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日本の男性声優、ナレーター、演出家 (1951-2018) ウィキペディアから
石塚 運昇(いしづか うんしょう、1951年5月16日[1][2][8] - 2018年8月13日[12])は、日本の声優、俳優、ナレーター[9]、演出家。青二プロダクション最終所属[10]。福井県勝山市出身[4][5][6]。既婚者。
いしづか うんしょう 石塚 運昇 | |
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プロフィール | |
本名 |
石塚 運昇[1] (いしづか ゆきのり)[2] |
愛称 | 運昇さん[3] |
性別 | 男性 |
出身地 | 日本・福井県勝山市[4][5][6] |
死没地 | 日本・東京都 |
生年月日 | 1951年5月16日 |
没年月日 | 2018年8月13日(67歳没) |
血液型 | A型[7][8] |
職業 | 声優、俳優、ナレーター[9]、演出家 |
事務所 | 青二プロダクション(最終所属)[10] |
配偶者 | あり |
公称サイズ(時期不明)[11] | |
身長 / 体重 | 168[7] cm / 69 kg |
声優活動 | |
活動期間 | 1984年 - 2018年 |
ジャンル | アニメ、ゲーム、吹き替え、ナレーション |
デビュー作 |
マツダ・ルーチェ(CMナレーション)[4][5] 『巨神ゴーグ』(ナレーター)アニメでのデビュー[4][5] |
俳優活動 | |
ジャンル | テレビドラマ、舞台 |
主に朗読指導を行う「石塚運昇 リーディングカンパニー」主催。参加者によるリーディング劇も行っており、舞台俳優・声優の経験を基に演出、演技指導を手がけた。
福井県立勝山高等学校[7]時代に山岳部で、インターハイに出場したことがある[6]。高校2年生の頃、予餞会で初めて人前で芝居をしたのがきっかけとなり、役者としての情熱が沸き起こる[3][6]。
高校卒業後上京し、アルバイトニュースで配達のアルバイトをしていたという[3]。その会社のビル内にあった喫茶店のマスターと仲が良くなり、「なんか事業やろうよ」という話から「元手がかからずに儲かるのは屋台じゃないか」と、東京体育館の裏側通りに並んでいた屋台の中で一番繁盛していたラーメン屋に2人で飛び込み「屋台経営を教えてほしい」と頼んだという[3]。店主から荷台の付いているスバル・サンバーを30万円で譲ってやると言われて買い、夕方6時から夜中の2時3時まで屋台でかけうどんやそばを売るという生活を1年ほどしていたが、屋台の場所が偶然、劇団四季と劇団青年座の中間にあり、夜中に「妙な連中がたくさん来るな」と思い、ある日、客として来ていた人に「毎晩何をやっているんですか」と聞くと「芝居をやっている」と返答され、そこで初めて役者という人種を見て、自身の高校時代の芝居経験を思い出したという[3]。その屋台には劇団四季の代表だった浅利慶太も食べに来ていたが、当時は紹介されても「へぇ〜」という感じで、どういう人物か全く知らなかったという[3]。
戸田恵子が在籍する以前の劇団薔薇座に所属していた[13]。当時、屋台をしながらラジオを聴いていたところ、TBSラジオ番組『ナッチャコパック』内で「薔薇座では劇団員を募集しています」と耳にし、稽古場が住んでいたところから近いこともあり、「まあ、やれるわけない」と思っていたが「取りあえず冷やかしで行ってみよう」と試験を受けたところ「おいで」と言われたという[3]。このことは、自分の屋台に役者が客として多く来ていたのが大きなきっかけかもしれないという[3]。屋台は自身が食べるために続けていたが、薔薇座は朝10時から夕方の6時まで稽古をしており、屋台の営業開始が6時だったことから仕込みの時間が全然なく、夜中の2時3時まで商売して3時間ぐらい寝て、朝、多少の仕込みをして稽古に行っていたが、半年ぐらいして過労から血尿が出るようになってしまい、薔薇座は1年少しで退団した[3]。
