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日本の随筆家、小説家 (1904-1990) ウィキペディアから
幸田 文(こうだ あや、1904年〈明治37年〉9月1日 - 1990年〈平成2年〉10月31日)は、日本の随筆家・小説家。位階は従四位。日本芸術院会員。
幸田 文 (こうだ あや) | |
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1950年(昭和25年)の幸田文 | |
誕生 |
1904年9月1日 日本 東京府南葛飾郡寺島村(現・東京都墨田区) |
死没 |
1990年10月31日(86歳没) 日本 茨城県石岡市(石岡第一病院)[1] |
墓地 | 池上本門寺(東京都大田区) |
職業 | 小説家、随筆家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
活動期間 | 1947年 - 1990年 |
ジャンル | 小説、随筆 |
主題 | 露伴研究の資料の編集 |
代表作 |
『こんなこと』(1950年) 『みそっかす』(1951年) 『黒い裾』(1955年) 『流れる』(1956年) 『おとうと』(1957年) 『闘』(1973年) |
主な受賞歴 |
読売文学賞(1956年) 新潮社文学賞(1956年) 日本芸術院賞(1957年) 女流文学賞(1973年) 日本芸術院会員(1976年) 勲三等瑞宝章(1990年,没後) |
デビュー作 | 『雑記』(1947年) |
配偶者 | 三橋幾之助(1928年 - 1938年) |
子供 | 青木玉(長女) |
親族 |
幸田露伴(父親) 青木奈緒(孫、玉の長女) 高木卓(従弟) |
ウィキポータル 文学 |
東京都生まれ。幸田露伴次女。女子学院卒。父露伴の死後、『雑記』『終焉』『葬送の記』などの回想文で文壇に登場。のち小説も書き、『黒い裾』『流れる』などで高い評価を得た。繊細な感性と観察眼、江戸前の歯切れの良い文体が特徴。折々の身辺雑記や動植物への親しみなどを綴った随筆の評価も高く、『こんなこと』『みそっかす』や、没後刊行された『崩れ』『木』などの多数の作品集があり、永い人気を保っている。他に映像化の多い『おとうと』も知られている。
作家の幸田露伴、母幾美(きみ)の次女として東京府南葛飾郡寺島村(現:東京都墨田区東向島)に生まれる[2][3]。1910年、5歳のときに母を、1912年、8歳のときに姉の歌を失う。1912年に父の露伴が児玉八代(やよ)と再婚。1917年に寺島小学校を卒業。東京女子高等師範学校受験に失敗するが、八代のつてにより女子学院に入学[4][5]。その年の夏休みから露伴による生活技術の教育を受けるようになる[2][3][6]。1926年、22歳のときに弟の成豊(しげとよ)も失う[2][3]。
1928年、24歳で清酒問屋三橋家の三男幾之助と結婚し、翌年娘の玉(青木玉)が生まれる[2][3]。しかし、結婚から8年後、家業が傾き廃業[7]。1936年、築地で会員制小売り酒屋を営む[8]も1938年に離婚、娘の玉を連れ父のもとに戻る[2][3]。戦時中には、露伴の生活物資の確保のために働き[9]、少女時代から露伴にしこまれた生活技術を実践していった。
1945年、露伴、玉とともに露伴の再婚相手であった八代(やよ)の別居先の長野県に疎開。その後、露伴を伊東に移し、文と玉は土橋利彦宅へ一時留まったのち、1945年10月、千葉県市川市菅野に家を借りて移り住んだ。1946年1月28日、露伴を菅野の家に移した[10]。
市川時代の露伴は高齢で白内障であったため、寝たきりの生活だった。そんな露伴の様子を、文は『雑記』として執筆。これが文筆家としての誕生であった。『雑記』は露伴の80歳記念に発行される予定であったが、1947年7月30日、露伴が80歳を迎えた一週間後に死去し、露伴自身は『雑記』を目にすることはなかった[11]。
露伴の思い出や看取りの記を中心にした『終焉』を発表。のち『父』、『こんなこと』、1949年には幼少時の思い出を書いた『みそっかす』を連載するなどの随筆集を出版し注目された。
しかし、1950年に断筆宣言[12]をし、翌年柳橋の芸者置屋に住み込み女中として働いたが、病のため約2ヶ月で帰宅する[3]。そのときの経験をもとに『流れる』を1955年より『新潮』に連載し、翌56年に刊行、同年に第3回新潮社文学賞受賞、1957年に昭和31年度日本芸術院賞を受賞した[3]。成瀬巳喜男によって映画化された[13]。また1956年に『黒い裾』で第7回読売文学賞を、1973年に『闘』で第12回女流文学賞を受賞した[2]。1976年に日本芸術院会員となった[2]。
1965年の夏、奈良県斑鳩町の法輪寺住職井上慶覚から、焼失した三重塔の再建について話を聞いたことをきっかけに、官公庁への嘆願・申請や募金活動に尽力。その後自らも奈良に移り住み作業にも加わるなどし、1975年に再建された[14]。
1988年5月から脳溢血により自宅で療養。その後は茨城県石岡市の老人ホームに入所。1990年10月29日に心筋梗塞を発症して隣接の石岡第一病院へ入院。2日後の10月31日、心不全により86歳で死去[1][2][15]。叙従四位、勲三等瑞宝章追贈[16][17]。
幸田文『崩れ』を読んでみると――もちろん僕は前から彼女のものは知っていたし、『崩れ』がその中でとりわけいいとは思わないんですが――あそこには奇妙な感性があって、高い山ではなくて、深い穴のようなところに人を吸い寄せる何かがあったわけです。不気味なことだなあと思いながら、ほんとはこういうことをやっちゃいけないのじゃないかと思いつつ、しかし引きつけられるままに書いてしまった。そうしたら、それがブームになったというので、恥じましたね(笑)。
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