桐生市
群馬県の市 ウィキペディアから
群馬県の市 ウィキペディアから
桐生市(きりゅうし)は、群馬県南東部にある市。旧山田郡・足利郡・安蘇郡・勢多郡。伝統工芸品の桐生織を産する機業都市。市内に多くの産業遺産があり、桐生織物会館旧館を含む6件の日本遺産や、130件以上の国登録有形文化財が残されている[1]。
きりゅうし 桐生市 | |||||
---|---|---|---|---|---|
| |||||
| |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 関東地方 | ||||
都道府県 | 群馬県 | ||||
市町村コード | 10203-2 | ||||
法人番号 | 9000020102032 | ||||
面積 |
274.45km2 | ||||
総人口 |
99,308人 [編集] (推計人口、2024年9月1日) | ||||
人口密度 | 362人/km2 | ||||
隣接自治体 |
前橋市、伊勢崎市、太田市、沼田市、みどり市 栃木県:足利市、佐野市 | ||||
市の木 |
モクセイ (1975年4月15日制定) | ||||
市の花 |
サルビア (1975年4月15日制定) | ||||
市のシンボル |
桐 (1975年4月15日制定) | ||||
桐生市役所 | |||||
市長 | 荒木恵司 | ||||
所在地 |
〒376-8501 群馬県桐生市織姫町1番1号 北緯36度24分19秒 東経139度19分50秒 桐生市役所庁舎 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
特記事項 | |||||
ウィキプロジェクト |
群馬県南東部に位置する東毛地域北部の中心都市。1921年(大正10年)3月1日、山田郡桐生町が群馬県内3番目・県東部で初めて市制施行。2015年(平成27年)国勢調査人口は114,714人で、群馬県内第5位。昭和中期は群馬県で人口最多の市であった。群馬県東部地域の太田市・館林市とともに東毛地方拠点都市地域の中心都市に指定されている。
上毛かるたで「桐生は日本の機どころ」と詠まれるなど、奈良時代から絹織物の産地として知られる。川内町北部は古く仁田山と呼ばれ、仁田山紬の産地として知られた。川内町にある白滝神社には、この地に機織りを伝えたといわれる白滝姫がまつられており、上毛かるたの絵札には、白滝姫が機織りをする姿が描かれている[2][3]。2014年(平成26年)の工業統計調査による繊維製品の出荷額は関東地方の市で最も高い[4]。
市のキャッチフレーズは、「伝統と創造、粋なまち桐生」。絹織物をはじめとする繊維工業によって育まれた技術によって、遊技機産業や自動車部品産業など機械工業が発達した。市内に国立群馬大学理工学部が立地することから、産学官連携による次世代のエネルギー産業の育成が行われている。桐生新町重要伝統的建造物群保存地区とその周辺地区を重点区域とする「桐生市歴史的風致維持向上計画」を策定し、旧市街地を中心とした歴史的建造物と祇園祭などの伝統行事を生かしたまちづくりを進めている。
隣接するみどり市は、桐生市に所在する各種官公庁の管轄内に含まれ、県の地域区分でも同一の「桐生地区」として扱われる。桐生・みどり両市のDID(人口集中地区)は桐生市相生町とみどり市大間々町で連接しており、上毛電気鉄道上毛線・東武桐生線・群馬県道3号前橋大間々桐生線の沿線では両市境を挟んで連続した市街地が形成されている。総面積に対する可住地面積比率が低いことから、可住地人口密度が高い。2017年度(平成29年度)末の汚水処理人口普及率は96.8%で、全国平均の90.9%を上回っており、群馬県内の市町村で最も高い[5]。