薔薇座に在籍していた頃週に1回、シェイクスピアの講義をしており、当時、劇団四季の研究所の所長に、「シェイクスピアでものすごいおもしろい翻訳をする人がいる」と小田島雄志を紹介され、渋谷ジァン・ジァンでシェイクスピア・シアターが舞台を演っていると勧められ観に行ってみたところ、凄く面白く、間の取り方、客に対する反応といい、石塚自身が思っていた芝居観と似ていたという[3]。
薔薇座退団後、シェイクスピア・シアター[7]の研究生を経て、劇団員となったが、1年2年経っても役がつかず「やめるやめない」という話になったという[3]。そうこうしていくうちに先輩の1人がやめることになり、抜擢されて初めてカタカナの役をもらったという[3]。
当時は今まで兵隊、召使、使者などの役しか演じたことがなかったことから、嬉しかったという[3]。『恋の骨折り損』のラテン語の先生役で台本にもラテン語が書かれていたが、「好きにやっていい」ということから、その頃タモリがTV番組でよくやっていたタモリ語を真似して「では行きましょう」というただ一言をラテン語っぽく1分間ぐらい繰り返し言って、客が「へぇ〜っ」となった頃「すなわち、では行きましょう」と演じてみたところ、大いにウケたという[3]。総じて10分ぐらいしか出演していないが、ギャグをした時に観客が笑いながら波のようにうねったのを見て「客ってこうやって動くのか」と思ったという[3]。
それに対抗していたのが創立メンバーの佐野史郎で、当時の佐野はコメディぽい役を演じていたが、今イチうけず、当時の石塚の初日の時はこわかったことから全然うけなかった[3][14]。その時は「俺がやったって笑うわけないだろうな、客は俺のこと知らないんだし」とあまりにも自信がなかったという[14]。この時、「喜劇って人をのんでかかるところがないとダメだ」と凄く勉強させてもらったという[14]。「これぐらいでいいですか」と芝居したって絶対に客は笑わず、「おー、おめぇよく来たな。今日は笑わしてやるからな」という強いものをもたなくてはならなかったという[14]。初日の時、「こわくてこわくて、ちゃんとしゃべれるかな、最後までやれるかな」というそれだけしかなく、舞台に出演してもこわごわしていたことから客も心配そうに「誰だろう、あれ」となり、終わってから相手方の先輩に「どうせ客はおまえのことを知らないし、笑ってくれないんだから聞き直ってやれ」と、「がぁっ」と言われ、「もう、い〜か〜、なるようになれ」と思ってしていたという[14]。その時、ものすごい笑いがあり、ますます楽になって「もっとやってやるか〜」と気になって相乗効果であり、3日目からは「俺が出れば絶対笑いがとれる」と自信が持てるようになり、次の年からちゃんと役をもらったという[14]。
シェイクスピアは37本中、喜劇が7本ぐらいであとは歴史劇、悲劇で佐野とは「悲劇になるとぜんぜん役つかんな、俺たち」とよく言っていたという[14]。当時は悲劇になるとカスのような役で新潟公演の時、佐野も石塚も風役で、台本になかったが、リア王が狂うところで嵐になり、石塚ら召使の人間が回りはじめたところ、「ふう〜う〜」と嵐のイメージになっていたという[14]。当初4人が固まって「ふう〜う〜、う〜」と言っていたが、夜中に東京を出て新潟県に行っていたため、「疲れたね。つらいね〜、旅はね〜」と佐野としゃべりながら風の音出していたところ、あまりつらくて寝てしまってそのあとほかの人間が来て風になっていたが、残って、佐野に「起きろ、起きろ」と言われたという[14]。シェイクスピア・シアターでは年間100から120ステージぐらいでき、年がら年中芝居しており、ジァン・ジァンで毎月して、ほかに旅公演もあり、1日で稽古5本したこともあったという[14]。
当時、生活は屋台していると死んでしまい、夜、キャバレーで皿洗いのアルバイトをしていたという[14]。その店のショータイムでネズミ6匹並ばして競チューのようなのをしていたが、その司会をしており、プロダクションから来ていた司会者があまりにもヘタで、「支配人に俺にやらせてくれ」とギャラを聞くと「3万ぐらい出している」ということから、「俺5000円でいいからやります」と言っていたという[14]。しかし、「でもプロダクション経由だし、おまえは芝居やっているから来たり来なかったりするから」とできず、そういうのが好きで、北野武ではないが、ストリップ劇場の前ふりの司会、コントといった「そういう世界に行けばよかったな」と1999年時点では後悔していたという[14]。
