八幡の藪知らず
千葉県市川市八幡にある森の通称 ウィキペディアから
千葉県市川市八幡にある森の通称 ウィキペディアから
市川市が設けた解説板[要文献特定詳細情報]には、「
八幡の藪知らずは、本八幡駅から徒歩5分程度離れた千葉街道(国道14号線)沿い、市川市役所の斜め向い側にあり、隣には駐輪場がある。周辺は宅地化が進んでいるため、人通りは多い。近くには八幡の地名の由来となった葛飾八幡宮もある。藪の広さは奥行き・幅ともに18メートルほどで、決して方向感覚を失って迷うほどの広さではない。
かつては細竹、漆、松、杉、柏、栗などの樹木が生い茂る雑木林であり、昭和の末頃までは、樹齢を経た木々の鬱蒼とした様を見ることができたが、近年は孟宗竹に侵食され、樹木は僅かに残るのみである。また、藪の中央部が窪んでいるという地形的特徴がある。もともと藪の範囲は今より広かったとも言われるが、少なくとも江戸時代の文献には、既に現在と同程度の広さであったことが記されている。なお、近年の道路拡張で一部が削り取られている。
「この藪に足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」という伝承は、後述するように由来には諸説あるが、少なくとも江戸時代から当地で語り継がれており、藪の周りは柵で囲まれ人が入れないようになっている。街道に面して小さな社殿が設けられており、その横には「不知八幡森(しらずやわたのもり)」と記された安政4年(1857年)伊勢屋宇兵衛[注釈 1]建立の石碑がある。この社殿は凹状となった藪囲いの外側にあり、社殿の敷地に立ち入って参拝をすることができる。なお、伸びすぎた孟宗竹の剪定・伐採は(域内に入らないかたちで)時折行われている。
八幡の藪知らずの伝承は、江戸時代に記された書籍にすでに見ることができるが、それ以前から存在したか否かは定かではない。また、なぜこの地が禁足地になったかの理由についても、明確な根拠があるわけではない。しかし諸説いずれにせよ、近隣の人たちはこの地に対して畏敬の念を抱いており、現在も立ち入る事はタブーである。
以下、伝承の由来に関する有名な説を挙げる。
これらの偉人に関する説は、いずれも該当する人物の祟りなどのために立入禁止になったといわれている。ただし、墓所・陣屋跡の比定地には異説も多い。
江戸時代の地誌からその記載が認められる。前期は平将門や日本武尊に結び付けられて説明され、『遊歴雑記』において水戸黄門説話が付与されていく[5][6]。
迷宮式の興行場は、明治10年頃に復活し、大流行となった[9]。こうした迷路は八幡不知(やわたしらず)のほか、八陣、かくれ杉などと呼ばれた[9]。
明治11年には、歌舞伎として『黄門記八幡大藪』[10]が上演されている。月岡芳年の錦絵は、この興行パンフレットに掲載されたものである。
大正12年の『千葉県東葛飾郡誌』[11]には、薮知らずについての七つほどの説が紹介されている。
口承文芸資料としては、以下のようなものがある[6]。
伝承が有名になったため、「八幡の藪知らず」は「入ったら出られない藪や迷路」の総称となった。それが更に転じて「道に迷うこと」「出口のわからないこと」を「八幡の藪知らず」「やわたしらず」と言うようになった[注釈 3]。
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