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日本の福岡県北九州市小倉北区に本社があったバス車両の製造企業 ウィキペディアから
西日本車体工業株式会社(にしにっぽんしゃたいこうぎょう)は、かつて福岡県北九州市小倉北区西港町に本社を置き、バス車両の車体部分を製造していたメーカー(コーチビルダー)。西日本鉄道(西鉄)の連結子会社(議決権100%:間接保有含む)で、略して西工(にしこう)、またはNSKとも呼ばれる。
1946年(昭和21年)、戦後のバス輸送復興を進めていた西鉄が、指定車体製造工場としてバス車体の製造・販売・補修整備を目的に設立した会社である。
日本国内の大型自動車メーカー4社(民生デイゼル→日産ディーゼル→UDトラックス、三菱ふそう、日野自動車、いすゞ自動車)他当時はバスを製造していたトヨタ、日産自動車の物もある。それらへバス用シャシーにボディ架装を行ない、親会社である西日本鉄道(西鉄バス)向けをはじめ、主に九州・関西・中国地方のバス事業者に納入した。
1988年(昭和63年)に日産ディーゼルとの共同開発で「スペースランナー」(RB→JM→RM系)を開発。同社のカタログモデルとして発売された。これ以後、日産ディーゼル車についてはこれまで納入例がほとんどなかった関東地方以北などの全国各地に販売されることとなる。
1998年(平成10年)には、日産ディーゼルの中型ノンステップバス(KC-RM211GAN改)が西工のみの架装で発売される。また、平成10年および11年排出ガス規制によるモデルチェンジで、同じく日産ディーゼルのJPとRNのボディー架装から富士重工が撤退し、西工のみが対応するようになる。
これを受けて、それまで日産ディーゼルのバス車体の架装の多くを手がけていた富士重工業が同年5月にバス車体架装事業の中止を決定している。以降は事業を日産ディーゼル向けのボディ架装にほぼ特化することとなり、他社製のシャシーへの架装例は減少していった(別項参照)。
2007年(平成19年)より日産ディーゼルと三菱ふそうがバス製造事業における業務提携を開始した際に、大型ノンステップバスや中型系の路線バスは三菱ふそうブランドも日産ディーゼルからのOEMに統一されたため、三菱ふそうへ「日産ディーゼル+西日本車体工業」の車両が多数OEM供給され(従来からの「日産ディーゼル+西日本車体工業」の組み合わせも以前に生産中止になった一部を除きすべて継続生産された)、三菱ふそうからは「エアロスター-S」(大型ノンステップ)「エアロミディ-S」(中型)として発売された。
一方、逆に三菱ふそうが三菱ふそうバス製造(MFBM)で製造した観光系車両や大型ワンステップバス・ツーステップバスなどは日産ディーゼル工業にOEM供給されたことにより、大型ノンステップバスや中型系の路線バスの受注量が急増が予想される一方で、観光系や大型ワンステップバス・ツーステップバスへの架装台数は減少することとなっていた。実際、西工での生産台数が増加し生産能力が逼迫する一方で、MFBMは生産台数が減少し余裕ができたこともあり、2009年にはエアロスターノンステップバスを生産再開するに至る。
しかし、日産ディーゼルと三菱ふそうの関係は単なる業務提携にとどまることはなく、2009年8月31日には両社がバス事業における合弁会社の設立協議に入ることを発表した。これによれば、生産までは統合したが販売は別々に行なっている日野・いすゞによるジェイ・バスとは異なり、企画・研究開発から生産・販売までの事業を分離し統合を目指すとしていた。さらに日本経済新聞の報道によれば、新会社は2011年1月の発足を目指すとともに、西日本車体工業への生産委託を2011年8月までに打ち切り、生産をMFBMに集約するとしていた。
その後2009年(平成21年)9月8日付西日本新聞など、在福岡のマスメディアが報じたところによれば、「西工において2010年8月に大型バスの生産終了、その1年後には中型バスも集約により生産終了する」と日産ディーゼルから西工に伝えられており、それにともない200人余の派遣社員を11月末で雇い止め、約300人の正社員についても削減が避けられず、正社員については西鉄グループ各社及び日産ディーゼルに再就職の斡旋を依頼すると報じていた[1]。
