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式場 壮吉(しきば そうきち、1939年(昭和14年)2月9日 - 2016年5月17日[1])は、日本の実業家・自動車評論家、元レーシングドライバー。
個人情報 | |
---|---|
生誕 | 1939年2月9日 日本 千葉県市川市 |
死去 | 2016年5月17日(77歳没) |
スポーツ | |
競技 | 自動車競技 |
成績・タイトル | |
国内大会 | 第1回日本グランプリクラス優勝 第2回日本グランプリクラス優勝 |
千葉県市川市の病院経営者の家に生まれ、精神病理学者の式場隆三郎の甥にあたる。
成城大学文芸学部在学中より輸入車をドライブし、同郷の後輩であった浮谷東次郎や、生沢徹、本田博俊、杉江博愛(後の徳大寺有恒)、福澤幸雄など日本のモータースポーツ草創期を支えたドライバー達と親交があった。
音楽にも親しみ、アマチュアのジャズマンとしてホテルオークラや東京・飯倉のイタリア料理店「キャンティ」などに出入りし、ミッキー・カーチス(のちにレーサーとしても活躍)やムッシュかまやつ、堺正章などの芸能人とも親しかった[2]。
その傍ら、1963年の第1回日本グランプリ(鈴鹿)にむけてトヨタとワークスドライバー契約を結び、日本GPではC-Vクラスでコロナをドライブして優勝した。
第2回日本グランプリではT-VIクラスでクラウンをドライブし、性能に勝るプリンス・グロリア勢を相手に3位を獲得した。
また、GT-IIクラスではワークスからではなく個人エントリーにてポルシェ・904で参戦し優勝を果たしている。
このレースでは、新型ポルシェの入手経緯や、予選クラッシュ後の修復作業、決勝で生沢のスカイラインGTに先行された1周(「スカイライン伝説」の誕生)など、著名なエピソードを残すことになった[3](詳細は当該記事を参照)。
その後、浮谷や生沢らとヨーロッパを訪問し、イギリスのジム・ラッセル・レーシングスクールに短期入学。
1965年の日本GPにむけてロータス・エラン (26R) を入手したが、大会が中止となり、そのままレーサーを引退した。
(なお、代わって開催された全日本自動車クラブ選手権(船橋CCC)では、浮谷がエランをドライブして優勝した)
杉江らと共に、『シキバエンタープライズ』を設立。自動車関連のアクセサリーブランドである『レーシングメイト (RACING MATE)』 を立ち上げ、浮谷や生沢のレース活動を裏方からサポートした。
彼らのトレードマークである四葉のクローバー[4]や、ヴァンヂャケット (VAN) とのダブルネームは、当時の若者の憧れのファッションアイテムとなった。
また、自動車雑誌『カーマガジン』(ベースボール・マガジン社刊[注釈 1])の責任編集を行なった。
しかし1960年代末、レーシングメイトは倒産。カーマガジンも廃刊となった。
その後は、市川市国府台の精神科病院・式場病院の理事長だった父の跡を継いで同病院の経営に関わり、専務理事を経て理事長を務めるに至った。
レース引退後も自動車愛好家であり、フェラーリやベントレーなどを日常の足として愛用。1990年代にはブガッティ(第2期)のアドバイザーを務めた。
『NAVI』や『ENGINE』などの自動車雑誌に度々登場し、ミッレミリアなどのクラシックカーレースにも時々参加していた。
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