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京成バス市川営業所(けいせいバスいちかわえいぎょうしょ)は、千葉県市川市柏井町に位置し、市川市北部、松戸市南部、船橋市西部に路線を持つ京成バスの営業所である。社内の営業所記号は2を用いる。ナンバーは市川(市川ナンバー登場以前は習志野)である。
主なターミナルとして、市川駅、本八幡駅の2駅が挙げられる。従来は市川市南部、鎌ケ谷市、白井市、印西市、浦安市にも路線を有していたが、現在これらの路線はちばレインボーバス、京成トランジットバスに移管されている。
市川には大正時代からバスが運行されていたが、旧京成電気軌道(または京成乗合)が運行を開始したのは昭和初期である。その当時はこの地域に営業所がなく、東京府(現・東京都)内の奥戸営業所(現・京成タウンバス)による浅草 - 八幡線(旧・奥戸線)と、習志野営業所(船橋営業所の前身)による市川船橋線(国府台 - 船橋線)が乗り入れていた。ただし、車庫が全くなかったわけではない。「京成電鉄85年のあゆみ」に掲載されている当時の路線図によると、旧・八幡駅[1]よりもさらに東に旧・八幡車庫が存在していたことが示されている。
1942年(昭和17年)1月24日付で、葛飾乗合自動車と合併していた東京地下鉄道[2]より路線を継承し、浦安・行徳・新小岩・西新井などが京成のエリアとなった[3]。同日には行徳馬車自動車より船橋 - 行徳線(現在の原木線に近い)も買収している。
その後1943年7月14日には、森田祐吉の経営する八幡 - 木下間を主とする路線を買収した。このときに、国鉄本八幡駅の南側に初代・市川営業所が開設された(その時点で旧八幡車庫は不要となったのだろうが、詳細は不明である)。こうして、初代・市川営業所は千葉街道沿線、浦安方面、大柏、国分方面等に至る比較的短距離の路線と、白井・木下に至る長距離路線を営業することとなった。
戦後、昭和20年代には、大柏線が高塚入口で分岐した高塚線(現在は、大柏線と高塚線をまとめて高塚線と呼称)、通称市川市内循環と呼ばれた富貴島線(現在とルートが異なる)が新設され、本八幡駅及び市川駅近傍の輸送力は大幅に増強された。
JR総武線本八幡駅北側の主幹路線。1960年代にはこの路線と似たルートで千葉県営鉄道北千葉線の計画が起こされたこともあり、21世紀初頭までは鉄道培養路線の意味合いもあった。現在も都営新宿線と北総鉄道、JR武蔵野線を結ぶ鉄道短絡輸送を担う。その他、昭和学院が設置する各級学校(短大、高校・中学、小学校)への通学輸送、タムス市川リハビリテーション病院(旧・市川市リハビリテーション病院)への病院輸送も重要な役割である。
途中の高塚入口までは全便が共通のルートで、それ以北で高塚・東松戸駅側と大町駅・市川営業所側に分かれる。京成電鉄五十五年史(昭和40年代初期)では高塚方面便と大町方面便をそれぞれ「高塚線」「大柏線」と区別しているが、初期の市川市統計資料ではすべて「大柏線」と取り扱っており、当時の本社と営業所の路線の呼び方が異なっていたことがうかがえる。結局、昭和50年代頃よりまとめて高塚線と呼ぶようになったようである。
大町側については1970年前後までは現在の大町公民館が終点であり、その当時はここが「大町」と名乗っていた。ちなみに、かつてこの付近は新京成バス松戸営業所(現・松戸新京成バス)の八柱線があり、同社の停留所については廃止されるまで「大町」のままだった。柏井車庫(現・市川営業所) - 大町間は1990年12月、大町 - 大町駅間と高塚 - 東松戸駅間は北総線全通時の1991年3月にそれぞれ延長された。
高塚側については、1953年の開通以後しばらく変化が無かったが、1991年3月の北総線開通に伴い、一部の便が東松戸駅まで延長された。延長前の1991年3月30日までは本八幡駅 - 高塚入口便が朝にあり、高塚入口には操車場もあった(現在は廃止)。この高塚入口の操車場は早期から存在していたが、容量が小さかったため、高塚に新しい操車場ができると、その役目を譲り、晩年は折返場となっていた。朝だけしか使わなかったので、昼間はくさりで入れないようになっていた。