地名の由来は、「桐が多く自生する土地」から「桐生」とも、「霧が多く発生する土地」から「霧生」とも言われているが、どちらも決め手は無い。日本各地にある「桐」や「切」の字を用いた地名は中世に発現したとみられるものが多く、この地名がついている地域は河岸の台地や山峡溪谷状の地形で、山城や館址があることが多い。「きり」のつく地域は中世の頃になって新たに開墾された要害地で、「う」は山間部から平野や盆地にうつるような広くない土地であり、そのころの「桐生」は現在の梅田町一丁目から天神町三丁目のあたりまでの地域をさしたものと考えられる[6][7]。
製糸・撚糸・染織・縫製・刺繍など、繊維に関する様々な技術を持つ事業所が集積する総合産地であることから「織都(しょくと)」という雅称があり、市民憲章や桐生織千三百年記念行事の名称に用いられている。野球が盛んで「球都」と呼ばれる。市内には群馬県代表として初めて全国制覇を経験した桐生第一高等学校や、甲子園で準優勝を二度果たした群馬県立桐生高等学校があるほか、硬式野球部を持つ7校中5校が甲子園を経験している[8]。
桐生市のマスコットキャラクターは、旧市街地に多く見られる鋸屋根の工場をモチーフとした「キノピー」で、2011年(平成23年)3月5日の「桐生市制施行90周年・水道創設80周年記念式典」が行われた際に初めて登場した[9]。鋸屋根の織物工場は、北向きの窓から場内の作業に適した柔らかく安定した光を取り入れ、機械の音が乱反射して和らぐように工夫されている。鋸屋根をもつ建物は200棟以上現存しており、その多くが木造建築であるが、煉瓦造りや石造りの建物も見られる[3]。
関東平野の北端、足尾山地の南西端にあり、群馬県前橋市から東に約24km、埼玉県熊谷市から北に約29km、栃木県宇都宮市から南西に約52kmの場所に位置する。
渡良瀬川の中・上流域を市域とし、土地は渡良瀬川が流れる市南部の境野町・広沢町付近が最も低く、市内最高峰は市北部の黒保根町下田沢にある赤城山を構成する主峰・黒檜山である。市域の7割以上が山地で、少ない平地の大半が人口集中地区となっており、桐生市街地は、桐生川が足尾山地から関東平野に流れ出す地点に形成された谷口集落を基礎として発達している。
新里地区・黒保根地区(旧新里村・旧黒保根村、2005年(平成17年)に桐生市に編入)は、桐生市中心部とは間にみどり市(旧勢多東村・旧大間々町・旧笠懸町、2006年(平成18年)成立)を挟んで離れており、飛地となっている。平成の大合併以前の旧桐生市の面積 (137.47km2) と、飛地として加わった旧新里村・旧黒保根村の合計面積 (137.10km2) がほぼ同じであり、このような大規模な飛地のある自治体は日本でも数えるほどしかない[注 1]。
気候区分は太平洋側気候に属するが、夏と冬の気温の差が大きい中央高地式気候の特徴もみられる。 夏は伊勢崎市や館林市と同様に暑さが大変厳しく、2023年には年間猛暑日日数46日を記録し、それまで全国最多だった1994年日田の45日を29年ぶりに更新した。
桐生市の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 18.7 (65.7) |
22.8 (73) |
26.5 (79.7) |
32.2 (90) |
35.4 (95.7) |
39.8 (103.6) |
40.4 (104.7) |
40.5 (104.9) |
37.4 (99.3) |
32.9 (91.2) |
27.6 (81.7) |
24.1 (75.4) |
40.5 (104.9) |
平均最高気温 °C (°F) | 9.0 (48.2) |
9.9 (49.8) |
13.6 (56.5) |
19.2 (66.6) |
24.0 (75.2) |
26.6 (79.9) |
30.2 (86.4) |
31.6 (88.9) |
27.4 (81.3) |
21.7 (71.1) |
16.4 (61.5) |
11.4 (52.5) |
20.1 (68.2) |
日平均気温 °C (°F) | 3.4 (38.1) |
