日本の鉄道事故 (にほんのてつどうじこ)では、日本の鉄道が開業した1872年から1949年に発生した日本の鉄道事故 について記述する。
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新橋駅構内列車脱線事故
1874年 (明治7年)10月11日 (列車脱線事故 )
8時15分、新橋駅 構内で横浜駅 (現・桜木町駅)からの列車が到着する際、ポイント 通過時に機関車 と貨車 1両が脱線し転覆、客車2両が脱線。負傷者なし。これにより午前中の運行は取りやめ、午後も品川 - 横浜間のみの運転となる。原因はポイントの故障とされる。日本最初の鉄道事故[1] 。
東海道線神崎列車ウシ衝突脱線事故
1874年(明治7年)12月1日 (列車脱線事故 )
神戸 17時15分発の大阪 行き最終列車が、神崎駅 (現・尼崎駅)を発車して神崎橋へ近づいたところで、線路内へ走ってきたウシ と衝突した。即死したウシの死体が中央部車輪に巻き込まれ、客車 2両が脱線し転覆、2両が脱線した。負傷者なし。
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故
1877年 (明治10年)10月1日
東海道線 ・住吉駅 - 西ノ宮駅(現・西宮駅 。摂津本山駅 ・甲南山手駅 ・芦屋駅 ・さくら夙川駅 はすべて未開業)間で上り旅客列車と下り回送列車が正面衝突。
上下列車は本来西ノ宮駅で行き違う予定だったが、上り旅客列車の直前に臨時列車が設定され、下り回送列車の機関方(機関士)が臨時列車の到着後、旅客列車を待たずに発車したのが事故の原因である。上り旅客列車と正面衝突し、乗務員3人が死亡 した。
従来は駅長同士の電信連絡で列車の運行を管理していたが、事故を機に1区間に1本の列車しか入れないようにする票券閉塞 方式の導入が前倒しされた。日本最初の鉄道死亡事故。
大森駅構内列車脱線事故
1885年 (明治18年)10月13日 )[3] (列車脱線事故 )
1時ごろ、東海道線大森駅 構内で、到着した最終の新橋発大森行き臨時列車 (客車 14両編成、池上本門寺 の参詣 客用)を下り線から上り線に転線する作業中、分岐器 上で下等車 の客車3両が脱線転覆[3] 。乗客1名死亡、1名負傷。
当日(10月12日)は池上本門寺の御会式 期間中であり、大森駅は朝から通常の70倍を超える乗降客で混雑と混乱の極にあったとされる[注 1] 。
事故原因は朝からの大混乱で疲労困憊した係員が緑灯と赤灯を見間違えたこと、さらに分岐器の切り替えが不確実であったことの2点であった[3] 。政府は「鉄道掛り之者失錯より此変死を」起こしたとして事故の全面的責任を認め、死亡者に100円の埋葬手当・遺族手当を支払った[3] 。
日本の鉄道における最初の旅客 死亡事故[4] 。
構内(蒲田寄の東海道線上下線間)に木製の慰霊碑が建立されていた[5] が、2015年頃までに撤去されている。
東海道線工事列車正面衝突事故
1889年(明治22年)4月11日
11時15分ごろ、東海道線安倍川付近で15号機関車 牽引の静岡発工事列車と5号機関車 牽引の焼津発静岡行工事列車が正面衝突し、4人が死亡、7人が負傷した。
死亡した中には、名古屋で開かれる第三師団の招魂祭に参列するために乗車していた静岡県知事の関口隆吉 がいた。まだ東海道線が全通しておらず、関口は工事列車に併結された客車に便乗していたが、前の貨車が積載していた鉄材が衝突時の衝撃で客車に突き刺さり、その鉄材に足を挟まれた。足を切断しなければならない状態にもかかわらずそれを拒否したため破傷風 によって傷口が化膿し、5月17日に死亡した。
山陽鉄道軍用列車海中転落事故
事故現場付近にある慰霊碑
1895年 (明治28年)7月25日
当時山陽鉄道 の路線だった山陽本線 尾道駅 - 糸崎駅 間を深夜に走行していた上り軍用列車 (蒸気機関車牽引、客車23両、車両はすべて鉄道局所有)が、神戸起点225.3km 付近(現在の広島県 三原市 と尾道市 の境界)において、折からの暴風雨による満潮時の波浪で、築堤が300m にわたって崩壊していた線路に突入したため、機関車と客車6両が瀬戸内海 に脱線転落した。
軍用列車には日清戦争 に従軍した傷病兵と付添人、乗員ら358名が乗車していたが、11名死亡(うち乗員3名)し、98名が負傷した。事故後脚気 で3名が死亡したため、後述の慰霊碑 では乗客の死者を11名としている。機関車に乗務していた機関士と火夫見習いは殉職したが、火夫は顔面の負傷のみで助かり、海中に転落した客車から傷病兵を救助し、事故発生を知らせるために徒歩で尾道駅に向かった。
現在、同区間は海岸から少し離れたところに線路があり、海岸との間に国道2号 があるため、同種の災害が起きる危険度は低い。慰霊碑は事故から41年後の1936年に第5師団の手で建立されており、現在も山陽本線才の原踏切(尾道バイパス と鉄道の立体交差地点)の傍らにある。
参考:山陽鉄道大脱線 明治28年7月26日東京日日新聞『新聞集成明治編年史. 第九卷』 (国立国会図書館デジタルコレクション)
東海道本線工事列車転落事故
1897年 (明治30年)10月3日
東海道本線(現・御殿場線 )小山駅 - 山北駅 間(谷峨駅 は信号所時代を含め未開業)が、台風 による酒匂川 の氾濫によって不通になり、復旧工事が進められていた。5時ごろ、沼津から復旧工事現場に来た工事列車(機関車202号牽引)が停止しようとしてブレーキ操作を誤り、速度超過のため車止めを突き破り築堤下に転落、乗組員3名(うち2名は即死、もう1名も当日に死亡)および作業員6人の計9名が死亡し16名が負傷した[8] 。
九州鉄道蒸気機関車ボイラー破裂事故
ボイラーが破裂した機関車
1898年 (明治31年)4月8日 8時ごろ
九州鉄道 (のちに国有化)幸袋線 (1969年廃止)の幸袋駅 構内で混合列車を牽引していた蒸気機関車(タンク式、のちの3300形蒸気機関車 、1893年アメリカ合衆国ボールドウィン社 製造)が、貨車入れ替え作業中にボイラーが破裂し大破。乗務員2名と駅員1名が殉職し、踏切にいた歩行者4名、民家内に居た1名が負傷したほか、吹き飛んだ車体で400尺 (約120m)離れた地点までの民家3軒も破損した。事故は外火室が破裂したものであったが、原因不明[9] 。
箒川鉄橋列車転落事故
1899年 (明治32年)10月7日
当時日本鉄道 の路線であった東北本線 矢板駅 - 野崎駅 間で発生した、明治時代最大の鉄道事故である。当日17時ごろ、折からの台風 接近による強い風雨のため、上野 発福島 行きの貨車 客車 混合第375列車(機関車2両・貨車11両・客車7両)は矢板駅を約1時間遅れで発車した。箒川鉄橋を通過中突風にあおられ、この瞬間貨車最後尾の緩急車 の連結が外れて緩急車とその後ろの客車7両が鉄橋上で転覆、そのまま箒川 へ転落した。増水した川の濁流で貨車・客車は砕かれ、一部の遺体は下流の烏山町 まで流された。死者19名、負傷者38名。
東海道本線山崎駅 - 高槻駅間列車脱線事故
1900年 (明治33年)8月4日 19時45分頃(列車脱線事故 )
東海道本線 山崎駅 - 高槻駅 間(当時島本駅 は未開業)で下り第105混合列車(蒸気機関車・客車12両・貨車11両)が走行中突然、前から11両目の客車と次位の貨車3両が脱線し、その4両のうち2両が築堤下に転落し1人が死亡、2名が負傷した。事故原因は不明とされてきたが、後年の二軸貨車 の競合脱線 事故の最初のものと考えられている[11] 。
信越本線横川駅 - 軽井沢駅間乗務員乗客転落事故
1901年 (明治34年)7月13日 (鉄道人身障害事故 )
信越本線 横川駅 を発車し、軽井沢駅 へ向かって登坂中の長野 行き第51列車において、20時40分ごろ1C1形蒸気機関車 の蒸気管が突然破裂し、噴出した蒸気によって機関助士 2名が車外に飛ばされて重軽傷を負った。機関士 は非常制動 をかけたがブレーキ が効かず、列車は重力によって自然停止した後に退行し始めた。このとき乗客は40人おり、うち1人が退行前に飛び降りて無事に軽井沢駅にたどり着いたが、退行開始後に飛び降りた日本鉄道 副社長男爵 の毛利重輔 とその息子の2人が列車に巻き込まれて死亡した。技術者 だった毛利は碓氷峠 の急勾配で退行し始めたということは制動不能になったと判断、その恐ろしさを知っていたため、ほかの乗客にも飛び降りることを勧めて飛び降りたという。列車は約1.9 km退行したが、機関士の必死の操作により停車に成功し、残った乗客は無事だった[12] 。
倉賀野駅 - 高崎駅間列車爆発事故
1907年 (明治40年)5月6日 18時40分頃
高崎線 の倉賀野駅 - 高崎駅 を走行中の512列車で、14両目の3等車の網棚に吊ってあった乗客の携帯品(危険物 )が落下して爆発、車体の上部が吹き飛び4人が死亡、20人が負傷した。危険物の中身は不明。
大阪駅清水太右衛門殉職事故
清水太右衛門を描いた紙芝居「鉄路の華」
ノースゲートビルディングと立体駐車場をつなぐ通路に移設された清水太右衛門殉職碑
1907年(明治40年)5月31日 18時頃(鉄道人身障害事故 )
大阪駅 の駅員・清水太右衛門 (岐阜県 羽島郡 小熊村 出身)が同駅西第一踏切で踏切番として勤務中、遮断機をくぐり線路に入った幼女を発見。そのとき西成線 の上下列車が同時に迫ってきた。太右衛門は踏切内に飛び込み間一髪で幼女を救ったが、列車と接触して重傷を負い、幼女を気遣いながらも22時間後に入院先で死亡した。死亡前には事故の目撃者の1人から10円もの寄付があり、大阪駅長が発起人となって義捐金を集め太右衛門に贈ろうとしていた[14] 。
この出来事に心をうたれた人々が太右衛門の功績を後世に伝えるため、1907年10月に現場付近(現・北区 梅田三丁目)に「清水太右衛門殉職碑」が建立された。1945年 の大阪大空襲 で破壊されたため、1956年 に国鉄総裁十河信二 の揮毫 で再建された[15] 。2007年 に大阪駅の改装工事のため、阪神高速 池田線梅田出入口付近に移設、これ以来JR社員によって数十年ぶりに命日に慰霊式が行われるようになった[16] 。2011年 1月、ノースゲートビルディング と立体駐車場をつなぐ通路に移設された[17] 。そこからも後に撤去されたが、正式な移設先は2020年現在決まっていない[18] 。
現場となった踏切は大阪駅高架 化に伴い昭和初期に廃止された[注 2] 。
1942年 (昭和17年)に太右衛門の行為を描いた紙芝居が大阪鉄道局によって制作された。慰霊碑移設の新聞記事を見た作者の息子から2011年 6月に紙芝居がJR西日本に寄贈された。『大阪駅物語』によって紙芝居が作られた事自体は知られていたが、所在は不明だった[19] 。
