市民運動の成果によって中止となり、現在も東京湾屈指の干潟として保全され、日本の重要湿地500に選定されている。また、付近には宮内庁新浜鴨場があり、今上天皇が皇后雅子に求婚した場所として知られている。
千葉県北西部に位置し、県庁所在地である千葉市から約20キロメートルの距離である。東京都の都心から10 - 20キロメートル圏内[注 1]である。
市の西部は江戸川と旧江戸川を挟んで東京都江戸川区と接し、北部は松戸市、東部は船橋市、北東部は鎌ケ谷市、南部は浦安市と東京湾に接する。旧東葛飾郡(葛飾郡)。市の南部は海抜2メートル程度の平野で、北部は海抜20メートル程度のなだらかな下総台地となっている。最高点は国府台地先、里見公園内で30.1メートル。最低点は福栄地先で0.1メートルとなっており、埋立地の一部で海抜ゼロメートル地帯となる。
市川市と船橋市の境界付近から東京湾沿いに千葉市中央区付近まで延びる長さ約22キロメートルの東京湾北縁断層の存在が推定されていたが、1992年(平成4年)度の県の調査結果に加え、国の地震調査研究推進本部地震調査委員会においても、2001年(平成13年)11月に、「東京湾北縁断層は活断層ではない」との評価を公表した。江戸川河口の直下には中央構造線に関連した綾瀬川断層があると推定されている。
市域
自然
市川市域に人が住みはじめた歴史は古く、市内北部の台地上には旧石器時代の遺跡が多数存在する(丸山遺跡、権現原遺跡、今島田遺跡等)。縄文時代の遺跡としては、堀之内貝塚、姥山貝塚、曽谷貝塚等の国の史跡となっている貝塚遺跡があり、その他の貝塚を含めた遺跡数は約60ヶ所にのぼる国内最大級の集中度で、縄文時代には栄えた地域となっていたことが分かる。さらに、弥生時代の遺跡も多数存在する(須和田、杉ノ木台、小塚山、宮久保、国府台等)。
市川市の中でも、国府台より広がる高台は、常に市川一帯の歴史を担ってきた。古墳時代初めには小集落ができ(北根、前原、鳴神山、杉ノ木台)、多くの古墳が築かれた。法皇塚古墳(東京医科歯科大構内)、弘法寺古墳(真間山弘法寺敷地内)、明戸古墳(里見公園内)の3基の前方後円墳のほか、国府台近辺だけで約30ヶ所の古墳があったと推定されている(国府台古墳群)。
律令制により国府台に国庁と国府が置かれ、下総国の中枢となった。国府関連施設と思われる遺跡が発掘されている。市川市には下総国の国分寺・国分尼寺が所在していたとされており、その跡も発掘されている。
下総国分寺跡
国分寺跡の伽藍は現在の下総国分寺と重複する位置にあり、金堂跡は現在の本堂の場所にあたる。ただし、塔は西に、金堂・講堂は東に傾いており、堂塔の向きは一定ではない[13]。一帯は須和田遺跡や国府跡推定地が残り、古くから文化的中心地であった。
下総国分尼寺跡
国分寺北東の市川市国分4丁目(北緯35度44分47.56秒 東経139度54分46.70秒)に所在する。1932年の発掘調査で金堂・講堂の基壇が確認されるとともに「尼寺」と書かれた土器が出土し、位置の確定に至った[14]。なおそれ以前は、当地はかつて「昔堂」と呼ばれ、国分僧寺跡と考えられていた[15]。
発掘調査により寺の範囲を区画する溝が北・東・南で確認され、北溝は340メートル・東溝は303メートルに及び寺域は不整な方形をなしている[14]。現在は市川市営の国分尼寺跡公園として管理されている。
10世紀には平将門の乱に巻き込まれ、12世紀には石橋山の戦いに敗れて安房国に落ち延びた源頼朝が、上総広常と下総国府で合流して軍勢を立て直した。15世紀には太田道灌が国府台に仮陣を置き、その弟の太田資忠が国府台城を築城した。16世紀には、国府台城は、里見義堯ら里見氏と後北条氏との間で2度にわたり戦われた国府台合戦の舞台となった。戦国時代には市域の大半は千葉氏やその重臣の高城氏の領域であったが、小田原征伐で没落する。
江戸時代には一部が栗原藩の支配地だった時期もあるが、大部分は幕府領(天領)・旗本領とされた。特に行徳地区では徳川家康の意向により塩田が整備された(行徳塩田)。
戊辰戦争の際には、江戸を脱出した大鳥圭介が率いる旧幕府陸軍が、国府台に集結した。これに土方歳三らの新撰組も合流した。すぐに大鳥・土方らは宇都宮を経て日光へ向かったが、その後、別の旧幕府軍(撤兵隊)と官軍の戦いが、この台地下の市川から船橋にかけて戦われた(市川・船橋戦争)。
1875年(明治8年)には、教育機関の最高学府として国府台大学校計画(この計画は岩倉使節団 に随行して欧米諸国の大学校を調査してきた田中不二麿を中心に「欧米二通ズ真ノ高等大学校」の実現を目指して計画されたもので、現在の東京大学とは別の教育機関として構想されたものだった。)が持ち上がり、具体的な案もまとまり、土地の買収も進められていたが諸事情により実現しなかった。
1885年(明治18年)には、都心からのアクセスがよく、渡河訓練をはじめ、各種訓練に適した立地に恵まれていたことから、大学校用地跡に陸軍教導団が置かれた。教導団は1899年(明治32年)に廃止されたが、その後、陸軍の野砲兵連隊・国府台陸軍病院などが置かれ、市川は軍都として栄えた。
第二次世界大戦では、13回の空襲被害を受けた。最大の物的被害が生じた空襲は1945年(昭和20年)2月25日のものであり、東京都内を標的としたものが悪天候などにより市川市内に着弾。市川新田地域と中山法華経寺門前であり、70戸余りの家屋が全焼した[16]。
終戦後、陸軍の広大な土地は、国立国際医療研究センター国府台病院(旧・国府台陸軍病院)、市川市スポーツセンター(国府台公園)、東京医科歯科大学、千葉商科大学、和洋女子大学、筑波大学附属聴覚特別支援学校、千葉県立国府台高等学校、市川市立第一中学校、千葉県血清研究所の各施設に変わった。
八幡地区は寛平年間(西暦889年 - 898年)に創建された葛飾八幡宮を中心に発展し、中山地区は文応元年(西暦1260年)に創建された中山法華経寺の門前町として発展した。江戸時代には、市川地区、八幡地区に佐倉街道(成田街道)の宿場町である市川宿、八幡宿があり、五街道の1つである日光街道の支線として道中奉行の支配下に置かれた。成田街道の別ルートである日本橋から海路を経るルートとして行徳地区にも宿場町があり、江戸川水運の中心地として発展した。
現在の真間に舒明天皇時代の国造の娘である手児奈という絶世の美少女がいたという伝説があり、奈良時代にはその噂が都にまで届いて万葉集に詠まれるほど有名だった。737年に行基がその故事を聞き、手児奈の霊を慰めるために弘法寺を開いた。現在は手児奈霊神堂に祀られている。
斎藤月岑の江戸名所図会には、葛飾八幡宮および八幡の藪知らずが、歌川広重の名所江戸百景には、「真間の紅葉 手古那の社継はし」「鴻の台とね川風景」が描かれている。