その後も大口顧客からの受注終了という経営環境の激変に際し、経営規模の大幅な縮小による会社の存続の道を探っていたが、2010年(平成22年)1月21日の西鉄の取締役会において「これ(日産ディーゼル工業。同年2月1日付で「UDトラックス」に社名変更)に代わる受注も見込めないことから、事業の継続は困難と判断」との理由により、西日本車体工業を2010年8月31日付で解散し、2011年3月までに清算することが決議された[2]。その後、「従業員に対する再就職支援期間を確保するため」として、解散日は2010年10月31日付に変更された[3]。
なお、前述のUD・ふそうの協議については同月29日付で打ち切りとなっているうえ、その後UDトラックスもバス事業から撤退する結果となっている。
現在、アフターサービスについては、西鉄グループの西鉄車体技術(同社のかつての子会社で、現在は西日本鉄道の子会社。2016年に共栄車体工業より社名変更)が、西日本車体工業の技術・ノウハウを引き継ぎ行なっている[4][5]。また、2010年9月1日以降のUDトラックス(旧:日産ディーゼル)シャシーについても、同社からの委託を受ける形で西鉄車体技術が行っている[6]。
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国鉄バスには西工の導入はなかったが、国鉄分割民営化によりJRバスグループとなって間もない頃からJR九州バス[10] で導入されるようになり、のちJRバス関東でも積極的に導入されるようになった。また富士重工がバスボディ生産から撤退してからは日産ディーゼル車ではジェイ・アール北海道バスでも導入されている。その他のJRバスグループ各社では新車での導入例がほとんどなく、中国JRバスが2003年(平成15年)にトップドア路線車2台(共に日産ディーゼル車)を導入したのみである。
富士重工のバス事業撤退とは関係なく、関西圏事業者等からの西工ボディの中古車を導入した例が北日本・東日本・四国・沖縄にも多数ある。
西工のボディ型式には、用途別にB型・C型などのモデル区分があると同時に、製造初年度を表す2桁の数字(西暦の下2桁で、58MCのみ元号が用いられた[11] が、書籍等で元号を用いて居る物も多いが、本来は間違いである)を用いたものが付与されていた。
一般路線バス用のモデル。解散時まで製造された。
1966年(昭和41年)から1978年(昭和53年)まで製造されたモデルで、前代の丸みのあるデザインから一変して、設計当時にアメリカ合衆国で使用されて居たバスのデザインを参考[12] に直線的なデザインとなった。自社の製品名称で“アメリカンドリーム”であった。特に後部をナイフでそぎ落としたようなデザイン処理から、バス愛好家から愛称で「かまぼこ」と呼ばれて居たこともあるが、社員関係者には此の愛称は不評であった。基本西暦が形式名。
側面窓は1970年代半ばまでは立ち席窓(通称バス窓)で、前代同様、側面窓の左下・右下に丸みが付いていた。後のマイナーチェンジで2段窓になり、窓の四隅に丸みが付くようになっている。一部事業者向けには非常口窓が開閉式となっているものも設定されていた(窓については78MCも同様)。
1970年代初め頃から中扉を4枚折戸としたモデルが設定され、西鉄などに納入された。1973年には前扉も4枚折戸とした車両が試作されたが、これは西鉄に2台採用されただけに終わっている。また1970年代半ばから大型方向幕が採用され、低床化も進められた。
大型車・9m大型車[注釈 3] のみ設定されていた。
なお1967年(昭和42年)から1972年(昭和47年)までのあいだ、京成電鉄の子会社である京成自動車工業[注釈 4] が西工のライセンス生産でバスボディを製造し、66MCアメリカンドリームを京成電鉄(現:京成バス)や新京成電鉄(現:新京成バス各社)など主に京成グループ内と周辺のバス運行事業者に納入していた。京成自動車工業製の66MCは静岡鉄道に多めに納入実績が有るので、東日本でも見る事が出来た.出て1987年(昭和62年)までに全廃され消滅している。
1978年(昭和53年)から1983年(昭和58年)まで製造されたモデルで大型車・9m大型車のみ設定されていた。窓の形状は66MCに類似するが、前代に比べ前後の折れ曲がりがやや小さいことから、バス愛好家からは「はんぺん」とも呼ばれるが、社員には不評[13] であった。基本西暦が形式名。