参考文献
朝日新聞大阪本社社会部 編『大阪駅物語』弘済出版社 、1980年、48-50頁。
日本国有鉄道総裁室文書課 編『鉄道碑めぐり』日本国有鉄道 、1962年、137-139頁。
関連項目:山崎栄 、塩狩峠
上信電鉄転落事故
1907年(明治40年)8月17日
高崎発の列車が、洪水により橋脚が傾いた烏川鉄橋に進入したため川中に転落(機関車・緩急車1両・客車1両)。即死1名・軽重傷8名を出した。
九州線中原駅構内列車衝突事故
1908年 (明治41年)5月17日 (列車衝突事故 )
九州線(前年に九州鉄道 を国有化したもの)中原駅 で、混合列車と駅に停留中の貨車が衝突。この衝撃で貨車2両がプラットホームに乗り上げ駅舎を破壊、待合室にいた2名が死亡、6名が負傷した[20] 。
東海道線蒲郡駅構内列車衝突事故
1908年(明治41年)9月2日 (列車衝突事故 )
東海道線 蒲郡駅 で、旅客列車と貨物列車が衝突、双方の機関車および客車3両と貨車4両が脱線し破壊、乗客5名と職員1名が死亡し、8名が負傷した[22] 。
横須賀線鎌倉駅列車衝突事故
1909年(明治42年)1月13日 6時47分(列車衝突事故 )
横須賀線 鎌倉駅 下り遠方信号機付近において、鎌倉駅を2分延発した上り客第2列車と大船駅 を8分延発した下り客第505列車が正面衝突。両列車の機関車と客車3両、緩急車1両が脱線し、旅客9名と郵便係員2名、職員10名が負傷した。
当時横須賀線大船 - 鎌倉駅間は単線で通票閉塞方式で運行されており、同区間の運転時分はおよそ9分であった。第2列車と第505列車は所定では鎌倉駅において行違いを行う予定で、大船駅助役は第505列車の出発から6分後に送られてきた鎌倉駅からの閉塞信号を第505列車の鎌倉駅到着信号と誤認し閉塞機を取り扱った。
一方で鎌倉駅助役は第505列車が遅延しているため行違い駅を大船駅に変更するものと臆断し、既に同駅出札掛が第505列車への閉塞承認を行い通票を取り出せない状態であった閉塞機を不正に操作し通票を取り出した上で第2列車を出発させた。
鎌倉駅助役の不正操作と大船駅助役の誤認が重なった結果、駅間に2つの列車が存在する状態となり、下り遠方信号機付近で正面衝突に至ったものである。
奥羽線赤岩信号所構内列車転覆事故
1909年 (明治42年)6月12日 (列車脱線事故 )
奥羽線 赤岩信号所 で発生した列車転覆事故。赤岩信号所を発車した列車が急勾配の第13号隧道内において空転を頻発した。その際、後部補助機関車内の機関手および機関助手は蒸気により窒息し昏倒。異常に気づいた本務機関車の機関手は非常制動をしようとしたが後退し始めた。そのまま列車は赤岩信号所構内に侵入、脱線転覆した。木造の客貨車は粉砕され、旅客は1人死亡、27人負傷。職員は3人死亡、3人が負傷した。
東海道線京都駅列車脱線事故
1910年 (明治43年)8月24日5時36分[25]
東海道線 京都駅 を下り急行客第5列車が出発の際、第28号対向転轍機上を通過中に同転轍機取扱者の錯誤により転轍機が車庫線方向へ転換し、9両目と10両目が車庫線へ異線進入し脱線転覆、8両目はこれに引っ張られて本線上で脱線し、旅客2名が死亡し同7名が負傷した。
東海道線大垣駅列車追突事故
1912年 (明治45年)6月17日 11時27分頃(列車衝突事故 )[26] 。
東海道線 大垣駅 に停車していた軍用丁号列車に後続の貨物第459列車が追突し、貨物列車の機関車が脱線、軍用列車の客車4両が大破した。兵士7名死亡、51名負傷[26] 。貨物列車の速度の出し過ぎが原因。大垣駅の遠方信号機の停止現示で制動を執るも、間に合わず追突した。
常磐線高浜駅列車衝突事故
1913年(大正2年)7月25日 0時22分(列車衝突事故 )
常磐線 高浜駅 を下り急行客第801列車が通過の際、下り遠方信号機が橙黄・緑・白の3色の異常信号を現示しており、これを認めた機関士は長緩汽笛を吹鳴しながら注意運転を行い場内信号機の正常な現示と転轍標識の正当方向への開通表示を確認し通過速度で運転を継続した。
しかし、転轍機担当駅手が注意汽笛を自身の担当転轍機の異線開通によるものと誤認し鎖錠により転換できない状態であった転轍桿のピンを抜いて強引に転換した結果、転轍機が直前転換し上り貨第836列車が停車中の番線への進路が構成され、これを認めた第801列車機関士が制動を執るも及ばず第836列車に正面衝突。両列車の機関車と客車2両、貨車5両が脱線・破損し職員3名と乗客17名が負傷した。
函館本線列車転落事故
1913年(大正2年)8月28日 2時45分頃(列車脱線事故 )[27] 。
函館本線 目名駅 - 熱郛駅 で、急行第4列車が土砂崩壊で埋まった線路に突入し立往生、目名駅へ引き返そうと後退したが、第1貝殻沢橋梁に差しかかったところで築堤が崩壊し、2両目の客車が転落、1等寝台車など3両が横転した。7名死亡、67名負傷[27] 。この事故を機に、目名・上目名間のルートが変更となった[28] 。[注 3]
北陸本線列車脱線事故
1913年(大正2年)10月3日 17時18分頃[31]
北陸本線 細呂木駅 - 大聖寺駅 間(牛ノ谷駅 は未開業)を走行中の下り第530旅客列車が敦賀起点55マイル30チェーン付近に差し掛かった際、約80m前方で右側切取斜面の土砂が豪雨により崩壊して線路が埋没していることに気が付き緊急停止の手配を執ったが及ばず土砂に突入した。機関車は土砂に乗り上げデッキ以下埋没、次位の客車は粉砕されその他客車2両が小破し、職員4名と乗客6名が負傷、乗客1名が即死、1名が現場で手当て中に死亡、2名が病院へ搬送後に死亡する惨事となった。
現場は不通区間両端に仮乗降場を設け、4日より徒歩連絡による運行が開始、6日に全面復旧した。
北陸線東岩瀬駅列車正面衝突事故
1913年(大正2年)10月17日
東岩瀬駅列車正面衝突事故を報じた「富山日報」の紙面 北陸本線 東岩瀬駅(現・あいの風とやま鉄道線 東富山駅 )で、上り列車と行き違いを行う予定の下り臨時貨物列車 第43列車がオーバーラン を起こして本線 に進入、上り対向転轍機外方約24mの箇所に停車した。手信号による退行中の4時23分ごろ、今庄駅 前運送店主催の善光寺参詣の旅行者を乗せた[32] 、上り臨時団体旅客列車 第700列車が停止信号を冒進し衝突した。上り旅客列車は前部に客車10両を、後部に貨車12両を連結した編成であったが、うち客車6両が転覆脱線、客車2両が破損、貨車1両が脱線。旅客24名が死亡(うち18名即死[33] )、旅客106名、職員1名が負傷した(日本経済評論社『事故の鉄道史 疑問への挑戦』では即死21名、救出後事故当日中に死亡した者3名、23日午後に死亡した者2名、重軽傷者104名としている)。
下り貨物列車のオーバーラン、上り旅客列車の停止信号 の見落とし(上り旅客列車の乗務員は、夜間に信号を照らす石油ランプの火が消えていたために信号を確認できなかったと証言した)、またはブレーキ操作の遅れが衝突の原因とされている。
下り貨物列車運転士及び上り旅客列車運転士は起訴され、1914年 (大正3年)4月7日、上り旅客列車運転士に禁錮8か月、下り貨物列車運転士に罰金200円の刑が確定した。事故の発端であるオーバーランを起こした下り貨物列車側よりも上り旅客列車側の処罰が重い理由は、明治42年制定の列車運行及信号取扱心得第168条において「遠方信号機が確認できない場合は当該信号機に最大の制限のある危害信号(現在の停止信号)の現示があるものとして徐行し、必要に応じて停車しなければならず、場内信号機が停止信号であるならばその手前で停車しなければならない」との規定に違反していたためである。
また、1915年 (大正4年)2月1日付で鉄道院の部内処分が行われ、上り旅客列車側の遠方信号機の灯火を理由に東岩瀬駅長が減俸処分、下り貨物列車の緩急車へのブレーキ管の接続が不完全だったにもかかわらず(つながってはいたが、ブレーキはかからない状態だった)発車させ、その際に虚偽報告をした事故当時の富山駅助役(処分発令時は事故の責任により金沢運輸事務所運輸課員に降格されていた)が同じく減俸処分、部下(上り旅客列車乗務員)への監督責任により糸魚川機関庫主任が譴責処分となっている[35] 。
この事故を機に安全側線 が採用され、日本全国に整備された。安全側線は低速でのオーバーランに対しては有効であるが、運転士が停車操作を行わない場合は安全に停車できず、有効長が短いため砂利盛りに乗り上げるなどして脱線転覆し結局本線を支障することがある。その結果発生した事故の例として、後年に発生した参宮線 六軒事故 、常磐線 三河島事故 などがある。これらの事故を教訓にATS 、ATC などのさらなる安全設備が進展した。
東海道線熱田駅列車脱線事故
1914年(大正3年)5月18日 3時4分頃[36]
東海道線熱田駅 において上り第10旅客列車が定時で同駅を通過しようとした際、対向第24号転轍機のトングレールが基本レールに密着しておらずボギー客車3両が脱線・傾斜し、乗客1名が死亡、16名が負傷した。
原因は事故当該の第10列車の前に熱田駅へ進入した中央線第551列車の到着後に第24号転轍機を転換しようとしたところ連動機に異常が生じたため検査を行っていたが、信号手が転轍手との連絡を怠り既に連動機の故障が復旧し正当方向へ転轍機が転換したものと思い込んで第10列車に対して進行を指示する信号を現示したことであった。
東北本線滝沢駅列車脱線事故
1915年(大正4年)5月29日 [37]
東北本線 滝沢駅 を20時11分に発車した上り第238混合列車が同駅第1号(ロ)転轍機を通過中、26両目の三等緩急車の車輪が同転轍機のトングレールに乗り上げ約11m進行後脱線し、第1号(イ)転轍機の転轍標識に衝突するとともに前後4両の客車も脱線した。その後も列車は進み続け第1号(イ)転轍機より約183m進行したところでようやく停止した。これにより乗客1名が死亡、職員1名と乗客23名の合わせて24名が負傷した。
北陸線列車転落事故
1916年 (大正5年)6月11日 13時15分頃(列車脱線事故 )
北陸本線 魚津駅 - 滑川駅 間を第201列車(客車12両・貨車7両牽引)が走行中、角川鉄橋の手前で後部貨車が脱線、築堤下や川へ転落した。この影響で4両目の3等客車も橋下へ転落し、11名が死亡、21名が負傷した。軌道の安定を欠いていたところへ、有蓋貨車が高速で通過し浮き上がったのが原因と推定された。
東北線列車正面衝突事故
1916年(大正5年)11月29日