佐倉街道(成田街道)のうち水戸街道からの分岐である新宿から数えて2番目の宿場が市川宿、3番目が八幡宿である[注 4]。新宿から八幡宿までは五街道の1つである日光街道の支線として道中奉行の支配下に置かれていた。水戸街道は千住宿で日光街道から分岐し、次の新宿で佐倉街道と分岐している。
市名選定の由来は、市川市誕生時に遡る。当初合併計画は市川町、八幡町、国分村で進められていたが、市の構成要素に欠ける点があった[22]。そのため市川町は、県当局の勧奨により1934年3月に当時馴染みの薄かった中山町とも連携した。
市川町は江戸川水運の中継地点として繁栄したのち、国府台に陸軍の教導団が置かれる軍都であり、八幡町、中山町に比べて飛び抜けて発展していた[23]。しかし、市川町は「市川市」では合併工作が軌道に乗らないと考え、新市名に旧町村名を使用しないことを原則として議論を進めていた[24]。
1934年6月16日の第一回代表委員会における各町村の希望事項は次の通りであり、市名の一項を除き他は全部協定済みとなった。
市川町 | 八幡町 | 中山町 | 國分村 | 協議案 | |
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一、市の名前 | 合倂町村の代表となるべき名稱を以てすること | 合倂四ヶ町村民中より懸賞募集により定むること
但し舊町村を用ゐざること |
舊町村名に關係なき名稱を選定すること | 目下適當の考案なき故當局の任意にすること | イ市の名稱は關係町村名を襲用せず新に定むること
ロ新市名候補
|
二、市役所の位置 | 最も便利なる場所を選定すること | 市の中央なる八幡町に置くこと | 八幡町國道沿ひの場所に選定し假廳舍を市制施行と同時に設くること | 合併前に決定せず市會に於て適當と認むる場所に選定の上施設すること | 市役所は假廳舍を設くることとし市の中央にして便利なる位置を選定すること |
三、負擔 | 市稅負擔額は三ヶ年間現在の狀態を維持すること | 市稅は三ヶ年間現在比率を超へざること | 稅負擔は成べく現在を超過せざること、都市計劃上道路網の滿全を期するは勿論なるも池の施設は逐次稅の增大ならざる範圍内に於て實施すること | 市稅負擔額は三ヶ年間現在の狀態を維持すること | |
四、町村吏員 | 現在の町村吏員は特別の事情なき限り市へ引繼くこと | 有給吏員は全部市へ引繼くこと | 吏員は特別の事情なき限り市へ引繼くこと | 出來得る限り現在吏員を採用し當分解職せさること | 有給吏員は全部市に引繼くこと |
五、町村の權利義務 | 合倂町村の權利は一切市へ引繼くこと | 合倂前に於ける町村の權利義務は一切市へ引繼くこと | 舊町村の權利義務の全部を市へ引繼くこと | ||
六、市政施行の期日 | 昭和九年十一月三日 | 同上 | 同上 | 同上 | 同上 |
七、其の他 | 市川町里見公園を市立公園とすること | 八幡停車場の設置が市制施行前に實現し得ざる場合は市に引繼ぎ昭和九年度中に之が實現に努力すること | 一法華經寺を中心とし、公園を設置すること
二中等程度の學校を設くること |
村債を以て道路工事繼續中につき市制施行後も引繼ぎ施行せられたきこと | 何れも市代議檢認の議を經て實施すべき事項なれども將來市の發展に資すべき施設のみに付希望事項として市に引繼ぎ充分其の實現に努力すること |
協議案では「江東市」、「東葛市」、「下総市」、「北総市」、「総府市」の5候補が挙げられたが、「いづれ劣らぬ田臭味百パーセントで新興都市の不滅の金字としてはさるべくもない」[24]こと、また、「市川町民には市役所を初め市制によつて得るところが皆無とあつては合併の盟主たる市川町として餘りにも酷に過ぎる」[24]ことから、市川町は新市名を「市川市」とすることで他の3町村と再交渉を行った。総武線秋葉原駅には「両国・市川・千葉方面」という案内があり、市川という地名が既に一般の人々に馴染み深いこと、また、縦と横に「市川市」と書き、どこから読んでも市川市でわかりやすいという語呂の良さから、市川町は「市川市」を提案した[26]。市川町以外はこれに反対し、話し合いが縺れて一時は合併話が一度暗礁に乗りかけた[26]。最終的に市川町中山町間で折衝が行われ、中山町は市役所を中山側(八幡町の藪知らずより東側の国道沿い[26])へ引き寄せることで市川町に譲歩し、市名が市川市に決定した[24]。中山町はさらに京成停留所(鬼越駅)、学校、法華経寺公園等の設置も合併条件に加え、鬼越・中山競馬場間の道路舗装も決定した[27]。1934年9月19日の代表委員会では、庁舎や敷地以外の事項を協定し、市制の大枠が定まった[25]。
市川の名称は市西端に流れる江戸川が当時東国一の川であったことから一の川が訛ったとする説、江戸川の河岸に川舟が集まり定期的に市が開かれていたことに由来するという説の2つが有力である。市川の地名が初めて登場するのは『義経記』。石橋山の戦いで敗れ安房で再起した源頼朝が、軍勢を率いて下総の松戸庄市河に達するという記述がある。
市川市では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。
町名 | 町名の読み | 町区域新設年月日 | 住居表示実施年月日 | 住居表示実施前の町名等 | 備考 |
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国府台一丁目 | こうのだい | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | 国府台町1、国分町の各一部 | |
国府台二丁目 | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | 国府台町1の一部 | ||
国府台三丁目 | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | 国府台町1、国府台町2の各一部 | ||
国府台四丁目 | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | 国府台町2の一部 | ||
国府台五丁目 | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | 国府台町1、国府台町2、国府台町3の各一部 | ||
国府台六丁目 | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | 国府台町3の一部 | ||