西工のモノコックボディとして最後のモデルで、バスボディのスケルトン化の流れによりわずか5年で製造終了となった。阪急バスには側面窓を上段引き違い・下段固定の大型窓とした車両や、外部正面から見て右側の前面窓の縦幅を左側よりも少し大きくした車両が導入された。
1983年(昭和58年)から1997年(平成9年)まで製造されたモデル。西工初のスケルトンボディである。此のモデルのみ元号が形式名とされた。
前面窓が左右とも同じ高さの「B-I」のほか、78MCで阪急バスに採用された、右側の前面窓の縦幅が左側よりも少し大きいタイプが「B-II」として正式設定され、西鉄などの各社で採用された。
スケルトン化にあわせて1950年代以来踏襲してきた側面窓隅の丸みがなくなり、四角形の窓となった。78MCでは阪急バスでのみ採用されていた、側面窓を上段引き違い・下段固定の大型窓とした車両も正式に設定された。
また、中型車についてもそれまでの川重のライセンス生産からB型大型車に準じた独自デザインに変更されている。中型車は1988年(昭和63年)まで生産されたのち、独自デザインの日産ディーゼル・スペースランナーRMが登場したためB型ボディでの製造は途絶えていたが、1993年(平成5年)からワンステップバスとして再び製造された。中型車はB-Iのみの設定であった。
1996年(平成8年)に発売開始。これが西工最後の一般路線車モデルとなった。基本構造は58MCと似ているが、ヘッドランプやフォグランプなどがバンパーに埋め込まれる構造に変わり、より現代的なデザインとなった。58MCと同じく中型車はB-Iのみであった。
1997年(平成9年)には日産ディーゼルRNシャシー専用としてB-Iをベースにした小型車の生産を開始している。
1998年(平成10年)3月にはB-IIをベースにしたノンステップバス(三菱ふそうエアロスターKC-MP747M)を試作し、西鉄に2台納入した。床板は従来の西鉄一般路線車と同じ5.5mm厚のアルミ板とし、純正車体の15mm厚ボードに比べて床面地上高を約10mm下げた点や、ノンステップバスでありながら従来のバスと同様、前ドアを前ヒンジの折戸、中ドアを4枚折戸とした点などが純正車体との相違点である。翌年から他社向けにもノンステップバスが生産されたが、その年に熊本電気鉄道に納入されたB-Ⅰ(三菱ふそうエアロスターKC-MP747M改)1台[14] を除き、ドアは純正車体同様、前ドアはグライドスライド式[注釈 5]、中ドアは引き戸となった。
2000年(平成12年)にはB-Iを12mにストレッチした高速仕様車(三菱ふそうエアロスターKC-MP717PT)を試作した。今までハイデッカーを採用していた短距離高速バスの製造費削減を図る目的で開発されたもので、シャシーはターボインタークーラー付き高出力タイプのものをストレッチし、床下にはトランクを設けた。試作車の使用実績を基に同年後期から若干の改良を施して量産され、2005年(平成17年)からはシャシーが日産ディーゼルUA(のちRA)に代わり引き続き製造された。西鉄グループには三菱ふそう・日産ディーゼル合わせて約200台が納入されたが、他社では採用されなかった。
2005年(平成17年)から新短期・長期排出ガス規制適合車の発売を開始。灯火類や窓などの一部を改良したボディとなっており、若干のマイナーチェンジが行われている。
2008年(平成20年)には新長期適合車のリヤスタイルが変更となり、リヤコンビネーションランプに流用していた日産シビリアンの縦型ユニットから大型車はゴールドキング製に変更となり、中型車及び中型ロング車は三菱ふそうエアロミディと同等のデザインに変更されたほか雨樋など形状も変更された[15]。
観光・高速・自家用バス用。スタンダードデッカーの「E-I」「E-II」と、ハイデッカーの「E-III」がある。B型と同様、1966年(昭和41年)から1978年(昭和53年)までは前後が「く」の字形に曲がった66MC、1978年(昭和53年)から1983年(昭和58年)までは前後の折れ曲がりがやや小さくなった78MC、1983年(昭和58年)からはスケルトンボディの58MCで生産され、1989年(平成3年)にはS型と同型バンパーを備わるデザインとなった。58MCは大型車のほか中型車も生産された[16]。