東北本線 (現・青い森鉄道線 )下田駅 - 古間木駅(現・三沢駅 )間(当時向山駅 は未開業)で、下り臨時旅客列車と上り貨物列車が正面衝突。軍隊 入営兵士ら29名が死亡した[38] 。
当時、東北本線は単線 で通票閉塞方式 をとっていた。当日夜、古間木駅助役と駅員1人が勤務時間中に外出し飲酒した。先に戻ってきた駅員は下り臨時旅客列車の運転の連絡を受けて閉塞扱いをしたのち就寝し、駅に戻った助役も寝てしまった。その後、下り臨時旅客列車の運転を知らされていない別の駅員が、到着した上り貨物列車に渡す通票が見当たらないために助役を起こして指示を仰いだ。泥酔した助役は閉塞機から通票が取り出せないのは故障だと判断し、針金を差し込む不正操作で通票を取り出して上り貨物列車に渡し発車させてしまった。当時の閉塞機は通票が引っかかって取り出せなくなる故障が時として起こっており、その際は針金などを差し込んで通票を取り出していたが、この事故を機に、不正扱いができないよう閉塞機の改良が進んだ。
岩越線雪崩事故
1917年 (大正6年)1月22日 - 23日
1月22日、岩越線(現・磐越西線 )徳沢 - 豊実 間で旅客列車の一部の車両が雪崩により埋没、無事だった客車で乗客を避難させた。翌23日、この列車の救援に向かった重連運転の機関車が堆雪により停車、後部機関車は辛うじて運転できたため本務機関車を現場に残して引き返したが、取り残された本務機関車周辺の除雪作業中に雪崩 の直撃を受けた[40] 。死者9名。なお同線では同年3月にも雪崩による鉄道事故と、松野トンネル崩壊事故 が発生している。
岩越線三重雪崩事故
1917年 (大正6年)3月3日 - 4日
3月3日21時55分頃、貨第437列車が岩越線(現・磐越西線 )五十島駅 - 馬下駅 間(当時東下条駅 ・咲花駅 は未開業)を走行中に線路上の堆雪に乗り上げた直後、山腹より大雪崩の直撃を受け機関車及び貨車4両が脱線又は転覆し職員2名が負傷した。その後除雪作業を行っていたが翌4日8時10分頃に再度雪崩が発生し職員2名が即死、4名が人事不省に陥った。その後も除雪作業は続けられ同日17時20分頃に脱線車両の復線作業が終了し運転を再開しようとした刹那に3度目の雪崩が直撃し機関車及び貨車3両が脱線、職員1名が即死し6名が負傷した。
最終的に職員3名が即死、42名が負傷する惨事となった。
信越本線熊ノ平駅列車脱線事故
事故現場
1918年(大正7年)3月7日(列車脱線事故 )
熊ノ平駅 を軽井沢方面へ発車した貨第191列車(10000形電気機関車 2両・貨車10両・有蓋緩急車1両)の本務機関士が、第20号トンネル 通過中に異臭・異音を感じ、緊急停車した。故障は軽微であったことから運行継続を決断し、再発車しようとしたが起動せず、碓氷峠の急勾配を退行し始めた。機関士は制動を試みたが発電ブレーキが故障して効かず、10か所のトンネルを通過暴走して熊ノ平駅の引込線に突っ込み、第10号トンネル終点側出口付近の岩壁に衝突した。列車は転覆して大破。これにより乗務員1名、熊ノ平駅転轍手1名の計2名が即死、補助機機関士・後部車掌の2名が重傷後死亡で計4名が犠牲となり、ほか4名が負傷した[43] 。
山陽本線兵庫駅構内爆発事故
1918年(大正7年)4月6日8時50分
大貨物積卸場付近に解放中の貨車に仲士が酸素ガス缶16個を積込中、6個目を積込んだところで突如ガス缶が爆発炎上し他のガス缶に延焼爆発したため貨物上屋と貨車12両が全焼、貨車15両が半焼し、積込作業中の仲士1名が即死、6名が負傷した。
山陰本線列車脱線事故
1918年 (大正7年)7月12日[45]
9時43分、山陰本線 湖山駅 - 宝木駅 間(鳥取大学前駅 ・末恒駅 は未開業)を走行中の第605混合列車が、進行方向左側の築堤が約66mに渡って深さ約1 - 3m陥没している箇所に進入した。このため貨車8両・客車2両が転覆、客車3両が傾斜、客車2両が脱線し、乗客2名が後に死亡、職員11名と乗客45名が負傷した。
下関駅構内爆発事故
1918年(大正7年)7月26日
山陽本線下関駅 (旧)構内で関門連絡船 に積込み中の弾薬搭載の貨車が爆発。作業員ら34名が死亡、51名が負傷した。さらに鉄道貨車7両が粉砕し118両が脱線したうえに、下関駅構内にいた急行列車の客車窓ガラスも破壊されたため、列車の乗員乗客55名も負傷した[46] 。
山手線恵比寿駅踏切障害事故
1918年(大正7年)8月5日[47]
14時8分頃、山手線 恵比寿駅 の構内踏切において鉱山用火薬を積んだ荷車が急坂を降り下り、そのまま同線下り線に進入し身動きが取れなくなった。同踏切の踏切番と協力し荷車を踏切外へ出そうとしたが、そこへ目黒駅 を定刻で発車した下り第185列車が接近。運転士は進路を支障する荷車を認め制動を執ったが及ばず衝突し、積荷の火薬が爆発したため電車1両が焼損、職員9名と乗客29名が負傷、荷車の挽子1名が死亡した。
東海道線列車多重衝突事故
1918年(大正7年)10月27日[48]
東海道線川崎駅 4番線に停車中の下り第321貨物列車が発車時刻となったため同駅を発車したところ、上下本線の亘り線が反位に転換していたため第321列車は上り本線に進出した。これを認めた同駅駅員はすぐに下り方隣駅の鶴見駅 へ対向の上り第604貨物列車の発車を抑止するよう依頼したものの、既に第604列車は鶴見駅を発車していたためなす術がなく、20時21分に両列車は正面衝突した。これにより両列車の機関車が大破、貨車5両粉砕、3両転覆、2両が脱線した上に散乱した貨物が隣接する下り電車線を支障し、そこへ進行してきた下り第947電車がこれに乗り上げて脱線。貨物列車の職員2名が死亡、4名が負傷し、電車の職員1名が負傷する多重衝突事故となった。
東海道線垂井駅転覆事故
1919年 (大正8年)7月29日 22時46分頃
東海道線垂井駅 を通過中の神戸 発東京 行きの12急行列車が、垂井駅東方の相川 橋梁付近で停車中の第308単行機関車列車に衝突、急行列車の機関車は線路下の畑に転落、1両目の緩急車と2両目の一等寝台車は粉砕された。この事故で死者1名、重軽傷者21名を出した。急行列車には神戸 の海運事業家として知られた内田信也 が家族(母、兄)と共に乗車しており、内田と母は重傷、内田の兄は即死した。原因は駅員の不注意によるもので単行機関車を下り線に入れ替えることを忘れそのまま放置したことによる[49] 。
久大線機関車ボイラー破損事故
1930年 (昭和5年)4月6日
久大本線 (当時の路線名は大湯線)鬼瀬駅 - 小野屋駅 間を走行中の豊後森 行き下り第5列車を後進牽引(ボイラー側を客車に向けて牽引)していた機関車(8550形 8610)のボイラーが破裂。煙室扉が開き、熱水(飽和蒸気 または水性ガス の説あり)が機関車直後に連結されていた客車内に吹き込んだ。ボイラーへの給水が不十分であったことに加え、後進牽引で上り勾配に入ったために火室 の天井部に水のない部分が生じて一部が空焚き状態となり、温度上昇により火室の天井板が外れて高圧水蒸気が噴出したことが事故の原因であるとされた。機関車直後の客車に乗り込んでいた乗客24名が重度のやけどを負い、即死した者はいなかったものの最終的に22名が死亡した。運転士と機関助士はやけどを負ったものの生存し、刑事裁判で運転士は禁錮2か月、機関助士は禁錮3か月の判決を下されている。この事故を機に、後進牽引を極力抑えるため、終点駅への転車台 設置が進められた。
山陽線急行列車脱線転落事故
事故現場
1931年 (昭和6年)1月12日
3時57分、山陽本線 河内駅 を通過中の上り急行列車(13両編成)が分岐器で脱線。機関車(C53 24 )が横転して後位の客車5両が駅前方の椋梨川鉄橋から川に転落し、7名が死亡、179名が重軽傷を負った[注 6] 。横転して鉄橋を塞いでいた機関車は川に突き落として撤去された[89] 。
分岐器通過の際の速度超過が原因とされ[90] 、速度制限標の設置が進められた。前年に発生した東海道線石山駅急行列車脱線転覆事故 とは駅の前か後かの違いで状況が類似している。
なお、事故の原因については分岐器の設置ミスとの説もある。
京都駅東列車衝突事故
1932年(昭和7年)12月19日
8時ごろ、東海道本線京都駅の東側で、濃霧の中信号待ちで第981貨物列車に、神戸行き第17急行列車が追突した。その後、京都発鳥羽行き第440快速参宮列車が脱線した列車に衝突し、二重事故となった。追突された貨物列車の車掌が死亡したほか、乗客の軽傷者1名[92] 。
磐越東線列車脱線転覆事故
1935年 (昭和10年)10月27日
磐越東線 川前駅 - 小川郷駅 間の乗鞍トンネル出口付近で土砂崩壊が発生。そこに通りかかった上り混合列車 が土砂に乗り上げて脱線 転覆、機関車と客車は斜面を下り夏井川 まで転落した。2両目の二・三等合造車と3両目の三等車は粉砕されて乗客は豪雨により増水した川に流され死者11人以上、重軽傷者50人以上[99] 。
東武鉄道新栃木駅構内正面衝突事故
1936年 (昭和11年)9月15日
東武鉄道 新栃木駅 構内で、日光 発浅草雷門 行きの電車(二両編成)と浅草雷門発鹿沼 行の貨物列車 (十一両編成)が正面衝突。機関車が電車を半分ほどまで押し入るように潰したため、運転手・乗客など6人が死亡、5人が重傷を負った[100] 。当初、会社側は運転手の信号無視と断定したが、栃木警察署の捜査の結果、新栃木駅側が隣駅を発車した電車の存在を確認せずに、貨物列車を発車させていたことが判明。後日、駅長と信号手が業務上過失致死罪の容疑で送検された[101] 。
高崎線列車バス衝突事故
1936年(昭和11年)10月20日 17時20分頃
高崎線 加茂宮信号場 (現:宮原駅)- 大宮駅 間の川越街道踏切において、踏切東方より進入した西武鉄道バス と上り臨時貨物第3002列車が衝突。列車側には人的被害はなかったが、バスの乗客1名が死亡、乗客6名と運転手、助手の計8名が重軽傷を負った。
川越街道踏切では大宮駅北部信号所の信号掛からの口頭もしくは電鈴による列車接近通知を受けて踏切遮断機の操作を行うこととなっていた。第3002列車は川越街道踏切を17時27分に通過する予定であったが、始発の吹上駅 を4分早発し、道中でも更に早め加茂宮信号場を約6分早通した。加茂宮信号場は17時14分に大宮駅信号掛に第3002列車が定刻より約6分早く通過した旨の通知を行ったが信号掛は川越街道踏切の踏切警手に対し列車接近の合図を為さず、また踏切警手も17時19分通過の総武鉄道線 (現:東武野田線)上り列車の通過後遮断機を操作する際接近列車の目視確認を怠ったため、定刻よりも6 - 7分早く接近している第3002列車に気付かないまま漫然と遮断機を上げてしまい、そこへ通り掛かった西武鉄道バスに第3002列車が衝突した形となった。