市川一丁目 | いちかわ | 1965年7月1日 | 1965年7月1日 | 市川町5、新田町3の各一部 | |
市川二丁目 | 1965年7月1日 | 1965年7月1日 | 市川町3の全部と市川町2、市川町5の各一部 | ||
市川三丁目 | 1965年7月1日 | 1965年7月1日 | 市川町1の全部と市川町2、根本町、真間町2の各一部 | ||
市川四丁目 | 1965年7月1日 | 1965年7月1日 | 根本町、真間町1の各一部 | ||
市川南一丁目 | いちかわみなみ | 1965年7月1日 | 1965年7月1日 | 市川町5の一部 | |
市川南二丁目 | 1965年7月1日 | 1965年7月1日 | 市川町5の一部 | ||
市川南三丁目 | 1965年7月1日 | 1965年7月1日 | 市川町4の一部 | ||
市川南四丁目 | 1965年7月1日 | 1965年7月1日 | 市川町4の一部 | ||
市川南五丁目 | 1966年9月1日 | 1966年9月1日 | 市川町4の全部 | ||
真間一丁目 | まま | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | 真間町4の全部と真間町3の一部 | |
真間二丁目 | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | 真間町2の全部 | ||
真間三丁目 | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | 真間町3の一部 | ||
真間四丁目 | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | 真間町1、根本町の各一部 | ||
真間五丁目 | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | 真間町1、国分町の各一部 | ||
新田一丁目 | しんでん | 1968年2月1日 | 1968年2月1日 | 新田町1の全部と平田町3の一部 | |
新田二丁目 | 1968年2月1日 | 1968年2月1日 | 新田町2の一部 | ||
新田三丁目 | 1968年2月1日 | 1968年2月1日 | 新田町2の一部 | ||
新田四丁目 | 1968年2月1日 | 1968年2月1日 | 新田町4、大洲町の各一部 | ||
新田五丁目 | 1968年2月1日 | 1968年2月1日 | 新田町3の全部と新田町4の一部 | ||
平田一丁目 | ひらた | 1968年2月1日 | 1968年2月1日 | 平田町1、平田町2、平田町3の各一部 | |
平田二丁目 | 1968年2月1日 | 1968年2月1日 | 平田町2、平田町3の各一部 | ||
平田三丁目 | 1968年2月1日 | 1968年2月1日 | 平田町1、平田町2、平田町3の各一部 | ||
平田四丁目 | 1968年2月1日 | 1968年2月1日 | 平田町1、平田町2、平田町3の各一部 | ||
大洲一丁目 | おおす | 1968年2月1日 | 1968年2月1日 | 大洲町の一部 | |
大洲二丁目 | 1968年2月1日 | 1968年2月1日 | 大洲町、下新宿の各一部 | ||
大洲三丁目 | 1968年2月1日 | 1968年2月1日 | 大洲町の一部 | ||
大洲四丁目 | 1968年2月1日 | 1968年2月1日 | 大洲町、新田町4の各一部 | ||
大和田一丁目 | おおわだ | 1968年2月1日 | 1968年2月1日 | 大和田の一部 | |
大和田二丁目 | 1968年2月1日 | 1968年2月1日 | 大和田、本行徳の各一部 | ||
大和田三丁目 | 1968年2月1日 | 1968年2月1日 | 河原の一部 | ||
大和田四丁目 | 1968年2月1日 | 1968年2月1日 | 上下妙典、平田町3、河原の各一部 | ||
大和田五丁目 | 1968年2月1日 | 1968年2月1日 | 大和田、本行徳、上下妙典、河原の各一部 | ||
東大和田一丁目 | ひがしおおわだ | 1968年 | 年月日 | 本行徳、稲荷木の一部 | |
東大和田二丁目 | 1968年 | 年月日 | 本行徳、稲荷木の一部 | ||
稲荷木一丁目 | とうかぎ | 1973年2月1日 | 1973年2月1日 | 稲荷木、田尻の各一部 | |
稲荷木二丁目 | 1973年2月1日 | 1973年2月1日 | 稲荷木、河原、大和田、田尻の各一部 | ||
稲荷木三丁目 | 1973年2月1日 | 1973年2月1日 | 稲荷木、本行徳、大和田の各一部 | ||
八幡一丁目 | やわた | 1967年2月1日 | 1967年2月1日 | 八幡町1、鬼越町1の各一部 | |
八幡二丁目 | 1967年2月1日 | 1967年2月1日 | 八幡町1、八幡町3、八幡町4、八幡町6の各一部 | ||
八幡三丁目 | 1967年2月1日 | 1967年2月1日 | 八幡町4の一部 | ||
八幡四丁目 | 1967年2月1日 | 1967年2月1日 | 八幡町3の一部 | ||
八幡五丁目 | 1967年2月1日 | 1967年2月1日 | 八幡町1、八幡町2の各一部 | ||
八幡六丁目 | 1967年2月1日 | 1967年2月1日 | 八幡町2、八幡町3の各一部 | ||
南八幡一丁目 | みなみやわた | 1967年2月1日 | 1967年2月1日 | 八幡町7の一部 | |
南八幡二丁目 | 年月日 | 年月日 | |||
南八幡三丁目 | 1967年2月1日 | 1967年2月1日 | 八幡町6、八幡町7の各一部 | ||
南八幡四丁目 | 1967年2月1日 | 1967年2月1日 | 八幡町6の一部 | ||
南八幡五丁目 | 1967年2月1日 | 1967年2月1日 | 八幡町5の全部 | ||
菅野一丁目 | すがの | 1967年2月1日 | 1967年2月1日 | 菅野町1、菅野町5、平田町1の各一部 | |
菅野二丁目 | 1967年2月1日 | 1967年2月1日 | 菅野町5、平田町1、平田町2、平田町3、新田町1の各一部 | ||
菅野三丁目 | 1967年2月1日 | 1967年2月1日 | 菅野町5、菅野町6、新田町1の各一部 | ||
菅野四丁目 | 1967年2月1日 | 1967年2月1日 | 菅野町1、菅野町4の各一部 | ||
菅野五丁目 | 1967年2月1日 | 1967年2月1日 | 菅野町4の一部 | ||