劇団を退団後、「何やろうか」とストリップ劇場のある東京都台東区浅草をウロウロしており、劇団が10年目で分裂して、「僕はやめる」と言っていたが、「いてくれ」と頼まれて、マスコミの仕事はダメというところだったが、「人がいないからそれでもいい」ということになったという[14]。30歳を過ぎてもバイトをしており、将来に不安を感じていたが、劇団在籍していた頃東京都港区赤坂の飲み屋のバイトでその店に来ていた東北新社の人物が来ていたという[14][5]。一緒に働いていた劇団の後輩が東北新社に大学の同期がおり、東北新社の人物がよく来ていたという[14]。ある時、「声の仕事やってみない?あんたいい声しているから」とスカウトされたという[14][5]。当時はCMの世界のこと無知だったことから、「何ですか、それ」と言ったところ「CMなんかでナレーションとかよくやっているよね」と言われてもピンとこなず、「俺もメシが食いたいし、バイトばかりやっていてもなんだし、一回やらせてくださいよ」としてもらったという[14]。スタジオに行って原稿渡され、読んでおり、それを音サンプルにしたかったようで、そんなことも無知だったことから、「ぱ〜っ」と読んで「はい、どうも」とそのあとスキーのCMをすることになったという[14]。
テープ作りはその前にもしており、そのバイト先の飲み屋に東北新社のCM監督が来ていたが、その人物にも石塚は当時32、33歳だったことから「いつまでもバイトしているのしんどいから、マスコミの仕事なんかでメシ食えるようなものあったら紹介してくださいよ」と言われ、「声やるんだったら、どこでやりたいんだ」と言うことから「あまり知らないけど青二って聞いたことはあるけど」と言っていたところ、青二プロダクションのCM担当を紹介されたという[14]。そのCM担当に「こういう世界があるから、デモテープ作って持ってきたら」と言われたが、デモテープそのもの何だか分からず、「何でもいい」ということからリア王のセリフを吹き込んでいったと語る[14]。
当初から青二プロダクションに所属するはずだったが、劇団の人物がたくさん所属してきたことから、「今入るのは無理」のようなこと言われたが、その時、東北新社のCM監督の人物が、「同人舎がおまえみたいなのをほしがっているから」と同人舎プロダクション[15]を紹介してくれて所属した[14]。マツダのマツダ・ルーチェのCMナレーションで声優としての活動を始める[14][5]。アニメでのデビューは『巨神ゴーグ』[5]。
CMナレーションの依頼が来ていたのがきっかけであり、マネージャーに「舞台をやっていたわけだし吹替もやってみては?」と言われて、「それなら一度やってみようか」となって、アフレコを始める[16]。初めての吹き替えの収録では役に立たず、声を合わせるのが精一杯であり、芝居をするどころではなかったという[16]。声を合わせられるようになってからは、舞台と同じく役を演じていたことを意識するようになったという[16]。
その後、CMを主にしていたことからアクセント[17]に移籍[14]。その頃すごくCMが好きで「お金がいい」とそういう意識は全然なく、その15秒という凝縮された世界が好きであったという[14]。
2010年1月1日より、長年所属していたアクセントを退所し、青二プロダクションに亡くなるまで在籍していた[18]。
2018年8月13日、食道癌により死去[12]。67歳没。同年10月2日には青山葬儀所でお別れの会が行われ、山寺宏一らが参列した[19]。なお、山寺は2017年時点で石塚の病状を知っていたことを、後に明かしている[20]。また、山寺と同じく『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』で共演していた神谷浩史は、石塚の最後の収録当時(2018年2月)も彼が直前までロビーで大塚芳忠と談笑していたため、まさか健康を損ねているとはまったく思えなかったことを、同作の第七章劇場公開時に明かしている[21]。