信号掛及び踏切警手は殺人予備罪に問われ、1936年12月23日に信号掛は170円、踏切警手は150円の罰金の判決が下された。
山陽本線特別急行列車追突事故
展望車に機関車がめり込んでいる
1937年 (昭和12年)7月29日
山陽本線 岡山駅 構内で4分遅れで発車しようとしていた下り特別急行1列車「富士 」号(C53形 62号機牽引、客車11両編成)に後続の臨時普通1101列車(C51形 77号機牽引、客車8両編成)が追突し、臨時普通列車の機関車が特急富士の一等展望車 の展望室内に突っ込み大破、普通列車の先頭木造客車も機関車炭水車に突っ込み大破し双方の列車の乗客6名が死亡(うち3名は救助後死亡)、乗客・乗務員64名が負傷した。原因は岡山駅信号所係員の信号取り扱いのミス[103] 。事故後、特急富士側に負傷者はいなかったため、大破した展望車を切り離して運転は続行された[104] 。
南海電鉄高野線電車脱線転覆事故
1937年(昭和12年)3月17日
南海高野線 極楽橋駅 を出発した難波 行2両編成の電車のブレーキが効かなくなり、下り勾配1/20の区間を暴走。次の紀伊神谷駅 駅員が転轍機 を操作して故意に電車を脱線、停止させたものの乗客2人が死亡、12人重軽傷の被害を出した。駅員が電車を脱線させなかった場合、電車は谷に転落してさらに多数の被害が出たと推測されている。電車のブレーキは3系統(電気ブレーキ 、エアブレーキ、ハンドブレーキ)備わっていたが、いずれも効かない状態であった[105] 。
鹿児島線列車火災事故
1937年(昭和12年)12月27日 (列車火災事故 )
鹿児島本線 小倉駅 - 上戸畑信号場(現・九州工大前駅 付近)間を走行していた上り12列車(7両編成)の4号車車内で爆発音が聞こえ、火炎が上がったため車掌弁で急停車。火災は火元前後の客車に類焼し9名が死亡、36名が負傷した。乗客が玩具製造のセルロイド 管の束を客車に持ち込み、下車の際に網棚から降ろしたとき、自身のくわえタバコの火がセルロイド管に引火したのが原因[106] 。この事故で全焼した客車3両(ナハ22985・23049、ナハフ25029)は小倉工場で1940年 7月に復旧する際、試験的に鋼体化改造が行われ、オハ31980形・オハフ34180形 となった。
山陽線列車脱線転覆事故
1938年 (昭和13年)6月15日
3時56分頃、山陽本線 熊山駅 - 和気駅 間を走行していた下関発京都行きの上り110列車(13両編成)が走行中、築堤が崩壊し機関車と前4両が脱線転覆。その直後に走行してきた京都発宇野行きの下り801列車が下り線を塞いでいた110列車の5両目の側面に衝突した。この事故で25名が死亡し、108名が負傷した。
110列車の機関車乗務員2名が殉職したほか、機関車の次位に増結されていた木造車両が粉砕し、多くの死傷者が出た。この増結車両には宮島 への修学旅行 に行った帰りだった和歌山県 橋本高等小学校 の生徒一行が乗車しており、多くの生徒が犠牲になった。また引率していた教員3名全員が殉職したが、瀕死の状態でありながら、自分の身よりも生徒たちの安否を尋ねていたという最期の様子が世間の同情を集めたという。
事故原因については、急曲線改良工事のために新たに盛土した築堤が、梅雨による長雨のために伏流水が増大し、C53形蒸気機関車 の重量に耐えきれなくなり崩壊したというものだった。そのため設計ミスで水抜きが充分ではなく盛土工事の施工不良が原因とされた。事故原因は天災よりも人為的ミスの割合が高かったとされた。
魚梁瀬森林鉄道車両転落事故
1939年 (昭和14年)6月4日
高知県 にあった魚梁瀬森林鉄道 で、山火事消火のために村民ら80名を乗せた列車が、北川村 釈迦地区のカーブで機関車と客車の連結器が破断。村人を振り落としながら客車は谷底に転落[108] 。14名が死亡した。原因は通常運行の2倍以上とも言われている機関車の過速度運転にあったとされている。
日光軌道線転落事故
1939年 (昭和14年)10月12日
栃木県 日光町の日光軌道線 で、古河精銅所前を出発した二両編成の電車が荒沢橋のカーブを曲がり切れずに脱線、約2丈余りの崖下に落下した[109] 。死者17人、重軽傷者97人。原因はスピードの超過で、1919年にも死傷者を出す事故が発生していた現場であった。電車の運転手は事故後、現場から失踪したが翌日までに日光警察署 に身柄を確保された[110] 。
中勢鉄道青谷車両脱線事故
1939年(昭和14年)11月1日 [ 要出典 ]
中勢鉄道 のガソリンカー が、津市の青谷でカーブを曲がりきれず脱線。当日は興亜奉公日 であり車内は女学校の生徒で満員であったため女子生徒2名が死亡、50名が重軽傷。
この事故で運行会社は安全面を問われ、並行路線である参宮急行電鉄(現・近鉄名古屋線 )の開通によって衰退していたうえに、さらなるダメージとなり、まもなく廃止に追い込まれた。
運転手は汽車電車転覆罪 で起訴されたが、被告人 弁護人 が刑法 125条の「鉄道又ハ其標識ヲ損壊シ又ハ其他ノ方法ヲ以テ汽車又ハ電車ノ往来ノ危険ヲ生セシメタル者ハ二年以上ノ有期懲役ニ処ス(平成7年改正前の文語体による条文。ただし改正された刑法125条の主旨は同じ)」が言うところの「汽車又ハ電車」には、ガソリンカーは含まれないと裁判で主張した。それに対し裁判所は「汽車又ハ電車」という文言自体にとらわれず、立法趣旨に鑑みて本質的にガソリンカーも汽車に含まれると判断し、有罪判決を下した(大審院 、昭和15年8月22日判決)。そのため刑法学ではこの事故の裁判は、法律学上罪刑法定主義 で禁じられている類推解釈 の例外である、論理解釈かつ拡張解釈の一例とされている。
武藏野鉄道線列車正面衝突事故
1940年 (昭和15年)1月2日
14時20分頃、武蔵野鉄道武蔵野線(現・西武池袋線 )秋津駅 - 所沢駅 間で、下り電車と上り貨物電車が見通しの悪い急カーブ地点で正面衝突。相互は60km/hほどで走行しており、衝突の衝撃により貨物電車の機関車(出典ママ)は電車の前部を粉砕、後部車両は激突の反動で200mほど逆行してようやく停止。貨車4両も破壊された。死者11人、重傷者7人、軽傷者62人。乗客の中に所沢警察署 の署長が乗車しており、直ちに招集が掛けられ救助活動が行われた。事故原因は貨物電車が単線区間にも関わらず、タブレット を持たずに勝手な判断で出発していたことが明らかにされている[111] 。また、後日、検事による尋問で、貨物電車の乗務員3人が飯能駅を出発後、各駅で停車をするごとに正月の祝杯を呷り、所沢に着く頃には相当酔っていたことも判明した[112] 。その後、武蔵野鉄道は所沢駅の駅員がタブレットを渡すことを忘れていたことも事故の原因の一つであり、責任は両社で折半して負担すべきであるとして所沢駅を管理していた旧西武鉄道(現・西武新宿線 )に損害賠償訴訟を行った[113] 。こうした流れからライバルである旧西武鉄道の所沢駅職員が意図的に信号を操作し、武蔵野鉄道の運行を妨害したのではという憶測が流れたと言う。所沢駅では以前から乗客の取り合いで両社の駅員が殴り合いのけんかをしたこともあったほどで、この事故と訴訟を契機に堤康次郎 による武蔵野鉄道と旧西武鉄道の合併(現・西武鉄道 )への流れとなった。
米坂線雪崩直撃事故
1940年(昭和15年)3月5日 8時45分
米坂線 玉川口駅 (小国駅 - 越後金丸駅 間、1995年 に廃止)の小国駅側にある荒川橋梁が雪崩の直撃を受けて崩壊した。その直後に米沢 発坂町 行きの下り103混合列車(蒸気機関車48639(8620形)牽引・客車3両・貨車2両)がさしかかり、最後尾の客車1両以外は崩壊した橋梁から下を流れる荒川に転落した。乗客・職員(鉄道郵便職員も含む)11名が死亡、負傷者30名(慰霊碑の記録)を出した。雪崩対策が不充分であった可能性が指摘されている。
東海道線塚本駅列車衝突事故
1940年(昭和15年)3月26日[116]
東海道本線 塚本駅 構内で、北方貨物線 経由で進行してきたD50形269号蒸気機関車 牽引下り貨物283列車が、下り本線への合流地点で信号機を誤認して安全側線へ進入したために脱線転覆した。当該事故で脱線した車両が下り線の内線・外線をふさぎ支障を来したところに、大阪発姫路行き下り・711列車(C51形 259号機牽引・客車6両編成)が衝突。さらに、その現場に京都発神戸行き下り・3201電車(クモハ43028、クロハ59022 )と相次いで衝突する三重衝突事故となり、3人が死亡した。
夜が更けた時間帯で発生した事故であったため、衝突した列車の乗客が少なく、犠牲者が少なかった。奇しくもこの事故から21年後に発生した三河島事故 とほぼ類似パターンの事故であった[117] 。衝突の原因は最初に脱線した貨物列車乗務員の信号誤認と見られている[118] 。
被災した電車は国鉄63系電車 の先行改造車として、1943年 に原型の2扉クロスシートから4扉ロングシートに改造されて復旧している[119] 。
東京市電春日町交差点衝突事故
1940年(昭和15年)7月11日 9時28分[120]
下谷御徒町でブレーキ故障を起こし、大塚車庫へ引き返す途中だった回送車(木造ボギー車)が東京市小石川区春日町(現在の文京区 本郷 )交差点手前の下富坂を走行中にブレーキが効かなくなり、暴走状態に陥る。
車両は同交差点を上富坂町から水道橋方面へ向けて走行中の大塚駅発東京駅行きの電車(中型半鋼製電車)の側面中央部に衝突し、東京駅行き電車は後部台車が外れた状態で交差点内で横転。回送車は衝突の衝撃で前部運転台が跡形も無く大破し脱線。10mあまり横滑りして停止した。[120]
東京駅行き電車の乗客23名が重軽傷を負い、投げ出された回送車の46歳の運転手は間もなく死亡した。[120]
山陽線網干駅列車衝突事故
1941年(昭和16年)9月16日 18時8分
山陽本線 網干駅 構内で、下関発東京行き上り急行8列車(C53形 77号機牽引、客車11両編成)が駅場内信号機 の停止信号を冒進 して駅構内に進入し、停車中の下関発京都行き普通116列車(C57形 128号機牽引、客車9両編成)に追突。双方の列車各3両が大破、85名が死亡、71名が負傷した。
急行列車の機関車は快速列車の後部から荷物車を粉砕、次の二等客車(スロ30755)の上にのしかかり、のしかかられた二等客車はさらに前の三等客車の車体を左右に広げるように押し入った。このため三両合わせて約60mの長さの客車長が、わずか27-28mほどになった。また、急行の機関車は3両の荷物車、客車を押しつぶした勢いで脱線、ホームに飛び上がり、さらに前方の客車も壊したため負傷者を増やした[122] [123] 。