菅野六丁目 | 1967年2月1日 | 1967年2月1日 | 菅野町6の一部 | ||
東菅野一丁目 | ひがしすがの | 1967年2月1日 | 1967年2月1日 | 菅野町2の全部と八幡町2の一部 | |
東菅野二丁目 | 1967年2月1日 | 1967年2月1日 | 菅野町3の一部 | ||
東菅野三丁目 | 1967年2月1日 | 1967年2月1日 | 菅野町3、八幡町2の各一部 | ||
東菅野四丁目 | 1967年2月1日 | 1967年2月1日 | 菅野町3、八幡町2、宮久保町の各一部 | ||
東菅野五丁目 | 年月日 | 1986年6月1日 | 東菅野5、宮久保町の各全部と北方町4の一部 | ||
宮久保一丁目 | みやくぼ | 1971年2月1日 | 1971年2月1日 | 宮久保町、曽谷町の各一部 | |
宮久保二丁目 | 1971年2月1日 | 1971年2月1日 | 宮久保町、曽谷町の各一部 | ||
宮久保三丁目 | 1971年2月1日 | 1971年2月1日 | 宮久保町の一部 | ||
宮久保四丁目 | 1971年2月1日 | 1971年2月1日 | 宮久保町の一部 | ||
宮久保五丁目 | 1971年2月1日 | 1971年2月1日 | 宮久保町の一部 | ||
宮久保六丁目 | 1971年2月1日 | 1971年2月1日 | 宮久保町の一部 | ||
鬼越一丁目 | おにごえ | 1969年9月1日 | 1969年9月1日 | 鬼越町1、鬼越町2、高石神町の各一部 | |
鬼越二丁目 | 1969年9月1日 | 1969年9月1日 | 鬼越町1、鬼越町2、高石神町の各一部 | ||
鬼高一丁目 | おにたか | 1969年9月1日 | 1969年9月1日 | 八幡町7の全部と鬼高町の一部 | |
鬼高二丁目 | 1969年9月1日 | 1969年9月1日 | 鬼高町の一部 | ||
鬼高三丁目 | 1969年9月1日 | 1969年9月1日 | 鬼高町の一部 | ||
鬼高四丁目 | 1973年2月1日 | 1973年2月1日 | 鬼高町、田尻、稲荷木の各一部 | ||
高石神 | たかいしがみ | 1969年9月1日 | 1969年9月1日 | 高石神町、鬼越町2の各一部 | |
中山一丁目 | なかやま | 1969年9月1日 | 1969年9月1日 | 中山町3の全部と中山町2の各一部 | |
中山二丁目 | 1969年9月1日 | 1969年9月1日 | 中山町2、若宮町2の各一部 | ||
中山三丁目 | 1969年9月1日 | 1969年9月1日 | 中山町2の一部 | ||
中山四丁目 | 1969年9月1日 | 1969年9月1日 | 中山町1の全部 | ||
若宮一丁目 | わかみや | 1969年9月1日 | 1969年9月1日 | 若宮町1の全部 | |
若宮二丁目 | 1969年9月1日 | 1969年9月1日 | 若宮町2、若宮町3、中山町2の各一部 | ||
若宮三丁目 | 1969年9月1日 | 1969年9月1日 | 若宮町3、北方町3の各一部 | ||
北方一丁目 | きたかた | 1969年9月1日 | 1969年9月1日 | 北方町1の全部 | |
北方二丁目 | 1969年9月1日 | 1969年9月1日 | 北方町2の全部 | ||
北方三丁目 | 1969年9月1日 | 1969年9月1日 | 北方町3の一部 | ||
本北方一丁目 | もときたかた | 1969年9月1日 | 1969年9月1日 | 北方町3の一部 | |
本北方二丁目 | 1969年9月1日 | 1969年9月1日 | 北方町3の一部 | ||
本北方三丁目 | 1969年9月1日 | 1969年9月1日 | 北方町3の一部 | ||
北方町四丁目 | ぼっけまち | 1951年12月1日 | 未実施 | ||
国分一丁目 | こくぶん | 1972年2月1日 | 1972年2月1日 | 国分町の一部 | |
国分二丁目 | 1972年2月1日 | 1972年2月1日 | 国分町の一部 | ||
国分三丁目 | 1972年2月1日 | 1972年2月1日 | 国分町の一部 | ||
国分四丁目 | 1972年2月1日 | 1972年2月1日 | 国分町の一部 | ||
国分五丁目 | 1972年2月1日 | 1972年2月1日 | 国分町、中国分町の各一部 | ||
国分六丁目 | 1972年2月1日 | 1972年2月1日 | 国分町の一部 | ||
国分七丁目 | 1972年2月1日 | 1972年2月1日 | 国分町、北国分町の各一部 | ||
中国分一丁目 | なかこくぶん | 1972年2月1日 | 1972年2月1日 | 中国分町の一部 | |
中国分二丁目 | 1972年2月1日 | 1972年2月1日 | 中国分町の一部 | ||
中国分三丁目 | 1972年2月1日 | 1972年2月1日 | 中国分町の一部 | ||
中国分四丁目 | 1972年2月1日 | 1972年2月1日 | 国府台町3の全部と国分町、中国分町の各一部 | ||
中国分五丁目 | 1972年2月1日 | 1972年2月1日 | 中国分町の一部 | ||
北国分一丁目 | きたこくぶん | 1972年2月1日 | 1972年2月1日 | 北国分町の一部 | |
北国分二丁目 | 1972年2月1日 | 1972年2月1日 | 北国分町の一部 | ||
北国分三丁目 | 1974年2月1日 | 1974年2月1日 | 北国分町の一部 | ||
北国分四丁目 | 1974年2月1日 | 1974年2月1日 | 北国分町の一部 | ||
須和田一丁目 | すわだ | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | 須和田町1の全部と宮久保町、国分町の各一部 | |
須和田二丁目 | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | 須和田町2の全部 | ||
稲越一丁目 | いなごし | 1951年12月1日 | 2021年2月1日 | 稲越町の一部 | |
稲越二丁目 | 1951年12月1日 | 2021年2月1日 | 稲越町の一部 | ||
稲越三丁目 | 1951年12月1日 | 2021年2月1日 | 稲越町の一部 | ||
曽谷一丁目 | そや | 1971年2月1日 | 1971年2月1日 | 曽谷町の一部 | |
曽谷二丁目 | 1971年2月1日 | 1971年2月1日 | 曽谷町の一部 | ||