4.3 (39.7) |
7.8 (46) |
13.2 (55.8) |
18.1 (64.6) |
21.5 (70.7) |
25.2 (77.4) |
26.2 (79.2) |
22.5 (72.5) |
16.7 (62.1) |
10.8 (51.4) |
5.7 (42.3) |
14.6 (58.3) |
平均最低気温 °C (°F) | −1.8 (28.8) |
−1.1 (30) |
2.3 (36.1) |
7.5 (45.5) |
12.7 (54.9) |
17.2 (63) |
21.1 (70) |
22.2 (72) |
18.6 (65.5) |
12.4 (54.3) |
5.7 (42.3) |
0.5 (32.9) |
9.8 (49.6) |
最低気温記録 °C (°F) | −7.6 (18.3) |
−8.6 (16.5) |
−8.3 (17.1) |
−2.2 (28) |
3.2 (37.8) |
9.5 (49.1) |
11.3 (52.3) |
14.5 (58.1) |
8.3 (46.9) |
2.1 (35.8) |
−2.7 (27.1) |
−7.6 (18.3) |
−8.6 (16.5) |
降水量 mm (inch) | 33.2 (1.307) |
28.4 (1.118) |
63.9 (2.516) |
83.9 (3.303) |
110.0 (4.331) |
152.8 (6.016) |
201.3 (7.925) |
180.1 (7.091) |
178.6 (7.031) |
155.3 (6.114) |
53.1 (2.091) |
28.5 (1.122) |
1,269.1 (49.965) |
平均降水日数 (≥1.0 mm) | 3.5 | 4.0 | 7.8 | 8.8 | 10.3 | 13.2 | 14.7 | 12.1 | 12.0 | 9.6 | 6.0 | 3.8 | 105.8 |
平均月間日照時間 | 223.0 | 210.4 | 210.5 | 203.9 | 194.5 | 136.2 | 150.7 | 177.0 | 137.9 | 153.6 | 183.2 | 204.3 | 2,185.1 |
出典1:気象庁[10] | |||||||||||||
出典2:気象庁[11] |
2006年(平成18年)3月1日より、群馬県における天気予報および注意報・警報の細分区域が変更された。 一次細分区域は、桐生市を含む区域については、これまで通りの「南部」とされ、二次細分区域は、かつての「前橋東毛」(黒保根町を除く桐生市)・「赤城榛名」(黒保根町)から、全市域が「前橋・桐生地域」という区分となった。
1920年(大正9年)国勢調査での桐生町の人口は3万7674人で、群馬県内の町で最多であった。桐生町は1921年(大正10年)に県内3番目、東毛地域内で最も早く市制を施行した。1947年(昭和22年)国勢調査での桐生市の人口は9万1482人で県内最多となり、昭和の合併後は長らく県内第3位の人口規模で、1975年(昭和50年)国勢調査で13万4239人を記録した。その後は人口減少が続き、平成期には市人口が12万人を下回り県内第5位にまで後退したが、新里町では平成後期まで人口が増加傾向にあった。前述の通り、旧・過疎法により旧黒保根村が、令和3年に施行された新・過疎法(過疎地域の持続的発展の支援に関する特別措置法)により旧桐生市が、過疎地域に指定されている。
2020年の令和2年国勢調査によると、桐生市の人口は106,445人、総世帯数は44,971世帯である(人口は多い順に高崎市、前橋市、太田市、伊勢崎市、桐生市となっている)[12]。
桐生市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 桐生市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 桐生市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