少なくとも昭和末期以降、高塚行きは7 - 10分おき、大町行きは15分おきと頻繁運行されていたが、利用者は高塚入口までに多い。2003年4月1日の改正で高塚側の便数が減らされ、高塚までが15分おき、東松戸駅までが30分おきとなった。現在は増便されており、東松戸駅まで毎時4本程度が確保されている。
市川営業所と後述の医療センター入口(旧・市川北高校)はほとんど同じ場所にある。医療センター入口停留所は車庫の南側にあり、市川営業所停留所は車庫の北側にある。
国分線は市川駅から北の国分地区に向かう系統である。聖徳大学、光英VERITAS中学・高校(旧:聖徳大学附属女子中学・高校)、県立国分高校、市川昴高校(旧・市川西高校)への通学輸送を担う他、JR市川駅・松戸駅と北総鉄道を結ぶ鉄道短絡輸送の役割もある。終点側で多くの方向に枝分かれしていることが特徴である。
この線の開通は戦前であり、市川駅 - 国分間を運行していたことや、当時は市川真間駅 - 菅野駅間の踏切を渡っていたことを、当時の路線図から確認することができる。ただし、運行頻度、営業所等、詳細な情報は不明である。
その後、市川真間駅経由となったが、市川と松戸がつながった時期は意外と新しく、1961年のことである。その時点では、国分の折返便が多かったが、1965年に国分高校便が新設され、線の主力はこの便に変わっていった。
富貴島線は、1957年に市川市内を循環する路線として市川駅 - 市川総合病院 - 八方橋 - 市役所 - 市川駅が開通した。当時は道路状況が悪くなかったため、頻繁運行が行なわれ市民の足となっていた。なお、今の市川総合病院バス停近くに菅野操車場があり、そこで乗務員の交代が行われていた。
その後、中山団地線(京成百貨店入口・京成八幡駅→市役所→鬼越駅→八方橋→北方団地(現・中山団地)→市川学園→京成八幡駅、という循環線。のち中山団地線と名称変更)が開通し、さらにそれが市川北高線に変わった際に、この線が中山団地経由で東菅野五丁目まで延長し、変型のラケット型循環線となった。この際に始発終着は東菅野五丁目となり、双方とも行き先が「東菅野五丁目」となったので八方橋基準に右回り系統の幕は青文字で「市役所・市川駅・真間駅廻り 東菅野五丁目」、左回り系統の幕は赤文字で「真間・市川駅・市役所廻り 東菅野五丁目」という表示を掲出していた。尚左回り系統の文字は赤であったので、最終便は赤ランプを点灯するため、最終便の行き先表示が非常に見づらかった。
しかし、1)乗客のほとんど全員が途中の市川駅と京成百貨店入口(本八幡駅前だが国道14号上にあった。現在は廃止)で乗降してしまうこと、2)南側が総武線・京成線と並行しているために乗客の利用が少ないこと、3)道路の混雑のために、循環線だと定時制が確保しにくくなった、などの理由のために以下の変更が行われた。
その後も、国道14号区間においては状況の改善には至らず、1997年10月6日に京成百貨店入口(本八幡駅) - 市川駅が廃止となった。残った区間についても、市川駅発着便と本八幡駅発着便とで本数に差が見られ、後者は1時間に1本という時間帯まで現れた。
国道14号上にあった、本八幡駅の最寄りの停留所は「京成百貨店入口」と名乗っていた(同百貨店ができるまでの名称は「八幡十字路」)。1997年10月以前において、本八幡駅折返便の本八幡駅行の終点は駅停留所ではなく京成百貨店入口だった(その後駅ロータリーまで回送)。それ以後は同停留所そのものが廃止されたため、この便の終点も駅ロータリー側に変更された。
のちに菅野交差点経由系統は平日夜間、市川駅で総武快速線との接続を重視するダイヤが組まれたことがあった。