曽谷三丁目 | 1971年2月1日 | 1971年2月1日 | 曽谷町の一部 | ||
曽谷四丁目 | 1971年2月1日 | 1971年2月1日 | 曽谷町の一部 | ||
曽谷五丁目 | 1971年2月1日 | 1971年2月1日 | 曽谷町の一部 | ||
曽谷六丁目 | 1974年2月1日 | 1974年2月1日 | 曽谷町の一部 | ||
曽谷七丁目 | 1971年2月1日 | 1971年2月1日 | 曽谷町の一部 | ||
曽谷八丁目 | 1971年2月1日 | 1971年2月1日 | 曽谷町の一部 | ||
下貝塚一丁目 | しもかいづか | 1981年2月1日 | 1981年2月1日 | 下貝塚町の一部 | |
下貝塚二丁目 | 1981年2月1日 | 1981年2月1日 | 下貝塚町、大野町1の各一部 | ||
下貝塚三丁目 | 1981年2月1日 | 1981年2月1日 | 下貝塚町、北方町4の各一部 | ||
東国分一丁目 | ひがしこくぶん | 1974年2月1日 | 1974年2月1日 | 曽谷町の一部 | |
東国分二丁目 | 1974年2月1日 | 1974年2月1日 | 曽谷町の一部 | ||
東国分三丁目 | 1974年2月1日 | 1974年2月1日 | 曽谷町の一部 | ||
堀之内一丁目 | ほりのうち | 1996年2月1日 | 1996年2月1日 | 北国分町の一部 | |
堀之内二丁目 | 1996年2月1日 | 1996年2月1日 | 北国分町の一部 | ||
堀之内三丁目 | 1996年2月1日 | 1996年2月1日 | 北国分町の一部 | ||
堀之内四丁目 | 1996年2月1日 | 1996年2月1日 | 北国分町の一部 | ||
堀之内五丁目 | 1996年2月1日 | 1996年2月1日 | 北国分町の一部 | ||
東浜一丁目 | ひがしはま | 年月日 | 未実施 | ||
田尻 | たじり | 1955年3月31日 | 未実施 | ||
田尻一丁目 | たじり | 1973年2月1日 | 1973年2月1日 | 鬼高町、田尻、稲荷木の各一部 | |
田尻二丁目 | 1973年2月1日 | 1973年2月1日 | 鬼高町、田尻、稲荷木の各一部 | ||
田尻三丁目 | 1973年2月1日 | 1973年2月1日 | 鬼高町の一部 | ||
田尻四丁目 | 1973年2月1日 | 1973年2月1日 | 鬼高町、田尻の各一部 | ||
田尻五丁目 | 1973年2月1日 | 1973年2月1日 | 田尻、稲荷木、高谷、河原の各一部 | ||
高谷 | こうや | 1955年3月31日 | 未実施 | ||
高谷一丁目 | こうや | 1976年4月1日 | 1976年4月1日 | 高谷の一部 | |
高谷二丁目 | 1976年4月1日 | 1976年4月1日 | 高谷の一部 | ||
高谷三丁目 | 1976年4月1日 | 1976年4月1日 | 高谷の一部 | ||
高谷新町 | こうやしんまち | 年月日 | 未実施 | ||
原木 | ばらき | 1955年3月31日 | 未実施 | ||
原木一丁目 | ばらき | 1976年4月1日 | 1976年4月1日 | 原木の一部 | |
原木二丁目 | 1976年4月1日 | 1976年4月1日 | 原木、高谷の各一部 | ||
原木三丁目 | 1976年4月1日 | 1976年4月1日 | 原木、二俣の各一部 | ||
原木四丁目 | 1976年4月1日 | 1976年4月1日 | 原木の一部 | ||
二俣 | ふたまた | 1955年3月31日 | 未実施 | ||
二俣一丁目 | ふたまた | 1976年4月1日 | 1976年4月1日 | 二俣、原木の各一部 | |
二俣二丁目 | 1976年4月1日 | 1976年4月1日 | 印内飛地の全部と二俣、二子飛地、本郷飛地の各一部 | ||
二俣新町 | ふたまたしんまち | 年月日 | 未実施 | ||
上妙典 | かみみょうでん | 1955年3月31日 | 未実施 | ||
二子飛地 | ふたごとびち | 1955年3月31日 | 未実施 | ||
本郷飛地 | ほんごうとびち | 1955年3月31日 | 未実施 |
町名 | 町名の読み | 町区域新設年月日 | 住居表示実施年月日 | 住居表示実施前の町名等 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
南大野一丁目 | みなみおおの | 1986年6月1日 | 1986年6月1日 | 下貝塚町の全部と北方町4、奉免町、大野町1、大野町2の各一部 | |
南大野二丁目 | 1986年6月1日 | 1986年6月1日 | 大野町2の一部 | ||
南大野三丁目 | 1986年6月1日 | 1986年6月1日 | 大野町2の一部 | ||
大野町一丁目 | おおのまち | 1951年12月1日 | 未実施 | ||
大野町二丁目 | 1951年12月1日 | 未実施 | |||
大野町三丁目 | 1951年12月1日 | 未実施 | |||
大野町四丁目 | 1951年12月1日 | 未実施 | |||
柏井町一丁目 | かしわいまち | 1951年12月1日 | 未実施 | ||
柏井町二丁目 | 1951年12月1日 | 未実施 | |||
柏井町三丁目 | 1951年12月1日 | 未実施 | |||
柏井町四丁目 | 1951年12月1日 | 未実施 | |||
大町 | おおまち | 1951年12月1日 | 未実施 | ||
奉免町 | ほうめまち | 1951年12月1日 | 未実施 |
町名 | 町名の読み | 町区域新設年月日 | 住居表示実施年月日 | 住居表示実施前の町名等 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
本行徳 | ほんぎょうとく | 年月日 | 1978年4月1日 | 本行徳の一部 | |
加藤新田 | かとうしんでん | 年月日 | 未実施 | ||
千鳥町 | ちどりちょう | 年月日 | 未実施 | 町名地番整理実施区域 | |
高浜町 | たかはままち | 年月日 | 未実施 | 町名地番整理実施区域 | |
関ヶ島 | せきがしま | 年月日 | 1978年4月1日 | 関ヶ島の一部 | |
伊勢宿 | いせじゅく | 年月日 | 1978年4月1日 | 伊勢宿の一部 | |
下新宿 | しもしんしゅく | 年月日 | 1978年4月1日 | 下新宿の一部 | |
河原 | かわら | 年月日 | 1978年4月1日 | 河原の一部 | |