桐生市(に相当する地域)の人口の推移
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||
総務省統計局 国勢調査より |
国勢調査人口の変遷 [単位 人] | ||||
自治体 | 年 | 人口 | 備考 | |
桐生町 | 1920年(大正9年) | 3万7,674 | ||
桐生市 | 1925年(大正14年) | 4万2,553 | 1921年(大正10年)市制施行 | |
1930年(昭和5年) | 5万2,906 | |||
1935年(昭和10年) | 7万6,145 | 1933年(昭和8年)境野村を編入 | ||
1940年(昭和15年) | 8万6,086 | 1937年(昭和12年)広沢村を編入 | ||
1947年(昭和22年) | 9万1,482 | |||
1950年(昭和25年) | 9万5,533 | |||
1955年(昭和30年) | 11万6,935 | 1954年(昭和29年)梅田村、相生村、川内村を編入 | ||
1960年(昭和35年) | 12万3,010 | 1959年(昭和34年)菱村を編入 | ||
1965年(昭和40年) | 12万7,880 | |||
1970年(昭和45年) | 13万3,141 | 1968年(昭和43年)田沼町の一部を編入 | ||
1975年(昭和50年) | 13万4,239 | |||
1980年(昭和55年) | 13万2,889 | |||
1985年(昭和60年) | 13万1,267 | |||
1990年(平成2年) | 12万6,446 | |||
1995年(平成7年) | 12万0,377 | |||
2000年(平成12年) | 11万5,434 | |||
2005年(平成17年) | 12万8,037 | 2005年(平成17年)新里村、黒保根村を編入 |
この地域の歴史は古く、奈良時代には既に朝廷へ「あしぎぬ(絹)」を献上したと記されている。養蚕業・絹織物業がこの地域において栄えた理由については諸説があるが、中央(大和地方)からその技術を持った人々が移り住んだ結果という説が最も有力である。それを思わせる伝承も「白滝姫伝説(「桐生織」の項目を参照)」によって、当地方に語り継がれている。織物業はその後の桐生の発展の基盤となり、現在に至っている。
『吾妻鏡』などの文献によれば、平安時代末期に桐生六郎の名が見えることから、地名としての「桐生」は平安時代には既に存在していたと考えられている。ついで1350年には柄杓山(城山)に城を築き、桐生氏(藤姓足利氏の系統)の始めとされる桐生国綱、1500年代中頃に桐生氏の全盛期を築いた桐生助綱の名が見られる。桐生氏は1500年代後半に由良成繁によって滅ぼされ、以降、成繁は柄杓山城を本拠としたが、子の国繁の時に豊臣秀吉の小田原征伐により領地替えが行われた。
1600年、関ヶ原の戦いを直前に控えた徳川家康が小山に在陣中、急遽西進して石田三成を討伐することを決定するが、その際に不足した軍旗を僅かの時間に揃えたのが桐生の村々であった。これにより桐生の絹は一層名を高めたという。
現在の市街地が形成され始めたのは1600年頃、徳川家康の家臣であった大久保長安の命令を受けた大野尊吉によるものとされる。渡良瀬川と桐生川に挟まれた扇状地に桐生天満宮を基点として桐生新町が形成され、絹織物業の発展とともに市街地は郊外に広がっていった。起点となった天満宮前は現在の本町一丁目となっており、二丁目とあわせて当時の区割りと建物がそのまま残された景観が保たれている。