当時は橙信号など中間現示には速度制限がなかったので、橙信号下で減速せず走行したことから次閉塞区間の停止信号で停車できずに事故を招いたとされた。
この事故を機に中間現示制限が試行され、それがダイヤ維持に悪影響のないことも分かり、橙信号下では30km/h 制限などの変遷を経て45km/h以下(改良線55km/h以下)に落とす規定となった。
また、塚本駅事故とも合わせて、東海道・山陽・鹿児島線に連続コード速度照査式ATS 設置工事を開始したが、受信機が運用直前に爆撃を受けて使えなくなり頓挫、戦後は連合国軍に工事再開を拒否されそのままとなった[124] 。
豊肥線列車脱線転落事故
1941年(昭和16年)10月1日
10時43分、大分 発熊本 行きの510列車(8620形 蒸気機関車牽引4両編成)が豊肥本線 竹中駅 - 中判田駅 を走行中、立小野川にかかる河原内鉄橋で機関車と客車4両すべてが脱線。客車の1-3両目が立小野川に転落した。玉来駅付近の崖崩れ復旧工事応援のために乗車していた大分保線区の工手、大分県立三重農学校 、同県立三重女学校 の生徒など200人が川に投げ出されて[126] [127] 44名が死亡、72名が負傷した。脱線の原因は大雨のため、鉄橋北側の堤防の一角がえぐられており、地盤が緩んでいたものと見られた。なお、のちに大分鉄道管理局局長になった人物も、この列車に乗り合わせ軽傷を負った。
東北本線川口駅列車追突事故
1942年 (昭和17年)2月28日[128] 。
川口駅 に停車していた長野行きの旅客列車に大宮行きの省電(現在の京浜東北線)が追突。旅客列車の後部の荷物郵便合造車と三等車が大破して6人が死亡、11人が重軽傷。旅客列車側は木造車であったためダメージが大きかったが、省電側は車体が車両から浮上がった程度で一人の死傷者も出なかった。事故当時の現場は濃霧で視界が悪かった。
常磐線土浦駅列車衝突事故
事故直後の現場の様子
1943年 (昭和18年)10月26日
常磐線 土浦駅 構内で、入換中の貨車が上り本線に進入し、同駅を通過した上り貨物列車と衝突。貨物列車は脱線して下り本線を支障し、下り普通列車と衝突した。普通列車の客車4両が脱線転覆、そのうち1両が桜川 へ水没し、最終的に110名が死亡、107名が負傷した。
なお、歌手 の坂本九 が幼少時代、母親と疎開のためにこの事故の巻き添えになった客第241列車に乗車して笠間に向かっていた。同事故で川に転落して多数の犠牲者を出した車両に当初は乗り合わせていたが、事故発生直前に別の車両に移っていたために難を逃れている[注 7] (後に日本航空123便墜落事故 に遭遇して命を落としている)。
山田線列車転落事故
1944年 (昭和19年)3月12日[130]
8時7分ごろ、山田線 の平津戸 - 川内 間を走行していた盛岡発・釜石行下り貨物465列車(宮古機関区所属C58形283号蒸気機関車 牽引、現車13両、換算14.8両、重量148トン)が、雪崩で崩壊した鉄橋 に突っ込み谷底へ転落、機関士が死亡し機関助士が負傷した。
当該列車は大雪の影響により、平津戸駅に定刻より2時間遅れの3月12日 0時20分に到着した。先行する宮古行下り旅客15列車が豪雪により川内駅で立ち往生したため足止めとなり、7時56分に平津戸駅を発車したが、第二小滝トンネルを出た直後に小雪崩が機関車を直撃し、運転台前面窓を突き抜けて、雪が運転台になだれ込み、乗務員が身動きを取りにくい状況と吹雪で視界を奪われた状態で崩落した鉄橋に突っ込んだと思われる。
機関士が瀕死の重傷を負いながらも事故拡大防止のため、機関助士に緊急連絡を指示し息絶えた美談について、東映 が大川博 社長の企画で三國連太郎 の主演により『大いなる旅路 』(1960年 )という題名で映画化され世に広く知られることとなった。また、現場付近には慰霊碑が建てられている。
当時の山田線は、戦争による海上輸送が困難となった釜石製鉄所への軍需物資である鉄鉱石・石炭および鉄鋼輸送のため、昼夜関係なく24時間体制で重量物を運ぶ貨物列車がダイヤの限界まで設定されていたが、当日の荒天による大雪のため、山田線の各列車に大幅な遅れが生じていた。
C58形283号蒸気機関車 は、事故後しばらく経ってから現場から引き上げ、修理後に運用復帰し、1970年 (昭和45年)2月 に山田線の無煙化により、蒸気機関車お別れ列車を牽引している。
明石駅構内列車脱線転覆事故
1944年(昭和19年)6月22日
8時26分ごろ、山陽本線 明石駅 構内に進入しようとしていた上り急行2列車(蒸気機関車C59形 60号機牽引、客車14両編成)が脱線。牽引機関車および次位の客車5両が転覆大破し死者32名、負傷36名の惨事となった。原因は何者かによる軌道上への置石 [131] 。
山中渓駅構内電車衝突事故
1944年(昭和19年)6月27日
阪和線 山中渓駅 - 紀伊駅 の上り勾配で下り5125電車(2両編成)が減速して自然に停止。運転士が原因を調べている最中に逆走し始め、空気ブレーキが使用不能のため手ブレーキで減速に努めたものの、山中渓駅に停車していた後続の5517電車(2両編成)に衝突した。4名が死亡、128名が負傷した。
原因は先行電車運転士が床下の空気管のコックの取り扱いを誤ったことで空気ブレーキが使用不能になったこと、また転動防止処置が不十分で逆走したことである[131] 。
高野山電気鉄道電車脱線転覆事故
1944年(昭和19年)9月3日[132]
高野山電気鉄道 (現・南海電鉄 高野線 )紀伊細川駅 - 上古沢駅 の登り勾配を走行していた下り極楽橋 行き電車(2両編成)が、床下より出火し急停車した。点検していたところ停止ブレーキのかけ方に不備があったため、50‰ の急勾配を電車は逆走し曲線区間で脱線転覆した。71名が死亡、138名が負傷した。
なお、事故の引き金になった出火原因であるが、戦中戦後の戦時強制合併とその解消など鉄道会社の変遷の激しかった時期ということもあり、記録が残っておらず不明である。
山陽線列車追突事故
1944年(昭和19年)11月19日
山陽本線 上郡駅 - 三石駅 を走行していた下り233旅客列車(C57形 45号機牽引、客車11両編成)が閉塞信号の停止現示で停止していたところ、1時56分に後続の下り345貨物列車(D52形 蒸気機関車牽引)が追突し、追突した機関車と貨車56両中4両と、旅客列車11両中5両が脱線し大破した。38名が死亡、59名が負傷した。
事故は、後続の貨物列車の乗務員が居眠りし、信号冒進 したためだった。なお後続列車の乗務員は生存していたが、自責の念からのちに蒸気機関車の火室で焼身自殺した[133] 。
沖縄県営鉄道輸送弾薬爆発事故
1944年(昭和19年)12月11日
沖縄県営鉄道 糸満線 において兵員と弾薬を輸送していた列車が爆発事故を起こし、乗務員や兵士、同乗していた旅客など約220人が犠牲となった。
高山線列車脱線転落事故
1945年 (昭和20年)1月10日
高山線 焼石駅 - 下呂駅 間(当時、福来信号場 は未設置)にある益田川第三鉄橋に9時半頃差し掛かった下り303列車(C58 牽引 6両編成)が突如、2、3両目が脱線し益田川へ転落した。2両目は回転しながら転落、石礫に激突、車輪を上に仰向けとなり大破し、3両目は前部は河原に転落し激突したが後部は国道41号線の法面にななめにもたれかかるようにして大破した。4両目は脱線したものの転落を免れ鉄橋上で停止、5、6両目は早くに連結器が外れたのか、鉄橋手前で停止した。(牽引機関車、1両目については明記なし)死者45名、負傷者57名(情報によっては前後する)[134]
乗客には、当時の中原村 村長、農業会組合長兼助役、農業会副組合長、農業会専務理事など公務に関わる人物が多く、それぞれの会席に出席するための出張中であったという。転落した車両には18名公務関係が乗っていたがそのうち11人が犠牲となった。
事故原因は当時の名古屋鉄道管理局によって調査され、『落石』と発表されたが後日訂正し、『調査中』とされ不明になった。乗客の証言によれば、落石に乗り上げ脱線し、事故後線路の上にバレーボール程度の大きさの石が2つに割れていたというが、その石は国鉄関係者が持ち去ってしまったという。[134]
富山地方鉄道線列車正面衝突事故
1945年(昭和20年)5月17日
富山地方鉄道 本線越中三郷駅 - 東新庄駅 間で、下り電車と上り電車が正面衝突し、乗客ら45人が死亡・重傷者85人・軽傷者115人を出した。原因は三郷駅 - 東新庄駅間の信号が故障しており、下り電車が東新庄駅を発車しているにも関わらず、三郷駅の駅員が失念し、上り電車に発車の指示を与えてしまったためといわれている。加えて当日は小雨が降り濃霧がたち込め、現場は見通しの悪い防風林に囲まれた曲線の勾配部分という悪条件が重なり、大惨事となった。
D52形蒸気機関車連続ボイラー爆発事故
1945年(昭和20年)
国鉄D52形蒸気機関車 が戦時中設計だった故、ボイラーの不具合や欠陥が原因の爆発事故が1945年だけで3件発生した。
肥薩線列車退行事故
1945年(昭和20年)8月22日
肥薩線 吉松駅 - 真幸駅 間の山神第二トンネル内において、蒸気機関車(D51形重連)牽引の上り人吉方面行き806列車(客車6両、貨車6両)が、粗悪石炭使用のため出力が不足して勾配を登りきれずに停止。トンネル内に充満した煙に耐えられなくなった復員者などが列車から降りて出口へ向かって歩いていたところへ列車が逆走し始め、多くの乗客が轢死 した。死者53名。
終戦直後の混乱期における、劣悪な輸送状況を象徴する一つの例として挙げられることがある[143] 。
八高線列車正面衝突事故
くじら運動公園に置かれた八高線衝突事故車両の車輪
1945年(昭和20年)8月24日 7時40分頃
八高線 小宮駅 - 拝島駅 間の多摩川橋梁 中央部において上り6列車(8850形 8869号機牽引、客車5両編成)と下り3列車(8850形 8853号機牽引、客車5両編成)が正面衝突した。
下り列車の機関車が上り列車に乗り上げ、一両目の客車までを踏み潰す格好となった。下敷きとなった車両には生存者が残されていたが、橋梁上の事故のため救助作業は難航し、手が出せないまま翌26日には救助を求める声も途絶えた。また、多数の乗客が川に投げ出されたこともあり、少なくとも乗員・乗客105名の死亡、67名の重軽傷者が確認された[144] 。終戦直後の混乱期 のため、列車は通勤通学客に復員兵 や疎開 先からの帰宅者も加えて満員で、その多数の乗客が衝突により多摩川 の濁流に流された。当日は激しい雷雨により多摩川が川幅いっぱいに増水 していたこともあり、遺体 が海まで流されて確認されなかった死者も相当数いるのではないかと言われている。