下妙典 | しもみょうでん | 年月日 | 未実施 | ||
妙典一丁目 | みょうでん | 1978年4月1日 | 1978年4月1日 | 妙典の各一部 | |
妙典二丁目 | 1978年4月1日 | 1978年4月1日 | 妙典の各一部 | ||
妙典三丁目 | 1978年4月1日 | 1978年4月1日 | 妙典の各一部 | ||
妙典四丁目 | 1998年2月1日 | 1998年2月1日 | 上妙典、下妙典、富浜1の各一部 | ||
妙典五丁目 | 1998年2月1日 | 1998年2月1日 | 上妙典、下妙典、富浜1の各一部 | ||
妙典六丁目 | 1998年2月1日 | 1998年2月1日 | 上妙典、下妙典、富浜1の各一部 | ||
押切 | おしきり | 年月日 | 1978年4月1日 | 押切の一部 | |
湊 | みなと | 年月日 | 1977年2月1日 | 湊、湊新田の各一部 | |
湊新田 | みなとしんでん | 年月日 | 1977年2月1日 | 湊新田、湊の各一部 | |
湊新田一丁目 | みなとしんでん | 年月日 | 1979年5月1日 | 湊新田1の各全部 | |
湊新田一丁目 | 年月日 | 1979年5月1日 | 湊新田2の各全部 | ||
香取一丁目 | かんどり | 年月日 | 1977年2月1日 | 香取の全部及び香取1、欠真間1の各一部 | |
1979年5月1日 | 香取1のうち住居表示未実施区域の全部 | ||||
香取二丁目 | 年月日 | 1979年5月1日 | 香取2の全部 | ||
欠真間一丁目 | かけまま | 年月日 | 1977年2月1日 | 欠真間、欠真間1の各一部 | |
1979年5月1日 | 欠真間1のうち住居表示未実施区域の全部 | ||||
欠真間二丁目 | 年月日 | 1980年2月1日 | 欠真間2の全部 | ||
相之川一丁目 | あいのかわ | 1977年2月1日 | 1977年2月1日 | 相之川、相之川2、欠真間の各一部 | |
相之川二丁目 | 1972年12月27日 | 1980年2月1日 | 相之川2の全部 | ||
相之川三丁目 | 1972年12月27日 | 1980年2月1日 | 相之川2の全部 | ||
相之川四丁目 | 1972年12月27日 | 1980年2月1日 | 相之川4の全部 | ||
新井一丁目 | あらい | 1977年2月1日 | 1977年2月1日 | 新井、新井2、相之川、広尾1、当代島飛地、島尻の各一部 | |
新井二丁目 | 1972年12月27日 | 1980年2月1日 | 新井2の全部 | ||
新井三丁目 | 1972年12月27日 | 1980年2月1日 | 新井3の全部 | ||
島尻 | しまじり | 1956年 | 1977年2月1日 | 島尻、新井の各一部 | |
広尾一丁目 | ひろお | 年月日 | 1977年2月1日 | 広尾1、相之川、新井の各一部 | |
広尾二丁目 | 1979年5月1日 | 1979年5月1日 | 相之川、新井、当代島飛地の各全部及び広尾1のうち住居表示未実施区域の全部 | ||
南行徳一丁目 | みなみぎょうとく | 1972年12月27日 | 1980年2月1日 | 南行徳1の全部 | |
南行徳二丁目 | 1972年12月27日 | 1980年2月1日 | 南行徳2の全部 | ||
南行徳三丁目 | 1972年12月27日 | 1980年2月1日 | 南行徳3の全部 | ||
南行徳四丁目 | 1972年12月27日 | 1980年2月1日 | 南行徳4の全部 | ||
塩浜一丁目 | しおはま | 年月日 | 年月日 | 塩浜の各一部 | |
塩浜二丁目 | 年月日 | 年月日 | 塩浜の各一部 | ||
塩浜三丁目 | 年月日 | 年月日 | 塩浜の各一部 | ||
塩浜四丁目 | 年月日 | 年月日 | 塩浜の各一部 | ||
福栄一丁目 | ふくえい | 年月日 | 1979年5月1日 | 福栄1の全部及び欠真間の一部 | |
福栄二丁目 | 年月日 | 1979年5月1日 | 福栄2の全部及び欠真間の一部 | ||
福栄三丁目 | 年月日 | 1979年5月1日 | 福栄3の全部及び欠真間の一部 | ||
福栄四丁目 | 年月日 | 1979年5月1日 | 福栄4の全部及び欠真間の一部 | ||
行徳駅前一丁目 | ぎょうとくえきまえ | 年月日 | 1979年5月1日 | 行徳駅前1の全部及び本行徳の一部 | |
行徳駅前二丁目 | 年月日 | 1979年5月1日 | 行徳駅前2の全部及び本行徳の一部 | ||
行徳駅前三丁目 | 年月日 | 1979年5月1日 | 行徳駅前3の全部及び本行徳の一部 | ||
行徳駅前四丁目 | 年月日 | 1979年5月1日 | 行徳駅前4の全部及び本行徳の一部 | ||
新浜一丁目 | にいはま | 年月日 | 年月日 | 新浜の各一部 | |
新浜二丁目 | 年月日 | 年月日 | 新浜の各一部 | ||
新浜三丁目 | 年月日 | 年月日 | 新浜の各一部 | ||
新浜四丁目 | 年月日 | 年月日 | 新浜の各一部 | ||
入船 | いりふね | 1979年5月1日 | 1979年5月1日 | 入船町の全部及び本行徳の一部 | |
日之出 | ひので | 1979年5月1日 | 1979年5月1日 | 日之出町の全部 | |
末広一丁目 | すえひろ | 年月日 | 1980年2月1日 | 末広1の全部 | |
末広二丁目 | 年月日 | 1980年2月1日 | 末広2の全部 | ||
本塩 | ほんしお | 年月日 | 1978年4月1日 | 住吉1の全部及び本行徳、下新宿、住吉2の各一部 | |
富浜一丁目 | とみはま | 年月日 | 1980年2月1日 | 富浜1の一部 | |
富浜二丁目 | 年月日 | 1980年2月1日 | 富浜2の全部 | ||
富浜三丁目 | 年月日 | 1980年2月1日 | 富浜3の全部 | ||
塩焼一丁目 | しおやき | 年月日 | 2000年2月1日 | 塩焼1の全部及び下妙典の一部 | |
塩焼二丁目 | 年月日 | 2000年2月1日 | 塩焼2の全部及び下妙典の一部 | ||
塩焼三丁目 | 年月日 | 2000年2月1日 | 塩焼3の全部及び下妙典の一部 | ||
塩焼四丁目 | 年月日 | 2000年2月1日 | 塩焼4の全部及び下妙典の一部 | ||
塩焼五丁目 | 年月日 | 2000年2月1日 | 塩焼5の全部及び下妙典の一部 | ||
宝一丁目 | たから | 年月日 | 1980年2月1日 | 宝1の全部 | |