2003年に市川学園が東菅野から本北方に移転したことで最寄となるバス停が東菅野五丁目に変更になり、富貴島線が通学手段として用いられるようになるとともに、通学時間帯には西船橋駅から東菅野五丁目までの直行便も設けられた。その後2005年になってバス停名も東菅野五丁目→市川学園(併せて姫宮団地線の(旧)市川学園も東菅野三丁目へ)と変更され、これに伴い方向幕なども変更された。この際、増発された朝ラッシュ時の便(本八幡駅 - 京成八幡駅 - 八幡六丁目 - 市川学園)は姫宮団地線の本11系統(シャトル便)と富貴島線の本72系統(復路のみ)に二分されていた。なおこの2系統はその後の2015年4月ダイヤ改正で市川学園正門前まで延伸、本16系統に統一された。
京成バスの公式プレスリリースにおいて、本八幡駅発着便の路線に「鬼越線」、西船橋駅 - 市川学園直行便に「市川学園線」の名称を使っている例が見受けられる。
本八幡駅から東菅野三丁目、市川学園を経由して姫宮団地経由で医療センター入口(旧・市川北高校)、または市営霊園経由で市川営業所まで行く線である。市営霊園 - 市川営業所便は土休日の昼に動植物園に至る。
国分操車場から坂を登って中国分地域を抜けて国府台経由で市川駅に行く路線である。開通当初は国分操車場 - 国立病院の短区間のみを走り、両端で乗り換える(割引のある乗継乗車券使用)という特殊な運行を行っていたが、現在では市川駅まで走っている[7]。また、以前は国分操車場 - 中国分 - 市川駅 - 国分 - 国分操車場という循環便も存在していた。循環便は国分操車場基準左回り系統は午前中、同右回り系統は午後のみの設定で偏ったダイヤが組まれていた。2008年より国分操車場 - 北国分駅の区間が延伸した。
国府台病院付近の道路が非常に狭く、全便中型車(ホイールベース3.75m車限定)にて運行されている。この線が開通した時期は、京成にとって中型車による運行であることや、他線との乗継ぎを前提とした路線という珍しさもあって「ミニバス路線」として乗客へのアピールも行っていた。しかし、結局市川駅まで通しで運行することになり、京成バス全体でも有数のドル箱路線である松戸営業所の市川線(国府台病院 - 市川駅間)の区間を通ることとなったため、この線の車両だけ混雑度が高くなってしまうというデメリットも生じている。特に朝の市川駅方面の混雑は激しい。しかし、中型車の運行に限定され他の路線との車両の共有化ができないためこれ以上の増便は困難である。
JRAのレース開催日のみ運行される直通バス。1970年代より、「西船橋駅〜船橋競馬場」間のシャトルバスの運行を担当するも、2014年8月に西船橋駅駅発着便がちばレインボーバスとちばシティバスに移管され、東中山駅発着便の担当となった。後述するJRAの助成交付金を活用したノンステップバス3台は、この臨時シャトルバスにも充当される。
ファイターズ鎌ケ谷スタジアムでのプロ野球開催時のみ運行。2021年までは鎌ヶ谷駅(船橋新京成バスが運行)・西船橋駅・船橋法典駅から直通バスが運行されていたが、直線距離で言えばスタジアムから一番近い駅は北総鉄道の大町駅である事から、2022年3月8日と9日限定で大町駅発着便が設定された[8]。これにより、2016年シーズン以来6シーズンぶりに北総鉄道沿線からの直通バスが整備されることとなった。 運行ルートはFs11系統と本33系統を組み合わせた直通系統となっている(市川営業所は通過)。
市川営業所には千葉ロッテマリーンズのラッピングが施された車両が1両だけ在籍するものの、平時は営業所の目と鼻の先にあるファイターズ鎌ケ谷スタジアムを保有する北海道日本ハムファイターズに配慮し、ZOZOマリンスタジアムのシャトルバスを担当する事は無かったが、2023年度のクライマックスシリーズにて運行に参入した。
市川市からの受託を受けて、京成バスが運行を行っている。
北東部ルートは柏井車庫近隣の保健医療福祉センター(タムス市川リハビリテーション病院:旧・市川市リハビリテーション病院)を起点に、主に木下街道より北の地域をカバーする。往復ルートはニッケコルトンプラザ近隣の千葉県立現代産業科学館と松飛台駅[15]を結び、循環ルートの西側を経由する。開通当初は、市川市動植物園までであったが、2014年(平成26年)10月より、松飛台駅まで延伸された[16]。運賃は大人160円、小児100円で、PASMOでの支払いが可能。開業当初は三菱ふそう・エアロミディMEや日野・レインボーHRの7m車で運行されていたが、2014年から日野・ポンチョに置き換えられている。