桐生の織物産業の将来性は江戸幕府にも高く評価され、幕府の成立とともに天領とされた。近隣の村々(みどり市、旧藪塚本町(現太田市)、旧新里村)などの農村部では、養蚕が盛んに行われ、多くの富を蓄積。桐生道、古戸道、足尾銅山街道、日光例幣使街道などの諸街道によって日光・熊谷・川越・八王子と結ばれ、全国に広く絹織物を広めた。
天保年間に全国に先駆けてマニュファクチュアを導入。明治・大正・昭和初期にかけて日本の基幹産業として発展し、外貨獲得に貢献した。昭和中後期は、和装離れから絹織物産業は下火となったが、代わって自動車部品産業や遊技機産業が成長。幾つものチャレンジングな企業が生まれ、今日の桐生を支えている。
1947年9月、カスリーン台風による被害を受ける。50人余が死亡、流出家屋約200戸、当時の市内の半数約10000戸が浸水[13]。
代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 |
---|---|---|---|
初代 | 前原良太郎 | 1921年(大正10年)7月2日 | 1925年(大正14年)7月1日 |
2-5 | 関口義慶二 | 1925年(大正14年)8月12日 | 1940年(昭和15年)5月15日 |
6 | 荻野欽司 | 1940年(昭和15年)5月16日 | 1944年(昭和19年)5月15日 |
7 | 広瀬勝滋 | 1944年(昭和19年)5月16日 | 1945年(昭和20年)11月2日 |
8 | 大沢菊太郎 | 1945年(昭和20年)11月8日 | 1946年(昭和21年)11月20日 |
9-12 | 前原一治 | 1947年(昭和22年)4月6日 | 1963年(昭和38年)5月1日 |
13-14 | 荒木歓一郎 | 1963年(昭和38年)5月2日 | 1971年(昭和46年)5月1日 |
15-18 | 小山利雄 | 1971年(昭和46年)5月2日 | 1987年(昭和62年)5月1日 |
19 | 大澤善隆 | 1987年(昭和62年)5月2日 | 1991年(平成3年)5月1日 |
20-21 | 日野茂 | 1991年(平成3年)5月2日 | 1999年(平成11年)5月1日 |
22-23 | 大澤善隆 | 1999年(平成11年)5月2日 | 2007年(平成19年)5月1日 |
24-26 | 亀山豊文 | 2007年(平成19年)5月2日 | 2019年(令和元年)5月1日 |
27、28- | 荒木恵司 | 2019年(令和元年)5月2日 |
桐生市市民憲章
— 昭和40年11月3日制定[30]
- わたくしたちは、美しい山々と、
- 清らかな流れにつつまれた、わたくしたちのまち桐生を、
- より明るく豊かにするために、この市民憲章を定めます。
- 一、わたくしたちは、伝統を尊び、自然を愛して、美しい桐生をつくりましょう。
- 一、わたくしたちは、互いに助け合い、きまりを守って、明るい桐生をつくりましょう。
- 一、わたくしたちは、健康を保ち、楽しい家庭を築いて、平和な桐生をつくりましょう。
- 一、わたくしたちは、教養を高め、理想を掲げて、文化のかおり高い桐生をつくりましょう。
- 一、わたくしたちは、織都を誇り、近代産業を伸ばして、活気ある桐生をつくりましょう。
#交通も参照。
生活保護分野にて水際阻止や支給費の分割、一部支給、受け取り偽造など、市による様々な違法行為が発覚、群馬県より市に特別監査が入り、是正が勧告された[31]。
2023年8月、桐生市は申請者に1日1000円ずつ窓口で手渡し、合計で3万円ほどしか支給していなかったことが、司法書士会の申し入れで発覚、その後全額が支給された[32]
2022年10月27日、ケースワーカーが申請者の同姓の他人の印章を勝手に押印し、保護費を受け取ったように偽装したことが発覚、ケースワーカーと指導員の2人が私文書偽造や虚偽公文書作成で刑事告発された[33]。
古くから織物産業が栄えたが、現在は機械金属産業とあわせて二大基幹産業となっている。