原因は、小宮駅 - 拝島駅間での列車の運転の連絡不備による人為的 なものとされている。当日は朝から暴風雨 で、さらに信号機 故障、激しい風雨が原因とみられる通信 途絶が重なり、駅間の連絡が取れないためダイヤ が大幅に乱れていた。小宮駅では通信途絶で通票閉塞 が使用できなかったため、代用閉塞の一つである指導式により列車を運転することとし、上り列車の指導員となる駅務員 を徒歩で拝島駅へ向かわせた。
ところがその後、八王子から小宮に下り回送 機関車が到着し、さらに下り旅客列車が続行するとみられたことから、小宮駅長は下り旅客列車を先行させることとし、その旨の連絡を携えた別の駅務員を機関車に乗り込ませて拝島駅に派遣した。機関車は途中で先に出発した駅務員を拾い上げ拝島駅に到着したが、拝島駅は第1の駅務員の連絡を正とし、それと矛盾する第2の連絡は列車番号の誤記だと解釈した。結果として拝島駅では最初の連絡に従い上り列車を小宮駅に向け発車させ、小宮駅では変更した運転順序の連絡ができていると思い込み、下り列車を拝島駅に向け発車させた。本来、指導式は、閉塞区間両端駅の駅長が相互に連絡を取り、閉塞区間内に列車がないことを確認した上でタブレット(もしくはスタフ)の代替となるただ1人の指導員を列車に添乗させて運行する方式である。つまり、その区間で一人だけ選任される指導員の乗った列車のみがその閉塞区間内を運行可能となるが、このときは原則に反した取り扱いがなされるとともに、双方の駅長による連絡が不十分で、両者の思い込み が食い違ったために正面衝突事故を引き起こした。
2001年に当時の車両の車輪 とされる物が川の中州から引き上げられ、2004年に左岸の河原の公園脇に設置された。由来が当事故以外には考えられないため、当事故の遺物 と認知されている。
神戸有馬電気鉄道電車脱線転覆事故
1945年(昭和20年)11月18日[148]
神戸有馬電気鉄道(現・神戸電鉄 )有馬線 鷹取道駅(現・丸山駅 ) - 長田駅 間を走行中の神戸行き上り電車(2両編成)が33‰ の下り勾配でブレーキ制御が不能になり、長田付近の曲線で脱線転覆した[148] 。死者48名、負傷者180名[148] 。
事故原因として電車運転士の制御ミスとされているが、終戦直後のため電車の整備状態も悪かったことも背景にあるとされる[143] 。
東海道本線山科駅列車衝突事故
1945年(昭和20年)11月19日
0時23分、東海道本線 山科駅 構内で列車が衝突した。死者7名、重傷者10名、軽傷者30余人[149] 。
津山線列車脱線事故
1945年(昭和20年)11月27日
津山線 建部駅 - 金川駅 間を走行中の上り第611客車列車で、2両目の車軸が破損、脱線した。死者4名、重傷者9名、軽傷者100余名[149] 。
東武日光線衝突事故
1946年(昭和21年)1月21日[ 要出典 ]
栃木県 上都賀郡 落合村 (現・日光市 )にある東武日光線の下小代駅 のポイント部分を7時30分、東武日光発の浅草行の電車が差しかかったところブレーキ故障で減速できず、そのまま高速でポイントに乗り上げて脱線転覆。乗客7名が死亡。東武日光線は現在全線複線だが、戦争に伴う鉄供出のため、事故当時は一部単線だった。
東急小田原線列車脱線転覆事故
1946年(昭和21年)1月28日
当時東京急行電鉄 の路線だった小田原線 大根駅(おおねえき、現・東海大学前駅 )から渋沢駅 までの区間は、上り勾配が延々と続いており、事故の発端はここで発生した。
事故を起こしたのは、東京急行(現・小田急電鉄)新宿駅 を7時50分に発車した小田原 行き2両編成の電車(第294列車)で、この電車が停電のため15分遅れで大秦野駅(現・秦野駅 )を発車したところ、駅から約500mの地点で再び停電し、運転士は制動機をかけて停車したが、まもなく送電。その際、制動機故障により電車がひとりでに逆行し始めたため、運転士と車掌が下車して車体点検を行ったが、電車は徐々に速度を増し、運転士と車掌は取り残されてしまった。逆行した電車の速度は約90km/hにも達し、鶴巻駅(現・鶴巻温泉駅 )の急カーブで小田原側の車両が脱線し、転覆した。死者30人、重軽傷者165人[150] 。
京都市電脱線事故
1946年(昭和21年)2月8日
22時20分ごろ、京都市電 堀川線 の北野発京都駅行き電車が、床下から発煙してブレーキが効かない状態で脱線し、堀川 に転落した。死者18名(うち進駐軍兵2名)、重軽傷者32名(うち進駐軍兵3名)[151] [149] 。
国府津駅構内列車追突事故
1946年(昭和21年)5月8日
2時ごろ、東海道本線国府津駅に24分遅れで到着し、20分延発予定で停車中の1761貨物列車(EF10 5 牽引、現車61両)に、 後続の臨時旅客3801列車(EF57 12 牽引、現車9両)が、機関士および機関助士の居眠りが原因で場内信号の停止を見落とし激突(追突)した。
牽引のEF57形12号機は1761列車の後部貨車に乗り上げ、ついで左側に脱線転覆した。貨物列車の貨車は後部2両と、16両目を粉砕しほか7両が脱線した。この事故で貨物列車の後部車掌が即死し、3801列車の機関士と乗客6名が負傷した。
この事故で大破したEF57 12は修復されず1948年に除籍、事故廃車となった。
この事故の後、連合軍総司令部から特別指示(1.自動閉塞区間での緩急車の連結および車掌の乗務の省略の禁止、2.信号注視は機関士のみならず機関助士にも義務づけ、信号確認時には機関士、機関助士は信号の現示状態を喚呼応答すること、3.列車防護をブレーキ距離によって3種類に区別、4.列車監視は乗務員のみならず駅職員も行うこと)が出ている[143] 。
東海道本線二宮駅列車衝突事故
1946年(昭和21年)6月18日
23時53分、東海道本線二宮駅 で名古屋行きの旅客列車と後続の久里浜発広島行き復員列車が衝突した。死者7名、重傷者21名、軽傷者16名[152] 。
中央線乗客転落事故
1946年(昭和21年)6月4日
中央本線 大久保駅 - 東中野駅 間で、東京行き上り800B電車(6両編成)の4両目の中央扉が満員の乗客の圧力により外れたため、乗客3名が車外に投げ出され神田川 に転落して死亡した。
応急対策として扉に外れ止めが取りつけられ、恒久策としては鋼製扉への取り替えが進められた。しかし皮肉にも、外れない鋼製扉が桜木町事故 での被害増大を招くこととなる[153] 。
東海道本線山科駅構内列車脱線転覆事故
1946年(昭和21年)6月12日[ 要出典 ]
1946年6月12日13時52分ごろ、東海道本線 山科駅 構内において蒸気機関車牽引138列車(C59 59 牽引、現車10輌換算45.5輌)が京都駅16分延発・山科駅20分延着予定で進入の際、構内第20号転轍機 付近にトロリー 列車の車輪 が置かれていたため、これに接触し牽引機関車が脱線転覆したほか、次位に連結されていた客車2両も脱線する事故となった。死者2名、負傷4名。
トロリー列車車輪が放置されていた理由は不明であるが、何者かによる妨害によるものと見られている。
京阪本線列車追突事故
1946年(昭和22年)6月29日
京阪神急行電鉄(現京阪電気鉄道 )京阪本線 の天満橋発守口行き列車が故障のため関目駅 付近に停車中、後続の天満橋発京都行き列車が追突した。重傷者4名、軽傷者26名[152] 。
東海道本線列車衝突事故
1946年(昭和21年)7月26日
5時45分、東海道本線能登川駅 - 安土駅 に停車中の東京発門司行き急行第5列車に新鶴見発吹田行き179貨物列車が追突した。旅客15名が死亡、50余名が重軽傷を負った[152] 。
尾道鉄道電車脱線転覆事故
1946年(昭和21年)8月13日
尾道鉄道 (1964年 に全線廃止)の尾道駅 発市 行電車(尾道鉄道デキ1)が、途中駅である石畦(いしぐろ)駅 を13時ごろに発車し尾道鉄道第五トンネルの登り急勾配にさしかかった際に、突如集電ポールが外れ停止、やがて猛烈な速度で退行し始め1kmほど逆走し急カーブで脱線、山腹に衝突し大破した。「カーブに差しかかり電車の屋根が電柱に衝突、屋根と車体が真っ二つになったうえ、車両は川下へ転落」という証言もある。車両長約10mの単行車両に約150名の乗客という超満員状態だったこともあり、死者37名および負傷者100名以上[注 8] を出すという惨事となった。
当時の新聞発表によると、事故原因は運転士の経験が浅く適切な対処ができなかったこと、およびブレーキの不具合を原因に挙げている。この事故を受け、尾道鉄道は車両の集電装置 をトロリーポールからビューゲルを経てパンタグラフへと変更した。
篠ノ井線冠着トンネル窒息事故
1946年(昭和21年)9月6日
14時49分、篠ノ井線 長野発名古屋行き822列車が冠着トンネル 内で空転して立ち往生し、旅客5名、乗務員3名が昏倒した[152] 。
山陽本線乗客転落事故
1946年(昭和21年)9月21日
7時5分、山陽本線 加古川駅 - 土山駅 間で、下り大阪発上郡行き321列車と上り姫路発大阪行き936列車がすれ違った際、下り列車のドアが外れて上り列車のデッキにぶら下がっていた乗客がはね飛ばされた。死者2名、重傷者3名、軽傷者2名[152] 。
富山地方鉄道上滝線電車三重衝突事故
1946年(昭和21年)9月29日
富山地方鉄道 岩峅寺駅 にて、富山 行きの電車が後部車両の解結を行い出発。解結された電車は、いったん別編成に連結したものの、連結が外れ駅構内の下り勾配に沿って上滝線 を暴走。暴走車両は、老朽化した代用車でありブレーキが効かなかった。上滝公園下駅員らの機転により、上滝駅 - 上滝公園下駅(現・大川寺駅 )にて、先行する富山行き電車を徐行させ暴走する車両を受け止めて停止させることに成功させたが、その直後、岩峅寺駅から暴走車両を追いかけてきた電車が編成に衝突。結果的に三重衝突事故となった。死者1名、重傷者6名、軽傷者68名。
事故原因は、連結の不備、車両の老朽化、救援側電車の暴走などとしている。
東海道本線乗客転落事故
1946年(昭和21年)10月7日
7時50分、東海道本線草津駅 - 守山駅 で下関発品川行き8032列車と米原発京都行き929列車がすれ違った際、超満員のためそれぞれの列車のデッキにぶら下がっていた乗客同士が衝突し転落した。死者5名、重傷者2名[152] 。
上越線下牧信号場列車衝突脱線事故
1946年 (昭和21年) 11月3日
1946年(昭和21年)11月3日 13:21頃、上越線 下牧信号場にて、優等列車(現車10輌)が進入した際に、本来なら通過定位であるが、当日は駐留軍専用列車との行き違いのため臨時停車すべき所を失念し停止信号を冒進。安全側線に突入し牽引機および客車2両が脱線の上築堤から転落する事故発生。後方の客車2両も脱線傾斜、死者7人(キャブ添乗中の駐留軍兵士2含む)・負傷33人。当時はキャブに駐留軍兵士が無理やり乗り込み列車を運転する事件が再三にわたり発生していた。