E-IとE-IIは一般路線バス並みの車高であり、一般路線バス用のシャーシに架装することもできる。E-Iは58MC(S型と同型バンパー)、E-IIは96MCのモデルとなる。かつては長距離路線バスや観光バス用として各事業者に採用されていたが、1980年代半ば以降のハイデッカーの台頭により、現在では主に短距離を走る高速・特急バスに多く採用されている。また自家用の送迎バスや、検診用・献血用車両など、路線バス用以外の車両はこのボディが多い。E-IIのバンパーはB型と共通(行灯もしくは行先表示付のものもあり)でヘッドランプも角形4灯が標準であるが、江ノ電バスと京浜急行バスの空港線用にはC型同様のディスチャージランプが装備されたものも製造された。
E-IIIは、灯火機器規制の影響で生産中止になったS型に代わり、新たにハイデッカーに対応したボディとして2006年(平成8年)から生産が開始されたモデルである。基本構造は従来のS型を引き継いでいるが、フロントバンパーとリヤフラッシャーがE-IIに準じたものへ変更され、フロントガラスが拡大されている。主に高速バス用で観光系シャーシに架装されたが、江ノ電バスの定期観光バス用には路線シャーシへの架装もなされた。
1996年(平成8年)にモデルチェンジした96MCが最後のモデルで、E-IIとE-IIIが生産された。
観光・高速バス用。ハイデッカー。前面デザインは90MC E型に準じる。C型の廉価型といえるもので、デザイン的にはC型に比べ見劣りするが、接客設備・サービスレベルはC型と同等の水準にすることができるため、主に高速バスとして用いられた。
1979年(昭和54年)、高速・観光バスのハイデッカー化の流れに対応して発売開始された。当初はモノコックボディの78MCベースで発売され、1983年(昭和58年)にスケルトンボディの58MCに、1989年(平成3年)には前後バンパーのデザインを変更したものに移行した[17]。
2005年に灯火器具類の保安基準の改正に適合できないため、モデルを廃止し、先述のE-III型に移行した。
観光・高速バス用、ハイデッカー。普通のハイデッカーである「C-I」と、最後部の屋根や床が少し高くなっている「C-II」がある。愛称は「ネオロイヤル」[注釈 6]。
1967年(昭和47年)に観光系初期型が発売を開始し、1982年(昭和57年)にスケルトンボディとなり、以後ヘッドライト、バンパーなどの形状のマイナーチェンジを経て、1992年(平成4年)にはフルモデルチェンジした「92MC」が発売開始された。1998年(平成10年)には前バンパーの形状を若干変更したモデルにチェンジし[18]、2002年(平成14年)に前面ヘッドライトの形状を変更した「02MC」となって西工解散まで製造された。
C-IIは、最後部がステップアップルーフ[19] となり座席を通路に向けて向かい合わせにし、ミニサロンとすることができるもので、かつては親会社である西鉄グループが継続的に購入し、「ロイヤルハイデッカー」の愛称名で中規模団体輸送用に使用していたほか、昭和自動車などでも採用されていたが、別府はとバス(日野シャシー)を最後に生産が途絶えた。なお、JR九州バスには車体はC-IながらC-II同様に最後部の座席を通路に向けて向かい合わせにし、ミニサロンとすることができるものが存在する。
C-Iは、同じハイデッカーであるS型に比べてデザインの美しさを重視した設計となっており、観光バスとして用いられることが多いが、高速バス用として購入する事業者も少なくない。また、他車種より屋根高さが低く、トランクの面積が広いため、空港リムジンバス用としての人気も高い。
大型車のほか、1991年(平成3年)からは9m大型車も設定されていたが、日デRP系の廃止により生産中止となった。9m車はC-Iのみ設定(前代の58MCおよび92MCには西鉄バス筑豊等でC-IIの採用あり)であった。9m車は原則的に日デRP系(2005年8月生産中止)のみへの架装だが、九州観光バス(現:西鉄観光バス)に1台だけ日野製シャシーへの架装例がある。
観光・長距離高速バス用のスーパーハイデッカー。前面形状はC型と同じで、「ネオロイヤル」の愛称を持つ。車高約3.48mの「SD-I」、車高約3.55mの「SD-II」、3軸の「SD-III」がある。
1985年(昭和60年)、日産ディーゼル・スペースウイング三軸車専用としてスーパーハイデッカーC-III(翌年SD-I型に改称)を生産開始。1986年(昭和61年)にはSD-Iが、1988年(昭和62年)SD-IIを発売開始。C型と同様のモデルチェンジを経て、2002年(平成14年)から02MCとなり西工解散まで製造された。