宝二丁目 | 年月日 | 1980年2月1日 | 宝2の全部 | ||
幸一丁目 | さいわい | 年月日 | 1980年2月1日 | 幸1の全部 | |
幸二丁目 | 年月日 | 1980年2月1日 | 幸2の全部 |
2020年国勢調査より前回調査からの人口増減を見ると、1.03%増の495,402人であり、増減率は千葉県下54市町村中11位、60行政区域中14位。
2021年度は転入者28,127人、転出者28,141人で8年ぶりの転出超過となった。
市川市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 市川市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 市川市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
市川市(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
市川市が公表している町丁別世帯人口表によると以下の地区は人口が0人になっている
1997年(平成9年)から行政サービス向上の一環として全国初の仕組みである、あらかじめ市役所に電話で住民票を申請し、午前中申請なら同日午後4時以降、自分の近所の公共施設や消防署、コンビニエンスストア、市内の商店などで住民票が受け取れる「取次所」を設けていた。受け取りの際には、認め印と受取人を確認する4桁の暗証番号が必要となっていた。(このサービスはコンビニエンスストアのマルチコピー機を用いた交付サービスに移行する形で、2010年(平成22年)3月16日正午までの受付分で終了した。)
個人市民税納税者等が納める税のうち、その1%の相当額を自ら任意に希望指名して地域づくりの主体であるボランティア団体やNPOなど、市民の自主的な活動に対してその団体の事業費(運営費を除く)に当てるよう要請することができるという、全国初の1%支援制度(市民活動団体支援制)がある。2005年(平成17年)度に開始され、2007年(平成19年)から3団体まで支援できる団体数を拡大し、納税者以外が地域ポイントも振り当てられるよう条例改正をした。NHKでテレビ放送されたEUハンガリー国のパーセント法がヒントとなっている[28]。
地方自治法第252条の22第1項に定める政令による中核市になる要件を満たしている。2022年現在、中核市移行に向けて、市役所内(市長部局及び、市議会の特別委員会)にて検討中。
健康都市推進協議会(2003年(平成15年)12月24日発足)により市民(委託された健康都市推進員などによる)と協働で2004年(平成16年)11月にWHO健康都市を宣言し取り組んでいる。2008年(平成20年)10月に健康都市連合国際大会が開催され、「健康都市市川宣言」[29]を採択した。
2009年(平成21年)9月11日 - 市議会は市民の意見も参考に条例改正を可決し、2010年(平成22年)4月から路上などの犬の糞の放置や不始末と空き缶のポイ捨てに過料2,000円を科すとした。これらの過料は日本で初めてとされる[30]。
2010年(平成22年)10月23日-24日 - 市政戦略会議は公募市民を12人含む30人の委員により20事業25項目を対象とした初めての事業仕分けを行った[31]。
歴代市長[33]
代 | 氏名 | 就任日 | 退任日 | 備考 |
---|---|---|---|---|
官選市川市長 | ||||
1 - 3 | 浮谷竹次郎 | 1934年12月6日 | 1940年4月28日 | |
4 | 稲内清二 | 1940年6月11日 | 1941年10月7日 | |
5 | 林幸司 | 1942年7月1日 | 1943年12月5日 | |
6 | 高橋統閭 | 1944年3月5日 | 1946年11月11日 | |
公選市川市長 | ||||
7 - 8 | 浮谷竹次郎 | 1947年4月9日 | 1955年5月1日 | |
9 | 織田智 | 1955年5月2日 | 1956年2月15日 | |
10 - 12 | 浮谷竹次郎 | 1956年3月25日 | 1964年12月15日 | |
13 | 浮谷元吉 | 1965年1月31日 | 1965年12月12日 | |
14 - 15 | 富川進 | 1966年1月30日 | 1974年1月29日 | |
16 | 鈴木忠兵衛 | 1974年1月30日 | 1977年12月11日 | |
17 - 21 | 高橋國雄 | 1977年12月25日 | 1997年12月24日 | |
22 - 24 | 千葉光行 | 1997年12月25日 | 2009年12月24日 | |
25 - 26 | 大久保博 | 2009年12月25日 | 2017年12月24日 | |
27 | 村越祐民 | 2018年4月22日 | 2022年4月21日 | |
28 | 田中甲 | 2022年4月22日 |
財政は豊かであり、地方交付税のうち財源不足の自治体に交付される普通交付税の交付を受けていない。財政力指数は1.108(令和2年)であり、類似団体と比べ平均を大きく上回る。なお、千葉県内で1を超える団体(いわゆる不交付団体)は54市町村中7市であり、市川市はその一自治体である。
職員給与が国家公務員よりも高く、2014年の地方公務員給与実態調査の結果によると全国7位であり、ラスパイレス指数(国家公務員の給与を100とした場合の地方公務員の給与水準)は103.4(全国平均は98.6)。職員の採用試験を有料とし、申込みに際して受験料を徴収している。こうした職員採用試験の受験料の徴収について総務省は「自治体が自治体職員採用試験で受験者から受験料を取るのは、地方自治法の規定に違反する。」という見解を出している。地方自治法第二百二十七条は、住民票交付など住民に利益を与える事務では手数料を徴収できると規定しているが、総務省は「自治体職員の採用試験は、自治体のための事務であり徴収はできない。」としている。人事院勧告に従い、市役所職員採用の年齢・学歴などによる制限を事実上撤廃し、59歳まで出願可能とした。
1993年(平成5年)時点で地理学者の森本健弘によれば、市川市は不耕作農地率が関東地方の大都市周辺部では高いが、集約的な農業的土地利用がなされている[42]。2006年(平成18年)の千葉県青果物生産出荷統計によれば、梨の生産高・産出額は千葉県内第1位[43]。千葉県における梨栽培発祥の地(1769年に川上善六が創始)でもある[44]。「市川のなし」と「市川の梨」が2007年(平成19年)8月地域団体商標に登録された。花き生産が盛ん。