山陽本線船坂山トンネル窒息事故
1946年 (昭和21年) 11月9日
20時16分、山陽本線門司発東京行き急行8列車が、兵庫県と岡山県の県境に位置する船坂山トンネル内で炭質不良により約1時間立ち往生し、機関士4名と乗客60名が昏倒した[152] 。
信越本線列車脱線転覆事故
1946年(昭和21年)12月19日
4時頃、信越本線田口駅(現:妙高高原駅 ) - 関山駅 間の白田切川 が増水して道床が流出。そこに上野発金沢行きの夜行列車(機関車2両、客車4両編成)がさしかかり脱線転覆。機関士など乗員4人を含む13人が死亡、80人が重軽傷[156] 。
京阪神急行宝塚線列車追突事故
1947年(昭和22年)1月30日 18時50分
京阪神急行電鉄(現阪急電鉄)宝塚線の三国駅 で、梅田発池田行き列車が停車しているところに後続の梅田発宝塚行き列車が衝突した。重軽傷者約100名[152] 。
阪和線少年圧死事故
1947年(昭和22年)2月4日 8時頃
阪和線 東和歌山 (現和歌山)発天王寺 行き列車内で、乗客の13~14歳の少年が超満員のため押しつぶされて死亡した[152] 。
八高線列車脱線転覆事故
八高線事故慰霊碑(2010年撮影)
1947年 (昭和22年)2月25日 7時50分
八高線 東飯能駅 - 高麗川駅 間の20‰ 下り勾配で、超満員(屋根の上に乗客を乗せざるを得ないという異常ともいえる運転状態が常態化していた)の乗客を乗せた八王子発高崎行き(C57形 79号機牽引、客車 5両編成)の下り普通3列車が、過速度により半径250mの曲線を曲がりきれずに後部4両が脱線し、築堤上から5.6m下の畑に転落。客車の木造車体が大破し、184名が死亡し495名が負傷するという大事故となった。
死傷者の大部分は食料買出し目的の乗客だった。列車は超満員の乗客によって加重されたことにより、下り勾配で十分なブレーキが効かず、車両は事故の直前、左右に激しく揺れていた。
184名という死者は1940年 (昭和15年)1月に発生した西成線列車脱線火災事故 に次ぐものであり、負傷者と合わせた被害者数では当時最悪の鉄道事故だった。
この事故で、事故車両が木造客車だったために被害が拡大したことからその脆弱性が問題視され、木造車の淘汰が決定したが、鋼製客車の新規製造のみによる置き換えはコスト的に困難だったため、木造客車の台車と台枠を再利用し、その上に鋼製車体を載せる鋼体化改造が実施されることになった[157] 。
室蘭本線列車衝突事故
1947年(昭和22年)3月31日
室蘭本線 静狩駅 - 小幌信号場 間の第二静狩トンネル内において、下り旅客225列車(C51形蒸気機関車 、7両編成)と上り臨時貨物5388列車(D52形蒸気機関車 、46両編成)が正面衝突したもの。死傷者64名。小幌信号場における指示伝達の錯誤、ならびに貨物列車の信号確認不足が主たる原因とされている。
田端駅電車追突事故
1947年(昭和22年)4月24日
8時43分、京浜線(現・京浜東北線 )田端駅 手前で場内信号機の停止現示で停止中の下り桜木町 行き855A電車(6両編成)に、後続の鶴見 行き869A電車(6両編成)が追突。両電車の乗務員4名が死亡、乗客114名が負傷した。
原因はATS がない時代にも関わらず、後続電車運転士の見込み運転とブレーキ操作の遅れであった[158] 。
山陽本線列車脱線事故
1947年(昭和22年)7月1日
山陽本線光駅 - 下松駅 間で早岐 行き臨時8011列車が脱線転覆した。死者15名、重傷者15名、軽傷者37名[159] 。
大阪市営地下鉄脱線事故
1947年(昭和22年)9月13日
大阪市営地下鉄(現大阪メトロ )御堂筋線 天王寺駅 の西側で列車が脱線し、コンクリートの支柱に衝突した。死者1名、重傷者10名、軽傷者56名[159] 。
名鉄瀬戸線脱線転覆事故
1948年 (昭和23年)1月5日
名鉄瀬戸線 の尾張瀬戸 発堀川 (現在は廃止)行き急行電車 が、大森駅(現・大森・金城学院前駅 )東側にある半径160mのカーブに差しかかったところ、後部の車両サ2241形(元佐久鉄道の国家買収気動車)が脱線転覆し大破。そのまま50mほど引きずられ、前方の電動車モ565形も転覆した。この事故により、36人が死亡、153人が負傷するという、瀬戸線史上最悪の事故となった。
近鉄奈良線暴走追突事故
1948年(昭和23年)3月31日
近鉄奈良線 の奈良 発上本町 行き急行電車 (デボ1形 3両編成)が、生駒トンネル を走行中にブレーキ が効かなくなり、トンネル内からの下り坂を加速・暴走、河内花園駅 を発車しかけた前方の普通電車 に70 - 80km/hで追突した。木造車体が大破し、特に1両目は原型さえも留めていないほどであった。この事故により49名が死亡した。
原因は戦中戦後の酷使の結果、老朽状態で放置されていたブレーキホースの破損とされる。
黒沢尻駅列車衝突事故
1948年(昭和23年)7月22日
東北本線 黒沢尻駅(現北上駅 )で、青森発上野行き旅客列車と折返し中の貨物列車が衝突した。死者3名、重傷8名、軽傷13名[160] 。
駿豆鉄道大雄山線脱線事故
1948年(昭和23年)10月7日
駿豆鉄道 大雄山線 の小田原 行き列車が塚原仮停留所に停車しようとしたところ、ブレーキ故障のため20m前方の狩川鉄橋橋脚に衝突し脱線した。重軽傷者53名[163] 。
五条駅貨物列車突入事故
1949年(昭和24年)1月14日
奈良県 宇智郡 五条町(現・五條市 )の省線五条駅 で王寺発五条川端行の貨物列車(16両)の切り替え作業をしていたところ、18時10分ごろに離された貨車2両が引き込み線から暴走し、そのまま駅の待合室に突っ込んだ。この事故により、待合室が倒壊して多数が下敷きとなり、8名が死亡した[163] 。
箱根登山鉄道衝突事故
1949年(昭和24年)2月15日
箱根登山鉄道(現・小田急箱根 )下り電車が湯本山崎坂で上り貨物電車と衝突し脱線転覆した。死者1名、重軽傷者22名[163] 。
石北線奥白滝駅 - 上白滝駅間脱線事故
1949年(昭和24年)5月10日 23時36分
石北線(現:石北本線 )奥白滝駅(現:奥白滝信号場 ) - 上白滝駅 (現在は廃止)間(新旭川駅 起点75.400 km 地点付近)で、雪解け水の地下浸透により、盛土が20 m あまりに渡って決壊した[164] 。そこに、夜間で視界が効かないなか網走発小樽行き上り第502列車が通りかかり、機関車と炭水車が盛土下に脱線転覆、その次位の荷物車が脱線した。乗客約300名に死傷者はなかったが、機関車に乗務していた機関助士と機関士見習いが殉職し、機関士も重傷を負った[164] 。翌1950年(昭和25年)5月10日には、現地の線路脇の敷地内に殉職碑が建立されている[164] 。なお、現場付近の新旭川駅起点75.400 km 地点は、2023年 (令和5年)8月7日 にも盛土崩壊を起こしている(列車を運休させていたため人的被害はなし)[165] 。
阪神電鉄追突事故
1949年(昭和24年)6月20日
阪神電鉄 阪神本線 の梅田行き急行列車が、神崎川鉄橋東側で信号待ちのために停車中のところに後方から別の梅田行き列車が追突した。重傷者17名、軽傷者99名[163] 。
京阪本線火災事故
1949年(昭和24年)9月27日
京阪神急行電鉄京阪本線 の三条発天満橋行き準急電車が、香里園駅 付近でパンタグラフ から発火した。通勤ラッシュのため大混乱に陥り重傷者32名、軽傷者85名[166] 。
阪急今津線暴走事故
阪神久寿川駅でホームに衝突して停車した電車
1949年(昭和24年)12月13日
阪急今津線 の電車(600形 2両編成603・608)が、阪神国道駅 でコンプレッサーの故障によりブレーキが緩まなくなったため修理を行った際、誤ってドレンコックを開きエアーが抜けたためブレーキが緩み、電車は40‰ の下り急勾配を走り出した。運転士と乗客が協力してハンドブレーキを回したが効果はなく、今津駅 の半径60mの急カーブを曲がり、車止め を突破して、当時線路が接続されていた阪神本線 にポイントを粉砕して入り込んだ。運転士は乗客に後ろの車両に移るよう指示し、阪神の方が建築限界 が小さかったため隣の久寿川駅 のホームに衝突してようやく止まった。途中で窓から飛び降りた2名が負傷した。
阪神電車の大阪行き急行が通過直後で、1分後には普通電車が迫っていたため、タイミングがずれていれば近鉄奈良線列車暴走追突事故 のような大惨事になっていた恐れがあった。今津線から920形 2両編成(924、954)が救援に向かい、久寿川駅で事故車両と連結した際の鮮明な写真が残されている。
『朝日新聞 』大阪本社版で「阪急、阪神に"殴り込み"」と報道された[169] [注 10] ため、「殴り込み事件 」という通称がある。事故後、今津駅の連絡線 は車止めを変えたもののレールは接続されたままであった[170] が、後年分断された。
この事故を踏まえて、2014年7月に阪急5100系 が改造を受けるため阪神尼崎駅 まで走行した際に、阪神電鉄が神戸新聞の取材に「(阪急の車両が阪神の線路を)合法的に走るのは初めて」と答えている[171] 。
東北本線追突事故
1949年(昭和24年)12月30日
日光発528列車が蓮田駅 手前で信号待ちのために停車中のところに、福島発大宮操車場行き1172貨物列車が追突した。重傷者3名、軽傷者9名[166] 。
注釈
大森停車場に於ては平均一日の乗降人員凡三百五十人にして列車の同駅に停止する往復併て廿四回なり。茲に本月十二日は池上本門寺会式にて例年乗客多数に付新橋大森間は通常列車の外、別に拾回の臨時列車を運転せしめ猶急行車も大森へ停車せしむるの計画なりし。然るに本年は非常の乗客にて臨時列車予定の外更に二回を増し運転せしが、最後十一時列車に於ても乗余りし人員無慮六七百名も有之、不得止深更なれども同夜十二時四十分新橋より猶一回の臨時列車を為さゝるを不得に至れり。右の如く同駅の発着頻々として其度数都合五拾六回乗降人員総計弐万五千人の多きに及べり。加ふるに同停車場内は素より狭隘なれば殆と立錐の地なく其雑還名伏すべからず。且前陳の如く当日は多数の列車続々運転致候事故同所に於て乗客の出入列車入換等は尤急速に為さゝれば必す発着の時限を誤るの恐あるを以て、係員は皆非常に勉励し就中車長に於ては専ら其措置を誤らざる様注意すると雖とも、奈何せん群集の乗客皆狂顛の有様にて先きを争ひ乗降を競ひ或は酔体のものもありて列車の発着に際しては恰も潮の湧か如く殆と是を制するに術なきの景況に有之候(「工部省記録 鉄道之部」 巻38; 原文カタカナ、旧字体)