伝統の織物業は、炭素繊維を用いた特殊布や、映画・ドラマ衣装などで生き残りをはかっている。ハリウッド映画の『SAYURI』で、主演のチャン・ツィイー、コン・リー、桃井かおりらが身につけていた丸帯は、桐生市で作られたものである。
神社仏閣のお守り袋の製織を手掛ける岩秀織物、喪服帯・七五三祝着や和装小物の製造を行う佐啓産業、「和粋庵」ブランドで作務衣・甚平を製造する伊田繊維、ネクタイなどネックウェア生地を製造するアルファテックスなどに加え、マフラー製造の松井ニット技研に代表されるニット業、撥水加工を施した風呂敷「ながれ」で知られる朝倉染布、オリジナルブランド「色創館」を展開する土田産業など染色整理業が盛んである。
機械金属産業は、撚糸機や管巻機などの織物準備機械の製造から発達しており、ミツバ、小倉クラッチなど自動車部品産業が盛んである。「築地銀だこ」を展開するホットランドや、中古物件販売で業績を伸ばすカチタスなど、中小の新興企業にも元気の良い企業がある。
中心市街地においては、郊外に広大な農地を持たなかったため、大型商業施設が出来ず、近隣他市(伊勢崎市・太田市・足利市など)と比べて比較的商店街としての機能を保っており、個人商店・小規模小売の力が強いといえる。また、市街地地価の下げ止まり感から、新川公園など充実したインフラを求めて幾つかのマンション建設計画があるなど、市街地回帰現象も見られ始めている。
市の告示で指定金融機関等が指定されており、2024年(令和6年)4月1日の告示では桐生信用金庫が指定金融機関、その他10の金融機関が指定代理金融機関及び収納代理金融機関に指定されている[37]。
ATMコーナーのみ設置されている銀行
市制施行当時の行政区画は町制時代の5つの大字(桐生・新宿・東安楽土・西安楽土・下久方)に基づく5区体制であったが、市勢の発展に伴い、旧区画では対応が難しくなったため、1929年(昭和4年)に10区体制に移行した。
その後、昭和初期の境野村・広沢村合併、昭和の大合併、菱村の越境合併により11区から17区が新設され、相生町の人口増加により15区の一部が分離し18区として新設された。
平成の大合併では、新里村・黒保根村と合併し、19区から22区が新設され、22区体制となった。なお、旧新里・黒保根両村は間にみどり市を挟んだ飛地である。
設置年 | 区 | 2005年 国勢調査 人口[38] |
所属町 |
1929年 (昭和4年) |
1区 | 1,435人 | 本町1-3丁目、横山町 |
2区 | 740人 | 本町4-6丁目 | |
3区 | 3,201人 | 稲荷町、錦町1-3丁目、織姫町、桜木町、美原町、清瀬町 | |
4区 | 3,761人 | 新宿1-3丁目、三吉町1-2丁目、小梅町、琴平町 | |
5区 | 1,855人 | 浜松町1-2丁目 | |
6区 | 2,740人 | 仲町1-3丁目、東町、泉町、高砂町、旭町、川岸町 | |
7区 | 5,039人 | 東1-7丁目 | |
8区 | 6,219人 | 末広町、宮前町1-2丁目、堤町1-3丁目、巴町1-2丁目、元宿町 | |
9区 | 2,953人 | 永楽町、小曾根町、宮本町1-4丁目 | |
10区 | 4,370人 | 東久方町1-3丁目、西久方町1-2丁目、天神町1-3丁目、平井町 | |
1933年 (昭和8年) |
11区 | 9,522人 | 境野町1-7丁目 |
1937年 (昭和12年) |
12区 | 8,299人 | 広沢町1-3丁目 |
13区 | 9,735人 | 広沢町4-7丁目、広沢町間ノ島 | |
1954年 (昭和29年) |
14区 | 4,278人 | 梅田町1-5丁目 |
15区 | 19,294人 | 相生町2丁目の一部、3-5丁目 | |
16区 | 10,344人 | 川内町1-5丁目 | |
1959年 (昭和34年) |
17区 | 9,891人 | 菱町1-5丁目 |
1977年 (昭和52年) |
18区 | 5,451人 | 相生町1丁目、2丁目の一部 |