平成17年度は136人/日、平成18年度は248人/日、平成19年度は326人/日(採算率43.2%)の利用があった。なお市川市は、コミュニティバスに関して北東部および南部路線に対して合計約7,340万円(平成19年度)を負担していた。
北国分ルートは北総線の矢切駅 - 北国分駅間の周辺地域を結ぶように設定され、2021年7月30日までの実証実験としてトヨタ・ハイエースコミューターを用いて平日に5往復が運行された。運賃は大人・小児共に200円で、PASMOでの支払いはできなかった[17]。
1998年6月1日に松戸営業所白井車庫担当から市川営業所に移ってきたが、1999年(平成11年)4月1日付でちばレインボーバスへ移管された。
元は松戸営業所担当であったが、(年次不明)市川営業所に移され、2008年9月16日付で松戸新京成バスへ移管された。
船橋営業所花輪車庫へ移管された後、2012年(平成24年)12月23日付で京成バスシステム(旧・貸切バスセンター)に移管された。
ファイターズタウン線が行かないJR船橋駅と行田団地の間の輸送に参入するため、2015年(平成27年)2月16日付で、船橋新京成バス鎌ヶ谷営業所との共同運行による船81・82系統が新設された[18]。ただし定期券等は、自社担当便のみに限り有効となっていたため、船橋新京成バス担当による運行については、当社の定期券は使うことができなかった(ダイヤモンドパスと小学生用のこどもんどころパスのみ共通利用可能)。なお、京成バスの一般路線の船橋駅乗り入れは市内線が船橋営業所花輪車庫(現・新都心営業所習志野出張所)から京成バスシステムに移管されて以来であり、同駅北口への乗り入れは初であった。
2019年(令和元年)9月30日限りで廃止となり、船橋新京成バスの建鉄線を軸に代替された。
車両は古くからいすゞの車両を中心に導入し、1970年代には京成自動車工業の車体を載せた車両が導入されていた。但し同社は西日本車体工業のライセンス製造を行っており、当時東日本では数少ない西工バス車体の42MC(当時の「カマボコ」と通称される車体)が見られた。
1970年代後半に入ると川重車体工業製純正ボディと、富士重工業(現・SUBARUおよび桐生工業)製ボディがおおよそ半々程度の割合で納車されるようになる。川重は後にアイ・ケイ・コーチ→いすゞバス製造へと変遷していく。
2002年(平成14年)、富士重工がバス車体製造を終了したため、車体メーカーはいすゞバス製造に一本化されたが、2004年にはジェイ・バスへの合併に先立ち日野自動車の車両を少数ながら導入する。しかしこの合併後、千葉営業所等からいすゞ車、船橋営業所から日野車が大量に転入している[19]。2006年度には三菱ふそう製の新車が導入されているが、こちらも現時点では少数派である。また、中国分線専用の中型バス(1998年度車 KC-LR333F 1台(習志野22を3247)、2004年度車 KK-LR233F 2台(習志野200か461、462))が存在(2010年12月現在東京ベイシティ交通に転属)した。
ちなみに、非常に珍しい車両であるいすゞ・エルガJも導入されている(京成バス以外では、関東地方は立川バスしか導入されていないが、同社ではすでに引退している)。
沿線に中山競馬場が立地することから、2023年に日本中央競馬会(JRA)の競馬場周辺交通機関整備事業による助成交付金を活用したノンステップバスが3台導入され(車両番号:2231 - 2233)、それらを示すステッカーが車体・車内に掲出されている。平日ダイヤは主に西船橋駅発着路線、土曜・休日ダイヤは中山競馬場本場開催日に運行される東中山駅 - 中山競馬場間の路線を中心に運行されている[20]。
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