農業協同組合
第1種漁港
その他
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市川市に本店・支店を置く金融機関一覧(店名省略、本店・本社は太字)。市内に15企業、87店舗存在する。(令和3年度現在)
日本国外[45]
イッシー・レ・ムリノー市(フランス共和国 オー・ド・セーヌ県)
郵便番号は以下が該当する。2集配局が集配を担当する。
市外局番は047。収容局は市川局、鬼高局、浦安行徳局、市川中山局、市川曽谷局、市川原木局、市川大野局。
再開発事業により超高層マンションが多く林立している。
本八幡駅北口地区
市川駅南口地区
健康都市連合に加盟しており、2008年10月、市川市において第3回健康都市連合国際大会が開催され、WHO憲章の精神を尊重した「健康都市いちかわ」宣言が行われた[49]。
二次医療圏(二次保健医療圏)としては東葛南部医療圏(管轄区域:鎌ヶ谷市と葛南地域)である[50]。三次医療圏は千葉県医療圏(管轄区域:千葉県全域)。
市の歌
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子供会活動を通じて行われたキックベースボールの発祥の地でもある。
東京23区外では唯一、東京の地下鉄2社局(東京地下鉄と東京都交通局)の路線を有している[注 5]。また、東京の地下鉄2社局(東京地下鉄と東京都交通局)の路線の内、地下路線および地下駅を有しているのも東京23区外で唯一である[注 6]。
市役所の最寄り駅:本八幡駅(JR・都営地下鉄)・京成八幡駅
2019年 (令和元年) 度の市内1日平均乗降客は170,789人である。(下総中山駅を含む。)
2018年 (平成31年) 度の市内1日平均乗降客は約192,000人である。
2020年 (令和2年) 度の市内1日平均乗降客は約65,000人である。
2020年 (令和2年) 度の市内1日平均乗降客は約54,000人である。
2020年 (令和2年) 度の市内1日平均乗降客は約12,000人である。
鉄道施設
市内の中心部を日本の国道の起点である日本橋から続く国道14号(千葉街道)が東西に貫いている。2018年(平成30年)6月2日に開通した国道298号および東京外環自動車道により、弱点であった南北間の交通の便も向上し、東京都心と郊外を結ぶ高速道路の主要幹線9放射(京葉道路(首都高速7号小松川線)、東関東自動車道、首都高速湾岸線)と接続する3つのジャンクション(北千葉JCT・京葉JCT・高谷JCT)を有する交通の要衝となっている。また、東京23区外で唯一、日本の首都の都市交通3社局(東京地下鉄、東京都交通局、首都高速道路)の路線を有し、駅、出入口、本線料金所、パーキングエリアといった各路線の主要施設も全て有している。
2019 (令和元年) 度の市内バスの1日平均運行本数は1184本、輸送人員は62,267人。
近隣の空港として千葉県成田市の成田国際空港(成田空港)または東京都大田区の東京国際空港(羽田空港)が最寄りとなる。
成田国際空港
詳細は成田国際空港へのアクセス、最小乗換数は【】内を参照。
東京国際空港
詳細は東京国際空港へのアクセス、最小乗換数は【】内を参照。
かつて江戸時代から大正時代にかけて江戸日本橋と下総国行徳を結んだ行徳船が運行していた。
番号 | 種別 | 名称 | 所在地 | 所有者又は管理者 | 指定年月日 | 備考 |
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1 | 建造物 | 法華経寺五重塔 | 中山二丁目10番1号 | 法華経寺 | 大正5年5月24日 | 元和8年建立 |
2 | 〃 | 法華経寺法華堂 附 棟札5枚 | 中山二丁目10番1号 | 法華経寺 | 大正5年5月24日 | 室町時代後期 |
3 | 〃 | 法華経寺四足門 | 中山二丁目10番1号 | 法華経寺 | 大正5年5月24日 | 室町時代後期 |
4 | 〃 | 法華経寺祖師堂 附 棟札11枚 | 中山二丁目10番1号 | 法華経寺 | 大正5年5月24日 | 延宝6年建立 |
5 | 絵画 | 絹本著色十六羅漢像 | 中山二丁目10番1号 | 法華経寺 | 明治37年2月18日 | 元時代 |
6 | 〃 | 絹本著色日蓮聖人像 | 中山三丁目10番4号 | 浄光院 | 昭和27年7月19日 | 鎌倉時代 |
7 | 古文書 | 日蓮自筆遺文 附 蒔絵聖教箱2合 | 中山二丁目10番1号 | 法華経寺 | 昭和42年6月15日 | 鎌倉時代 |
番号 | 種別 | 名称 | 所在地 | 所有者又は管理者 | 登録年月日 | 備考 |
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1 | 建造物 | 西洋館倶楽部(渡辺家住宅) | 新田 | 個人 | 平成11年7月8日 | 昭和2年竣工。木造3階建。 |
2 | 建造物 | 日本福音ルーテル市川教会会堂 | 市川 | 日本福音ルーテル教会 | 平成20年10月23日 | 昭和30年竣工。木材2階建塔屋付、鉄板葺。 |
3 | 建造物 | 加藤家住宅主屋・煉瓦塀 | 本行徳 | 個人 | 平成22年4月28日 | 明治時代竣工。木造平屋建、瓦葺、煉瓦造(フランス積み)。 |
4 | 建造物 | 旧浅子神輿店店舗兼主屋 | 本行徳 | 市川市 | 平成22年9月10日 | 昭和4年竣工。木材2階建、瓦葺。 |
5 | 建造物 | 昭和学院創立記念館 | 東菅野 | 学校法人昭和学院 | 平成23年1月26日 | 昭和6年竣工。木造平屋一部2階建、瓦葺。 |
6 | 建造物 | 中村家住宅主屋 他 | 鬼越 | 個人 | 平成26年10月7日 | 木造平屋建、瓦葺。他 |
7 | 建造物 | 後藤家住宅主屋・稲荷社 | 新田 | 個人 | 平成29年6月28日 | 主屋:木造平屋一部二階建、瓦葺及び銅板葺。稲荷社:木造平屋建、銅板葺 |
学者・宗教家
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俳優・タレント
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音楽
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絵画 | 漫画
アニメ テレビドラマ |
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