発売当初は、3列シートの夜行高速バス・昼行長距離高速バスとして使われる例が多かったが、日産ディーゼルの車体架装が西工に統一された2003年(平成15年)以降は、4列シートの観光バスも多く製造された。大型車のみ設定。
SD-Iは、4メーカーすべてのハイデッカーシャシー(低出力仕様のみ)に架装されていた。2000年代からは西鉄グループ以外への導入がほとんどなくなり、主にSD-IIが導入されるようになった。
SD-IIは、当初は三菱ふそう・エアロクィーンシャシー専用として発売されたが、92MCにモデルチェンジした後は日産ディーゼル・スペースウィングシャシーにも架装されるようになった。2005年(平成17年)夏からはエアロクィーンの生産が中止され、スペースウィングのみが生産された。
SD-IIIは、1985年(昭和60年)に西鉄・サンデン交通・稲荷交通が数台を購入したのみで、それ以降は生産されていない。
1981年(昭和56年)、川重のライセンス生産でいすゞ・ジャーニーKを生産開始し、西鉄が採用している。1983年(昭和58年)のモデルチェンジまで生産された。
1988年(昭和63年)7月、B型とは異なるデザイン「日デオリジナルボディ」の中型車として、日産ディーゼルシャシーの「スペースランナー RB80」(P-RB80系)が発売された。
1994年(平成6年)、中型10.5m級ボディのスペースランナーJPが生産された。
2004年(平成16年)のモデルチェンジでいずれもB型ボディに統一され、日デオリジナルボディ(スペースランナーボディ)は消滅している。また「スペースランナー」の名称は、B型ボディに統一された後も日産ディーゼルの一般路線系車種に受け継がれた。
1966年(昭和41年)に西工初のマイクロバスとしてマツダの「ライトバス」用ボディの生産を開始し、1972年(昭和47年)からは後継車種「パークウェイ」用ボディを生産開始した。パークウェイは1982年(昭和57年)にモデルチェンジし、1997年(平成9年)まで生産されている。主に自動車教習所・事業所などの送迎用として自家用で購入した例が多いが、西鉄グループでは過疎地の路線バス用として多数が導入された。
1997年(平成9年)にはパークウェイに代わり、いすゞのエルフボトルトラック(5代目、KC-NPR71LZ)シャシーにパークウェイに準じたボディを架装した「プレビス」を開発し、1998年(平成10年)から2001年(平成13年)までジャーニーEとしていすゞ自動車から販売された。西鉄グループや阪急バス・岩手県交通などで採用された。
1997年(平成9年)、三菱自動車のパジェロ商用車をベースとしてノンステップのボディを架装した11人乗りバス「ミニミニバス」を開発し、西鉄グループの京築交通(現・西鉄観光バス)に試作車1台を納入したが、量産化は見送られた。試作車は福岡県犀川町(現みやこ町)の山間部の路線で運行したが、運用路線の廃止により6年ほどで引退した。
廃車となった後も廃棄されずに西鉄車体技術の敷地内に放置されていたが、2023年にレストアと電気自動車化の改造を行い、同年12月22日から25日までマリンメッセ福岡で開催された「福岡モビリティショー2023」にて展示された[20]。
量産化に至らなかったミニミニバスに代わり、いすゞのエルフUTバンをベースとしてバスに改造した車両を開発し、西鉄バス佐賀・湖国バスなどに納入したが、エルフUT自体が2001年に生産中止となった。
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2003年(平成15年)4月以降、日産ディーゼル以外のシャーシに架装される場合が少なくなり、それゆえ、日産ディーゼル以外は生産台数が絶対的に少ないため、必然的に製造コストが高くなる。また、日野・いすゞ・三菱ふそう観光系シャーシへの架装は2005年(平成17年)秋以降全面的に中止となっている。
なお、2007年(平成19年)から日産ディーゼルと三菱ふそうのOEM供給により、これ以後は三菱ふそうへも西日本車体工業製が大きく普及することになる(本項の記載の対象外である)。日産ディーゼル以外への車体架装のユーザーは西日本に集中している。
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