2005年 (平成17年) |
19区 | 2,553人 | 新里町赤城山、板橋、関、高泉、大久保、奥沢、鶴ケ谷(上鶴ケ谷) |
20区 | 5,634人 | 新里町鶴ケ谷(下鶴ケ谷)、山上、小林、武井、野 | |
21区 | 8,137人 | 新里町新川 | |
22区 | 2,586人 | 黒保根町水沼、八木原、上田沢、下田沢、宿廻 |
|
|
|
|
桐生市立中学校の適正規模・適正配置実施計画によって、市街地に所在する中学校が、次のように再編された。
|
|
|
|
|
|
#都市計画も参照。
本市は群馬県随一の鉄道密集地帯で、合計4事業者の鉄道路線が市内に乗り入れており、私鉄各線は市内に多数の駅を有する。小規模ではあるが駅前に中心街と異なる独自の商店街を形成する駅も多い。ターミナル駅が事業者ごとに各所に分散しているため乗換利便性は良いものとは言えず、徒歩連絡を要するケースが多い。
市町村 | 路線 | 上下 | 区間 | 所要時間 |
高崎市 | JR両毛線 | 上り | 桐生〜高崎 | 約50分 |
前橋市 | JR両毛線 上毛電気鉄道 | 上り | 桐生〜前橋 西桐生〜中央前橋 | 約30分 約45分 |
前橋市大胡 | 上毛電気鉄道 | 上り | 西桐生〜大胡 | 約35分 |
前橋市粕川 | 上毛電気鉄道 | 上り | 西桐生〜粕川 | 約25分 |
桐生市新里 | 上毛電気鉄道 | 上り | 西桐生〜新里 | 約20分 |
みどり市大間々 | 上毛電気鉄道 わたらせ渓谷鐵道 | 上り 下り | 西桐生〜赤城 桐生〜大間々 | 約10分 |
桐生市黒保根 | わたらせ渓谷鐵道 | 下り | 桐生〜水沼 | 約40分 |
みどり市東 | わたらせ渓谷鐵道 | 下り | 桐生〜神戸 | 約55分 |
日光市足尾 | わたらせ渓谷鐵道 | 下り | 桐生〜通洞 | 約80分 |
伊勢崎市 | JR両毛線 | 上り | 桐生〜伊勢崎 | 約20分 |
太田市 | 東武桐生線 | 上り | 新桐生〜太田 | 約20分 |
大泉町 | 東武桐生線、東武小泉線 | 上り | 新桐生〜太田〜東小泉 | 約30分 |
館林市 | 東武桐生線、東武伊勢崎線 | 上り | 新桐生〜太田〜館林 | 約45分 |
足利市 | JR両毛線 | 下り | 桐生〜足利 | 約15分 |
佐野市 | JR両毛線 | 下り | 桐生〜佐野 | 約30分 |
佐野市葛生 | JR両毛線、東武佐野線 | 下り | 桐生〜佐野〜葛生 | 約45分 |
栃木市 | JR両毛線 | 下り | 桐生〜栃木 | 約50分 |
小山市 | JR両毛線 | 下り | 桐生〜小山 | 約60分 |
※市内に高速道路はないが、隣接する太田市に北関東自動車道の「太田藪塚IC」「太田強戸スマートIC」「太田桐生IC」がある。
いずれも桐生駅南口に発着する。
桐生織や桐生和紙などの伝統工芸品や、桐生からくり人形といった伝統芸能が根付いている。
高橋盾、荒川眞一郎、大出由紀子、佐藤秀昭などの著名なファッション・デザイナーを輩出している。令和元年時点で人口11万人程度の自治体の中から、2人のパリコレデザイナー、3人の毎日ファッション大賞受賞者(新人賞込)、4人の東京コレクションデザイナーを輩出。 [41]
北関東でも有数のコンサートプロモータである「桐生音協」のお膝元であり、市内や周辺市町村のホールなどではジャンルを問わず様々な公演が多数行なわれている。
わたらせフィルムコミッションが活動し、映画撮影誘致にも積極的である。このFCの設立には行政が加わっていない完全な民間による団体である点に特徴がある。
#公園・緑地も参照。
|
|
#スポーツ施設も参照。
桐生
境野
広沢
梅田
相生
川内
菱
新里
黒保根
桐生
境野
広沢
梅田
相生
川内
菱
新里
黒保根
五十音順
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.