重々しい声が魅力的[22]。声優としては、低く渋い声が特徴的であり、冷静沈着で頼りになる大人の男性役を演じることが多かった[8]。吹き替えでは海外ドラマ『CSI:マイアミ』のホレイショ・ケイン役で知られており[23]、俳優ではリーアム・ニーソンやケヴィン・スペイシー、ローレンス・フィッシュバーンを担当[24]。特にリーアム・ニーソンは津嘉山正種に次いで多く吹き替えており、初担当となった『96時間』以降、2017年まで大半の作品で担当し、ほぼ専属であった。また過去にはアラン・リックマンやサミュエル・L・ジャクソンも担当している。これらの他に、映画の予告編やCMのナレーションも多く担当していた。
石塚は声優デビューしてしばらくは洋画の吹き替えやナレーションがメインで、アニメの仕事に対して本気でなかったが、OVA『マクロスプラス』に出演して「アニメも面白いな」と思うようになったという。『マクロスプラス』では大人向けのストーリーや、「アニメっぽくない芝居」を要求され、斬新だったという。劇場版『マクロスプラス』が完成した際には消えてしまったと思っていた日本映画の才能がアニメの現場に受け継がれていると感じたと語っており、印象的だったとしている[25]。今まで「職業は?」と聞かれた時、「役者、俳優です」と答えていたが、1999年時点では「ええ、声優です」と言えるようになったという[26]。
声を務める『ポケットモンスター』のオーキド博士に自身が扮した姿で、たびたびテレビ番組やイベントなどに顔出し出演していた[19]。オーキド博士役は、オーディションも何もなしに、いきなりキャラクターも何も分からないでテストされたことから「なんでこの野郎、俺をつけたんだろう」と怒ったぐらい困っていた[26]。また、録音前に「エンディングの歌を歌ってくれ」と言われ、エンディングテーマだった『ひゃくごじゅういち』を担当することになったという[26]。オンエア1カ月半ぐらい経ち幕張メッセでCD先行発売のショーで、初めて人前で歌い、その時の子供たちの目がキラキラしており、一緒になり歌ってくれた時は嬉しかった[26]。叫ぶような「ハカセ〜」と声援を受け踊りまでしていた[26]。イベントに参加して「ブラウン管の向こうに子供たちがいる」というのが分かるようになり、それ以外の仕事でも「ブラウン管越しにこういう人たちが見ているんだ」と意識するようになった[26]。具体的にテレビの前で見ている人物たちを想定して喋ることができるようになったのが、『ポケモン』に出演してからの大きな収穫だといい、声の表現が「ようやく入り口に達してきたかな」と感じていた[26]。死去後に持ち役はそれぞれ後任が担当したが、『ポケットモンスター サン&ムーン』におけるポケモンの鳴き声の一部(マーマネのデンヂムシなど)は生前に収録した音声を流用しており(ライブラリ出演)、キャストにもクレジット掲載されている。『サン&ムーン』の次作である『ポケットモンスター(第7シリーズ)』でも生前に収録したポケモン(サトシのオオスバメ等)の音声はそのまま使用されており、テレビシリーズ最終話(『ポケットモンスター めざせポケモンマスター』第11話)にもライブラリ出演している。ナレーションもオーキド役を引き継いだ堀内賢雄が後任を務めているが、2022年12月23日に放送された特別編『ポケットモンスター 遥かなる青い空』では、生前の収録音声を編集する形で約3年ぶりに石塚のナレーションが流れた。
また、2019年7月12日に公開された『ミュウツーの逆襲 EVOLUTION』では、2018年の3月頃にプレスコによる事前収録を行っており[27]、事実上の遺作となった。
実家がバイクショップを経営していたため、自身も若い頃からバイクに乗り始め、30歳過ぎまで熱中していた[6]。また、ゴルフも趣味[10]。実家には手掴みで捕ったというイワナの魚拓がある[6]。
石塚の死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。
太字はメインキャラクター。2019年以降の一部の出演作品については、生前の収録音声を使用したライブラリ出演。
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