1934年(昭和9年)6月1日に大阪駅の東海道本線・城東線ホームは高架化されたが、その時点では西成線は地上に残っていた。
8月27日から28日にかけて北海道に台風が上陸、北海道全域で家屋浸水3,800戸などの被害が出た[29] 。この台風被害による死者は、本件鉄道事故による7名の他、銭函 で家屋流失などによる23名[29] 、釧路 で漁船遭難による14名[29] 、札幌 で豊平川 堤防決壊による死者3名[30] などとなっている。当時は目名駅と上目名駅 間の区間は現在とはルートが異なっており、目名駅の南で目名川を渡らず、国道5号を横切り、目名川右岸を迂回していた[28] 。事故が起きたのは目名川支流の郡界沢川に架けられていた鉄橋である[28] 。なお北海道庁・蘭越町の記録では、この事故による死者7名、負傷者は62名[29] [28] 。上目名駅 の開業は事故の1ヶ月後の9月21日[28] 。
『鉄道省年報 大正9年度』では粟原となっているが粟津の誤記と思われる。
死傷者数は『続・事故の鉄道史』による。『東京朝日新聞』1931年1月13日付夕刊では「肝腎の機関手が絶命して原因取調に支障」とあるが誤報で、実際は重傷を負いながらも生存している。
なお、これがきっかけで笠間稲荷神社 を信仰するようになったとされる。
会社側資料による。当時の新聞発表では死者45名および重軽傷者56名。
この事故で肩を骨折し、入院治療を受けた人物に後の宝塚歌劇団俳優・政治家の扇千景 がいた[162] 。
朝日新聞の記事には"阪急、阪神へ不意打乗入れ"とも書かれている。
出典
「大田区史下巻」 平成8年3月15日大田区発行 大田区史編さん委員会編集 p52
『大阪朝日新聞 』1907年6月2日付「感心なる踏切番」・5日付「興風会と殉職踏切番」
『つひまぶ』vol.16 2020年5月号(大阪市北区役所)
『読売新聞 』2011年6月26日付朝刊「104年前の鉄道員の勇気語る紙芝居 作者の息子がJR西に寄贈へ」
「第四款 鐵道線路上及運轉上ノ事故」『鉄道院年報 明治41年度 国有鉄道之部、私設鉄道之部』鉄道院 、10頁。 (オンライン版 、国立国会図書館デジタルコレクション、2020年12月12日閲覧)10頁本文7-13行目に当該事故記述。9行目に「旅客十三名内一名即死職員七名列車内營業者一名重輕傷ヲ負ヘリ 」とある
「第四款 鐵道事故及船舶事故」『鉄道院年報 大正元年度』鉄道院 、12頁。 (オンライン版 、国立国会図書館デジタルコレクション、2020年12月6日閲覧)12頁11行目に「客車四輛大破シ乗組兵士五名卽死二十名重傷内二名死亡シ三十三名輕傷セリ 」とある
「第四款 鐵道事故」『鉄道院年報 大正2年度』鉄道院、12-13頁。 (オンライン版 - 国立国会図書館デジタルコレクション、2020年12月12日閲覧)13頁6行目に「乗客六名死亡同六十三名及車内行商人二名負傷職員一名死亡二名負傷セリ 」とある
蘭越町史編集委員会・編、『新蘭越町史』、蘭越町 、平成11年(1999年)、pp.35-36「上目名駅設置と線路の変更」
札幌市公式HP、水害・水防、2017年4月18日、Template:YRL 、2024年5月12日閲覧。
草卓人編、『鉄道の記憶』、2006年(平成18年)2月、桂書房
富山市史編修委員会、『富山市史』第二巻、1960年(昭和35年)4月、富山市役所
“列車顚落の原因判明す 急にブレーキをかけて車體大動搖のため”. 東京朝日新聞 . (1922年4月4日)
『大阪朝日新聞』1926年10月15日付朝刊(『鉄道ファン 』2012年11月号に再録)
『新愛知』では駅南五丁、『朝日新聞』では駅南一丁となっているが、当該列車は南西から北東に進む線形であり、状況説明と整合しない。
『新愛知』では西手金(西中金 の誤植か)発、『朝日新聞』では挙母 発
『大阪朝日新聞』1929年4月15日付朝刊1・5面
鉄道ピクトリアル1969年3月号私鉄車両めぐり(78)p.67-74
「京都驛東で濃霧中 貨客車三重衝突」『朝日新聞』1932年12月20日。
『レイル』 No.111「室戸台風による瀬田川橋梁急行転覆事故」(2019年)
『大阪朝日新聞』1934年10月4日朝刊3面「台風に煽られて切実に無電欲 鉄道、警察に必須論 通信統制から逓信省は反対」
有田鉄道でガソリンカーが正面衝突『大阪毎日新聞』昭和10年8月19日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p782 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
タブレット省略が原因、有田鉄道事故『大阪毎日新聞』昭和10年8月20日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p783)
磐越東線で列車が川に転落、五十数人死傷『河北新報』昭和10年10月28日、事故原因は崩落土砂『河北新報』昭和10年10月25日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p656)
東武電車が新栃木駅構内で正面衝突『東京朝日新聞』昭和11年9月16日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p50)
駅の失態から事故、駅長と信号手を送検『東京朝日新聞』昭和11年9月17日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p505)
岡山駅で列車事故、特急「富士」に追突『大阪毎日新聞』昭和12年7月29日(『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p54)
南海電鉄高野線で電車が脱線転覆『大阪毎日新聞』昭和12年3月18日夕刊(『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p799)
森林鉄道の客車が谷に転落『東京朝日新聞』昭和14年6月5日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p152)
断崖から電車転落、百七十人が死傷『東京日日新聞』昭和14年10月13日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p549)
魔のカーブ、二度目の惨事『東京日日新聞』昭和14年10月14日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p550)
年始客乗せた電車が貨物電車と正面衝突『東京日日新聞』昭和15年1月4日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p749)
貨物乗務員ら送検、正月酒で泥酔『東京朝日新聞』昭和15年1月5日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p749)
事故は西部にも責任、と損害賠償請求『東京朝日新聞』昭和15年3月24日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p749)
東海道線で三重衝突事故、死傷者百十三人『大阪毎日新聞』昭和15年3月28日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p54)
原因は乗務員の信号誤認『大阪毎日新聞』昭和15年3月28日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p54)
「東京朝日新聞 昭和15年7月12日朝刊」『東京朝日新聞』1940年7月12日、朝刊。
兵庫県網干駅で百二十余人が死傷『大阪毎日新聞』昭和16年9月17日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p227)
原因は赤信号の誤認、死者は六十二人に『大阪毎日新聞』昭和16年9月18日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p227-p228)
原因は地盤のゆるみ、救援進まず『大阪毎日新聞』昭和15年10月2日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p729)
鉄橋から濁流に落ちる二百人が避難『大阪毎日新聞』昭和16年10月2日夕刊
川口駅構内で追突事故、十七人死傷『朝日新聞』昭和17年3月1日夕刊(『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p231)
曽根悟(監修) 著、朝日新聞出版分冊百科編集部 編『週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 21号 釜石線・山田線・岩泉線・北上線・八戸線、朝日新聞出版 〈週刊朝日百科〉、2009年12月6日、13-19頁。
「鳳来峡に消えた木造電車2両」『RAIL FAN』第50巻第9号、鉄道友の会、2003年9月1日、12-13頁。
『神戸新聞 』2011年2月12日朝刊姫路・西播磨版「北条線列車転覆事故の動輪、大阪で発見 高砂の上谷さん」
多摩川鉄橋上で旅客列車が正面衝突『朝日新聞』昭和20年8月25日、三百数十人が機関車の下敷きに『毎日新聞』昭和20年8月26日東京版(『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p697
「乗務員の居眠り 中央線笹子駅の事故」1945年9月8日付『朝日新聞』(東京) 聞蔵IIビジュアル(朝日新聞)
曽根悟(監修) 著、朝日新聞出版分冊百科編集部 編『週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』 14号 神戸電鉄・能勢電鉄・北条鉄道・北近畿タンゴ鉄道、朝日新聞出版 〈週刊朝日百科〉、2011年6月19日、11-13頁。
泥流なだれ打ち走る 三十年前には列車転覆事故『朝日新聞』1978年(昭和53年)5月18日夕刊、3版、11面
『毎日新聞 』1949年12月18日阪神版「暴走電車の車止め 阪急今津線に設置」
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